織姫と薔薇水晶
ある友人の誕生日祝い(3週間遅れ)で書きました。
薔薇水晶。喘息や咳、冷え性に効く。少量を化粧水に混ぜると美容効果を高める。以前に書いた薔薇石とは別。
ちなみにローズクオーツは7月7日の誕生石と紹介しているサイトがありました。
奈落と千代さんの女学生の時のお話。
そういえば久しぶりに、純粋に百合っぽいお話です。
私たち女学生というものは、日常の密かな愉しみとして憧れの先輩を決め、なんとかお近付きになれないかと画策したり、互いの好きな先輩の話で盛り上がったりするのが常だったりします。
それはまぁ、私も例外に漏れず憧れの先輩がいるわけでして…でもそれは、周りのお友達がみんな夢中になっている、運動が得意な男勝りの葵の君や、楚々とした出で立ちがお美しい月篠の君、お料理やお裁縫が驚く程お上手でいつも手作りのお菓子を振舞って下さる撫子の君ではなく…(いえ、その先輩方も大変に素敵な方々であるのは否定しませんけれども)
いつも学校の図書室の片隅で、静かに読書をなさっておられる、極楽院 奈落先輩。後に月長石の君と呼ばれるこの方が、私のいち推しの先輩であったりします。
これを話すと、お友達からちょっと変わった目で見られるのですが…実は、今人気急上昇中の先輩なのです。私と…ちょっとした、別件の噂のせいで。
「あ」
少し間の抜けた、奈落先輩の声。
私のついた羽は先輩のすぐ横に飛んだというのに、先輩は全く見当違いのところで羽子板を振り回し、その羽がこちらに戻ってくることはありませんでした。
「うふふ、また私の勝ちですね。奈落先輩?」
「いやぁ…お恥ずかしいですね。どうも運動は苦手なものでして。千代さんには羽子板で負けっぱなしです」
そう言って、既に墨でバツ印を書かれた頬に手を当てた先輩は、その感触で「しまった」という顔をしました。時既に遅く、先輩の手も顔も墨で汚れ、真っ黒になってしまっています。失礼なのはわかっているのですが、その姿はどうにも吹き出さずにはいられません。
「ふふふ、負けたのですからもうひとつ増やしますね。今度はどこに書きましょうか?」
「…負けたのですから、どこに書いても文句を言いませんよ。お好きなところにどうぞ」
そういって、奈落先輩は諦めたように笑うと、目を瞑って観念した顔になり、墨を塗りやすいようにわざわざしゃがんで下さいました。
実は私、奈落先輩のこの時の無防備な姿が大好きなのです。
羽子板に負けたと言うだけで、一介の下級生に墨を塗らせてしまう先輩なんているでしょうか?私はあまり知りません。影で人気が出始めている奈落先輩も、私以外の下級生からすればこんな無防備な姿を晒す人だなんて誰も知らないでしょう。
こんな先輩の姿を、私だけが知っている。それは、凄い特権のように思います。
筆に墨を付けて、さてどこに書こうか…と思い悩みました。両方の頬はもう埋まっています。鼻、顎、瞼…そのあたりはちょっと書きづらいので、ここはやはり額でしょうか。
「では、ちょっと失礼しますね?」
そう言って、先輩の顔に近付き、前髪を持ち上げて額を露わにしました。その白い肌に筆をつける瞬間は、いつも少しドキドキします。
べちょ、と筆の先を額に押し当て、バツをまたひとつ増やしました。筆が離れると、先輩は目を開けてまた苦笑いをしました。
顔中に墨を塗られているのに、そんな憂いを帯びた目で上目遣いに微笑まれると、またドキドキしてしまいます。
「…よろしいですか?」
先輩に声をかけられて、はっと我に帰りました。
「あっ、すみません…。もう、書くところがありませんね。顔を洗いに行きましょう。私、手拭いを持ってきますね?」
そう言って、そそくさと先輩から離れました。
本当に、時々奈落先輩は、こちらがどきりとするような憂いのある表情をされるのです。私なんかに墨を塗られていても…いえ、そうやって好き勝手にされている時ほど、なんだかこちらが胸の締め付けられるようなお顔をなさるので…私はなんだか、変な気分になってしまいます。
この気持ちの正体を、浅学な私は知り得る事が出来ません。下級生として先輩を慕う気持ちとも、また違うようには思うのですが…これが、エスの関係を結ぶ皆様のようなお気持ちなんでしょうか。
こんな風に遊ぶようになったのは、図書室で本を読まれている奈落先輩に声をかけられた…?のがきっかけでした。
おそらくご本人は既に忘れているでしょう。私が図書室で目にした和歌集の一編を何気なく声に出して読んでいた時でした。
「陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆへに…?」
それは、描かれている挿絵の山に目が行って、本当にただ何気無く声に出しただけだったのです。
ところが、その図書室の奥から、私の声に被さるようにその声が聞こえてきたのです。
「みだれそめにし 我ならなくに」
聞こえてきた声に驚いて、また、無意識で声に出して読んでいた事が恥ずかしくてその声のした方に目をやると、全く本から目を離す気配の無い奈落先輩が椅子に座っていました。
私がぽかんと口を開けて奈落先輩の方を見ていると、遅れてその視線に気付いた先輩が不思議そうな顔でこちらを見ていました。
「あの…何か?」
その、いかにも「今あなたの存在に気付きました」と言った表情に、恐らくこちらも不思議な顔をしていた事でしょう。
「今の和歌…諳んじてらっしゃるんですか?」
私の言葉で、奈落先輩はようやく気付いたようです。急に慌てた表情になって、手にしていた本を咄嗟に閉じてしまわれました。
「あっ…すみません…もしかして、私何か呟いていたのでしょうか?」
「はい。陸奥の しのぶもぢずり という和歌の続きを…」
すると、奈落先輩は顔を真っ赤にして、顔を手で覆ってしまわれました。
「ああ…すみません。耳に覚えのある和歌などは、聞きかじると無意識に諳んじてしまうようで…。今、諳んじた事にすら気付いてませんでした…お恥ずかしい」
そんな一風変わった奈落先輩が、私の同級生や下級生達から徐々に人気が出始めて後に月長石の君と呼ばれるようになるのは、奇しくもこの出会いで奈落先輩に一目惚れした私がしつこく外遊びに連れ出すようになり、先輩が人目につくようになったからだというのは皮肉な話というものです。
奈落先輩はすっかり顔の墨を落とすと、また元のお綺麗な白いお肌に戻っていました。
時々こうやって一緒にお外で遊ぶこともありますので、日に当たってないわけではないと思うのですが…奈落先輩は随分肌がお白いように思います。恥ずかしながら、同じ女性なのだろうかと思うほどに。黒く艶やかな長い髪と相まって、時々本当に女学生でらっしゃるのかわからなくなるような…なんというんでしょうか、ぞくりとしたものを感じるのです。
「あら…もう、こんな時間なのですね。先輩はいつももう帰ってらっしゃる時間ですが、大丈夫ですか…?」
校舎に掲げられた時計を見ると、もうすっかりいつもの下校時間を過ぎてしまっていました。慌てて奈落先輩に声をかけると…先輩は、酷く哀しそうな顔で時計を見上げていたので、私はまた胸を締め付けられました。
「…構いませんよ。もう、時間は過ぎてしまいましたから、間に合わないでしょう」
先輩の呟きの意味が、私にはよくわかりませんでした。きき返そうとしたその時、すっかりさっきの哀しそうな顔を隠してしまった先輩が、微笑んでこちらの方を向きなおりました。
「千代さん、折角ですから一緒に帰りましょう。確か途中まで道が同じでしたよね?」
「…はい!」
敬愛する先輩からの有り難い申し出を、断る手はありません。先程のあの表情はきっと気のせいです。私は何も気づかなかった事にしました。
校庭の隅に置いた鞄を手にして学校を後にし、私たちは帰路につきはじめました。
たまに、まだ片付けられていない七夕飾りがあります。華やかな風物詩の残渣は、梅雨の名残であろう湿度の高い風に吹かれて短冊を揺らしていました。
「…もう、七夕も終わってしまいましたね。今年は、織姫と彦星は無事に逢えたのでしょうか…空は少し曇っていたようですが」
そんな私の呟きに、奈落先輩は微笑んで返してくれました。
「例え曇っていても、織姫と彦星のいる天の川は雲よりも更に遠い、高い高い天の上ですから、私たちから見えないだけできっと会う事が出来ていますよ」
先輩の優しい言葉に、思わず笑みが溢れました。
「年に一度の逢瀬…素敵ですよね」
「好き合っていても、一年の殆どを会う事が出来ないのに?」
「それでもです。だって、好き合った相手と会えるんですよ?年に一度だとしても、ずっと、未来永劫。…そんな、好き合った相手と添い遂げられるなんて素敵じゃないですか」
「…そうですね」
憧れの自由恋愛。でも私たちは、大体が自分で相手を決める事は出来ません。誰にもお話はしていませんでしたが、実は私にも縁談の話が持ち上がりつつありました。お相手がどのような方なのか、私は知りません。その方を愛しいと思えるのかどうかもわかりません。周りのみんなは「夫婦として暮らすようになれば、自然とそう思うようになる」と言うのですが、そのようなものなのでしょうか。
