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六.いつもの天井

 柚月は(やしき)に戻ってくると、そっと、裏木戸から入った。

 心の重さが足に感染(うつ)っている。

 離れの角を曲がると、待っていたかのように、廊下に鏡子が座っていた。


「おかえりなさい」


 柚月は胸の奥からこみあげてくるものを、ぐっとこらえた。


「すみません。勝手に出かけて」


 鏡子はただ微笑んでいる。


「新しい寝巻、部屋に置いておきましたから」


 優しい声に、柚月はせき止められなくなった。


「鏡子さんっ…」


 去ろうとしていた鏡子の背が振り向いた。

 庭の柚月は、肩を落とし、突っ立っている。

 うつむいているせいもあるが、暗くて顔は見えない。

 だが。


「俺…」


 声が震えている。


「俺、志なんて、そんな立派なもん、何もないんです」


 弱い人が安心して暮らせる国にしたいと言った。

 今も確かにそう思っている。

 心がそう決めている。


 だがそれは、国を思ってのことではない。


 この国を憂えて、どうにかしたいと思ったわけではない。

 そんな、立派なものではない。


 佐久間に会って気づいた。

 そんな立派なものではなくて。

 きっと。


「俺、ただ…、みんなとの暮らしを、守りたかっただけなんだ」


 そう、明倫館の皆との。

 皆、下層階級の者ばかり。

 地位も金も無い。

 でも。


「ただ、楽しかったから」


 あの頃、幸せだった。


 自分がいなくなっても、皆はあの頃と変わらないでいてほしい。

 どこかでそう願っていた。


 だが、現実は違う。

 殺しあっている。


 あの頃の皆はいない。

 あの頃の明倫館は、もう、無い。

 それが、佐久間の話で、柚月の中ではっきりと現実になった。


 鏡子は裸足のまま庭に降り、柚月に駆け寄ると、そっと首に手をまわして自分の肩に抱き寄せた。


「そうですか」


 優しい声。

 記憶にはないが、母のような温かさがある。

 それが()みた。

 柚月は鏡子の肩に額を押し当てたまま、肩を震わせた。


「そうですか」


 鏡子はもう一度そう言い、柚月の頭を優しくなでた。

 その様子を、渡り廊下の先から見ている人物がいる。

 雪原だ。


 鏡子は昼間、雪原の元に使いを送り、手紙の件を知らせていた。

 雪原から返事には、柚月が出かけるようでも止めないように、とあった。


 雪原が別宅に戻ったのは、柚月が出かけたすぐ後だ。

 鏡子は雪原に言われた通り、黙って見送っていた。


 柚月はもう、戻ってこないかもしれない。


 互いにそう思っていたが、雪原も鏡子も、口にはしなかった。

 雪原の方には、戻ってきたら、何か情報を得てくるだろうという算段もあった。

 が、実際戻ってきた柚月の姿を見て、ほっとしたのも事実だ。

 雪原は、二人の様子をしばらく見つめた後、静かに自室に戻っていった。


 翌朝、柚月が目覚めると、障子がほんのり白く明るくなり出していた。

 もうすぐ日の出だろう。

 腫れた目が重い。

 布団に入ったまま、ごろんと仰向けになると、まだ薄暗い中に、天井が見えた。


 いつもの天井だ。


 柚月は迷った末、雪原に佐久間と会ったことを報告した。

 そして最後に、両手をつき、深々と頭を下げた。


「手前勝手なお願いですが、擾瀾隊の皆を、助けてやっていただけないでしょうか」


 さらに、


「お願いします!」


 床に額を押し付けて重ねた。

 が、雪原は答えなかった。


 だが、その日のうちにあばら家に調べに入ったのは、政府が管轄する警備隊ではなく、清名と雪原の護衛隊だった。


 清名は別宅にやってくると、何も得られなかったという報告をして帰っていった。

 おそらくあのあばら家は、柚月と会う為だけに用意した場所だったのだろう。

 雪原は鏡子に茶を頼んだ。


 鏡子が茶の用意をして部屋に行くと、雪原は本を読んでいた。

 茶を置いても、本から目を放さない。


 だが、鏡子が立ち去ろうとすると、「ちょっと」と呼び止める。

 そして鏡子が上げかけた腰を再び下ろすと、その(もも)を枕にしてごろりと横になった。


 ――珍しい。


 鏡子はすこし驚いたが、すぐにピンときた。


「昨夜、ご覧になっていたのですか?」


 柚月を抱きしめたことだ。

 抱きしめたと言っても、頭を抱き寄せただけ。

 柚月も腕をだらりとたらし、鏡子に触れたりしなかった。

 だが雪原は、「ん?」と聞き返したきり答えず、目を閉じてしまっている。


 ()いたのだな。

 鏡子はくすりと笑うと、雪原の髪をなでた。

 ややふてくされた横顔が、愛おしかった。


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