第一話|運命の邂逅
王都の朝は、穏やかだった。
夜明けを告げる鐘の音が白い石造りの街並みに響き渡ると、通りには少しずつ人々の姿が増え始めた。市場へ向かう荷車が石畳を軋ませ、軒先では商人たちが開店の準備を進めている。焼きたてのパンの香りが漂う街角では、早起きの子供たちが笑い声を上げながら駆けていった。
人々がこのような平穏な朝を迎えられるのは、決して当たり前のことではなかった。
王国の周囲には広大な森や山岳地帯が広がり、その奥には古くから数多くの魔物が生息している。魔物は時に人里へ姿を現し、家畜を襲い、街道を行く旅人を危険に晒すことがあった。
しかし、人々は魔物をすべて排除しようとは考えていなかった。
深い森には森の営みがあり、人の暮らす土地には人の営みがある。互いの領域が重なり、被害が生じた時にこそ、騎士や戦士たちは剣を取る。それが、この王国で長く続いてきた在り方だった。
少なくとも、これまでは。
***
王城の訓練場には、朝早くから剣を打ち合わせる音が響いていた。
その一角で、白と紺を基調とした騎士装束に、銀の装甲と金の装飾を纏った青年が、若い騎士と向かい合っている。
陽光を受けて輝く金色の髪に、澄んだ蒼い瞳。鍛え上げられた長身と、無駄のない立ち姿には、長年の鍛錬によって培われた揺るぎない落ち着きがあった。
青年の名は、レオ・アルディオン。
王国近衛騎士団の精鋭部隊を率いる隊長である。
「踏み込みが浅い。もう一度だ」
レオが訓練剣を構え直すと、向かい合う若い騎士は荒い息を整えながら頷いた。
再び剣が交わされる。若い騎士は正面からの攻撃を受け止め、勢いのまま反撃へ移ろうとした。しかし、振り抜いた刃がレオを捉えることはなかった。
レオはわずかに身体を捻って攻撃を躱すと、相手の重心が前へ移った瞬間に剣を返した。木製の刃が、若い騎士の肩口でぴたりと止まる。
「……参りました」
「最初の受けは悪くなかった。だが、攻撃に意識を向けすぎている。相手の剣だけでなく、足元を見ろ」
レオは剣を引き、相手が姿勢を正すのを待った。
「剣を振るう前に、次の動きを考えるんだ。相手がどこへ踏み込み、どう体勢を崩すのか。それが分かれば、必要以上に力を使うこともない」
「はい、隊長!」
若い騎士は深く頷いた。額には汗が浮かび、肩も小さく上下していたが、その眼差しにはまだ稽古を続けようとする意欲が残っている。
レオはその様子を見て、わずかに表情を和らげた。
「今日はここまでにしよう。今の感覚を忘れずに、次の訓練に活かせ」
「ありがとうございます!」
騎士が一礼して訓練場の中央へ戻っていくと、レオは手にした訓練剣へ目を落とした。
彼自身も、幼い頃から同じように剣を教えられてきた。
アルディオン家は、代々王家に仕える近衛騎士を輩出してきた家系である。物心がついた頃には既に木剣を握り、父の厳しい指導のもとで剣術と礼節を学んでいた。
幼い頃、父から繰り返し教えられたことがある。
剣を振るう者は、その力を何のために使うのかを忘れてはならない、と。
剣の腕を磨くことそのものが目的になってはならない。まして、その強さを誇示するために刃を抜くようなことがあってはならない。
レオはその教えを胸に刻み、やがて近衛騎士団の一員となった。
今では部隊を率いる立場にあるが、自らの鍛錬を疎かにすることはない。部下に求めるものを、まず自分自身が示す。それは隊長となった今も変わらない姿勢だった。
その生真面目さを、同僚たちから揶揄されることも少なくない。任務を終えた騎士たちが酒場で賑やかに語り合っている頃、彼は翌日の訓練内容を考えているような男だった。
もっとも、人付き合いが悪いわけではない。部下からの相談には丁寧に応じ、同僚たちの冗談に笑い返すこともある。ただ、自分に課せられた務めを疎かにすることだけは好まなかった。
