第二十番歌:新(あらた)しき日へ(一)
一
安達太良なゆみは、困惑のあまり頭が痛くなった。
大仕事の当日は、万全な状態で臨む。それが彼女のモットーである。事にあたる時は、時間を逆算し予定を立てる。異常事態が起こっても計画倒れしないように、余裕を持たせてもいた。今回は、「弥生と卯月の間」に突入する時刻、弥生晦日二十三時五十九分と卯月朔日零時零分との境目の六時間前に起床、決戦の場・村雲神社に到着、各自持ち場にて待機であった。かしましい小娘達「グレートヒロインズ!」に飴と鞭を使い分け、予定に狂いなく従わせることに成功したものの、司令官である自分が不調とは。
「僕に非は一切無いのだ……あるとすれば、ねえねだ」
永遠に超えられない、何者にも代えがたい、姉・安達太良まゆみは、時になゆみを悩ませた。いや、毎度悩まされているように思う。
「ねえね……姉さん、いづこへ行ったのだ?」
白くだだっ広い空間で、なゆみは確かに姉に会った。姉に変装した稀代の怪盗でも、玉藻前でもない、本物だった。
「だが、姉さんならあんなに哀しき笑みはしない」
たとえ苦しくても、姉はなんともないように振る舞っていた。人に心配をかけさせないように、神経を使ってきたのだ。
「『先に空満へ』だと? 僕には荷が重いよ」
出来が悪いことは、優しい姉さんでも分かっているだろう? 僕は、呪いのセンスが壊滅的だし、戦闘力も劣っている。安達太良の落ちこぼれ、祖母と叔母にくどく言われた。
「姉さんは、また、僕に黙ってひとりで遠くへ行くのか」
許しておくものか。ねえねのいない未来には、させない。
なゆみは、痛みを振り切って、白衣の胸ポケットにはさんでいた文具を暴力的に抜き取った。墨より黒い本体に桔梗色の金具が付いた、ペン型通信機だった。
「お前達、聞こえるか」
五人の小娘が、めいめい応答した。彼女達の耳内部に内蔵している受信機は異常無しだと確認できた。
「『スーパーヒロインズ!』の司令官によると、間突入後九十分以内に障りがこちらに攻めてくるとのことだ」
「え、ええ!」
隊長が素っ頓狂な声を出した。
「間に入ってもう一時間以上経っているんですけど! いつ戦闘になってもおかしくないってことだよね?」
「大将、落ち着きィやァ。イレギュラーなんは、慣れっこやろォ? 博士を泣かせたらあかんでェ」
戦術役がなゆみへの嫌味を混ぜて隊長をなだめる。
「待ちくたびれて無味単調ですのっ! 障りを蹴飛ばしますのっ!」
「……そう、私達の日常は、戦い」
冷却役がうずうずし、武器役が粘っこくつぶやいた。
「半径二十きろめーとる以内ニ、飛行スル物体ヲ約三百トラえたゼ★」
意外と有能なリベロ役の報告を受け、なゆみは命令する。
「当初の予定パターン・ナンバー03、五人で応戦となるが、やれるか?」
『イエス!』
なゆみはペンのキャップを開け、空中に「出動」と書いた。「グレートヒロインズ!」に戦闘せよと号令を送ったのである。
「ふみかレッド、こっちはなんとかしのぐからね」
神社本殿の舞台にて、隊長が両足を開いてしっかり床を踏んでいた。頼りない顔つきを勇ましいものに変えて、仲間達に合図を送った。
「心の岩戸、開けてみせるよ! うずめレッド!」
「……歌の本意は、有心の躰。……そう、ねおんブルー」
「罪障は、雪ですわっ! こおりグリーン!」
「こひこひて 有経し大人の 面影を、せいかイエロー!」
「をみなにて 又も来む世ぞ 生まれまシ★ とよこピンク!」
『皆人よ、心に示せ文学を! 五人合わせて……グレートヒロインズ!』
間に取り残された現在の空満には、グレートヒロインズ! と、日本文学国語学科の専任教員陣が控えていた。
「弐の壇より報告がありました。『大いなる障り』の一部が村雲神社と本部に近づいている、とのことです」
