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値札なき商会  作者: 熾火
不死鳥の産声

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第3話:冷たい雨と、最初の火

質屋の扉を蹴り出すようにして出たものの、現実は冷酷だった。

 視界を白く染めるほどの豪雨。15歳のひ弱な体は、怒りと高揚感で一時的に麻痺していた痛みを、容赦なく再燃させていく。


「……おい、小僧。どこへ行くつもりだ」


後ろから、低く掠れた声がした。

 振り返ると、あの老人が泥に汚れた黒い箱――魔導ヒーターを抱え、怪訝そうな顔で立っている。その瞳には、助けられた感謝よりも、得体の知れない子供を見るような強い警戒心が勝っていた。


「……決まっている。この雨を凌げる場所だ」


俺は震える声で答え、路地の先を指差した。

 前世の記憶と今世の知識を強引に繋ぎ合わせ、現在地を割り出す。ここから数ブロック先、スラムの最果てに、職人たちが集まる一角があったはずだ。


「あんたの仕事場アトリエへ行く。あそこなら、少なくともこの『商品』を奪われる心配はないし、テストもできる」

「……勝手にしろ。だが、メシはないぞ」


老人は吐き捨てるように言うと、俺を追い抜いて歩き出した。

 その背中は岩のように頑なだったが、叩きつける雨を遮るように、少しだけ俺の前を歩いているようにも見えた。


辿り着いた工房は、お世辞にも「城」とは呼べない代物だった。

 崩れかけの外壁、隙間風が鳴る窓。だが、一歩中に入れば、そこには独特の静寂があった。

 壁に整然と並べられた無骨な工具、煤けた作業台。そして、空気の中に漂う、焦げた魔石と鉄の匂い。


俺は壁際に崩れ落ちるように座り込んだ。

 水を含んだ衣服が、氷のように体温を奪っていく。


「……死にたくなければ、それを使え」


老人が顎で指したのは、俺が抱えてきたあの黒い箱だった。

 彼は不器用な手つきで、予備の魔石を箱の裏側に装填する。


次の瞬間。音もなく、箱の隙間から柔らかな「熱」が溢れ出した。


(……なんだ、この熱は)


驚いた。前世で知っていた安物のストーブのような、肌を刺す乾燥した熱ではない。

 芯から体を包み込み、凝り固まった筋肉をゆっくりと解きほぐしていくような、圧倒的に「質の良い熱」だ。


「……このヒーター、調整が完璧だな。ただ空気を温めるんじゃなく、空間そのものを『安定』させている」

「……ふん。わかったような口を。魔導回路の循環を極限まで高めれば、不純な熱は出ない。当たり前のことだ」


老人は背を向けたまま、古い毛布を俺の頭に放り投げた。

 その「当たり前」を形にするために、どれほどの執念が注がれているか。それを理解できないから、あの質屋の店主は三流なのだ。


俺は温かな空気の中で、凍えていた思考を再起動させる。

 

「おっさん。このヒーターは、まだ売らないぞ」

「……あ? さっきは10金ソルドで売るとか大口を叩きやがって。やっぱりハッタリか」

「今はまだ『市場』ができていないんだ。知名度ゼロのガキと不器用な職人が、いきなり最高級品を持ち込んでも、買い叩かれるのが関の山だ」


俺は、毛布にくるまりながら、赤い光を放つヒーターの核を見つめた。


「まずは、この『完璧な熱』を、もっと安く、もっと手軽に、大衆に知らせる必要がある。……なぁ、魔導回路を簡略化した、指先サイズの『点火芯(ライター)』は作れるか?」


老人が、初めて怪訝そうにこちらを振り返った。


「点火芯だと? あんなもの、魔石の欠片を打ち鳴らせば火はつく。わざわざ作る価値など――」

「価値はある。……『指先一つで、雨の中でも消えない火が手に入る』。その利便性に、どれだけの人間が飢えているか、あんたには想像もつかないはずだ」


俺は、前世で見た「100円ライター」の爆発的な普及と、そこから生まれた巨大な利権を思い出す。

 高価なヒーターを売る前に、まずはブランドのマークを刻んだ小さな火種を、帝都中にバラ撒く。


「三流は商品を売るが、一流は『習慣』を売る。……俺たちが売るのは、火じゃない。火に苦労しないという新しい『当たり前』だ」


老人は黙り込んだ。だが、その瞳の奥には、俺が語る戦略に対する知的好奇心が、小さく、しかし確実に灯っていた。


ふと、作業台の隅に置かれた、使い古された刻印が目に入る。

 そこには、武骨な飾り文字で男の名が刻まれていた。


「……ヴァーン。あんたの名前か?」


老人は鼻を鳴らし、乱暴に作業着の袖で顔を拭った。


「……勝手に呼ぶな。ヴァーン・バウアー。この辺りの連中からは、偏屈なヴァーン(じじい)と呼ばれてる」

「そうか。……俺は、蓮。今はただの『レン』だ。よろしくな、ヴァーン爺さん」


雨音はまだ止まない。

 だが、冷え切った工房の中で、世界を塗り替えるための最初の火が、今度こそ静かに爆ぜた。

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