訓練剣を片付けたところで、入口から一人の騎士が駆け寄ってきた。
「レオ隊長! 北東の街道から報告が入りました」
「何があった?」
「森林沿いの集落で、魔物が相次いで目撃されています。今朝方には街道の荷馬車が襲われ、護衛の戦士が負傷したとのことです」
レオの表情が引き締まった。
「住民に被害は?」
「幸い死者は出ていません。しかし、魔物が集落の近くまで現れるようになり、住民たちが不安を訴えているそうです」
「周辺の警備隊には?」
「既に連絡済みです。ただ、確認された魔物の種類が複数に及んでおり、通常の巡回隊だけでは対応が難しいと」
レオはしばらく考えた。
森の周辺で魔物が目撃されること自体は珍しくない。だが、街道沿いの集落まで異なる種類の魔物が相次いで現れるとなれば、何らかの事情があるのかもしれない。
「出動可能な者を集めろ。魔法騎士も二名同行させる。まずは住民の安全を確保し、魔物が人里へ出てきた原因を調べる」
「はっ!」
騎士が走り去ると、レオは訓練場の向こうに広がる青空へ目を向けた。
このところ、似たような報告が増えている。
これまで人の生活圏に近づくことのなかった魔物まで、街道の近くで目撃されるようになっていた。
餌が不足したのか、縄張りを追われたのか。あるいは、人間にはまだ分からない変化が起きているのか。
今の段階で答えを出すことはできない。
だが、原因が何であれ、危険に晒されている人々を放置するわけにはいかなかった。
レオは剣の柄を確かめると、部隊の編成を整えるため、王城へと足を向けた。
***
王都から北東へ続く街道を進むこと三日。
レオの率いる一隊は、深い森林地帯の南端に位置する小さな集落へ到着した。
森と畑に囲まれたその村には、普段であれば穏やかな時間が流れているはずだった。しかし、家々の扉は固く閉ざされ、広場には荷車や農具が慌ただしく片付けられていた。畑仕事に出る者の姿もほとんどなく、村の外れに立つ見張り台には、武器を手にした男たちが不安げな表情で森を見つめている。
村長の話によれば、異変が始まったのは十日ほど前からだという。
最初は森の外れで見慣れない足跡が見つかっただけだった。それが数日後には畑の周辺で魔物が目撃されるようになり、ついには街道を行く荷馬車が襲われた。
「おかしな話なんです」
村長は不安げな表情で森を振り返った。
「この辺りの魔物は、普段なら森の奥にいるものばかりでして。よほど餌に困らない限り、村の近くまで出てくることはありません。それが最近は、昼間でも姿を見かけるようになって……」
「魔物同士が争っている様子は?」
レオの問いに、村長は首を傾げた。
「いえ、そういう話は聞いておりません。ただ……」
「ただ?」
「森から出てくる魔物が、どれも妙に落ち着きがないように見えるんです。こちらが近づかなくても、何かに怯えたように走り回っていて……」
魔物が本来の生息域を離れる理由はいくつか考えられる。しかし、村長の話だけでは、そのいずれとも断定できなかった。
「しばらくは村の外へ出ないよう、住民に伝えてください。我々が周辺を確認します」
村長は安堵したように頭を下げた。
レオは部下たちを集め、村の周囲へ警戒のための人員を配置した。住民の避難経路を確保し、街道へ抜ける道にも見張りを置く。万が一、森から新たな魔物が現れたとしても、村が無防備になることは避けなければならない。
準備を整えた後、レオは残る騎士たちを率いて森へ向かった。
まずは村と街道の安全を確保する。そのうえで、必要な範囲だけ森へ踏み入り、魔物の動きを調べることにした。
森の奥深くまで進む理由はない。
人の暮らしを脅かす危険を取り除くことが、今回の任務だった。
ところが、森の入口へ近づくにつれ、レオは説明のつかない違和感を覚え始めた。
木々の間を吹き抜ける風は穏やかで、空には雲ひとつない。それなのに、森の奥から伝わってくる空気には、妙な重苦しさがあった。