学科主任の時進誠教授が静かな声音で言い、数千頁もある本を閉じた。本部―空満大学国原キャンパス研究棟二階、時進の個人研究室で、主任と護衛の二人組「参の壇」は、中継地点への指示を務めていた。
「そやつを迎え討つことが、最初の業務かね」
近松初徳教授が眠そうに訊く。夜桜にかかる月を眺めた逢瀬の余韻に浸っているのだろう。
「受けてくださいますか」
「主任の頼みとあれば、だからね」
群青色の紐でベルトに結わえつけた短刀を握り、傍らの部下に「参るよ」と呼びかけた。妖艶な貝の片割れ・森エリス准教授は、終始黙ってついてゆく。
「和舟の姐さんに告げられたのだよ。障りは呪いでないから、私は例外にならぬとね」
近松は、呪いが通用しない身分「士族」であった。
「此度の戦で大立ち回りできると思っていたのだがね、能無しになってしまった。ははは、私に失望したかね、森君?」
エリスの西洋人形みたいな貌は、ちっとも動くことなかった。
「答えるに値しない……かい」
「貴方は、独り合点する人」
繊細に巻かれてシュシュで束ねられた亜麻色の髪から、芳しい花の香りがした。日頃近松を惑わす香りだ。
「貴方が無能だと自己評価したとしても、自分は貴方の盾である」
自動ドアを通り過ぎざまに、エリスは天へ両の手を伸ばした。
「Was?(何、) Wohlhabend, hm(富貴。)?」
結界が研究棟を丸ごと包む。色は、本朝を代表する花と同じだ。かの山田孝雄氏が、その花と本朝の人々の関係の歴史を研究し、一冊にまとめた。
エリスが行使する術は、防御と治療に長けていた。今朗読した文章は、森鴎外『舞姫』の一節だ。彼女の故郷および術が完成した地・独国の言語を用いていた。
「君は実に、優秀な副官だ」
障りだと思しきものが、半球状の結界に早速弾かれていた。薄っぺらい四文字が地面で、炙られたあたりめのようにくねる。
「ふむ、お、の、ろ、け……か。障りも嫉妬するのだね、可愛いでないか、ふぬ、ぬぬぬ!?」
わき腹をつねられて、近松はうめいた。死角を狙われたのではない。身近な者のしわざだった。
「森君、やめたまえ。ふぬう、やめるのだよ」
「糸屑を取り除こうとしたのである」
「親切心でなく怨恨が込められているのだけれども?」
なお、近松に不意打ちができるのはエリスのみだ。士族のわりには呆けているなどとの指摘は遠慮願いたい。
「しかし、『ひらがな』をよこしてくるとは、対話か闘争か、どちらを求めているのかね」
「分かりかねる。少なくとも、こちらに対して好意的ではないことは窺えた」
上司の問いに、部下は至って冷静に答えた。宝玉のような瞳には、障壁を構成する『舞姫』の本文が映る。
「字は当分減らぬか。花吹雪ならば歓迎するけれども」
腕を組んで、近松は活字が落ちる様子をゆったり観察した。
「達者でいておくれ、お嬢さん達」
「さやうか。娘らはまだ少しかかるのですな」
土御門隆彬教授は、雅な扇子を開いては閉じ、閉じては開き、観客席にもたれた。
「障りの外に出て、それから叩くんさ。司令官は念入りに運びたいみたいだよ」
段を下りながら、棚無和舟名誉教授は言った。土御門の座る列まできて足を止めた。
「体育学部のグラウンドは、たいそう立派だ。大会が開けそうだね。海原キャンパス、だろう? 私好みの名前さ!」
「わたしは張りとうなかったですぞ。こないな鬼ヶ島のやうな校舎。仕事やさかい、踏み入れたったがな」
「体育学部を鬼扱いするんじゃないよ、彼らは各スポーツの猛者なんだよ。配備のくじ引きを持ちかけておいて、恨み節かい」
土御門は、つるんとした坊主頭に手を置いた。昔、壱の壇を組んでいた時も、叱られたものだ。
「安達太良嬢の実家は、方位よろしと占いには出とったのや。にやにや坊とせわしない娘が譲ってくれなんだから、運勢わろしなのですぞ」
生粋の華族である土御門は、吉凶にうるさい。和舟はあきれて、背中をかきがてら聞いていた。呪い「旅のやどり」の櫂を縮め、孫の手代わりに行使して、だ。
