第四章 遠乗り
数年の時が流れた。
双馬杏一郎は、十七歳になっている。
藩の御重役、五人いる家老職の一人の娘、琴乃との婚儀が進められていた。
国一番の美姫と言われる琴乃には、いくつもの縁談が持ち込まれていたらしいが、琴乃は「双馬杏一郎さまをお慕いしております」と、頬を染めたらしい。
当の杏一郎はすっかり失念していたが、いつか雨の日に琴乃が神社へ詣でた折り、鼻緒を切ってお付きの者と二人で難儀していたのを、すげてやって以来慕っていたという。
「父上。わたくしは、双馬杏一郎さまと添いとうございます」
「うん、そうか。双馬殿のご子息ならば、家の格も釣り合ってよろしかろう。しかし、すでに琴乃と知り合いであったか」
「いいえ、父上。杏一郎さまは、琴乃のことなど覚えておられぬかも知れませぬ。でも、雨の日に、袴の裾が濡れるのも構わずに、鼻緒をすげ替えてくださった杏一郎さまの御優しさは、本物だと思います。鶴千代さまにも慕われていると聞き及んでおりまする」
「そう言えば、城内で鶴千代君の馬になっていたのを見たな」
「まあ……お馬に?」
「なんでも、馬の背は高いから慣らしておくのだと申して、肩車をして庭を走っておった」
「ほほ、お優しいこと……」
琴乃は楽しげにころころと笑った。
杏一郎が馬になった甲斐あってか、すでに鶴千代は自由に一人で馬に乗れるようになっていた。
鶴千代と鞍を並べ、国境まで遠出をした杏一郎は、近々嫁取りをすることになりました、と主人に告げる腹積もりだった。
眼下には広く御城下が広がっている。
山が迫り平野は少なく決して豊かな国ではないが、季節の移ろいは美しかった。
春は梅、桃、杏、桜と五色に花色を変え、里の野山は今も薄桃色に染まっている。
「美しゅうございますね、鶴千代様。杏一郎はここからの眺めが、藩内で一番綺麗だと思っております」
「うん……鶴も、ここからの眺めは好きじゃ。空が広く見えて、気が晴れ晴れとする」
「鶴千代さま。今日は御報告が有って、遠乗りにお誘いいたしました。実は、殿のお許しを頂戴して、杏一郎は近々妻帯することと相成りました」
「……父上から聞いておる。いつまでも、赤子のように杏一郎の手を取ってはならぬと言われた。武家は妻女を娶り子をなしてこそ一人前と、鶴もわかっておる。……これからは、杏一郎はご妻女のものとなるのじゃな……幼い頃のように、後を追って泣いたりはせぬから、心配いたすな」
聞き分けの良すぎる十歳になる鶴千代の寂しげな視線は、じっと眼下に広がる風景に向けられていた。
温んだ風が前髪を弄る。
こうして二人で眺める事も、これからはそう幾度もあるまいと、鶴千代は頑なに思っていた。