それでも私はこのまま、恋愛とやらを知らないまま、親の決めた相手に嫁いで行くのでしょう。
「…七夕は、気が重くなるんです」
ポツリと、奈落先輩がそう呟きました。先輩の方を見ると、彼女は笹飾りを目で追っているようで何も見ていないような、不思議な目をしていました。
「…弟が居たんですが、去年他界しまして…その弟の誕生日が、七夕の7月7日だったんですよ」
「えっ…」
「初めは受け入れられませんでしたが…だんだんと、弟が居ない事に慣れてきている自分も居て。去年の七夕は本当に悲壮だったんですが…今年は、もう弟が居ないことを自分が受け入れている事に気付いて…酷い姉だなと…」
「そんなことはないですよ」
思わず口を突いて出てきた私の言葉に、奈落先輩は少し驚いた顔をして私の方を向いたので、逆に私が驚いてしまいました。
「あっ…いえ…。奈落先輩のお辛い気持ちは…同じ経験をしたことが無いので、私には迂闊なことは言えないと思います。でも…いつまでもご家族が悲しまれるのは、弟さんも本意ではないでしょう。それよりも、そうやって七夕のたびに、綺麗な星空を眺めながら心静かに思い出してもらえる方が、弟さんも嬉し…い…」
驚いた衝撃で、ついまとまらない考えをまくし立ててしまいましたが、奈落先輩にじっと見つめられて次の言葉が出なくなってしまいました。私を見つめるその目が近くて、私は初めて奈落先輩の瞳が少し茶色がかっている事に気付きました。いえ、茶色がかっているのではなく、瞳の一部だけが少しだけ色の薄い不思議な瞳です。この距離でよく見なければわからない程度なので、普段は全く気付きませんでした。
よく考えると、至近距離でこんなに先輩に見つめられるのは初めての事で…そういう話題ではなかったのに、不謹慎にも胸が高鳴ってしまいます。
もし、自由恋愛をする事があるのなら。これが、ときめきというものなのでしょうか?
「…ありがとうございます。千代さんは優しい方ですね」
そう言って奈落先輩は微笑み、私の頭をポンポンと撫でて下さいました。
ああ、卑怯です。なぜいつもそのような、少し憂うような笑い方をするのでしょうか。なぜそうやって、こちらの心を惑わせるような行動をなさるのでしょうか。
きっと、貴女が女性でなければ、恋に落ちていたことでしょう。
「…変な話をしてしまいましたね、すみません。話を変えましょう。先日は誕生日の贈り物をありがとうございました。紫陽花の模様が入ったとても可愛らしい足袋でしたが、高かったのでは無いですか?」
「いえ…あれは、親戚にとても裁縫が上手な叔母様がいて…その方に習いながら…」
「えっ!?千代さんが作ったんですか!?」
「…と、言いたいところなんですが…私!お裁縫はからっきしダメで!…お恥ずかしながら、実は殆ど全部叔母様に作っていただきました…」
私の恥ずかしい告白を聞いて、奈落先輩は一瞬ぽかんとしたものの、次の瞬間声を出して笑っていました。
奈落先輩がこのように笑う姿は珍しく、かえって私の方が呆気にとられてしまいました。それを、私が気を悪くしたと思ったのか、先輩は慌てて表情を正していました。
「すみません、悪気があったわけでは。…いや、とても千代さんらしいなと思いまして。それでも、作ろうとはしてくださったんですね…ありがとうございます。とても器用な叔母様ですね、とても作りがしっかりしていて、履きやすかったです」
「いえ、私も不器用なのは自覚しておりますので、そのぐらいでは気を悪くしたりはしないですよ。お気に召していただけたならよかったです」
奈落先輩からお褒めの言葉をいただけただけで、恥を忍んで叔母に頼んだ甲斐があったと思いました。
実は、お揃いの足袋を私も作っていただいたことは、秘密なのですけれども。
「…お礼をしなければいけないなと思っていたんですよ。貰いっぱなしというのはよくありませんから」
「そんな!お気になさらないで下さい!私が勝手に差し上げたくてやったことですから!」
「そういうわけにもいきません。よろしければ千代さんのお誕生日を教えていただけませんか?その時に何か準備させていただきますので」
…ああ、神様。なんということでしょう。
私は今から、奈落先輩に恥をかかせなければならなくなってしまいました。
「…日です…」
「はい?」
「ですから…あの…6月22日です…」
