100 明けて、北へ
朝の光が、丘の上に広がっていた。
俺は岩陰の入口で、軽く伸びをした。
昨日の戦闘の疲れが、肩の奥にまだ残っていた。
矢筒の矢の本数を軽く数えた。
二十二本。
昨日、二本撃った。
岩陰の奥で、ユミルが薄く目を開けた。
ファーファがユミルの胸の上で、丸まったまま片目を開けた。
ニョルニルはユミルの影の中に収まったまま、姿を見せなかった。
「ユミル」
「**……はい**」
「動けるか」
「**……動けます**」
「マジか」
「**……マジ、です**」
「それ、お前、流暢に、なってきたな」
「**……定着、しました**」
「定着、するな」
ユミルが薄く口の端を動かした。
笑いに近い、何か。
昨日の消耗の薄い影が、まだ目の奥に残っていた。
でも、声の温度は戻ってきていた。
「**……朝、ですね**」
「朝、だな」
「**……皆様、起きて、います**」
「外にいる」
「**……はい**」
ユミルが軽く上半身を起こした。
ファーファがユミルの胸から、降りた。
岩陰の影の中で、軽く伸びをした。
「**ファーファ、起きたニャ**」
「お前、ずっと、起きてただろ」
「**寝てたニャ**」
「嘘つけ」
「**ニャ**」
ファーファが軽く首を振った。
それから、ユミルの肩に登った。
いつもの定位置。
猫姿の出力で安定。
俺たちは岩陰の外に出た。
---
外はすっかり朝だった。
エルナが岩の影で、両手剣を軽く拭いていた。
ミラが地図を広げて、シオンと何か相談していた。
ルークが長弓を肩に担いで、見張りの位置に立っていた。
「お、リント、ユミルちゃん」
エルナが両手剣を肩に担ぎ直した。
「動ける?」
「**……動けます**」
「あんた、本当に、強いね」
「**……ありがとう、ございます**」
「いや、嫌味じゃなくて」
「**……はい**」
エルナが軽く笑った。
「あんた、昨日、半日、動けないって、言ってたじゃん」
「**……動けません、でした**」
「でも、機能、剥離、できた」
「**……はい**」
「あれ、半日、動けないより、ヤバくないの」
「**……ヤバい、です**」
「即答かよ」
「**……事実、です**」
エルナが軽く首を振った。
「あんたら、本当、得体が、知れない」
「**……すみません**」
「謝らないで」
「**……はい**」
エルナが両手剣を肩に担ぎ直した。
それから、ふと岩陰の入口の傍に転がっていた戦槌に視線を向けた。
「あれ、戦槌」
「ニョルニル」
「**……了解**」
戦槌は地面に転がっていなかった。
ユミルが岩陰に収納したから、もうない。
でも、今戦槌が低く答えた。
ユミルの影の中から、ぼそっと声が漏れた。
「お、ニョルニル、出てきたニャ?」
「**……了解**」
「お前、了解しか、言わないニャ」
「**……了解**」
「ジャーキー、覚えたニャ?」
「**……了解**」
「**了解、は、はい、ニャ?**」
「**……はい**」
「お、はい、覚えたニャ!」
「**……了解**」
「戻ったニャ」
ファーファがユミルの肩で、軽く首を傾げた。
エルナが軽く笑った。
「ファーファ、お前、教師、向いてるね」
「**当然、ニャ**」
「相手、了解しか、返ってこないけど」
「**返事、ある、嬉しい、ニャ**」
「ハードル、低いね」
「**ニャ**」
エルナが大きく笑った。
ミラが地図の上から顔を上げた。
「リント君」
「ん」
「次、どこ、行く?」
「ユミル、判断」
ユミルが俺の横で軽く頷いた。
「**……判断、必要、です**」
「条件、教えてくれ」
「**……北方、噂、確認、必要**」
「だな」
「**……でも、王都、一度、戻る、選択、あります**」
「戻る?」
「**……塔、長老、報告**」
ユミルがヴェスタ長老のことを、口にした。
昨日の消耗の薄い影が、目の奥で軽く揺れた。
「お前、報告したい?」
「**……必要、です**」
「やりたい?」
「**……」**
ユミルが口を軽く閉じた。
それから、軽く目を伏せた。
「**……やりたい、と、やる、必要、と、別、です**」
「うん」
「**……必要、優先、します**」
ユミルの声が薄かった。
塔の最上位への報告。
書き換え進行中の長老への、再会。