耳を澄ませても、鳥の声が聞こえない。小動物が下草を揺らす音もなく、風が梢を渡る微かな音だけが、やけに鮮明に響いていた。
「……静かすぎるな」
隣にいた騎士も同じことを感じたらしい。
「はい。これだけの森で、鳥の一羽も見かけないとは」
レオは周囲を見渡した。木々の葉は青々と茂り、地面には湿った苔が広がっている。目に映る限りでは、森そのものが荒れている様子はない。
だが、足元に残された痕跡は違っていた。
湿った土には大小さまざまな足跡が重なっている。四足で歩く獣型の魔物に加え、二本脚の大型種と思われるものもあった。深く抉られた爪痕の傍らには、それよりずっと小さな足跡が幾つも続いている。
本来なら別々の領域に生息しているはずの種が、同じ場所を通っている。
しかも、その多くは森の外へ向かっていた。
レオは地面に膝をつき、痕跡を調べた。大きな足跡の上に小さなものが重なり、そのさらに上から別の種類の爪痕が刻まれている。一度だけ通った群れではなく、時間を置いて複数の魔物が同じ場所を通過した可能性が高かった。
「……何かが、森の奥で起きているのか」
その時、遠くから低い唸り声が響いた。
続いて枝の折れる音が重なり、茂みの向こうで幾つもの影が動く。
「隊長!」
「全員、構えろ!」
騎士たちが一斉に盾を構えた直後、茂みを突き破って魔物が飛び出してきた。
狼に似た四肢を持ちながら、背中には硬い甲殻が隆起し、口元には鋭い牙が並んでいる。その濁った瞳は落ち着きなく周囲を動き回り、荒い息が漏れていた。
その後ろから、さらに数体。
いずれも森に生息する魔物ではあったが、通常なら群れを成さない種類まで混ざっていた。
「前衛、防御陣形! 弓兵は後方から援護しろ!」
レオの号令に、騎士たちは素早く隊列を整えた。
先頭の魔物が盾へ飛びかかり、激しい衝撃音が森に響く。前衛が踏みとどまった瞬間、レオはその脇を抜けて前へ出た。
振り下ろされた爪を剣で受け流し、敵の体勢が崩れた隙に踏み込む。刃が魔物の首元を捉え、巨体が地面へ倒れ込んだ。
すぐさま次の敵へ向き直る。
レオの剣は、長い年月をかけて磨き上げられた正統な剣術そのものだった。相手の動きに合わせて間合いを変え、必要な瞬間に必要なだけ踏み込む。大きな動作を伴わずとも、その一撃には確かな重みと鋭さがあった。
その間も、彼の視線は部隊全体へ向けられている。
前衛の隊列が乱れれば直ちに補強し、後衛へ魔物が接近しそうになれば弓兵の位置を変える。自ら剣を振るいながらも、仲間の配置と敵の動きを見失うことはなかった。
戦いが長引くにつれ、魔物たちの様子には奇妙なものが見え始めた。
襲いかかってくる個体がいる一方で、騎士たちを避けるように走り抜けようとするものもいる。傷を負ってなお前進するものもいれば、周囲の魔物に目もくれず、ただ森の外へ向かおうとするものもいた。
それらは統率の取れた動きではなかった。むしろ、何かに追い立てられ、混乱しているように見える。
「隊長! 右翼から別の群れが!」
「盾兵を二名回せ! 魔法騎士は後衛を守れ!」
命令に応じ、二名の魔法騎士が術を展開した。淡い光が前衛の盾を包み、続いて地面を這う冷気が魔物の足元を凍らせていく。
剣と盾、弓、そして魔法。それぞれの力を組み合わせ、騎士たちは魔物の進行を食い止めていた。
しかし、森の奥から新たな咆哮が響いた時、戦場の空気が一変した。
木々が大きく揺れ、地面が震える。
姿を現したのは、周囲の若木を容易く薙ぎ倒すほどの巨体を持つ魔物だった。この地域では滅多に目撃されない、大型の獣型種である。
その魔物は小型の魔物を踏みつけることも構わず、激しい勢いで前進してきた。
「全員、距離を取れ! 正面から受け止めるな!」
レオは剣を構え直した。