奈落先輩が、固まってしまいました。
まあ、ですよね…
「過ぎて…ますね…」
「はい…すみません…」
「もう…3週間近く…ああ、そうでしたか…申し訳ありません、私も頂いた時にすぐ聞いていれば…」
「そんな…とんでもないです…」
「いえ…ああ…そうですか…すみません、私はいつもこうで…どうにもタイミングが悪い…」
奈落先輩の途方に暮れたお顔に、ただただ恐縮してしまいます。
本当に、私がやりたくてやったことなので…まあ、少しは私の事も気に留めて頂けたら嬉しいなとは思いましたが、まさかこんな時間差で来るとは思わなかったので…。こんな時、一体どうすればいいのでしょうか…。
奈落先輩は、少し困ったように考え込んでいましたが、突然座り込んで背負っていた鞄を下ろして座り込むと、中を開けてなにかを探し始めました。
一体何を…と思って少しそちらに目を向けましたが、何やら一瞬見てはいけないような書籍が少し覗いたような気がして、慌てて目を背けてしまいました。な、なんでしょう…「大陸の残酷史」とか「西洋の厠事情」など、物騒な単語が並んでいた気がしたのですが…
「ああ、ありました」
奈落先輩の言葉にびくりとして背けた目を戻すと、先輩は既に鞄を閉めて背中に背負い直していたのでホッとしました。
いえ!決して先輩がおかしな書籍を読んでいることが悪いというわけではなく!先輩が何を読まれていても別に私は意外に思ったりはしませんし!ただ、女性の鞄の中を覗くのはあまりよろしくないことかなと思っただけでして!ええ!ええ!!
「…どうしました?」
「なっ、なんでもないです…それは?」
気持ちを鎮めながら、奈落先輩が手にしていた小さな巾着袋を見て問いかけました。恐らく、今鞄の中から出したものなのでしょう。少し、重量感がありそうな感じがします。
「ええと…私の祖父は鉱石薬店を営んでおりまして…。これは、亡くなった弟が常備薬にしていたものなんですが…」
そういうと、先輩は巾着の中から何かを取り出しました。それは、透明な桃色の石のかけらでした。
「まあ…綺麗ですね…」
「これは、薬に加工する前の原石です。弟は持病があってよく咳をしていたので、この石の薬をよく服用していました。薔薇水晶といいます」
「薔薇水晶…素敵な名前…」
先輩は、その桃色の石を私の手に乗せると、そっと私の手を包んで薔薇水晶を握らせました。
「差し上げます」
「えっ!?これ、大事なものではないのですか!?」
「ええと…弟の写真を持ち歩くのも辛くて、それでも何か弟を忘れないものを…と思って持ち歩いていたものなんですが…祖父のところに行けば、またくすねることができるので構いません。今はこんなものしか持っていなくて…」
「いやいやいや!それって凄く大事なものですよね!?」
「いえ、ですから大丈夫です。そうだ、こちらの加工済みの粉の方も良ければ…あっ、では巾着ごと差し上げます。この粉は慢性的な喘息や咳を止める薬なんですが、少量を化粧水に混ぜて肌に塗ると美肌効果があるそうです。宜しければ試してみてください」
「はあ…あ、ありがとうございます…」
唖然として、奈落先輩が差し出した巾着と薬包紙も受け取りました。あまりに唐突に、由来としてはとても悩ましいものを受け取ってしまい、途方に暮れてしまいます。
だけど、奈落先輩が笑顔で、今度は全く憂いのない心からの笑顔で笑いかけてくださったので、まあ、いいかと思いました。それに、美肌…と言われては、乙女心が黙っておりません。
この薔薇水晶の化粧水を使っていれば、いつか奈落先輩のような白いお肌になれるのかも…そう思うと、燃えてくるものがあります。早速今晩から使う事を決心致しました。
石と薬包紙を巾着に入れなおし、袂にしまい込むと、奈落先輩は憑き物が落ちた様な、少し満足そうな顔をしておられました。
もしかしたら、重荷だったのかもしれません。弟さんを忘れてはいけないという、自分自身を戒めていたものだったのかも…と思いました。いえ、私の勝手な想像でしかないのですが。
しばらくそうやって歩いて、電車に乗る先輩とは駅の前で別れました。
後にも先にも、奈落先輩と一緒に帰ったのは結局その一回しかありませんでした。
その後、私の嫁入りが正式に決まり、私は女学校から除籍する事になったので、その後奈落先輩がどうしたのか詳しくはわかりません。
お友達から風の噂で、月篠の君が婚約を前にして駆け落ちをしたという話なら聞きました。とても楚々とした方だったので吃驚したのを覚えています。
