第10話――「名札のカン、冷房の白」
昼の1区で、尚人は理髪店へ入る。ここでは、安い料金で長い手順が受けられる。観光客にも知られた店の流れに身を預け、足から頭までを順番に整える。130分は特別ではない。この街ではよくある選択だ。終わればジムへ向かう。体を軽くし、動きを揃えるための午後である。
昼過ぎの1区は、日差しが真上から落ちてきた。路地のアスファルトが熱を抱え、バイクの列が合図の音を短く散らす。屋台の油と、切った果物の甘い匂いが混ざり、汗が背中でゆっくり広がった。
尚人は店先にスクーターを寄せ、ヘルメットを腕にかけた。シャツの襟を指で浮かせ、ガラス張りの入口へ入る。ドアを押すと、冷房の乾いた風が腕の汗をさらっていく。外の熱が急に遠のき、白い照明の下で床がやけに清潔に見えた。
受付のカウンターには若い女性が立っていた。白いシャツに名札。目が合うと、受付係は英語交じりで確認した。「予約はありますか」
尚人はスマホの画面を見せた。「予約してある。個室が空いていれば個室で頼みたい。指名もできるなら、この人で」
受付係は画面を確かめ、すぐに頷いた。「個室、あります。コースは90分、110分、130分。130分は全身まで入ります。指名もできます」
尚人は迷わず言った。「130分で頼む。終わったら、そのままジムへ行く。髪は軽くして、動きやすくしてほしい」
受付係は笑顔のまま頷いた。「分かりました。動きやすいように、首まわりもすっきりさせます。こちら、メニューです」
メニュー表は日本語も混じっていた。時間と金額、その下に施術の並びが続く。カット、フットケア、洗顔、シェービング、耳かき、爪、ボディ、ストレッチ、シャンプーとドライ。顔のパックは、きゅうりの写真が小さく入っている。
尚人は時間の欄だけを一度見て、紙を静かに返した。「それでいい。順番は任せる」
受付係は小さく笑った。「はい。それではご案内します」
廊下の奥へ案内され、扉が閉まると街の音が薄くなった。個室はベッドと小さな洗面台があり、タオルが積まれ、消毒液の匂いが残っていた。天井のライトは明るいが、目が痛くなるほどではない。
担当の女性が入ってきて、軽く会釈した。名札に『カン』とある。まだ幼さの残る顔で、19歳だと尚人は聞いた。
カンは言葉数は少ないが、目線がまっすぐだった。尚人が靴を脱いでベッドの端に腰を下ろすと、カンは足元に桶を置き、ぬるい湯を張った。レモンの香りが立ち、指の間を丁寧に洗われると、午前中のだるさがほどけていく。
尚人は軽く言った。「昼の暑さはきついな。ここは助かる」
カンは小さく笑い、「はい。分かりました」と返した。
最初は足だった。爪の形を整え、甘皮を処理し、踵の角質を削る。削りかすが水面に散り、最後に温かいタオルで包まれる。次にふくらはぎから膝裏、太腿へ、押し流すように手が動いた。強さは痛みの手前で止め、呼吸が深くなるところまで持っていく。
尚人は息を吐いて言った。「このあとグローブを握る。手首が軽いと助かる」
カンは頷き、親指の角度を変えた。押し込むのではなく、筋肉の線をほどくように動かす。尚人の腹の底が静かになった。
そのまま全身に入る。背中にオイルが伸び、肩甲骨の内側へ指が沈む。固いところだけが狙われ、ほどけると次へ移る。腕、首、頭皮へと進むころには、時間の感覚が薄くなっていた。
途中、カンは尚人の脚を持ち上げ、関節の角度を確かめるようにゆっくり伸ばした。伸ばして、戻して、また伸ばす。腰の奥が軽くなり、背中の芯がほどけるのが分かる。
尚人は言った。「今の伸ばし方は、うまい。雑にやられると痛いが、これは残らない」
カンは短く頷き、手の位置を変えた。
体が温まったところで、顔に移る。ぬるいタオルで頬を覆われ、洗顔料の泡が眉間を通り、こめかみを丸く押される。剃刀は新品の刃を見せてから当ててきた。顎の輪郭を追い、口角の下をさらって、肌が軽くなる。
カンが小皿を持ってきた。薄い輪切りのきゅうりだ。
尚人は穏やかに首を振った。「それはいい。俺は野菜を顔に乗せると、ついサラダを探す」
カンは一瞬だけ口元をゆるめ、小皿を引っ込めた。代わりに冷たいジェルの小袋を出し、手順を崩さずに進めた。
耳かきは静かに始まった。耳の縁を温め、綿棒で水分を取ってから細い器具が入る。音が頭の奥で鳴り、背筋が勝手に伸びる。角度が変わると痛みが消え、気持ちよさだけが残った。