巨大な魔物の腕が近くの木を打ち砕き、裂けた幹が騎士たちの前へ倒れ込む。前衛が慌てて左右へ退く中、レオは敵の動きを冷静に見極めていた。
腕の振りは大きいが、その分、攻撃の後には隙が生まれる。問題は、あの巨体を崩すだけの一撃を、どの位置から与えるかだった。
その時、少し離れた森の奥で、別の戦闘音が響いた。
鋭い金属音に続き、魔物の悲鳴が木々の間を駆け抜ける。
増援か。
そう思って視線を向けた先で、赤い髪がひらりと揺れた。
***
同じ頃、森の南側では、シエル・アステリアが近隣の戦士たちと共に魔物の対応にあたっていた。
銀白色の長髪を後ろへ流し、黒を基調とした鎧に銀と金の装飾を纏った騎士である。精緻な意匠が施された装甲は、華やかでありながら、その動きを妨げることはなかった。
近衛騎士団に所属する上級魔法騎士であり、レオとは長年の付き合いを持つ友人でもある。
本来は近隣の集落を巡回する任務に就いていたが、相次ぐ魔物の出現によって増援を求められ、現地の戦士たちと合流していた。予定していた巡回期間は既に過ぎているものの、周辺の安全が確保できるまでは、この地を離れるわけにはいかなかった。
シエルは剣と盾を巧みに使いこなし、魔法を織り交ぜた戦い方を得意としている。とりわけ無属性の防御魔法に秀で、その技量は騎士団内でも高く評価されていた。
「後方の負傷者を下がらせろ! ここは俺が引き受ける!」
シエルは盾を構え直し、迫る魔物の群れを見据えた。
剣を持つ手をわずかに前へ向けると、その周囲に淡い魔力の光が生まれる。次の瞬間、透明な防壁が彼を中心として半球状に広がり、負傷者たちの退路を覆った。
勢いよく突進してきた魔物が防壁に激突し、鈍い衝撃音が響く。
敵が体勢を崩したところで、シエルは防壁を解き、間合いを詰めた。盾で反撃を抑え、続けざまに剣を振り下ろす。魔物は地面へ崩れ落ち、再び起き上がることはなかった。
「お兄ちゃん!」
聞き慣れた声に、シエルは振り向いた。
倒木を軽やかに飛び越え、赤い髪を揺らした女戦士が駆け寄ってくる。
エリア・アステリア。
シエルの妹であり、彼とは異なり騎士団に所属せず、各地を自由に巡っている剣士だった。
小柄で華奢な体格には不釣り合いにも見える大剣を背負い、軽装ながら実戦に適した装備を身につけている。
幼い頃から兄に剣を学んできたエリアは、今では自分の身体に合った独自の戦い方を身につけていた。魔法は扱えないが、その剣技は決して力任せではない。大剣の重さと身体の動きを巧みに組み合わせ、敵の隙を見極めて一気に踏み込む。
そんな彼女がこの森を訪れたのも、今回の異変がきっかけだった。
数日前、街道で立ち寄った集落で、普段は人里へ近づかない魔物が相次いで目撃されているという話を耳にした。気になって周辺を調べてみると、異なる種類の足跡が同じ方角へ続いていることに気づいたのである。
単なる魔物の出没であれば、珍しい話ではない。しかし、これほど多くの種類が生息域を離れているとなれば、何か理由があるはずだった。
そう考えて森へ足を踏み入れたところで、戦闘の音を聞きつけた。
駆けつけた先に見覚えのある黒い鎧を見つけた時は、さすがのエリアも少し驚いた。まさか、別の任務に出ているはずの兄と、こんなところで顔を合わせるとは思わなかったからだ。
もっとも、戦闘はまだ終わっていない。
「東側からも魔物が流れてきてる。あっちの戦士たちだけじゃ、少し厳しそう」
エリアの報告を聞き、シエルは森の東側へ視線を向けた。
「分かった。こちらは俺が引き受ける。お前は東側の援護に回ってくれ」
「うん。向こうへ抜けられないようにするね」
短いやり取りを交わすと、エリアはすぐに進路を変えた。
シエルはその背中を見送り、盾を構え直した。
妹の剣の腕は、誰よりもよく知っている。現場の状況を見て、任せるべき場所を判断したのも彼自身だった。
