ハプニング続出
生きた心地がしないとは、まさにこの状態を指すのだろう。
案内されたというか勝手にたどり着いた部屋は、寝心地は悪くないだろうけれど明らかに小さなベッドがひとつあった。壁際には質素な木製のテーブルがひとつ、椅子は一脚。椅子が一脚しかない時点で、この部屋は明らかにお一人様専用だった。
お風呂とトイレが部屋にあるのを確認したエミリアが、よしよしと頷く。
「満足だ」
どこが!? と声を上げたかったけれども、お金を払っていない私が文句を言える立場でもない。
明らかに小さなベッドを見ながら、私は考える。どちらか一人は、床か椅子で眠らなければならないだろう。エミリア(公爵令嬢)を床で眠らせる訳にも行かないので、当然のようにその役目は私に回ってくる。後でフロントに行って、毛布を借りられるかどうか確認しよう。
……先程「羨ましいです」と呟いた、あのお兄さんに当たったらどうしよう。喧嘩したとか変な勘違いをされるかもしれない。
エミリアはそこまで深刻に考えていないらしく、どたっとベッドに横たわった。
「おお。思ったよりかは寝心地がよさそうだ」
「そう……」
「なんだ? こないのか?」
エミリアは自分の隣をポンポンと叩く。私は笑った。
行けるはずないじゃないですか!
恋愛らしい恋愛をしたことがない十六歳の女子高生、香川なしろ――すなわち私は、ラブホというものに行ったことはない。外から見たことがあるだけで、その中は知らない。けれど多分、こんな感じなのだろう。ベッドがひとつだけあって、申し訳程度に机がある。きっとそうだ。だって、ラブホにおいて重要なのはベッドであり机ではない。
いやいや落ち着け私。ここは普通の宿だ。たまたま、ベッドがひとつしかない部屋に通されただけ。そう、『それ』目的で来た訳じゃない。断じて違う。まったく違う。
「……ごろごろしていたらそのまま寝てしまいそうだな。ナシロはどうする」
あくびをかみ殺した声で、暢気にエミリア。どうするって……。
「…………お風呂入ってくる」
私がお風呂に入っている間にエミリアが眠ってしまうことを切に願った。そうすれば私は難なくフロントで毛布を受け取って、床で眠ることができる。毛布を貰えなかったとしても、初夏の今ならなんとでもなるだろう。
エミリアは「ふうん」とだけ答えて、無言になった。眠ったのかもしれない。私は自分のトランクからさっさと着替えを取り出して、風呂場へ向かった。
当然だけれど、バスタブも小さかった。私の肩にずっと乗っていた樹海ちゃんが、「きゅきゅっ」と機嫌のよい声を出す。昨日、私と樹海ちゃんは一緒にお風呂に入った。どうも、ドラゴンはお風呂が好きらしい。
私は湯船にお湯をはりながら、ゆっくりと服を脱いだ。できるだけ、ちんたらとやろう。エミリアが眠ることを期待して。
お湯の温度を確認し、シャワーを浴びる。ついでに腰に思いっきりシャワーを当てて、腰痛持ちになりませんようにと祈った。
「樹海ちゃんは普通の湯船に入ったら足がつかなくて大変だろうから、こっちね」
洗面器にお湯を入れ、更に樹海ちゃんを中に入れる。樹海ちゃんはうっとりと目を閉じた。私はその洗面器を、湯船に浮かべる。
「お湯がぬるくなったら言うんだよ」
私は樹海ちゃんの様子を見ながら湯船につかった。狭いとはいえ、湯船があるだけマシだ。顎のあたりまでどっぷりとお湯につかり、
「……はあーあ」
どういう意味がこもっているのか自分でも分からない溜息をついた時、
「ナシロ。湯加減はどうだ?」
すりガラスの向こうに、人影が見えた。
ひぃっ、エミリア!