「かこち言なら、酒場でうんと吐きな。今は障りの対処だよ! 例の二の壇からお知らせ、あっただろう?」
おいどを叩かれた気分や。母君にもされたことないで。土御門は扇をバシン! と広げてみせた。
「回ってきた仕事は、早うに済ませる。わたしは雅そのものですからな」
「ハッハ、おさぼりの達人が、ずいぶん改めたものだよ!」
得物を長く太くして、和舟は胸を張った。鬼に金棒、翁に扇、嫗に櫂。荒事、徒波どんとこい。先駆けはこの貝おほひ・壱の壇におまかせあれ。
「寄物陳呪・禱扇興、巻八・花宴」
あおぎ招いた桜の風が、翁を四人に増やす。赫いネクタイと檜皮の色した千鳥格子の上着を装束に、手を翼として舞う。光源氏が帝に捧げた「春鶯囀」は、呪いによって、障りの文字どもを静かにさせる鶯の声を響かせた。
「宮仕込みの雅楽は魂を洗ってくれるね。私もひと漕ぎ、よいさ!」
後にすっ飛んできた活字の隊列を、嫗がいなしつつ薙ぎ払う。海に流れる藻にからまれることなく進む舟のごとし。
『ふん、どたばた音頭で張り合うのかや、おぶね先生や』
「セイリング・ダンスだよ、ネーミングセンスを磨きな土御門くん。それから」
翁が仕留め損じた「ば」行のひらがなを打ち据えて、嫗は歌うようにのたまった。
「私は、お・ふ・ね。貴船神社のように、澄んだ水に浮かぶ萬葉学者だよ!」
宇治紘子准教授が属する、貝おほひ・弐の壇は、情報収集と雑務を受け持っていた。
「やっと、コツがつかめてきたのですけど……!」
腕章を大切に持って、紘子は初めて正座をくずした。
恥ずかしながら、主任に休憩をいただいた。三分後に再開すると申したが、十分に延ばされた。
「私、信頼されていないのですか?」
主任は仰っていた。「焦らないでください」…………他意は無さそうだった。いつも紘子達を温かく見守っていて、多少失敗しても穏やかに諭してくださる。
「ですけどけど!」
いつまでもご厚意に甘えるな、たーけ者! 六道の呪いをまともに行使できない、日本文学国語学科のドベ!
空満大学に着任して、呪いについて初めて知った。怪異と仏教の信心が深かったため、訓練して行使可能のレベルにまで至った。教員が身につける伝統の腕章を介して起こす六道輪廻の奇跡、寄物陳呪・輪廻腕章。前任の中世文学専門教員が、紘子に適した呪いを示してくれたのだ。
「地獄を突き詰めろ、ですから!」
三悪道之一・地獄道は、炎で焼いて罰する術。紘子が六道の中で唯一、難なく行使できた。深緑色の異様な炎は、紘子の魂にあった。前任にも視えていた、押しこめてきた憤怒。
「てっきり、壱の壇に入るのだと思っていたのですよ!」
攻撃しか能のない私を働かせてもらえる部門は、ここの他にあるわけなかった。意外な顔をされるけど、頭より手が出る方だ。体力と気合いなら、負けない自信があったし。
「向いていませんけど、三年継続しています! 去年の霜月に天上道と畜生道、同じく師走に修羅道が一回で成功していますから!」
今回の業務で、障りの動きをつかむために三善道之三・天上道が役立った。腕章の輪をレンズにして任意の場所や事物を覗ける、天人もどえりゃあびっくりの望遠鏡なのだ。
「お礼を申し上げなければなりませんよね……!」
由来は分かれた二枚貝をひとつに合わせる遊び。紘子と対になる同伴者は、棘を刺してくるも決して切り捨てはせず稽古をつけてくれた。しばしばあちこちを飛び回り、ひょっこり現れてはぱっと姿を消す方…………。
「真淵先生、いらっしゃるのですよね!?」
跳ね返ってくるのは、溌剌とした己が声のみ。さすがは安達太良邸の弓道場だ。紘子の一年後に赴任した同僚であり憧れの教師、安達太良まゆみのご実家で業務をする日が来ようとは。
「真淵先生、真淵先生!」
呪いにふれるにつれて、勘が鋭くなった。真淵丈夫准教授の気配あるいはにおいが、近いはずなのだが。
