第30話:情報の重力、あるいは「基準」の不在
昨日は忙しく投稿できず申し訳ありません。
しばらく本業が忙しくなるので隔日での投稿となります。
『値札なき商会』の工房が沈黙を守る一方で、帝都の街角では奇妙な噂が広がり始めていた。
「聞いたか? あのヴァーンの工房で、職人の半分が追い出されたらしい」
「ああ、商会の若造が『神の目盛り』とかいう道具を持ち込んで、ベテランの仕事を全部ゴミだと切り捨てたんだとよ。金歯の歯車の連中は、みんなへそを曲げて辞めちまったらしいぜ」
噂の主は、工房を去った『金歯の歯車』の職人たちだ。彼らは酒場で、レンの冷酷さと「道具に頼る非道」を喧伝して回っていた。だが、レンにとって、それは計算通りの『ネガティブ・ブランディング』だった。
「……レン、外じゃ俺たちの評判はガタ落ちだぜ。職人を使い捨てる冷血な商会だってな」
ヴァーンが、窓から外の様子を伺いながら苦笑いする。だが、その背後では、残った若手職人たちが驚くべき光景を作り出していた。
ノギスを握りしめた若手たちが、単純化された工程を黙々と繰り返す。かつてベテランたちが感覚で削り、組み立てに時間を要していたパーツが、今や誰が作っても『三』の目盛り通りに仕上がっていく。
「評判なんて、後でいくらでも書き換えられる。それより爺さん、仕込みの時期だ」
レンは帳簿を閉じ、帝都の地図を広げた。
「今はまだ、新製品は出すな。既存の製品の追加注文も、あえて納期を延ばせ。『規格の見直しにより、一分の妥協も許されない工程に変更した』と言ってな」
「商売人としちゃ、機会損失もいいとこだな。で、いつまで待つんだ?」
「人々が、今の生活に『疑念』を抱くまでだ」
レンが狙っていたのは、単なる製品の販売ではなく、「帝都全体の精度の低さ」を浮き彫りにすることだった。
レンはゆっくりと立ち上がり、貴族の書斎を模倣するように宙を指差した。
「爺さん、想像してみろ。うちの顧客である富裕層の夜を。……彼らはまず、うちの『ライター』で葉巻に火をつける。一発で確実にな。そして机に向かい、『万年筆』で手紙を書く。紙を引っ掻く音も、インクの掠れも一切ない」
ヴァーンが黙って頷く。それらはすべて、彼らがこれまでに世に送り出し、顧客を虜にしてきた品々だ。
「部屋を照らすのは、炎が一切揺らがない『ランプ』。そして空間を暖めるのは、微かな駆動音も焦げた煤も出さない『ヒーター』だ。……どうだ? 彼らの身の回りはすでに、俺たちが作った『完璧な無音空間』で満たされている」
「ああ、極上の居心地だろうよ」
「そうだ。だが、その極致を体験した人間にとって、それ以外の不完全なものはすべて『耐え難いノイズ』に変わる」
その時、窓の外から遠く、教会の鐘の音が響いた。
ゴーン、と重々しい音が鳴り終わる。それから数分ほど遅れて、今度は広場の大時計が、少しズレたリズムで時を告げた。
「……これだよ」
レンは窓枠を叩いた。
「部屋の中は完璧なのに、窓の外からは『不揃いな時間』が押し寄せてくる。……完璧を知った人間にとって、この『曖昧さ』は知的なストレスになるんだ」
「なぜ、我々の生活はこんなに不正確なんだ?」
その小さな苛立ちが、帝都の富裕層の中で臨界点に達しようとしていた。
「不揃いなリズムは、それだけで人間にストレスを与える。その不快感が極限に達した時、俺たちが『絶対的な正解』を提示するんだ」
金歯の歯車出身の職人たちが外で騒げば騒ぐほど、「彼らが作っていたこれまでの製品がいかに適当だったか」という証明にすり替わっていく。
「ボリスたちに伝えておけ。外で俺たちの悪口を言うのは自由だが、その声が大きければ大きいほど、自分たちの旧い仕事がいかにガサツだったかを宣伝することになるとな」