それでも、戦場へ向かう妹の姿を見れば、心配が頭をよぎらないわけではない。
「……さて、俺も仕事を片付けるか」
小さく息を吐き、シエルは再び魔物の群れへ向き直った。
***
レオが赤い髪の女戦士を目にしたのは、巨大な魔物が騎士たちの隊列へ迫ろうとしていた時だった。
森の東側から現れた彼女は、開けた場所へ飛び出すと、散らばる魔物と騎士たちの位置を素早く見渡した。
ほんの一瞬のことだったが、その視線は確かに戦場全体を捉えていた。
「そっち、右から回り込まれてる!」
よく通る声が響く。
レオが視線を向けると、右翼の外側を迂回する魔物が数体見えた。前衛の注意が巨大な魔物へ向けられている隙に、後方へ抜けようとしているらしい。
レオが指示を出そうとした時、女戦士は既に動き始めていた。
敵の正面へ飛び込むのではなく、木々の間を斜めに駆け抜け、進路を塞ぐように側面へ回り込む。
迫る魔物が牙を剥き、低く唸った。
女戦士はその動きを見据えたまま、わずかに重心を落とした。踏み込む足が湿った土を捉え、腰から肩へと身体が滑らかに回る。
次の瞬間、大剣が振り抜かれた。
空気を裂く鋭い音が響き、刃が魔物の前脚を正確に捉える。勢いを失った巨体が横へ崩れ、巻き上がった土埃の中へ倒れ込んだ。
それは、目を見張るほど鮮やかな一閃だった。
女戦士は振り抜いた剣の勢いを無理に止めず、踏み替えた足と身体の回転によって次の構えへ繋げていた。隣の魔物がその隙を狙って飛びかかろうとした時には、既に刃が返されている。
大剣が敵の進路を断ち、その動きを封じた。
「今なら押し返せる!」
その声に、右翼を守っていた騎士たちが動いた。
レオも即座に状況を判断する。
「右翼、前進! 魔法騎士は彼女の背後を援護しろ!」
魔法騎士が足元の水分を凍らせ、後方から迫る魔物の進路を塞いだ。
女戦士は一瞬だけ振り返り、援護した騎士へ軽く頷いた。それから再び、大剣を構える。
レオは、その一連の動きに目を見張った。
彼が幼い頃から学んできた正統な剣術とは、明らかに異なる。
大きく振り抜く刃も、身体ごと踏み込む足運びも、一見すれば隙が多い。しかし実際には、敵の反撃を許さない位置と速さで、すべての動作が繋がっていた。
最初の一撃を放つ前から、その先の展開を見据えている。
型を持たないのではない。
彼女自身の戦い方として、既に完成された型を持っているのだ。
騎士団で教えられる剣術とはまるで違う。だが、どちらが優れているという話ではなかった。
彼女は彼女の道を辿り、あの剣を磨き上げてきたのだろう。
その技量に感心した直後、女戦士の背後で一体の魔物が低く身を沈めた。
レオは迷わず地面を蹴った。
魔物が跳躍するのと、ほとんど同時だった。
振り下ろされた爪を剣で弾き、体勢の崩れた敵の懐へ踏み込む。鋭い斬撃が首元を捉え、巨体が地面へ崩れ落ちる。
振り返った女戦士と、ほんの一瞬だけ視線が交わった。
彼女は軽く頷き、再び前方へ向き直る。
その視線の先では、別の魔物がレオの側面へ回り込もうとしていた。
女戦士が一歩踏み込み、大剣を振るう。刃が魔物の進路を断ち、その動きを押し返した。
レオはその動きを視界の端で捉えながら、正面の敵へ剣を向けた。
二人の間に、それ以上の言葉はなかった。
それでも、剣を交えるうちに、互いの意図は少しずつ伝わり始めていた。
レオが敵の攻撃を受け流せば、女戦士はその側面へ回り込む。女戦士が大剣で敵の体勢を崩せば、レオは生じた隙を逃さず刃を走らせる。
もちろん、最初から完璧に呼吸が合っていたわけではない。
彼女が予想以上に深く踏み込んだため、レオが進路を変える場面もあった。逆に、レオが敵を牽制して間合いを作ろうとしたところへ、彼女が一気に攻勢をかけることもあった。
それでも、互いの動きを妨げることはなかった。
