196 湯けむり旅情
宿の主人は、年配の男だった。
土間で薪を割っていた手を止めて、リン達を見て、軽く眉を上げた。
「ほう。お客は、久しぶりだ」
「泊まれるか」
「泊まれる。空いてる部屋しかない」
主人は、笑ったような顔をした。歯が、いくつか抜けていた。
「四人だ」
「いんや」
主人は、首を振った。
「三人と、一匹と、二つだ」
「**……?**」
「肩のお方が一匹。剣立てのお二人が、二つ」
「分かるのか」
「ここは、湯の宿だ。生き物の気配は、嫌でも感じるさ。剣の方は、目で見える」
リンは、軽く息を吐いた。
「訂正する。三人と、一匹と、二つだ」
「うむ」
主人は、満足げに頷いた。
主人は、奥の部屋に案内してくれた。八畳ほどの板の間に、布団が三組、すでに敷かれていた。窓は格子で、谷の方を向いている。湯気が、窓の格子越しに、ゆらゆらと立ち上るのが見えた。
「湯は、外と内に一つずつ。外の方が、広い。今は、誰も入っとらん。好きに使ってくれ」
「混浴か」
「ここは、そうだ。気にする客なら、内湯の方を、時間で分ければいい」
「分かった」
主人は、部屋を出て行った。
ファーファが、窓に駆け寄った。
「**……主、外、湯気いっぱいニャ**」
「ああ」
「**……ファーファ、入るニャ**」
「俺もだ」
ユミルは、布団の縁に、軽く触れていた。指先が、布の表面を、しばらく撫でている。
「**……布団が、敷かれています**」
「それが、布団だ」
「**……はい**」
ユミルは、頷いた。それ以上は、何も言わなかった。
---
外湯は、岩で囲まれた湯船だった。
宿の裏手に、岩場が広がっていて、その一番低い場所に、湯が溜まっている。湯気が、湯面から絶え間なく立ち上っていた。湯の縁の岩は、湯の成分で、白く塗られたように変色している。
リンは、湯の縁に立った。
身体を流して、湯に足を入れた。熱い。だが、耐えられない熱さではなかった。じわりと、足首から、ふくらはぎへ、膝へと、熱が広がっていく。
腰まで浸かった。
肩まで浸かった。
息が、ひとつ、長く出た。
「**……良いな**」
リンは、岩の縁に、頭を預けた。
湯気が、空に向かって、絶え間なく立ち上っていた。空は、午後の薄い青で、湯気の輪郭がそこに溶けていく。山岳の冷たい空気が、頬の上だけに、わずかに当たる。湯に浸かっている部分は、温かい。そのコントラストが、全身を、ゆっくりと、緩めていく。
ヴァナールの戦の硬さも、ティルスとの面会の重さも、湯の中に、少しずつ溶けていくようだった。
リンは、目を半分閉じた。湯気が、空に消えていくのを、ただ眺めていた。
---
ユミルが、湯気の向こうから、ゆっくりと歩いてきた。
タオルを身体に巻いて、片手で前を押さえている。長い髪が、後ろで、軽く纏められていた。湯気の中で、輪郭だけが見えた。
湯の縁で、足を浸けて、しばらくその場に立っていた。
それから、湯に入った。
肩まで浸かって、ユミルが、息を、ひとつ吐いた。
「**……熱いです**」
「熱いな」
「**……でも、気持ちが、良いです**」
「ああ」
ユミルは、湯気の中で、空を見上げていた。湯気が、湯の表面を撫でながら、ユミルの頬の輪郭の上を、ゆっくりと流れていく。湿った髪の毛先が、湯に触れて、しばらく漂っていた。
「**……これが、温泉ですか**」
「これが、温泉だ」
「**……良いですね**」
ユミルは、湯気を、しばらく見ていた。
それから、リンの方を見た。
「**……リン様**」
「ああ」
「**……ここで、暮らしたいです**」
リンは、ユミルを見た。
ユミルは、まっすぐに、リンを見ていた。湯気の向こうで、目だけが、はっきりしていた。
リンは、しばらく、湯気を見上げた。
「たまに、来るからいいんだよ」
「**……たまに**」
「ああ」
ユミルは、しばらく、その言葉を、口の中で確かめているようだった。
それから、頷いた。
「**……リン様**」
「ああ」
「**……じゃあ、たまに、来ましょう**」
「来よう」
ユミルは、もう一度、頷いた。
それから、わずかに、口の端を緩めた。
