最終話
私は森の中に立っていた。何故?いつの間にか、普通のブーツを履いている。村で最初に貰った靴だ。呆然としていると、足元の雪が溶け始めた。
「わ、わ、何」
とりあえず、走らなくては。理由はわからないが、そうしなくてはならないと強く感じる。ちんたら走っていると、木の影から黒い手が伸びてくる。
「ぎゃ!! 何! ちょっと、やだ」
黒い影を振り払い、前に進む。森の陰から突然シマウマが飛び出して、道を先導してくれる。
「もにかぁーーーーーー乗ってーーーーー」
シマウマの声はジェーニャだ。たてがみを引っ掴み、渾身の力を込めて飛び乗る。本当に、体を鍛えていて良かった。雪が崩れるスピードが早くなる。後ろを振りかえると、何もない闇がそこにあった。
「飛ぶよー!」
跳ぶではない。飛ぶ、だ。シマウマの体から極彩色のオウムの羽が生え、飛び立つ。
「オウムの羽が生えた、シマウマ……!」
「そうだよ〜」
呑気な声とはうらはらに、状況はかなり悪い。
前が見えないほどの雪嵐。叩きつける様な雪が体にべっとりと貼りつき、体温を奪っていく。
「さ、さむ、寒い」
あっと言う間に指がちぎれそうなほど痛くなる。必死にシマウマの首筋にしがみつく。地上から、黒い手がどんどんと伸びてくる。
「こら、あっちに行け!」
手や足でぶんぶんと振りはらったけれど、数が多すぎて、そのうち私達は地面に引きずり降ろされた。転落して、慌てて立ち上がると、シマウマの体は半分闇に引きずり込まれていた。
「ジェーニャ……!」
前足を引っ張り、なんとか引きずり出そうとするが、びくともしない。
「だいじょうぶ、すすんで」
「やだ、無理。またジェーニャが死んじゃう……」
「だいじょうぶだから。村でまってるね」
諦めないで、いちばん大きな星を目指して。そう言って、シマウマは闇に溶けていった。
行かなければいけない。のろのろと立ち上がり、体にまとわりつく雪を叩き落とす。
足元が、お湯をかけた雪みたいに溶け出す。この闇に呑まれたら、きっと私も消えてしまう。必死で走る。星なんてどこにもない。木の根を飛び越え、方角も分からず、かすかに音楽の聞こえる方へ、ただひたすらに走る。
足が重い。手がかじかむ。雪が靴に染み込んで、グショグショだ。どこもかしこも痛い。遠くから、誰かの声が聞こえる。
『お願いします、お願いします。お腹の子を守ってください。帝都にいたら、この子もすぐに死んでしまう』
『しかしな、イリーナよ。その子は魔力が強すぎる。お前の体が持たんよ。子は諦めて、村で穏やかに生きなさい』
『嫌です。そんな事をしたら、あの人も、私も生まれた意味が無くなってしまう。お願いします。あたし、難しい事は何もわからないけど……それだけはダメなんです』
『むう……長く生きているが、そんな事を頼まれたのは初めてじゃ……』
この声は、きっとイリーナだ。結局何があったのか、私にはわからない。でも、きっと彼女はアリョーシャに幸せになって欲しいと、そう思っているはずだ。
私の周りを、小さな火の玉がふよふよと飛ぶ。
『おーい! 雪男! いるか? 俺はセルゲイだ! お前の……従姉妹の子供ってなんて言うんだ? 出てこねえなら、この山の雪、ぜーんぶ溶かしちまうぞ!』
『うわ、吹雪いてきた !セリョージャ、馬鹿な事言うな。精霊様が怒ったらどうすんだ! お前のそのクソガキぶり、誰に似たんだか、本当に……』
『普通に親父だろ。とんでもねえクソガキだったってお袋が言ってたぜ』
他の声も聞こえる。これはきっとヌヌガフ村の人達の、記憶だ。
『やべえ! 親父!! 俺のつくったかまくらに、でかい氷娘がいる! これ、めっちゃすごい事が起きるんじゃねえか!? さっそく村長に報告しなきゃな!!』
これは私が来た時だろう。いろんな声に背中を押された様な気持ちになり、また足が動き出す。
『ほほ、アリョーシャよ。下の村が騒がしい。何やら楽しくやっておるようじゃ』
『そうですか……』
『祭りをしよう。お前と共に居られるのも、もうあと僅か。楽しく過ごしたいものだ』
精霊様だ。そう、そんな事もあったっけ……。
いつの間にか吹雪は止んで、真っ暗な空に、星が瞬いている。一番大きな星を見上げながら、ただひたすらに走る。
風を切り、跳ねるように雪を踏む。
星のきらめきを音にしたようなピアノの音色が聞こえ、それきり音楽は止んだ。私の足音と、荒い息遣いだけの世界になる。
一体、いつまで走ればいいのか。そう思った頃、やっと森を抜け、見覚えのある湖に辿り着いた。氷の真ん中で、誰かが倒れている。アリョーシャだ。抱き抱えると、全く体温がない。死んでいる?ぞっとしたけれど、かすかに呼吸がある。
「アリョーシャ、起きて!寝たら死ぬよ!」
肩を掴み、揺さぶるとうっすらと目が開く。
「モニカ……どうして……」
