第6話:静かなる導火線
翌朝、ヴァーンの工房の空気は、これまでとは明らかに違っていた。
作業台の上には、夜通しヴァーンが叩き上げた十個の「フェネクス」が、軍隊のように整然と並んでいる。装飾を削ぎ落とした漆黒の筐体は、朝の光を吸い込み、冷徹な美しさを放っていた。
「……本当に来るのか。あんな、泥だらけのガキの世迷言を信じて」
ヴァーンが疑わしげに鼻を鳴らす。その目の下には深い隈があったが、職人特有の研ぎ澄まされた光が宿っている。
「爺さん、マーケティングにおいて『信じる』必要はない。『気にさせる』だけで十分なんだ」
俺は椅子に深く腰掛け、窓の外を見つめた。
前世の俺が手がけた数千万規模のキャンペーンも、最初は一人の「気まずさ」や「不便」を突くことから始まった。人間の行動原理は、時代も世界も超えて常にシンプルだ。
やがて、工房の前の石畳を叩く、迷いのある足音が聞こえてきた。
――ギィ、と建付けの悪い扉が開く。
そこに立っていたのは、昨夜の男だった。その後ろには、同じような身なりの労働者が二人、物珍しそうに中を覗き込んでいる。
「……ここか。ヴァーンの爺さんの店ってのは」
「ああ。よく来てくれたな」
俺は立ち上がらず、静かなトーンで応じた。
ここで愛想良く出迎えるのは三流だ。この工房を、単なる「店」ではなく「特別な価値を生む場所」として認識させる必要がある。
「昨日のあれ……見せてくれ。こいつらにも話したんだが、誰も信じやしねえ」
男の言葉に、後ろの二人がせせら笑う。
「おいおい、そんな都合のいい魔道具があるわけねえだろう。魔法使いの旦那衆が使うような高価な代物なら別だがよ」
俺は無言で、作業台の上のフェネクスを一つ、男たちの前へ滑らせた。
滑らかな金属が石の台の上で音を立てる。男は恐る恐るそれを手に取り、昨夜教えた通り、スリットを親指で弾いた。
――カチリ。
青白い、鋭い火柱が、隙間風の吹く工房の中で微動だにせず立ち上がる。
嘲笑っていた男たちが、一瞬で言葉を失った。
「……マジかよ」
「風で、揺れもしねえ……」
「魔法じゃない。ただの『効率』だ」
俺は淡々と告げる。
「火を熾すために費やしていた人生の数分間。それを、俺たちが買い取ってやる」
「……いくらだ」
昨夜の男が、喉を鳴らして尋ねた。その目は、もう単なる好奇心ではなく、強烈な「所有欲」に染まっている。
「1銀ソルドだ」
背後で、ヴァーンが小さく息を呑むのがわかった。
1銀ソルド。スラムの食事なら数日分、労働者の一日の賃金の半分近くに相当する。使い捨ての火種としては、決して安くはない。
「……1銀か」
「高いと思うなら、これまで通り火打ち石を叩き続ければいい。時間はタダじゃない。この1銀で、あんたは今後、一生『火がつかない苛立ち』から解放される」
俺はあえて視線を外し、窓の外を眺めた。「希少性の演出」だ。
売り急ぐ必要はない。価値を理解した者だけが手にすればいいというスタンスが、かえって商品の格を上げる。
沈黙が流れる。
やがて、男が汚れた革袋から、鈍く光る銀貨を一枚、作業台に叩きつけた。
「……買った。こいつは俺の『相棒』だ」
それを見て、後ろの二人も顔を見合わせた。
一人が買うと、買わないことが「損」であるかのような心理状態に陥る。同調圧力と、原始的な競争心。
「……俺もだ! 俺も一つくれ!」
「俺も! 今朝、火がつくまでカミさんに怒鳴られちまったんだ。こいつがありゃあ……」
銀貨の重なり合う音が、静かな工房に響く。
ヴァーンが呆然とした様子で、三枚の銀ソルドを見つめていた。
男たちが、まるで宝物を手に入れたかのような顔で去っていく。
俺はその背中を見送りながら、前世で何度も味わった「市場が動く瞬間」の感触を噛み締めていた。
「……おい、レン。本当に売れちまったぞ。しかも、1銀ソルドなんて高値で」
「まだ始まったばかりだ、爺さん。あの三人が街に戻れば、彼らの周りの人間が必ずこう聞く。『その火は何だ?』とな」
俺は残りの七個のフェネクスを指先でなぞった。
「宣伝はいらない。満足した顧客こそが、世界で最も優秀な営業マンだ」
不死鳥の産声は、まだこのスラムの片隅でしか響いていない。
だが、この三枚の銀貨は、やがて帝国を呑み込む黄金の濁流の、最初の一滴だった。