リンも、湯気を見上げた。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
---
ファーファが、湯気の向こうから、ばちゃばちゃと音を立てて、入ってきた。
頭から、タオルをすっぽり被っている。タオルの隙間から、耳の先だけが、はみ出している。
「**……ファーファ、来たニャ**」
「お前、それは何だ」
「**……タオル、ニャ**」
「分かってるよ。なんで、被ってるんだ」
「**……毛、濡れたら、重いニャ**」
「ああ、そういうことか」
ファーファは、湯の縁から、そろそろと足を入れた。それから、勢いよく、湯に飛び込んだ。湯面が、波打った。
「**……熱い、ニャ!**」
「だから、ゆっくり入れ」
「**……ファーファ、平気ニャ**」
ファーファは、湯の中で、タオルを膨らませて遊び始めた。タオルの裾を、指で押さえて、空気を中に閉じ込める。それを、湯の中に沈めると、タオルが膨らんで、ぶくぶくと泡を立てた。
「**……ニャ! ぶくぶくニャ!**」
「子供だな、お前」
「**……ニャ?**」
「いや。何でもない」
ユミルが、ファーファを見て、わずかに笑った。湯気の中で、肩が、わずかに上下した。
クラケンが、湯の縁の岩の上に、ちょこんと座っていた。湯には入らずに、湯気だけを、触手の先で撫でている。
ニャルニルは、湯の外、岩場の脇に立てかけられていた。鎚頭が、湯気を浴びて、わずかに濡れている。
リンは、湯気を見上げた。
ヴァナールを出てから、これほど身体が緩むのは、初めてだった。
---
夕食は、宿の主人が、土間の囲炉裏で出してくれた。
川魚を串に刺して、囲炉裏の灰に立てて焼いていた。皮が、徐々にぱりぱりになって、脂が、灰の上にぽたぽたと落ちる。その隣で、キノコが、平たい鉄板の上に並べられて、塩を振られていた。山菜は、湯がいて、味噌で和えた小鉢になっていた。
リンは、串から、川魚を齧り取った。
塩が、効いていた。皮が、ぱりっと音を立てて、中の身が、ほろりと崩れる。川魚特有の、わずかな苦みが、後から来る。
「**……良いな**」
「ヴァナールじゃ、川魚はあんまり食わんかったろ」
主人が、囲炉裏の向こうで、言った。
「ああ。海の方は、よく食ったが」
「ここの川魚は、湯気で育つ。脂が、薄いんだ。代わりに、身が、締まる」
「分かる」
ファーファは、川魚を、骨ごとガブガブ食っていた。串から外して、両手で持って、頭から齧り取っていく。皮も、骨も、平気で噛み砕いていた。
「**……ファーファ、川魚、好きニャ**」
「分かるな、それ」
「**……ジャーキーより、好きかもニャ**」
「お前、それは大事件だぞ」
「**……ニャ?**」
「いや。何でもない」
ユミルは、一品ずつ、丁寧に食べていた。
川魚を、箸で身を解して、ひとくち。咀嚼の間、目を伏せて、味を確かめている。それから、キノコを、ひとくち。山菜を、ひとくち。それぞれの間に、わずかな間を置いて、また川魚に戻る。
「**……川魚は、淡白で、塩が、よく合います**」
ユミルが、口を開いた。
「**……キノコは、土の香りが、強いです。おそらく、湯気で、菌糸が育ちやすいのだと思います**」
「そうか」
「**……山菜は、苦みが、新鮮です。これは、何と呼ぶ植物ですか**」
ユミルが、主人に聞いた。
「ああ、それは、コゴミだ。山の沢で、春に芽吹く。今は、塩漬けにしてあったやつを、戻したがな」
「**……コゴミ。覚えました**」
ユミルは、頷いた。
それから、また、ひとくち、口に運んだ。
リンは、ユミルを見ていた。
一品一品、丁寧に味わうユミルの姿は、これまでも何度か見てきたが、今夜は、特に長く、その時間が続いていた。湯気の宿の、囲炉裏の火明かりの中で、ユミルが、知らない味を、ゆっくりと自分の中に取り込んでいる。
リンは、それを見ていて、嬉しかった。
---
部屋に戻ると、布団が、三組、並んで敷かれていた。
主人が、湯たんぽも、それぞれの布団の足元に入れてくれていた。
リンは、自分の布団に、腰を下ろした。布団の上に、軽く倒れる。背中の下で、布団が、柔らかく沈んだ。
「**……今世で、一番、落ち着くな**」