これは、ユミルの合理の判断と感情の温度がぶつかる場面だった。
俺は息を吐いた。
「ユミル」
「**……はい**」
「俺、お前、優先、してほしい」
「**……感情、ですか**」
「お前の、温度」
「**……」**
「合理、二の次で」
「**……はい**」
ユミルが軽く頷いた。
「**……でも**」
「ん」
「**……長老、待っています**」
「だろうな」
「**……ファイアウォールの、不安定な、箇所、捜されています**」
「お前、責任、感じすぎ」
「**……感じます**」
「うん」
ユミルが軽く目を伏せた。
俺はそれ以上、言わなかった。
ユミルの「感じます」は毎回、こちらが何を言っても変わらない。
だから、俺の役割はここで終わる。
「分かった。王都、一度、戻ろう」
「**……はい**」
「北方は、その後」
「**……はい**」
「皆、いいか?」
俺は振り返って、エルナとミラとシオンとルークの方を見た。
エルナが軽く頷いた。
「あたしは、どっちでも」
「ミラ?」
「あたしも」
「シオン?」
「塔への、報告、私も、必要、です」
「ルーク?」
「兄貴に、合わせる」
全員頷いた。
俺はユミルの方を見た。
「決まった。王都、戻る」
「**……ありがとう、ございます**」
「礼、要らない」
「**……はい**」
ユミルが薄く頷いた。
---
朝の片付けを始めた。
岩陰の中の毛布、補給、武器の配置。
野営の痕跡を軽く消した。
たぶん、もうここに戻ることはない。
でも、痕跡を残さないのが俺たちの癖だった。
俺は岩陰の入口で、しばらく立っていた。
——昨日、ここで、ソール、消えた。
俺の頭の中で、その光景が戻ってきた。
青と黒の点滅。
灰色の輪郭。
ブッ、という短い低音。
そして、消えた。
——シャットダウン。
俺は軽く息を吐いた。
ユミルが横に立った。
「リン様」
「ん」
「**……何か、思い出して、いますか**」
「ソール」
「**……はい**」
「あれ、なんだったんだろうな」
「**……敵側の、抹殺、です**」
「分かってる」
「**……でも、考えてしまいますね**」
「ああ」
ユミルが軽く目を伏せた。
「**……私、リン様に、撃たせかけて、しまいました**」
「いいよ」
「**……いいよ、で、許される、ことではありません**」
「俺、撃たなかった」
「**……でも、構えて、しまいました**」
「お前、止めただろ」
「**……止めて、いません**」
「あれ、止めなかったか」
「**……止める前に、敵側が、消しました**」
ユミルの声が薄かった。
昨日、岩陰のユミルが薄く目を伏せて、唇が軽く動いたあの瞬間。
あれは、ユミルの止めの判断だったと俺は思っていた。
でも、ユミルは自分が止めたとは言わなかった。
——間に合わなかった、と、思ってる。
俺の頭の中で、ユミルの温度が整理された。
ユミルは俺に撃たせるか、敵側が抹殺するか、その分岐を見ていた。
どっちが先か、ユミル自身も計算しきれなかった。
そして、敵側が先だった。
結果として、俺は撃たなかった。
でも、ユミルの頭の中で、それは結果論だった。
「ユミル」
「**……はい**」
「結果、撃たなかった」
「**……結果、です**」
「結果論、嫌いだろ?」
「**……今回、嫌いです**」
「即答」
「**……事実、です**」
ユミルが薄く頷いた。
俺は軽く笑った。
それから、ユミルの頭に軽く手を置いた。
ユミルが軽く目を伏せた。
頭を撫でられるのを嫌がる素振りはなかった。
むしろ軽くこちらに、頭の重さを預けた。
「ユミル」
「**……はい**」
「俺、人、殺さなくて、済んだ」
「**……はい**」
「お前のおかげ、じゃないかも、しれない」
「**……はい**」
「でも、お前が、最後まで、判断、しようとしてた」
「**……はい**」
「ありがとう」
「**……はい**」
ユミルが軽く頷いた。
それから、薄く目を開けて俺を見た。
「**……リン様**」
「ん」
「**……ありがとう、ございます**」
「お前が、礼、言うのか」
「**……はい**」
「何に」
「**……人を、殺させずに、済んだ、こと**」
「お前、考えすぎ」
「**……」**
「うん、考えすぎ」
「**……はい**」
