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値札なき商会  作者: 熾火
不死鳥の産声

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第8話:名前の重み、価値の境界

三日間の門前払い。それは、ヴァーンの工房を「スラムの掃きだめ」から「伝説の火種を隠し持つ聖域」へと変えるための、静かなる儀式だった。


扉の外には、連日、フェネクスを求める人々が列を作っていた。

 だが、俺は一度も扉を開けなかった。ヴァーンにはひたすら在庫を積み上げさせ、同時に品質の極限までの安定を求めた。


「……レン、もう限界だ。外の連中、今にも扉をぶち破りそうだぞ」

 ヴァーンが工具を置き、脂汗を拭いながら言った。


「いいや、まだだ。……本命が来るまで、この扉は開けない」


俺がそう言った直後だった。

 喧騒に満ちた路地に、場違いな「蹄の音」と「車輪の音」が響いた。

 人々がざわめき、道が開く気配がする。


――コン、コン。


扉を叩く音は、これまでの誰よりも静かで、しかし拒絶を許さない重みがあった。

 俺は口元を微かに歪め、椅子から立ち上がった。


「……爺さん、最高の客だ。扉を開けてくれ」


扉の向こうに立っていたのは、仕立ての良い漆黒の外套を纏った中年の男だった。

 手には細いステッキ。その襟元には、帝都でも有数の規模を誇る『銀鱗商業ギルド』の徽章が光っている。


「……ここが、近頃噂の『魔法のような火』を扱う工房か」

 男は眉をひそめ、不潔な工房の内部を品定めするように見回した。その視線が、作業台の上に置かれた一個のフェネクスに止まる。


「私はギルドの調査員、マルクスだ。……小僧、その火を一つ見せてもらおうか。巷では1銀ソルドなどというふざけた値段で取引されているようだが」


俺は無言でフェネクスを手に取り、彼の目の前で蓋を跳ね上げた。

 ――カチリ。

 凍てつく冬の空気を切り裂き、青い火柱が完璧な静止を保って燃え上がる。


マルクスの目が、わずかに見開かれた。

 彼は無作法にフェネクスを奪い取ると、風の吹き抜ける屋外へ持ち出し、何度も点火を繰り返した。


「……なるほど。構造は簡素だが、魔導回路の効率が異常に高い。これだけの小型化を、この安定度で実現するとはな。ヴァーン・バウアー……名前は聞いたことがある。偏屈だが腕だけは確かな老職人か」


「評価していただき光栄だ。……それで、ギルドの調査員が直々に足を運んだ理由は? 1銀ソルドの火打ち石を買いに来たわけじゃないだろう」


マルクスは鼻で笑い、フェネクスを俺に放り返した。


「単刀直入に言おう。その火の製法、および専売権をギルドで買い取る。……提示額は、50金ソルドだ。このドブネズミのような生活を一生送らずに済む大金だぞ」


50金ソルド。日本円にして約500万円。

 ヴァーンが息を呑む音が聞こえた。スラムの職人にとっては、文字通り「一生遊んで暮らせる」夢の金額だろう。


だが、俺は笑わなかった。

 むしろ、憐れみすら込めた視線でマルクスを見つめた。


「……あんた、ギルドの看板を背負っている割には、算盤(そろばん)の弾き方も知らないようだな」


「なんだと……?」


「帝都には、火を必要とする人間が何万人いる? その一人一人が、一生のうちに火を熾すために費やす時間を金に換算したことがあるか? ……このフェネクスがもたらす『時間の創出』は、数千、数万金ソルドの価値を生む。それを、たった50金で買い叩こうとは」


俺はフェネクスの側面に刻まれた不死鳥の翼を、親指でなぞった。


「俺たちが売っているのは、道具じゃない。この『不死鳥(フェネクス)』という名のブランドだ。……専売権は渡さない。だが、ギルドに『卸して』やることはできる」


「……卸すだと? 我々に条件を出すつもりか」


「ああ。1個あたり2銀ソルド。それをあんたたちがいくらで売ろうと勝手だが、この刻印だけは消させない。……そして、今後俺たちが生み出す全ての『魔法製品』の優先販売権を、銀鱗ギルドに与えてもいい」


マルクスは絶句した。

 彼は、単なるガラクタを安く買い叩きに来た。だが、目の前にいる少年は、自分たちを「下請けの販売網」として利用しようとしている。


「……ふん。交渉の余地はありそうだな。だが、2銀ソルドは高すぎる」


「高いかどうかは、明日、帝都の中央通りでこれを売ってみればわかる。……爺さん、用意してある分を」


ヴァーンが震える手で、この三日間で作り上げた百個のフェネクスを袋に詰めて差し出した。

 

「これはサンプルだ。代金は200金ソルド。……明日、完売しなかったら、二度とあんたの前に顔は出さないよ」


マルクスは毒気を抜かれたように肩をすくめ、懐から重い金貨袋を取り出した。

 金貨がテーブルに置かれる。鈍い黄金の輝きが、煤けた工房を照らした。


彼が去った後、ヴァーンは腰を抜かしたように床にへたり込んだ。

「……レン。俺は、夢を見てるのか。100個の火打ち石が、金貨2枚になったぞ」


「まだ産声だ、爺さん。……明日になれば、帝都の『中流層』がこの火を知る。そして、富裕層が俺たちの『本命』を求めて動き出す」


俺は作業台の端にある、あの「黒いヒーター」を見つめた。

 1銀ソルドの火種が、10金ソルドの熱源を呼ぶ。

 

 不死鳥は、泥の中からついにその翼を広げ始めていた。

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