「**……ニャ?**」
ファーファが、隣の布団から、顔を覗かせた。
「いや。何でもない」
ファーファは、布団に潜り込んだ。クラケンが、ファーファの胸のあたりに、ちょこんと載った。
ファーファは、すぐに眠りに落ちた。
寝息が、規則正しく、聞こえてきた。
ユミルは、自分の布団の前で、しばらく座っていた。
布団の縁に、指を這わせている。布の表面を、指先でなぞって、また持ち上げて、軽く折り目を確かめる。それから、布団の中に、そっと身体を入れた。
肩まで、布団を引き上げた。
しばらく、ユミルは、目を閉じていた。
それから、目を開けた。
「**……リン様**」
「ああ」
「**……布団は、初めてです**」
「ヴァナールの宿は、寝台だったな」
「**……はい。布団を、こうして、敷いて寝るのは、初めてです**」
「どうだ」
ユミルは、しばらく、答えなかった。
それから、布団に鼻先を寄せて、軽く吸い込んだ。
「**……良い、匂いがします**」
「日干しの匂いだろ」
「**……日干し**」
「布団は、晴れた日に、外に干すんだ。そうすると、太陽の匂いが、染み込む」
「**……太陽の、匂い**」
ユミルは、また、布団に鼻先を寄せた。
しばらく、ユミルは、布団の匂いを、嗅いでいた。
リンは、目を閉じた。
ヴァナールを出てから、四日。湯気の宿で、布団に包まれて、ユミルが布団の匂いを嗅いでいる。ファーファが、隣で寝息を立てている。クラケンが、ファーファの胸で、わずかに光っている。ニャルニルが、壁際で、鎚頭の影を伸ばしている。
リンは、深く、息を吐いた。
落ち着く、という言葉が、胸の中で、もう一度形になった。
---
夜中、リンが目を覚ました時、隣の布団から、ユミルの寝息が聞こえた。
ユミルは、布団の中で、丸くなっていた。布団の端を、両手で軽く握ったまま。
リンは、その姿を、しばらく見ていた。
それから、また、目を閉じた。
---
朝、リンが目を覚ますと、ユミルの布団は、すでに空だった。
ファーファは、まだ寝ていた。クラケンが、ファーファの胸の上で、軽く光っている。
リンは、起きて、外に出た。
朝の湯気が、谷を、白く満たしていた。空気が、冷たかった。湯気が、その冷たい空気の中で、より一層、立ち上って見えた。
外湯の方に、人影があった。
ユミルだった。
タオルを身体に巻いて、湯の中で、肩まで浸かっている。湯気の中で、輪郭だけが、ゆらゆらと揺れていた。
リンは、湯の縁から、声をかけた。
「早いな」
「**……はい**」
ユミルは、振り返った。
「**……朝の、湯も、入ってみたかったので**」
「どうだ」
「**……夜とは、違います。空気が、冷たいので、湯気が、よく立ちます**」
「ああ」
「**……身体が、よく、温まります**」
ユミルは、湯気を見上げていた。
「**……名残惜しい、です**」
「ああ」
「**……でも、出ます**」
「分かった」
リンは、湯の縁に座って、ユミルが上がるのを待った。
ユミルは、湯から出て、タオルで肩を拭った。長い髪が、湯気で湿って、首筋に張り付いている。
リンは、その横顔を、しばらく見ていた。
ユミルの目は、湯気の方を、もう一度だけ、見ていた。
---
朝食を済ませて、馬車の準備が整った頃、宿の主人が、土間で見送りに立った。
「ロバ隊は、ここから二日下ったところに、宿場がある。そこから、東に向かえば、砂漠への商隊と合流できる」
「助かる」
「また、来てくれ」
「ああ」
リンは、馬車に乗り込む前に、もう一度、湯気の方を振り返った。
谷の底から、湯気が、絶え間なく立ち上っていた。
ユミルが、隣で、同じ方向を見ていた。
「**……必ず、帰ってきます**」
ユミルが、呟いた。
「ああ」
リンは、頷いた。
ファーファが、馬車の中から、顔を覗かせた。
「**……主、また来るニャ?**」
「来る」
「**……ファーファ、川魚、また食うニャ**」
「食えるさ」
リンは、馬車に乗り込んだ。
馬車が、ゆっくりと、谷を上っていった。
湯気の宿が、後方の谷の底で、湯気の柱になって、しばらく見え続けていた。
【了】