ユミルが薄く頷いた。
そして、軽く息を吐いた。
肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。
——刻んだ。
俺は内心で、それをまた記録した。
ユミルが自分から礼を言う、温度。
事務的ではない方の、ありがとう。
朝の光が、丘の上に広がっていた。
夜明け前の岩陰の戦闘の余韻が、薄い霜のように地面に残っていた。
でも、それも太陽が昇るにつれて消えていくはずだった。
---
仲間が片付けを終えた。
エルナが両手剣を肩に担いだ。
ミラが地図を畳んだ。
シオンが杖を軽く握り直した。
ルークが長弓を背に回した。
「リント、行こうか」
「ああ」
「徒歩?」
「ユミル、消耗、まだ、抜けてない」
「分かった」
エルナが軽く頷いた。
ユミルが俺の肩に軽く手を置いた。
歩く速度をユミルに合わせる。
これは昨日からの流れ。
ユミルが回復するまで、いつもの半分の速度で歩く。
「ユミル」
「**……はい**」
「お前、無理、すんなよ」
「**……無理、しません**」
「お前、いつも、無理、するな」
「**……」**
「うん、お前、無理、する」
「**……はい**」
ユミルが薄く頷いた。
俺は軽く笑った。
ファーファがユミルの肩で、軽く目を開けた。
「**主の主、無理、ファーファも、見てるニャ**」
「お前、見守り役、か」
「**当然、ニャ**」
「ニョルニルは」
「**ニョルニル、ファーファの、横で、見てるニャ**」
「あいつ、見てるのか」
「**……了解**」
ユミルの影の中から、低い声が答えた。
「了解、は、はい、だな」
「**……はい**」
「便利な、覚え方だ」
ファーファが得意げに尾を振った。
——ニョルニル、覚え始めてる。
俺の頭の中で、その印象が整理された。
ファーファが了解の意味をはいと、教えた。
ニョルニルがはいを覚えた。
これは、ファーファの教育の成果だった。
ジャーキーから始まった教育が、こうして波及している。
「ファーファ、お前、教師、本当に、向いてるな」
「**当然、ニャ**」
「ジャーキー、また、教えるか」
「**ニョルニル、ジャーキー、まだ、覚えていないニャ**」
「お前、しつこいな」
「**重要、ニャ**」
ファーファが軽く頷いた。
俺たちは丘の上を歩いた。
朝の光が、地面の霜を軽く溶かしていた。
古街道の北分岐の先の遺跡が、後ろに遠ざかっていった。
---
街道の宿場町。
到着したのは昼前。
昨夜、スレイプニルで深夜に出発した宿場と同じ場所。
俺たちは宿に戻った。
馬車も馬も預かってもらっていた。
宿の主人が俺たちを見て、軽く目を丸めた。
「お、お早い、ですね」
「ええ、ぼちぼち」
「ぼちぼち、で、戻ってこられる、距離じゃないですよ」
「色々、ありまして」
主人が軽く笑った。
ユミルが宿に入る手前で、軽く息を吐いた。
「**……到着、しました**」
「お前、よく、歩いた」
「**……ゆっくり、でした**」
「いいんだ、ゆっくりで」
「**……はい**」
ユミルの肩に手を添えていた俺の左手が、軽く力を抜いた。
半日消耗、もう八割抜けていた。
あと一晩寝れば、たぶん戻る。
宿の奥の部屋を二つ、もう一度借りた。
昨夜と同じ部屋割り。
俺、ユミル、ルーク、ファーファ。
エルナ、ミラ、シオン。
ファーファはベッドの足元で、すでに丸まっていた。
ユミルがベッドの上に座った。
それから、軽く横になった。
ファーファがユミルの胸の上に移動して、丸まった。
「**……寝ます**」
「寝ろ」
「**……はい**」
ユミルが薄く目を閉じた。
俺は机の椅子に腰を下ろした。
窓の外の街道の宿場町の昼の光が、軽く差し込んでいた。
——王都まで、徒歩、二日。
俺の頭の中で、これからの予定が整理された。
今日と明日、ここで休む。
明後日の朝に出発。
徒歩で王都に戻る。
スレイプニルは、もう使わない。
消耗のリスクを取らない。
ユミルが薄く寝息を立て始めた。
ファーファがユミルの胸の上で、目を軽く閉じた。
俺は軽く息を吐いた。
部屋の扉が軽くノックされた。
「リント君」
「シオン、入って」
シオンが扉を開けて、入ってきた。
手に軽く何かを持っていた。
湯気の立つカップが二つ。