剣術の型も身体の使い方も異なる二人だったが、敵の動きを見極め、今この瞬間に何が最も有効なのかを判断する力には、確かに通じるものがあった。
やがて、二人の前方で巨大な魔物が再び咆哮を上げた。
先ほどから戦場を荒らしていたその巨体には、既に幾つもの傷が刻まれている。だが、興奮は収まらず、太い腕を振り回して周囲の木々を薙ぎ倒していた。
レオは剣を構え直し、敵の動きを観察した。
あの巨体を正面から受け止めるのは得策ではない。脚を狙って体勢を崩すか、攻撃を誘って懐へ入り込む必要がある。
そう考えた時、隣の女戦士が魔物の脚へ視線を向けた。
次いで、地面を蹴る。
レオはその動きから、彼女の狙いを察した。
魔物が腕を振り下ろす寸前、女戦士は大きく横へ跳んだ。巨大な拳が地面を抉り、土煙が舞い上がる。
彼女は着地と同時に姿勢を低くし、踏み込む足を軸に身体を回転させた。
大剣が重々しい音を立てて振り抜かれる。
刃は魔物の脚を深く捉え、その巨体を支えていた均衡を崩した。
苦悶の咆哮が響き、魔物の身体が大きく傾く。
レオはその瞬間を逃さなかった。
彼女が作り出した隙へ一気に踏み込み、崩れかけた魔物の身体を足場に跳躍する。銀の装甲が陽光を反射し、鋭い斬撃が魔物の首元を捉えた。
轟音と共に、巨体が地面へ崩れ落ちる。
土煙が晴れる頃には、二人とも既に剣を下ろしていた。
女戦士は倒れた魔物を一瞥し、それからレオへ視線を向けた。その表情には、驚きと、どこか楽しげな色が浮かんでいた。
「……見事な剣だね」
彼女がそう言って微笑んだ。
レオは一瞬だけ驚いたが、静かに頷き返した。
「君もな。助かった」
「こちらこそ。背中を守ってくれてありがとう」
その言葉には、戦士としての率直な敬意が込められていた。
レオもまた、同じ思いだった。あれほど大胆な剣術を扱いながら、最後まで動きに乱れがなかった。どこで剣を学び、どれほどの鍛錬を積んできたのか、純粋な興味を覚える。
だが、その時、後方から騎士の声が響いた。
「レオ隊長! 残存する魔物が街道方面へ移動しています!」
レオはすぐに表情を引き締めた。
「負傷者の確認を優先しろ! 街道側へ抜けた個体は追跡隊で対処する。ほかの者は周辺の安全を確保せよ!」
部下への指示を終えて振り返ると、女戦士は既に別の戦士たちがいる方へ向かっていた。
彼女もまた、自分の役割を果たそうとしているのだろう。
レオはその背中を見送り、剣を鞘へ収めた。
名前を尋ねる機会はなかった。どこの所属なのか、誰に師事して剣を学んだのかも分からない。
けれど、あの剣技が見事だったことだけは、疑いようのない事実だった。
***
日が西へ傾き始めた頃、森にはようやく静けさが戻っていた。
シエルは近隣の戦士たちとの情報交換を終えると、木々の間から戻ってきた妹へ目を向けた。
「お兄ちゃん、お疲れさま」
「ああ。お前も無事だったようだな」
「うん。大きな怪我はないよ」
そう答えたエリアは、背負っていた大剣の位置を直すと、森の奥へ視線を向けた。
「……でも、何だか変だったね」
その声を聞き、シエルも表情を改めた。
「何か気づいたか?」
「魔物たちの動き。あれ、単に私たちを襲いに来たわけじゃないと思う」
エリアは足元の土に残る痕跡を指さした。
「違う種類の魔物が一緒にいたのもおかしいけど、それ以上に気になったのが、みんな同じように森の外へ向かおうとしていたことなの」
「……確かにな」
「途中で進路を塞がれた個体は襲ってきたけど、そうじゃないものは私たちを避けるように走ってた。普通なら、あんなに無理をして同じ方向へ進まないと思うんだよね」
シエルは腕を組み、妹の言葉を反芻した。
自身が対応した魔物にも、同じ傾向が見られた。統率されている様子はなく、互いに身体をぶつけ合いながら混乱していたというのに、向かう先は不思議なほど一致していた。
「……森の奥で、何かが起きた可能性はあるな」
