1話 異世界転移は突然に
私、中江萌仁香はフィギュアスケート選手。地元じゃまあまあ、そこそこの有名選手。スポーツ推薦で進学できるレベルの選手だけど、全国レベルには程遠く、もちろん強化選手でもない。地元のブロック大会を通過して、東日本選手権を潜り抜け、なんとかギリギリギリギリ全日本ジュニア選手権に出場して、いわゆるショートプログラム落ち、つまりはフリースケーティングに進めず……って感じの選手だ。
熱心なスケートオタクの人たち、通称「スケオタ」さん達がSNSにコメントをくれたり、現地のレポにお情け程度に私も混ぜてくれたり、たまーに、ごくまれにネットニュースに取り上げられたりする。そのぐらいの、平均より運動神経がいい女子高生、それが私。
ちなみに去年は全日本ジュニア選手権にやっとこさ出場したものの、いわゆる「自爆」をしてしまい、なんと悲しみのショートプログラム最下位であった。勝負の世界とは言え、晴れの舞台でこれはキツすぎた。いや、出られないよりは何倍もマシなんだけれど。
今季は気持ちを新たに、再び全日本を目指す。今季で良い成績を出すことができれば、将来的には東京の大学からスポーツ推薦のお声がかかるかもしれない。練習環境は、もしかして地元の方がいいかもしれないけれど、私もお年頃の女子高生。大都会でキラキラ有名私大ライフを送りたいのだ。
そんなミーハーな気持ちを胸に、私が振付師の先生と選んだ曲は、spがエルガーの「愛の挨拶」、フリーがラフマニノフの「ピアノ協奏曲第二番」だ。ちなみにラフマニノフ、通称「ラフ2」にはオリンピックで勝てないジンクスがあるけど、私は気にしない。だって五輪とか目指してないし。それ以前の問題なんだってば。世界では私と同じ歳の女の子たちが、生で見たこともないような高難易度のジャンプをばんばか跳んでいる。文字通り、住んでいる世界が違うのだ。
そこまで考えて、突然思考が切り替わる。
「あれ、私、何をしていたんだっけ」
今の自己紹介みたいな夢、なんだったんだ。物語のヒロインとしては、ちょっと浅ましい感じのモノローグだった。
目線の先には、木の天井がある。分厚い布団の中で、私は何をしていたか思い出す。東日本選手権へ向けて練習をしていた筈だ。
そうだ、今日はものすごく調子が良かった。3回転ジャンプを跳んで、「これは、3回転+3回転のコンビネーションジャンプ、いけるんじゃない!?」と調子に乗り、二つ目のジャンプに挑み、当然のように回転が足りなくて転んだ。その後の記憶がない。
「もしかしなくても、コケて気を失ったのかな。はずかしー……」
地元トップ選手にあるまじき失態である。
リンクに救護室があったのは知っていたけど、今まで入った事はなかった。こんなノルディック風な部屋なんだ。そう思いながら、起き上がり伸びをする。その時、パチパチと音を立てて燃える暖炉が目に入った。
「え、暖炉???」
頭が混乱する。いくら北海道でも、札幌にはそうそう暖炉にはお目にかかれない。そもそも、ここのリンクにそんなものはない筈だ。
「え、マジでここどこ?」
頭を打って、病院に運ばれたのだろうか?それにしちゃほっこりしすぎの部屋だ。こういう個室なのかな?
考えがまとまらなくて呆然としていると、木のドアがガチャリと開いき、これまた癒し系の、サンタクロースを女性にしたような感じのおばさんが入ってきた。どう見ても外国の人だ。女性は私が起きていると思わなかったらしく、ドアノブに手をかけたまま私を凝視している。
「おやまあ!目が覚めたのかい?」
「あ、はい」
ややしばらくの沈黙のあと、おばさんがフレンドリーな感じで話しかけてきたので少し安心する。おばさんはニカっと笑いながら私に歩み寄り、手に持ったタライを渡してきた。湯気が立っている。これで体を拭いてくれるつもりだったのかな。
私は受け取ったタライをベッド横のテーブルに置き、絞ったタオルで顔を拭いた。暖かくて、さっぱりする。体を動かしてみると、ちょっとだるい感じはするけどどこにも怪我はしていないみたいだった。
おばちゃんは椅子に腰掛けて、私の一挙一動を観察しているようだ。
「2週間ぐらいずっと意識がないから、これはもうダメかもね、って話をしてたんだ。びっくりするぐらいピンピンしてるじゃないか。良かった、良かった。『氷娘』かもしれないから、暖かい部屋じゃダメなんじゃないかって言われてたけど、起きると普通の娘っこだね」
ちょっと待って、情報が多すぎる。私はおばちゃんがなおも喋ろうとするのを遮る。
「わ、私2週間も寝ていたんですか?そもそも、ここはどこですか?コーチはどこですか?親は?」