「お茶です」
「ありがとう」
シオンが机の上にカップを置いた。
それから、もう一つの椅子に腰を下ろした。
「ユミルさん、寝ましたか」
「ああ」
「お疲れ様、です」
「シオンも、お疲れ」
「いえ」
シオンが軽く頷いた。
それから、しばらく無言でお茶を口に運んだ。
「リント君」
「ん」
「ご相談、いいですか」
「いいよ」
シオンがカップを机の上に置いた。
そして、軽く視線を机の木目に落とした。
「塔の、長老への、報告」
「ああ」
「私が、します」
「シオン?」
「ユミルさんは、文書で。私は、口頭で」
——シオン、買って、出たな。
俺の頭の中で、その印象が整理された。
ユミルのヴェスタ長老への報告は、書面だ。
それを塔に届けるのは、シオンの職務。
でも、口頭の補足をシオンが自分で引き受けると言っている。
「シオン、いいのか」
「いえ、これは、私の、仕事です」
「ユミル、長老と、会いたがってる、と、思う」
「ええ、でも」
「でも?」
「会うと、ファイアウォール、もっと、不安定に、なります」
——気付いてる。
俺の頭の中で、警報が軽く鳴った。
シオンが、ヴェスタ長老の書き換えのことを半分察している。
ユミルの「**長老、敏感、です**」と長老の「**何か、感じて、おられる**」を、シオンも観察していた。
ファイアウォールという単語の重さを、シオンが軽く見ていない。
「シオン」
「はい」
「お前、どこまで、知ってる」
「いいえ、何も」
「何も?」
「ええ、何も、知りません。でも、感じます」
「感じる」
「ええ、感じます」
シオンが軽く頷いた。
それから、視線を上げた。
「リント君、私は、塔の、塔士です」
「ああ」
「塔の、長老の、状態に、何か、変化が、ある時は、塔士は、感じます」
「変化」
「ええ、たぶん、最近、長老、変わって、おられます」
シオンが軽く息を吐いた。
「私の、感じる、限り、悪い、変化では、ありません」
「うん」
「むしろ、軽くなって、おられる」
「軽く」
「ええ、何かが、抜けて、楽になって、おられる、ような」
——書き換えの、進行中、だ。
俺の頭の中で、ユミルの書き換えの進捗が整理された。
三割、とユミルは言っていた。
シオンがそれを、塔士の勘で感じている。
でも、シオンはユミルのファイアウォールのことを知らない。
だから、長老が「軽くなって、楽に」なっていると解釈している。
それは半分正解で、半分違う。
正解は——書き換えの結果、長老が本来の自分に近づいている。
違うのは——それが、ユミルの介入だとシオンが知らない。
「シオン」
「はい」
「ご説明、後で、枠、お前、どこまで、貯めてる」
「ええと」
「数えるな」
「失礼しました」
シオンが軽く笑った。
「リント君、私は、急ぎません」
「ああ」
「ユミルさんの、ペースで、教えていただきます」
「分かる」
「でも、長老の、ことは、塔士として、見届けたい」
「見届ける、か」
「ええ」
シオンが軽く頷いた。
俺は息を吐いた。
ユミルが薄く寝息を立てている。
ファーファがユミルの胸の上で軽く動いた。
ニョルニルは、ユミルの影の中でたぶん聞いていた。
「シオン」
「はい」
「お前、塔士、塔士、って、自分で、よく、言うけど」
「ええ」
「最近、もう、それ、外して、いいんじゃないか」
「外す?」
「お前、塔士、っていうより、仲間、になってきてる」
「**……」**
シオンが軽く目を伏せた。
それから、軽く口の端を動かした。
笑いに近い、何か。
「リント君」
「ん」
「ありがとうございます」
「いや」
「でも、塔士、外しません」
「お?」
「私は、塔士で、仲間です」
「両立か」
「ええ、両立、します」
シオンが軽く頷いた。
それから、お茶のカップを口に運んだ。
俺は軽く笑った。
シオンの塔士の芯は、たぶんこれからもぶれない。
そこに、仲間の温度が加わった。
それで、いいらしい。
「シオン」
「はい」
「お茶、美味い」
「ありがとうございます」
「お前、淹れたのか」
「ええ、私が、淹れました」
「上手いな」
「塔の、習慣です」
「塔の、習慣、便利だな」
「ええ、便利です」
シオンが軽く笑った。
部屋の空気が、軽く温かかった。
ユミルの寝息が、ふと深くなった。
---