最後はシャンプーだった。洗面台に首を預けると、温かい湯が頭皮を叩く。泡が流れ落ち、耳の後ろ、襟足が丁寧に洗われる。髪が軽くなったところで、カンははさみを出し、首まわりと横を手早く整えた。鏡の中の輪郭が少し締まり、汗をかいても不快になりにくい形になった。
ドライヤーの熱が当たり、髪が軽く立ち上がる。尚人は首を回し、肩の動きを確かめた。自分の体が、さっきより少し使いやすい。
施術が終わると、カンはタオルを畳み、軽く会釈して出ていった。尚人が廊下へ出ると、受付係が同じ笑顔で迎えた。「いかがでしたか」
尚人は言った。「良かった。丁寧で、気持ちがいい。髪も動きやすい」
会計を済ませ、領収書を受け取って財布へ収める。ちょうどその時、カンが廊下に戻ってきた。尚人は立ち止まり、視線を合わせた。
尚人は静かに言った。「今日は助かった。ジムへ行って、汗を流してくる」
尚人は紙幣を2つ折りにし、両手で短く渡した。カンは両手で受け取り、小さく頭を下げた。「カムオン」
尚人は頷いた。「また来る」
◇ ◇ ◇
店を出ると、西日が街の角に当たり始めていた。頭は軽く、首まわりが涼しい。車道の音は近い。クラクションが途切れず、排気の匂いが湿気に混じる。尚人は店先へ戻り、停めておいたスクーターに手を伸ばした。
ヘルメットをかぶり、顎紐を締める。エンジンをかけると、低い振動が掌に返った。尚人は車列の隙間へ入っていく。熱は強いが、散髪したばかりの頭皮に風が通り、さっきまでの重さは残らない。
大通りから少し入った建物が見えた。入口の白い英字は見慣れてきた。ジムへ行くのは3回目だ。尚人はジムの前でスクーターを止め、ヘルメットを外した。扉の向こうから、ミットを叩く乾いた音と、縄跳びの靴底の擦れが漏れていた。
扉を開けると、汗とゴムと消毒液の匂いが胸に入った。受付の男は目だけで気づき、端末を差し出した。尚人は会員カードをかざし、軽く会釈した。男は画面を見てうなずき、タオルの束を指で示した。尚人は1枚取り、ロッカーへ向かった。
ロッカー室は冷房が効いていた。尚人はシャツを脱ぎ、バンテージを巻いた。布が指の間を通り、手首で重なる。締め具合を確かめ、結び目を内側へ押し込む。掌が温まり、気持ちが落ち着く。鏡の前で肩を回し、首を左右に倒して筋を伸ばした。
縄跳びを始める。床が小さく鳴り、足首が温まっていく。30秒ごとにリズムを変え、息が上がりすぎないところで抑えた。額に汗が浮き、背中がじわりと湿る。散髪で頭が軽くなった分、呼吸も詰まりにくい。
次にシャドーへ移った。ジャブ、右、左。拳を打って終わらせず、戻すところまでを揃える。肩をすくめない。顎を上げない。足を止めない。尚人は鏡の中の癖を見つけるたびに、静かに直した。
トレーナーが近づき、ミットを構えた。尚人はうなずき、距離を測るように半歩ずつ入る。ジャブが当たる。少し外れると、ミットが無言でずれる。尚人は足を先に入れ、拳を後から運ぶ。音が揃うと、動きの無駄が減っていく。
ミットを2本で切り上げ、サンドバッグへ移った。最初の1分はジャブだけにした。袋の揺れが一定になり、拳の戻りが揃ってくる。次に右を混ぜ、最後に左フックを短く入れた。強さは抑え、肘と肩がぶれない範囲で止めた。
呼吸が整ったところで、短い体幹の種目を入れた。長くはやらない。30秒を区切って2回。腰を落としすぎず、肩甲骨を固めすぎない。最後に太ももとふくらはぎを伸ばし、足裏を床に押しつけてほぐした。
水を飲むと、冷えた水が胃に落ち、内側の熱が少し引いた。尚人はバンテージを外して手を洗い、シャツを着た。生地が背中に貼りつくが、不快ではない。汗は仕事をした証拠だと身体が知っている。
受付に戻り、尚人は軽く会釈した。男も同じ動きで返した。外へ出ると、湿った熱気が一気に戻る。だが、頭の中は軽かった。尚人はヘルメットをかぶり、顎紐を締め直した。
スクーターのエンジンをかける。車道の音に混ざって、さっきまでのミットの乾いた音が耳の奥に残っている。尚人は流れに乗り、家へ向かった。
施術は派手さよりも手順の正確さで進む。足湯、爪、全身、顔、耳、髪。冷房の白さの中で順番に終わり、会計も静かだ。安く、丁寧で、慣れた流れ。整えた体をそのままジムへ運び、汗で締め直す。街の熱と室内の冷えを往復しながら、尚人の1日は無理なく回っていく。




