第15話:不死鳥の吐息、あるいは「空気」の選別
北地区の『値札なき商会』が「拒絶」という名の劇薬をバラ撒いている頃、心臓部であるスラムのぼろ家では、ヴァーンが再び唸り声を上げていた。
「……なぁ、レン。ヒーターの改良はいい。回路を整流して音を消すのも、もう慣れた。だが、この『石の欠片』を中に組み込めってのは、一体何の冗談だ?」
ヴァーンが指差したのは、帝都の香料ギルドから取り寄せた最高級の樹脂と、微細な穴を開けた魔導石の複合パーツだ。
「冗談じゃないよ、爺さん。三型のヒーターが嫌われる最大の理由は、音だけじゃない。……あの、魔力を燃焼させた時に漂う『焦げ臭い匂い』だ」
俺は、換気のために開けた窓からスラムの湿った空気を吸い込み、眉をひそめた。
前世の高級ホテルやラウンジがそうであったように、空間の格を決めるのは「視覚」や「聴覚」だけではない。最後の決め手は、常に「嗅覚」――すなわち香りだ。
「『静寂の炉』は音を消した。だが、まだ『空気』を支配してはいない。熱の対流を利用して、極めて微細に、そして均一に香りを広げる。……名前は、『不死鳥の吐息』だ」
俺はヴァーンに、ヒーターの排気口に装着するアタッチメントの設計図を渡した。
既存のヒーターを「静かに」したのが第一段階。そこに「香り」という付加価値を乗せるのが第二段階だ。
「……なるほどな。ただ温めるだけじゃなく、部屋を『森』や『花園』に変えちまおうってわけか。お前、本当に客の財布を空にする天才だな」
数日後。北地区の石造りのサロン。
そこには、先日俺が門前払いしたグレイグ子爵……ではなく、彼の妻であるグレース夫人が訪れていた。彼女は社交界のトレンドを左右する「サロンの女王」として知られている。
「……主様。主人が失礼な態度を取ったようで、お詫びいたしますわ。ですが、あの不器用な男がこれほどまでに執着する『炉』、どうしても私の目で確かめたくて」
彼女の視線は、店内の無駄を削ぎ落としたミニマリズムを、鋭く、そして陶酔するように見渡した。
「お気になさらず。……閣下には、三ヶ月の『待機』という名のリラクゼーションを楽しんでいただいているところです。ですが、夫人。貴女には、もう一段階上の『静寂』をご提案できるかもしれません」
俺は、展示用の『静寂の炉』に、完成したばかりの『不死鳥の吐息』を装着した。
スイッチを入れると、無音の暖かさと共に、雨上がりの森を思わせる清涼で深い香りが、ゆっくりと、しかし確実に部屋を満たしていく。
夫人の瞳が、驚きに大きく見開かれた。
「……これは……。ただの香炉とは違う。……熱の中に、命が宿っているような……」
「『炉』が動いている間、その部屋は貴女だけの聖域になります。……このアタッチメント、および専用の香料原石は、炉を注文された方限定のオプションです。価格は、追加で5金ソルド」
5金ソルド。単なるオプションとしては狂気の価格だ。
だが、夫人は夢見るような手つきで、炉から放たれる目に見えない「吐息」に触れた。
「……主人の注文に、これも追加してください。……いいえ、主人の分とは別に、私の私室用にもう一台。……代金は今、ここに」
夫人は、従者に命じて金貨袋を置かせた。
一度に25金ソルド。そして、もう一台の予約。
三流はモノを売り、二流は機能を売る。
そして一流は、「五感の支配」を売る。
『値札なき商会』の不死鳥は、今や帝都の貴族たちの鼻腔を掴み、その精神の奥深くへと根を下ろしていた。