私は早口かつ半分ひっくり返った声で答えた。
「い、いいです! 湯加減でしたら、とてもいいです!」
「そうか、それはよかった。ならばあたしも入ろう」
「え」
私の「え」と同時に、扉が勝手に開かれた。
そこには当然のように、何も身につけていないエミリアがいた。身体の一部を隠そうともしていない。ナイスなバディをそのまま披露していらっしゃる。
私の悲鳴が、浴室に響き渡った。エミリアは目を見開く。
「なんだ。何かあったか」
「なんで! なんで入ってくるの!」
「二人で入った方が楽しいだろう」
エミリアは私の悲鳴を聞いても引こうとせず、そのままシャワーの栓をひねる。私は目のやり場に困って、明後日の方向を見た。一瞬でも見てしまったエミリアの裸体が、頭から離れない。なんだあの胸。食べたもの全部、胸に詰まってるんじゃないか。そのくせ肩幅は狭いし、腰はくびれてるし、脚は細いし長いし。反則だ、あんなの。
私は今まで、友達と一緒にお風呂に入ったことすらなかった。知り合いとお風呂に入った唯一の経験は、修学旅行の大浴場だ。そう、大浴場だとか温泉ならまだいい。
しかし、ここは狭い浴室だ。一人用の。どう見ても、女二人で入れる広さではない。
「……ナシロ。お前、のぼせているんじゃないか? 顔が真っ赤だ」
同性なのだから、恥ずかしがる必要はないのかもしれない。しかし私は、他者の裸に対する耐性がほぼゼロなのだ。一人っ子だから、きょうだいとお風呂に入った経験もない。プールの時だって、女子はみんな自分の身体を隠すようにして着替える。てるてる坊主みたいな格好になる、プール専用のタオルを身体に巻き付けて着替えるのに。
なのにどうしていま、私はこのような状態に陥ってしまっているのだろう。
「それにしても」
挙動不審になっている私を気遣うこともなく、エミリアはまじまじと私の髪を見た。
「本当に綺麗な黒髪だな。ゴキブリのような美しさだ」
「はあ!?」
嬉しくない比喩表現に、思わず素で反応してしまった。だって、ゴキブリのようだって言われた。ゴキブリのようって。黒くてつやつや、という意味で褒めているのだろうか。それにしてももう少し、マシな表現はなかったのだろうか。
エミリアは、私の叫び声の意味を勘違いしたらしい。真面目な声色で付け加えた。
「本当にそう思っている」
嬉しくない。微塵も嬉しくない。私は眉根を寄せて、けれども相変わらず明後日の方向を見たまま声を出した。
「もっと他に、いい喩えはなかったの」
「これ以上の褒め言葉があるか?」
「……ゴキブリは褒め言葉なの?」
「黒色で、あれほどまでに美しい生物がいるか?」
せめて黒猫と言ってほしかった。そんな私の思いを置いてきぼりにして、エミリアは熱弁する。
「あの、完全なる曲線。完成された楕円形には邪魔なものなどひとつもない。不要なものをすべて取り払ったかのような、薄いボディ。美しい弧を描く、長い触覚。しかしそれは長すぎるわけでもなく、計算されたかのような見事なバランスを誇っている。そして、儚さすら感じられる細い脚。何よりも艶やかな黒には、一種のエロスすら感じられる。その優雅さを保ちながら、光のような速さで走り抜け、更には飛ぶ。エロスをまとったままで飛ぶのだぞ。おまけに、その生命力だ。ナシロは知っているか、ゴキブリの心臓の数は」
「ごめんもういい」
エミリアの説明があまりにも生々しすぎて、私の脳裏には奴の姿がばっちりと浮かび上がっていた。この世界と私の知っている世界では、やっぱり価値観が違うらしい。
エミリアがゴキブリの話をしている間に樹海ちゃんが鳴きだしたので、私は熱めのお湯を洗面器に足してあげた。樹海ちゃんは再度、うっとりと目を細める。
……とりあえず早く出よう。身体も髪も、もう洗ってある。樹海ちゃんは多分もう少しお風呂に入りたいだろうから、後はエミリアに任せよう。
そう思っていたら、鼻歌が聞こえてきた。
「……るる……ら、らら」
鈴のような、あるいは繊細なガラス細工のような、澄んだ声だった。エミリア、ご機嫌だな。歌う時はこういう声を出すのか。聞いたことのない旋律だったので、私は訊ねた。
「エミリア。それなんの曲?」
「知らん。ジュカイに訊け」
「え?」
洗面器を見ると、うっとりと目を細めた樹海ちゃんが口をパクパクさせていた。
「るるる、ら……ららー……らん、らららー」
えええええええ、ドラゴンが歌ってるうううううううう!!
