第18話:沈黙の余韻、あるいは市場の転換点
「昨夜の皇宮は、まるで墓場のように静かだった。……そして、この世のものとは思えないほど温かかったそうだ」
翌朝、帝都の至る所でこの噂が駆け巡った。皇太子殿下が放った「夜は静かであるべきだ」という言葉は、瞬く間に貴族たちの間で「法」にも等しい絶対的なトレンドへと昇華された。
スラムにある『値札なき商会』の工房。
隙間風の吹くいつものぼろ家には、今や帝都中の有力ギルドからの使いや、無記名の招待状が山積みになっていた。
「……レン、大変なことになったぞ。銀鱗商業ギルドの会頭が、直接会いたいってよ。それだけじゃねえ、帝都中の魔導具屋が、うちの『炉』を卸してくれって泣きついてきてる」
ヴァーンが、震える手で大量の手紙を捌きながら椅子に崩れ落ちた。昨日までの「知る人ぞ知る秘密の店」は、一夜にして「帝国の最優先事項」へと変貌してしまった。
「……全部、断れ。返事すら書く必要はない」
俺は、カシム卿から預かっていた古い魔導書を読みながら、表情一つ変えずに答えた。
「断る!? 正気か、レン! 今こそ一気に広めるチャンスだろ。工場を借りて、職人を雇って、三型の改造品を数千、数万と作れば、帝国の金が全部俺たちのものに……」
「爺さん。ビジネスには『適正なサイズ』があるんだ」
俺は本を閉じ、窓の外のスラムの喧騒を眺めた。
「今、俺たちが量産を始めたらどうなる? 市場は『静寂の炉』で溢れ、数ヶ月後には安売り合戦が始まる。皇太子殿下が愛でた『奇跡』は、ただの『便利な家電』に成り下がるんだ。……価値とは、常に飢餓感の上にしか存在できない」
三流は需要に合わせて供給を増やす。
二流は需要を煽って供給を絞る。
そして一流は、「需要があること自体を罪悪感に変える」。
「俺たちが売っているのは、道具じゃない。『特権』だ。……爺さん、今のペースを崩すな。一ヶ月に三台。それが俺たちの限界だ。……それ以上欲しがる連中には、一生『待つ』という贅沢を味わってもらえばいい」
その時、工房の扉が控えめにノックされた。
現れたのは、銀鱗商業ギルドの幹部、マルクスだった。以前、俺たちから『フェネクス』を買い叩こうとした男だ。だが、今の彼の目に傲慢さはない。あるのは、剥き出しの「恐怖」と「敬意」だった。
「……レン殿。いや、商会長とお呼びすべきかな。本日は……謝罪と、提案に参りました」
マルクスは深々と頭を下げた。
「我がギルドは、貴殿らの『静寂の炉』を、帝国の正式な標準規格として認定したい。……模倣品はすべて我々が摘発し、排除することを約束します。その代わり、どうか、我がギルドを『値札なき商会』の唯一の公認代理店に……」
「マルクスさん。貴方は一つ、勘違いをしている」
俺は立ち上がり、彼の目の前に歩み寄った。
「俺たちは、ギルドの一部になりたいわけじゃない。……俺たちが作るのは、ギルドそのものを不要にする新しい『秩序』だ。……貴方がたがすべきは、模倣品の摘発ではない。俺たちの商品を待つ客たちの、長い行列の整理。……いわば、門番としての仕事だ」
マルクスの顔が引き攣った。帝都最大のギルドに対し、「門番になれ」と言い放つ少年。
だが、彼は反論できなかった。皇太子の後ろ盾を得た俺たちの言葉は、もはや帝国の経済そのものに対する「宣戦布告」に等しかったからだ。
「……承知いたしました。……行列の整理、慎んでお引き受けしましょう」
マルクスが去った後、ヴァーンが感嘆したように息を吐いた。
「レン……お前、本当に恐ろしい奴だな。あの銀鱗ギルドを小間使いにしちまうなんて」
「いいや、爺さん。これが『強者のゲーム』だ。……さあ、次の仕事を始めよう。……冬の次は、『春』を先取りする仕掛けが必要だ」
不死鳥の羽ばたきは、ついに経済の屋台骨すらもその風圧で歪ませ始めた。
だが、その裏で、俺たちの「静寂」を快く思わない古い勢力が、静かに牙を研ぎ始めているのを、俺は感じ取っていた。