「お返事してくださってもいいじゃないですか!!」
「お分かりなようですから、何も言う必要はございませんよ。クス、それなりの大人なのですから、はしたなくも大声をあげられては、困りますねえ」
紙を入れる隙がないほどの距離に、片方の貝がいた。
「振り向かれても構いませんよ。人の話は目で聞く主義なのでしょう? ご家庭の賜物、ですか。それでは、三歩下がるとしましょうか。どうぞ」
紘子は真淵と対面した。大柄な体が災いして勢いあまり衝突しそうになるも、相方がスマートによけて未然に防いだ。
「お休みのところ、お邪魔して失礼致しました。集中が途切れたことをなじるつもりは毛頭もございませんよ。僕は、障りの様子が気がかりだったのです」
「もしかして、直接障りの元まで行かれたのですか!?」
「なかなか辛辣なことをお考えなのですねえ……。時進先生さえも思いつかれませんよ。侵攻を始めている文字を分析していたのですが、余計でしたか?」
紘子は常々理解できなかった。怒っているのだったら眉間に皺を寄せて口をへの字に曲げたって、悲しいのだったら面を下げたって、誰も不平を並べない。どうしてこの方は、にこにこしているのだろうか。笑顔の鉄板を無理やりにはめ込んでいるようで落ち着かない。
「場を和ませるためにわざとしているのですが、かえって緊張させてしまいましたか。それはさておき、文字につきましては、単語・文章を作っていますが、現時点ではそれらの意味に沿った効果を発揮してはおりません」
「普通に倒しても大丈夫ということですよね!?」
「はい。しかし、いつ状況が変わるか予測しかねます。文字の発生源を探し当てなければなりませんよ。ここであなたの出番です」
真淵が指したのは、「文学部日本文学国語学科」と刺繍された呪いの具だった。
「餓鬼道で活字をひたすら吸収していただきます。同時に腕章をくぐった字を解析し、障りの位置を割り出すのです。行使してくださりますよねえ……?」
三悪道之二・餓鬼道は、来たるものを飽かず食らう。取り込んだものの情報は、術者の腹は満たさねども頭脳を培うのである。
「やってみます!!」
基礎がなってこそ、最大の成果を生む。これまで真淵に教わった手順を胸の中で復唱する。まずは、瞑想。他の先生方と比べて、威力が不安定になりがちだから、省いてはならない。いらない感情を掃いて、頭は空っぽに。腕章の輪っか部分を前に向ける……真淵が開けてくれた窓の方へ。魂の炎を額に上らせ、のど、肩、腕を通して、指先へ伝える。輪廻腕章に深緑色の火線を反時計回りに巡らせて宣言する!
「寄物陳呪・輪廻腕章、三悪道之二・餓鬼道!!」
指揮する立場にいる者は、本部に根を張り、腰を据えよ。そよ風が吹いても揺らぐべからず。学科主任が代々継いできた訓えであった。
「皆さんの力を信じていても、憂いが消えません」
車輪付きの椅子が、時進を縛りつけて重くする。
「数十年以来の特殊業務です。主任に就いた私でさえ、戸惑っています」
貧血を患っているから、と理由をつけて免れる役目ではないことは、任命されてから重々自分に言い聞かせている。貝おほひが戦っているのだ、しかと目に入れ、状況を整理せよ。
「寄物陳呪・『新日本語文法』、本を【見る】態度」
本と本を介して、やりとりする奇跡。海原キャンパスの運動場・観客席に運ばせた『風が強く吹いている』、安達太良家の道場に持ち込んだ『中島敦全集』、研究棟正面口前に入試課が設置した「大学入学試験要項」に接続した。
「主任として命じます」
公の目的と私の要望を、簡潔に告げる。
「総力を挙げて『スーパーヒロインズ!』を支援し、全員無事に戻ってきてください」
「あいよ!」「了解や」
「了解なのですよ!」「承知致しました」
「了解だよ」「了解した」
六名の教員が、快く、豪快に、真剣に、にこやかに、勇ましく、平静に返したのだった。




