第5話:摩擦の対価と、最初の一手
帝都の冬の夕暮れは早い。
橙色の太陽が尖った屋根の向こう側に沈むと、街には湿り気を帯びた冷気が立ち込める。俺はヴァーンの工房を出て、人々の活気に溢れる中層区の「屋台通り」へと足を運んでいた。
(……見えてきたな)
鼻を突く油の匂い、スパイスの香り、そして喧騒。
ここには帝都の「胃袋」がある。日銭を稼ぐ労働者から、小綺麗な身なりの市民までが、安くて温かい食事を求めて集まる場所だ。
俺の目的は、市場調査だ。
前世の俺なら、デスクに座ってクリック一つで膨大な統計データを呼び出していただろう。だが、この世界にデータはない。自分の足と目で、「不満」という名の金脈を探すしかない。
俺は一軒の串焼き屋台の前に立ち、店主の動きをじっと観察した。
恰幅の良い男が、客の注文を受けてから火床を弄っている。
「チッ、また消えかかってやがる。湿気てんのか……?」
男は悪態をつきながら、火打ち石のような魔道具を何度もカチカチと打ち鳴らした。数秒、十数秒。火花は散るが、なかなか炭に火が移らない。
その間、客は寒そうに肩をすくめ、イライラと足音を鳴らしている。
(摩擦だ……)
俺は心の中で呟いた。
ビジネスにおける「摩擦」とは、目的を達成するまでに生じるあらゆるストレスのことだ。火をつけるのに十秒かかる。その十秒が客を不機嫌にし、店主の回転率を下げ、機会損失を生んでいる。
俺は通りの角にある、タバコに似た嗜好品「煙草草」を売る露店へ視線を移した。
そこでも同じ光景が繰り返されている。客が火を求めて店主に声をかけるが、店主は面倒そうに火種の入った箱を差し出す。風が吹けば消え、そのたびに火を熾し直す。
「……決定だ」
ターゲットは「煙草草」の愛好者、そして回転率を重視する小規模な屋台主。
彼らにとって、火は単なる道具じゃない。作業を中断させる「呪い」だ。
俺は路地の影に戻り、懐に手を突っ込んだ。そこにはヴァーンが徹夜で仕上げた、まだ一つしかない「フェネクス」の完成品がある。
装飾を削ぎ落とした黒い直方体。指先でスリットを跳ね上げれば、内蔵された魔導回路が最短距離で魔力を熱に変換し、青白い火柱を形成する。
これをどう売るか。
いきなり「高価な道具です」と言って売り込んでも、慎重な商人は財布の紐を緩めない。
彼らが求めているのは道具ではなく、「快適な日常」だ。
俺はわざとらしく、煙草草を燻らせている一人の男に近づいた。
男は風に吹かれ、何度も火種を消しては舌打ちをしている。
「……あんた、いい『煙』を持ってるな」
俺は努めて穏やかに、しかし知的な響きを持つ声で話しかけた。15歳の子供が発するには不釣り合いなほど落ち着いたトーン。男が驚いて俺を見る。
「あ? なんだ、小僧」
「その煙草草、香りがいい。……でも、火が死んでいる。せっかくの贅沢が、台無しじゃないか?」
「余計なお世話だ。風が強いんだから仕方ねえだろうが」
俺は無言で、懐から「それ」を取り出した。
夕闇の中で、漆黒の筐体が鈍く光る。
――カチリ。
乾いた音が響いた瞬間、風を切り裂くようにして、鋭い火種が立ち上がった。
男の目が、吸い寄せられるようにその火に固定される。
「貸しなよ。その最高の煙、俺が目覚めさせてやる」
男は呆気に取られたまま、口に咥えた煙草草を差し出した。
俺がフェネクスを近づけると、一瞬で火が移り、豊かな紫煙が立ち上る。
「な……なんだ、こりゃ。今の魔道具か? 魔法使いが使うような高いやつじゃ……」
「魔法? そんな仰々しいものじゃない。これはただの『スマートな解決策』だ」
俺は蓋を閉じ、男の目の前でフェネクスを指の上で転がしてみせた。
「……興味があるなら、明日、三ブロック先の工房に来るといい。ヴァーン・バウアーの店だ。そこで、あんたの人生から『火の悩み』が消える瞬間を見せてやる」
俺は名前だけを残し、男の返事を待たずに人混みへと消えた。
これがマーケティングの第一歩。「認知」と「関心」。
商品を説明して売るのではない。喉から手が出るほどの「飢え」を自覚させ、向こうから歩かせるのだ。
背中で、男が「ヴァーン・バウアー……?」と呟くのが聞こえた。
泥を啜った夜から二日。
不死鳥の小さな火種が、帝都の夜に初めて放たれた。