「私もそう思う。大きな魔物が縄張りに入ってきたとか、餌がなくなったとか……そういう理由なら分かるんだけど」
エリアは少し考え込んだ。
「それにしては、逃げ方が変だった。何かを避けてるようにも見えたけど……うまく説明できないな」
周辺の集落で聞いた話とも、今日実際に目にした光景とも、どこか噛み合わない。
「無理に答えを出す必要はない。今分かっていることを整理するだけでも十分だ」
シエルの言葉に、エリアは素直に頷いた。
「うん。そうだね」
「王都に戻ったら、この件も報告するつもりだ。各地でも似たようなことが起きているらしい」
「そっか……。じゃあ、私も気づいたことをまとめておくね。ここへ来るまでに、いくつかの集落でも話を聞いてきたから」
シエルは少し意外そうに妹を見た。
「そこまで調べていたのか」
「うん。最初は気になって調べ始めただけなんだけど、話を聞くうちに、どうも一つの場所だけの問題じゃなさそうだなって」
エリアは腰に下げていた小さな鞄へ手を添えた。
「聞いた話も、見つけた足跡も、忘れないように書いてあるよ。帰ったら整理してみる」
「助かる。お前の見ていた場所は、俺とは違うからな」
そう言われ、エリアは嬉しそうに笑った。
「任せて!」
その笑顔に、シエルもわずかに口元を緩めた。
昔から、興味を持ったことには納得するまで向き合う妹だった。剣術もそうだ。教えられたことをただ繰り返すのではなく、自分で試し、考え、工夫を重ねてきた。
こうして旅先で見聞きしたことを記録していたのも、いかにも彼女らしい。
「……そういえばね」
エリアが思い出したように顔を上げた。
「さっき、東側で騎士の人たちと一緒に戦ったんだけど、その中にすごく腕の立つ人がいたの」
「ほう。お前がそこまで言うとは珍しいな」
「金色の髪で、青い瞳の人。白と紺の鎧を着てて、剣の動きがすごく綺麗だった」
エリアは楽しそうに話しながら、剣を振る動きを手で示した。
「私だったら勢いをつけて斬り込むところを、あの人は本当に必要な動きだけで仕留めるの。間合いの取り方も上手でね。こっちが動こうとした時には、もう次の攻撃を考えてるみたいだった」
「……金髪に、青い瞳?」
「うん。お兄ちゃん、知ってる人?」
シエルは腕を組んだ。
王都の近衛騎士には、それらしい男が一人いる。
生真面目で、剣の腕は確か。白と紺の装備を身につけ、戦場では常に冷静な判断を下す男だ。
「……心当たりはあるな」
「本当?」
「ただ、本人かどうかは分からん。名前は聞かなかったのか?」
「聞きそびれちゃった。戦いが終わってから、向こうも忙しそうだったし」
エリアは少し残念そうに笑った。
「でも、また会えたらいいな。あの人の剣、もう少し近くで見てみたい」
「お前は本当に、剣の話になると楽しそうだな」
「ふふっ。お兄ちゃんの影響でしょ?」
「俺はあそこまで教えた覚えはないぞ」
「えー? じゃあ、誰のせいだろうね?」
悪戯っぽく笑う妹に、シエルもつられて口元を緩めた。
思い返せば、最初に剣を教えたのは確かに自分だった。まだ小さかったエリアが、木剣を両手で抱えるように持ち、何度も転びながら稽古を続けていた姿が目に浮かぶ。
あの頃は、まさかここまで剣の道に夢中になるとは思ってもいなかった。
「……まったく、昔から変わらんな」
「そうかな? 私、結構成長したと思うんだけど」
「剣の腕はな」
「そこだけ?」
「他にもあるが、全部褒めていたら日が暮れる」
シエルが肩をすくめると、エリアは声を立てて笑った。
やがてエリアは背負った大剣の位置を直し、森の向こうへ視線を向けた。
「じゃあ、私もそろそろ戻ろうかな。今日は思ったより歩いたし、お腹も空いちゃった」
「そういえば、朝から随分と動き回っていたな」
「うん。帰ったら美味しいもの食べようっと」
「その前に、身体を休めろよ」