「エミリア、エミリア、樹海ちゃんが歌ってる!」
「ドラゴンは歌が好きだからな。機嫌がいい時によく歌う」
そうなの!?
ファンタジー小説で、ドラゴンはよく歌うのだろうか。あいにく、ファンタジックな小説にもゲームにも疎い私は、ドラゴン事情をよく知らない。
お風呂に入ってご機嫌の樹海ちゃんは、時折翼をぱたぱたとさせながら歌い続ける。歌詞は、「る」か「ら」か「ん」でしか構成されていない。
エミリアが身体を洗い始めても、樹海ちゃんの歌声は止まらなかった。むしろどんどん声が大きくなり、伸びもよくなる。
「るるー、らんららー、ららー、るんるん、……らんらんるぅ」
なんか今、日本語と言っていいのか分からないけれど日本人なら伝わる単語が混ざらなかっただろうか。猛烈に、てりやきバーガーとポテトが食べたくなった。あとアップルパイ。
樹海ちゃんはそこで満足したのか、細めていた目をぱちりと開いた。歌うのをやめ、ふるふると身体を振り、とてとてと洗面器の中を移動する。そして、私の方を見上げた。
「……そろそろ出ようか、樹海ちゃん」
樹海ちゃんは頷く。しかし、エミリアは「え!?」と声を出した。
「あたしがまだ入っている!」
「うん、どうぞゆっくりして」
「置いていくつもりか! 話し相手がいなくなってしまう!」
……この人もしかして、一人でお風呂に入れないの?
しかし、脱衣所まで同行されるのはごめんだ。ここぞとばかりに、私はとっておきの切り札を使う。
「私、今から水色のぱんつ穿くけど。見たい?」
「うっ」
エミリアは一気に上気した顔を、力なく横に振った。
「いや……いい。湯冷めしないようにしろ」
裸よりもぱんつの方が恥ずかしいとは、どういう了見なのだろうか。
私は樹海ちゃんを肩に乗せて風呂場から出た。バスタオルを使って、まずは樹海ちゃんを拭く。それから自分の身体を拭いて衣類に手を伸ばしたとき、自分の衣類の隣にエミリアのそれが置かれてあることに気付いた。
綺麗に折りたたまれた服。恐らく下着は、その下にあるのだろう。
「…………」
黒色? ラクダ色? あずき色? アゲハチョウ?