夕方、宿の食堂。
エルナとミラとルークが、テーブルで夕食を食べていた。
ファーファはテーブルの上で、ジャーキーを並べていた。
ユミルは、まだ部屋で寝ていた。
「ユミルちゃん、寝てる?」
「ああ」
「あんた、起こさなくて、いいの?」
「いい、寝かせとく」
「分かった」
エルナがシチューを口に運んだ。
ルークが横で軽く口を開けた。
「兄貴」
「ん」
「俺、村に、手紙、書いた」
「お、書いたか」
「父さんと、母さんに」
「内容は」
「無事です、しばらく、王都を、離れます、心配、しないで、ください」
「いいな」
「うん」
ルークが軽く頷いた。
「兄貴も、書く?」
「俺?」
「父さんと、母さん、心配、してる、と、思う」
「うーん」
「短くて、いいよ」
ルークが自分の手紙の束から紙を一枚、俺に渡した。
予備らしい。
「お前、用意、いいな」
「兄貴、こういうとこ、忘れる、から」
「お前、いつから、そんな、しっかり、したんだ」
「気持ち男前、になってから」
「お前、それ、自分で、言うのか」
「兄貴が、最初に、言った」
「言った、けど」
「真似、した」
ルークが軽く笑った。
俺は紙を受け取って、机の上に広げた。
父さんと母さん宛て。
内容、何を書くか。
しばらく考えた。
「リント君、何、書くの」
ミラが横から覗き込んだ。
「ん、まだ、決めてない」
「兄貴、決めるの、遅い」
「お前、最近、口が、悪いな」
「正直」
「正直、すぎる」
ルークが笑った。
俺は羽根ペンを手に取った。
それから、紙の上に軽く書き始めた。
「父さん、母さん、お元気ですか。
俺、ぼちぼち、やっています。
仲間、増えました。
ユミル、と、言う、女の子と、暮らしています。
あと、エルナ、ミラ、シオン、ファーファ、と、いう、仲間。
ルーク、王都に、いる時に、合流して、これから、しばらく、旅に、出ます。
心配、しないで、ください。
俺、たぶん、大丈夫です。
時々、帰ります。
リン」
書き終わって、紙を軽く見直した。
「ぼちぼち、便利な、口癖だな」
「兄貴、ぼちぼち、出したな」
「便利」
「便利、で、片付けるな」
ルークが軽く笑った。
ミラが横で頷いた。
「リント君、家族、いいね」
「ミラ、お前は」
「あたし?」
「ああ」
「あたし、家族、いない」
「あ」
「孤児」
「ごめん」
「気にしなくていい」
ミラが軽く笑った。
それから、シチューを口に運んだ。
「あたしの、家族、今、これ」
「これ?」
「うん、これ」
ミラがテーブルを軽く指した。
エルナとルークとファーファが、座っているテーブル。
俺は軽く笑った。
「ミラ、いい、家族、だな」
「うん、いい、家族」
ミラが頷いた。
シオンが横から軽く頷いた。
エルナが軽く笑った。
ルークが軽く頷いた。
ファーファがジャーキーを咥えたまま、尾を振った。
——刻んだ。
俺の頭の中で、また記録した。
これは、誰の温度でもなくテーブル全体の温度だった。
仲間と家族の境界が、軽く混ざっている温度。
俺は紙を軽く畳んだ。
封筒に入れた。
明日の朝、宿の主人に頼んで、王都経由で村に送ってもらうつもりだった。
---
夜、部屋。
ユミルが薄く目を開けた。
「**……リン様**」
「ん」
「**……手紙、書きました?**」
「お、お前、聞いてたのか」
「**……寝ながら、聞いて、いました**」
「お前、寝てたんじゃないのか」
「**……寝てた、と、聞いていた、両立**」
「お前、最近、両立、するな」
「**……」**
ユミルが軽く頷いた。
「**……手紙、私も、書きたい、です**」
「誰に」
「**……アルダー長老、と、森の、皆様**」
「エルフの、長老」
「**……はい**」
「お前、九十年、会ってないって、言ってたな」
「**……はい**」
「マジか」
「**……マジ、です**」
——温度、来た。
俺の頭の中で、ユミルの様子が整理された。
塔のヴェスタ長老への手紙は、朝、お礼と報告とお願いを一通にまとめて、もう書き上げた。
それは事務的な、塔の最上位への報告書だった。
今、ユミルが書きたいのはそっちじゃない。
始まりの場所の森の、エルフ長老。
儀礼を授けた、師。
百年前、九十年ぶり、と本人が口にしていた相手。
そっちへの、私信。