「どうして、じゃないでしょっ!帝都がとんでもないことになって、アリョーシャがこのままじゃ死ぬって、聞いて、それでっ」
「せっかく家に帰れたのに……僕の事は、もう気にしないで……」
「気にするっつーの!!!!!!!!」
私は全身全霊の力を込めて叫ぶ。これだけ走って、こんなに大きい声が出るとは自分でも驚きだ。
「何なのよ、もう! 私、あんたのために、あっちに行ったり、こっちに行ったり、しまいにはこんな訳のわかんないところにまで来て! めちゃくちゃ走ったの! どんだけ走ったと思ってる!? その前は試合だったんだからね! 何よ、思わせぶりな事言って、セルゲイとこそこそ相談したりして。私は蚊帳の外じゃん! なんでも言ってくれないと、わかんないよ!」
「ご、ごめん……」
私の怒りに圧倒されたのか、アリョーシャは完全に目が覚めたようで、のろのろと起き上がった。
「家に帰れたって、アリョーシャ、あんたが死んでたら意味ないじゃない……」
涙がぼろぼろと溢れる。そう、意味がない。元の世界に戻れたけど、私は何も知らなかった頃の私じゃなくて、ちっとも幸せになれなかった。いつも、ずっと、ここにアリョーシャが居てくれたらと。そう思っていた。
「わ、わ、わたしのこと、そんなに薄情な奴だと思ってるのっ」
「ごめん……」
びいびい泣いていると、強く抱きしめられる。
「ごめんね……」
「それじゃわかんないよ」
「僕、君の好きなアレクセイみたいに格好良くないし、スケートも下手だし……」
「今はその話しなくていいの!」
背中に回した手から、アリョーシャの体温を感じる。ああ、私たち、こんな所にいるけど、生きている。まだ生きているんだ。そう思うと、冷え切った体に再び血が巡りだす。
「君とずっと一緒に暮らせたら、って思ったけど、モニカには帰る所も、家族もいるから。何とかして元の場所に戻してあげようと思って、でも上手く行かなかったら、その時は……ってズルい事を思っていて」
「うん……うん」
「でも、公爵家が僕の事を放っておいてくれるとは思えなくて。いつかは決着をつけなきゃ、って思うと何も言えなくて……とにかく、君をがっかりさせたくなかったんだ」
「な、何にも言われてないから全然わかんなくて、自分だけ知らなくて、恥ずかしい思いしたんだから。それで、なんか、婚約者がいるとか言うし。私、傷ついた」
「ごめん。最初から全部、言うべきだったね……どうしても、モニカの前では強がりたくて」
「何言ってんのよ、アリョーシャ、あんた出だしからカッコ悪かったよ……」
「それもそうだね……」
涙が止まらない。でも、何だか笑えてきた。心なしか、寒さが和らいでいる気がする。泣き笑いしながら空を眺めていると、小さな星が落ちてくるのが見えた。白く光る、星じゃない……犬だ。白い小さなチワワ。精霊様だ。
『モニカ。眠りにつく前に、まだお前の願いを叶えていないのを思い出してな』
そう言うと、精霊様はぼんやりとした光の塊になった。あたたかな光はどんどん強くなり、私たちはそれに飲み込まれていく。
『アリョーシャ、かわいい子……幸せにおなり』
精霊様は、最後にそう言って、完全に消えた。もう会うことが出来ないのだと、感覚で理解する。アリョーシャの涙が頬に落ちてきた。彼も、永久の別れが来た事を理解したのだろう。私の肩に顔を埋めて、声を殺して泣いている。細い、絹糸みたいな銀髪がぐしゃぐしゃになっているので、手ぐしで整えてやる。
「大丈夫よ。私がいるじゃない」
「ありがとう……」
「モニカ、ちゃんと言わせて。僕と……」
アリョーシャが決定的な事を言いかけた瞬間、急に重力を感じ、スタリと地面に着地する。雪も氷もどこにもなく、私たちは豪華な宮殿の中に立っていた。
しかし暑い。猛烈に暑い。と言う事は、帝都は夏に戻ったのだろうか。アリョーシャの肩越しに、感極まった様子のヴァシリーサと目が合ったので、右手でガッツポーズをしておいた。それを見た彼女は隣の騎士に飛びかかり、魔力を使い果たしてフラフラのセルゲイはろくに抵抗できず押し倒された。
「あ……靴。スケート靴に戻ってる。ブレードが痛む……」
とてつもなくロマンチックなシチュエーションだったのに、何だかまた機会を逃してしまった感があって、急に恥ずかしくなり体を離す。
そのまま俯いていると、私の前に、氷で作られたバラが差し出される。今までに、アリョーシャがこんなにキリリとした顔をしていた事があるだろうか?天才的なタイミングで、パパパパーン、と聞き覚えのありすぎるメロディが流れ出し、思わず笑顔になってしまう。
「モニカ、村に帰ったら、僕と結婚してください」
「喜んで」
これにて完結です。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