「お兄ちゃんもね。今日、結構魔法使ってたでしょ?」
何気なくそう言われ、シエルは少し驚いた。
「……よく見ていたな」
「そりゃあ、見てるよ。お兄ちゃんが無理してないかくらい、分かるもの」
その言葉に、シエルは一瞬返す言葉を失った。
自分が妹を心配しているのと同じように、妹もまた、自分のことを気にかけている。
「……ああ。問題ない」
「ならよかった!」
エリアは満足そうに笑うと、軽く手を振った。
「それじゃ、お兄ちゃん。また王都でね!」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「うん!」
軽やかな足取りで木立の向こうへ歩いていく妹を、シエルはしばらく見送っていた。
その背中が見えなくなると、小さく息を吐く。
「……金髪に、青い瞳、か」
思い浮かぶ同僚の顔に、わずかに首を傾げた。
もし本当にあの男だったのなら、随分と妙なところで妹と顔を合わせたものだ。
もっとも、確かめるのは王都へ戻ってからでも遅くない。
シエルは剣を収め、帰路についた。
***
その日の夕刻。
レオの率いる討伐隊は、街道沿いの集落で負傷者の手当てと住民の安全確認を終え、王都への帰還準備を進めていた。
今回の討伐で、村に迫っていた魔物の多くは排除できた。しかし、森から魔物が出てきた原因については、依然として分からないままである。
レオは部下からの報告を受け、確認された魔物の種類や数、移動の方向について記録をまとめていた。
討伐隊が遭遇した魔物の中には、比較的深い森に生息する大型種も含まれていた。通常ならば容易に姿を見せないはずの魔物までが、他の種と入り混じって人里へ向かっていたことになる。
単に討伐した数を報告するだけでは不十分だろう。各地から届いている目撃情報と照らし合わせれば、何か共通する現象が見つかるかもしれない。
「隊長、出発の準備が整いました」
「分かった。帰還する」
報告書を鞄へ収め、レオは馬の手綱を取った。
森の中で感じた違和感が、まだ頭から離れない。
本来なら縄張りを争うはずの魔物たちが、同じ森から相次いで姿を現していた。中には、騎士たちとの戦闘を避けるようにして逃げ去った個体もいる。
何かが、彼らを住み慣れた領域から追い出したのだろうか。
それとも、もっと別の理由があるのか。
現時点では判断できなかった。
そんなことを考えているうちに、ふと赤髪の女戦士が大剣を振るう姿が脳裏をよぎった。
深く踏み込んだ足と、滑らかに回転する身体。
その勢いを余すことなく刃へ伝えた、鮮やかな一閃。
あれほどの重量を持つ剣を、まるで身体の一部であるかのように扱っていた。
騎士団に所属している様子はなかったが、あの腕前に至るまで、相当な鍛錬を積んできたに違いない。
剣の道は、思っていた以上に広いものらしい。
レオはわずかに口元を緩めた。
もし再び顔を合わせる機会があれば、どのように剣を学んできたのか、一度話を聞いてみたいものだ。
そう思ったところで、レオは前方へ視線を戻した。
今は王都へ持ち帰るべき報告がある。
馬の蹄が土を踏みしめ、討伐隊は夕暮れの街道を進んでいった。
その背後には、深い森が広がっている。
木々の間を吹き抜ける風は、いつもと変わらず穏やかだった。
しかし、森のさらに奥深く。
陽の光がほとんど届かない場所では、奇妙な静けさが広がっていた。
鳥も、獣も、魔物さえも、その一帯へ近づこうとはしない。
湿った大地を覆う苔の上に、冷たい霧がゆっくりと漂っている。
やがて、木々の隙間から差し込む光が、ほんの一瞬だけ不自然に揺らいだ。
まるで、そこにあるはずの景色が、水面に映った影のように歪んだかのように。
だが、その変化を目にした者はいなかった。
森は再び、深い静寂に包まれた。
長い年月をかけて保たれてきた均衡が、今まさに崩れ始めていることを、まだ誰も知らない。