私は自分の脳味噌が、中一の男子とほぼ同レベルになっていることに失望しながら、自分の服を手繰り寄せた。もちろん、エミリアのそれは見ないことにして。
お風呂からあがり髪を乾かしていると、ふくれっ面をしたエミリアが出てきた。よほど一緒にお風呂に入りたかったのだろう。椅子に座っている私の隣を通り過ぎたエミリアから、ふわりとシャンプーの香りがした。
「最後まで一緒でもよかっただろう……」
エミリアはぶちぶち言いながら、ベッドに腰掛ける。けれど次の瞬間、ふわあとあくびをした。
「眠い。もう寝るぞ」
「え? あ、うん」
――嫌な沈黙。嫌な予感。
「ナシロ、寝るぞ」
「うん」
「だから早く来い」
ベッドの左端に身体を横たえたエミリアが、空いている右側をぽんぽんと叩く。私の嫌な予感は見事に的中し、変な汗をかいた。こんなことなら日本にいた頃、友達の家に泊まったりしておくんだった。そういうことを一切したことがない私は、誰かと布団を共有したこともない。
「いやー。……私、床で寝る」
「日本では床の上で寝るのか?」
「ううん」
――しまった、そうだよって言っておけばよかった。案の定、エミリアは不思議そうな顔をする。
「ならばベッドで眠るべきだろう。風邪を引かせるわけにもいかん。早く来い。あたしは眠い」
……ここはもう腹をくくるべきだ。第一、私は女子である。男子だったら大問題だけど、女子なら大丈夫だろう。お友達の家に遊びに行って、お友達の布団で寝たとか、その程度で考えておけばいい。そう、恥ずかしがる必要などないのだ。私は女だ。私は女。
テーブルの上で身体を丸め、眠り始めた樹海ちゃんを置いて、私はそっとベッドに向かった。あいているスペースにいそいそと潜り込む。……予想はしていたけれども
「狭い……」
思わず文句を言うと、エミリアがこちらを見た。
「もっとこっちに寄ったらどうだ」
「いやいい、ここでいい」
「ベッドから落ちるぞ、ほら」
エミリアが自分の身体を若干を左に寄せてくれたので、私はお言葉に甘えることにした。私が少し左によると、今度はエミリアが呟いた。
「……狭いな」
「だから私、床で寝るって言って、」
「いや、お互い距離を置こうとしているから狭いのだ」
うん?
「そうだな、ナシロ。ちょっとあたしに背を向けろ」
言われるがまま、エミリアに背を向ける。というか、もうそのままベッドから降りようとした。
そんな私の腹部に、エミリアが華奢な腕を絡ませた。そしてそのまま、私の身体をベッドの中央かつエミリアの身体へと引き寄せる。
「ふげえっ!?」
訳もなく「ふげえ」と言ってしまった。女子力と言うのは、咄嗟の時ほどよく出る。古典で、驚いた時の言葉は「あなや」だと教わったけれども、そんな言葉が思いつくはずもない。女子力ゼロの私の頭は混乱のあまり気絶しそうだった。
だって、背中が妙にあったかい。あとなんか、やわらかい。やわらかい。気絶しそうだから二回思った。
「よし、これで狭さをカバーできただろう」
ドヤ顔ならぬドヤ声でエミリア。「流石に向かい合ったままというのはどうかと思ったからな!」と付け加えられても困る。この体勢もよっぽど変だ。密着しすぎている。女二人、割る前の割り箸状態でベッドにいるなんて。少なくとも私は、まっすぐに身体を伸ばして硬直していた。
「えみ、えみえみエミリア……」
「なんだ。あたしはいい加減に寝るぞ」
その声は既に半分寝かかっていた。いや分かってる。襲われないことは分かってる。ここまで密着しておいて、興奮していないエミリアの声を聞いただけでそれは分かる。彼女はただ純粋に、ベッドを広くしようと試みただけ。むしろ、ここまで混乱している私の方が変態なのかもしれない。
無言の時間が続く。エミリアの腕の力が抜けたら、すぐさま床に移動しようと思っていたけれど、案外とその力は緩まない。
――まるで、助けを求めるみたいに。
「……エミリア。寝た?」
反応はない。眠ったのだろうか。
暗く静かな部屋で、頭は急速に冷えていく。
私と会った時、エミリアは何のためらいもなく私を元の世界に戻すと言った。その決意はきっと今も続いているのだろう。そして恐らく、これからも。
私がエミリアと同じ立場だったら、もっと長生きしたいと思わないだろうか。長生きできるチャンスが目の前にあって、それを手に入れて、なのに彼女は私を救うと言う。私がこのまま日本に戻れば、自分は確実にあと半年で死んでしまうのに。
私は。そんなエミリアを置いて、日本に戻るのだろうか。彼女が死ぬことを知ったうえで。何もせずに日本に戻って、平凡な日常に溶け込んでいくのだろうか。
そうしてそのうち、このぬくもりも忘れてしまうのだろうか。
「――それでいいの?」
エミリアに対してなのか、自分自身に対してなのか。
誰にともなく呟いて、私は目を閉じた。