ユミルが軽く上半身を起こした。
ファーファがユミルの胸から降りて、ベッドの足元に移動した。
俺は机の上に、紙と羽根ペンを用意した。
ユミルがベッドから降りて、机の椅子に座った。
それから、しばらく紙を見つめた。
「ユミル」
「**……はい**」
「何、書く?」
「**……ご無沙汰、しています**」
「うん」
「**……元気、ですか**」
「うん」
「**……私、元気、です**」
ユミルの声が、軽かった。
朝の出立準備の時の、塔への手紙の重さがなかった。
お礼と報告とお願いの三点盛り合わせの、責任の温度がなかった。
ただの、近況報告の手紙。
「**……皆様の、お顔、また、いつか、拝見、したい、です**」
「お、いいな」
「**……森の、樹、まだ、立っていますか**」
「樹?」
「**……儀礼の、樹**」
「ああ」
「**……元気、ですか、と、聞きたい、です**」
「樹に、聞くのか」
「**……はい**」
「お前、樹にも、温度、あるのか」
「**……あります**」
ユミルが軽く頷いた。
それから、薄く笑った。
笑いに近い、何か。
——百年、人といなかった、ユミル。
俺の頭の中で、その温度が整理された。
百年、誰にも手紙を書かなかったユミルが、今、夜の宿の机で、ペンを握っている。
宛先は、儀礼を教えてくれたエルフの長老と、森のエルフたち。
九十年ぶりに再会するかもしれない、相手。
これは、塔への報告書では出てこない温度だった。
俺は軽く笑った。
「ユミル」
「**……はい**」
「いいな、その手紙」
「**……書いて、いいですか**」
「いいよ」
「**……ありがとう、ございます**」
ユミルが羽根ペンを手に取った。
それから、軽く紙の上に書き始めた。
筆が、いつもより軽かった。
朝の出立準備の時の、お礼と報告とお願いの三点盛り合わせの重さはなかった。
近況報告の紙、一枚。
それだけ。
俺はユミルの隣で軽く座っていた。
ファーファがベッドの足元で、軽く目を閉じた。
ニョルニルは、ユミルの影の中で聞いていたはず。
ユミルが書き終わって、紙を軽く折った。
「**……できました**」
「読んで、いいか」
「**……読まないで、ください**」
「お、なぜ」
「**……森の、皆様への、私の、温度、です**」
「ああ、分かった」
「**……いつか、お渡し、できれば**」
「いつか、か」
「**……はい**」
ユミルが軽く頷いた。
俺は軽く笑った。
ユミルのいつかが、また増えた。
でも、このいつかは、ご説明、後で枠のいつかとは違っていた。
これは、百年ぶりの再会の、いつか。
ユミルの温度の、いつか。
「ユミル」
「**……はい**」
「お前、いつか、森に、行くのか」
「**……行きたい、です**」
「行こう」
「**……はい**」
「いつか、な」
「**……はい**」
ユミルが軽く頷いた。
そして、軽く息を吐いた。
「ユミル」
「**……はい**」
「お前、寝ろ」
「**……はい**」
「明日、明後日、ゆっくり、回復しろ」
「**……はい**」
「王都、行きは、急がない」
「**……はい**」
ユミルがベッドに戻って、軽く横になった。
ファーファがユミルの胸の上に戻った。
ニョルニルは、影の中でたぶん了解と言っていた。
俺は机の上のユミルの手紙を、軽く見ていた。
封蝋は、まだ押されていなかった。
押すのは、いつかになるのかもしれない。
直接、手渡しの予定だから。
夜の宿場町は静かだった。
窓の外で、虫の音が軽く聞こえた。
王都への徒歩、二日。
塔のヴェスタ長老への、報告。
そして、その後北方の噂。
さらに、いつかの、始まりの場所の森。
ぼんやりと、これからの形が見えていた。
俺は軽く息を吐いた。
そして、机の上の紙を軽く紙挟みに挟んだ。
ユミルの森への手紙と自分の家族への手紙、二通まとめて。
どちらも、すぐには届かない種類の手紙、だった。
部屋の灯りを軽く絞った。
ユミルの寝息が、また深くなった。
ファーファがユミルの胸の上で、軽く尾を振った。
ルークが別のベッドで、軽く鼾をかいていた。
俺は椅子の上で軽く肩を伸ばした。
それから、自分のベッドに横になった。
明日は、ゆっくり休む。
明後日、王都へ。
夜が、軽く進んでいた。
【了】