「あんたの親は知らないけど、コーチはあたしだよ。ヌヌガフ村のエカテリーナ・コーチって言ったらあたしのことさね」
あ、この人コーチさんって苗字なんだ。いや、今はそんな漫才をやっている場合ではない。
「ぬぬがふ?村?ここはそういう名前なんですか?私はなぜここにいるんですか?」
いくら北海道でも、そんな地名はない。多分。
「さあ?あんたは、子供たちが作ったかまくらの中で眠ってたんだ。へんな刃物のついた靴と、桃色のドレスを着てさ。『氷娘がいた!』って村じゅう大騒ぎさ」
そう言って、肩をすくめる。その仕草は堂に入っていて、彼女はそういう文化の人なのだと確信させてくれる。
「こおりむすめ?」
「『氷娘』ってのは、このあたりに伝わる伝承さ。雪と氷から産まれた美しい娘で、冬になると雪や氷の上で踊ったり跳ねたりする。外にあるかまくらは、氷娘のすみかとして子供たちが作るんだ。そこに氷娘が住み着くと、村は豊かになると言われている」
そう言って、アレクサンドラさんはカーテンを開け、外を指さした。なるほど、日没間際の町のあちこちに、大人一人が入れそうなほどの大きさのかまくらがたくさん作られている。
明らかに日本ではない風景を見て、私は一つの結論にたどり着く。
そう、これは夢だ。そうに違いない。私は窓から這い上がってくる冷気と、自分で引っ張っている頬の痛みには目をつぶる事にした。夢なら全てに納得がいく。じっと外が暗くなっていく様子を見つめる私の隣に、心配そうな顔のエカテリーナおばさんが映り込む。
「あんた、氷娘じゃないんだろう?普通の人間、だよね。あの刃物のついた靴、ものすごく立派だけど、凍った河とか湖を移動する時のあれだろ。スケート靴」
「そうそう、そうです」
私はパッと振り向いた。この世界?にもスケートがあるんだ。私の夢の世界だから、あって当然なんだけどさ。
「どこかから逃げてきたのかい?人買いから河を滑って逃げてきたのかと思ってたんだよ」
「え?あー……うん?」
そんな設定なんて細かく考えてない。夢なのに、そんな細かいことを突っ込まれても困る。
「逃げてきたというより……迷子?」
私は天井を見上げながら曖昧に答える。
「まあ、そうかい。とりあえず、何か飲み食いできるものを作るよ。あいにく、冬だから新鮮なものはないけどね。体でも拭いて待ってておくれ」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げ、顔を上げるとおばさんはもういなかった。本人のものであろう、ダブダブのワンピースを脱ぎ、これまた布が余っているスリップを脱ぐ。パンツだけは自前のものを履いていた。本当は髪も洗いたいけど仕方がない。全身を拭き、仕上げにゆるく絞ったタオルで頭皮を擦る。暖炉の向こうが台所なのか、壁の向こう側から物音がする。
そうこうしているうちに、どんどん日が暮れてきて、室内が真っ暗になり始める。よくわかんないけど、この部屋に電気はない。ベッドに腰掛け、暖炉の火を見つめながらぼんやりしていると、ドアがノックされた。
「食事の準備ができたよ!こっちに来れるかい?」
その声を聞き、ドアをおそるおそる開いてみると、エプロンを着たアレクサンドラさんがいた。完全にシチューのcmの世界観だ。
「ほ、他に誰かいますか?」
旦那さんとかいたら気まずい。いや、私は2週間も寝ていたらしいから、それからすると今更かもしれないけど。
「旦那は出稼ぎでいないよ。今はあたし一人さ。女の子だし、身嗜みは気になるだろうけど、明日サウナに行くから我慢しとくれ」
テーブルには、ミネストローネのような赤いスープと、漬物と、揚げパンっぽいものと紅茶が出た。食べ物を見た途端、胃がからっぽなのに気付く。
「病み上がりなのに、ありあわせで悪いね。粥を作ると時間がかかるから、スープだけでも食べられそうなら」
「いただきます」
恐る恐る、スープを口に含む。トマトかと思ったが、なんだか知らない味がした。
絶食状態の時に、急に固形物を食べると胃がびっくりすると言うけれど、普通に腹ペコぐらいの感覚で、特に胃が反応することもなかったので、どんどん食べていく。
「元気そうだね。寝ている時はあんなに儚げな感じだったのに」
「ぜんぜんだいじょーぶでふ」
揚げパンを口に突っ込んでいるのでうまく喋ることが出来なかった。スープが熱すぎて、上顎の皮がベロベロになってめくれる感覚がある。
「まあ、詳しい話は明日から始めよう。あんたとはもう半月の付き合いなんだ。気にせずくつろいでいきな」
状況が全く理解できないので、とりあえず頷く。
口に含んだキャベツの和え物は、夢とは思えないほど酸っぱい味がした。