その後、奈落先輩が学校の健康診断で首飾りをつけていた事が発覚して、一悶着あったらしい、という事を聞きました。装飾品は校則で禁じられていますから、それで注意されたという話ですが…先輩はその首飾りに酷く執着し、ついに先生が没収するのを諦めたそうで、そのあまりの必死さから「あれは奈落先輩が想い人から貰ったものに違いない」という噂が流れているそうです。
その首飾りと、あの憂いを帯びた表情から「月長石の君」と呼ばれる様になったのは想像に難くありません。
「…あら、見覚えがあると思ったら…その足袋、まだ持ってらしたんですか」
お店のテーブルを拭いていると、奈落先輩の足元に目が行きました。そこには、あの時差し上げた紫陽花の足袋を履いた先輩の足がありました。
「ああ…これ、千代さんからいただいたものでしたか…。先日、実家の箪笥の奥から出てきたそうで、送られて来たんですよ。最近見当たらないなとは思っていたんですが、隙間に挟まってしまっていたらしくて」
まあ、想像通り先輩は私が差し上げた事も忘れてらっしゃいましたが、こうやっていまだに使って頂けているのはなんだか嬉しいな、と思いました。
「懐かしいですね。でも、今の先輩のお姿には、ちょっと可愛らし過ぎるでしょうか…」
今の先輩は、長かった髪をざんばらに切って帽子を被り、男物の着流しを着てらっしゃいます。それなのに足元だけ可愛らしい足袋を履いていて、妙にアンバランスに見えました。
「いえ、この足袋はお気に入りだったのです。探していたので、見つかって良かった。とても履きやすいし、何より紫陽花が美しいです」
そう言ってはにかむように微笑む先輩は、あの頃よりも健全な笑顔を見せるようになりました。
風の噂で聞いた奈落先輩の首飾りは、今は私の胸元で控えめに光っています。
あの後奈落先輩がどうなったのか、私は知りません。だから、これは全て私の妄想なのですが。
この首飾りは…本当は、月篠の君と関係があるのではないかと思っているのです。あの時、一度だけ私と一緒に下校したあの時、奈落先輩は駅に向かっていきました。
でも、私は知っています。奈落先輩はあの頃いつも、学校を出ると駅とは反対方向に歩いて行ってました。それは、月篠の君の帰宅経路と同じ方向なのです。もちろん、同じ方向に帰られる方は他にもいらっしゃいますが、生徒会副会長だった月篠の君の事を、奈落先輩がいつも目で追っていた事を、私は知っています。先輩はいつもわざわざ、自分の帰宅経路を変えて遠回りしてまで月篠の君の帰宅経路に向かっていたのです。
学校では、一緒に居た姿を見た事はありません。だから、私は何も聞かない事にしています。この首飾りがどんな事情で先輩の手にあったにせよ、先輩はそれを私の目の前で引き千切り、そしてわざわざ鎖を新調して私に下さいました。それならば、これはもう奈落先輩を縛る戒めではなく、奈落先輩が私に下さった御守りなのです。あの時の薔薇水晶のように。
ただ…一度だけ、月篠の君がこの店に来たことがありました。奈落先輩が酷く動揺しているのがわかりました。それでも、私が口を出してはいけない事だと思いました。
その翌日の先輩はいつも通りだったので、その時も何があったかは知りません。でも、開店前に一度だけ、先輩が私に縋るように抱き付いてきました。酷く震えて。涙を堪えるような顔で。
だけど、たった一度。月篠の君が来たのも、そのたった一度で。
その時にきっと、全て終わったのでしょう。その頃から奈落先輩は、あの憂いを帯びた笑顔を見せる事は無くなりました。
ちょっといい事を思い出して、いつも仕事着の女給服に着替えている二階の客室に戻り、あるものを取って駆け足で戻ってきました。奈落先輩は吃驚するでしょうか?
「ふふふ、奈落先輩?」
含み笑いをして持ってきたそれを先輩に見せると、彼女は酷く呆気に取られた顔をしていました。
「えっ…あれ…?」
先輩は思わず自分の足元を見て、また私の手元に目線を戻しました。驚くのも無理はありません。今日は偶然、あの時お揃いで作って貰った足袋を履いてきていたのです。
「…実は、私もお揃いで作って貰ってたんです」
ほぼ、十年越しの告白でしょうか。私の足袋も使い込んで少し擦り切れていたので、それを見せるのは少し恥ずかしかったのですが、奈落先輩はたちまち頬を赤らめて顔を手で押さえてしまいました。
「…なんと」
本当に、女学生の頃の先輩からは思いも寄らないような初心な反応は、何度見ても面白いと思ってしまいます。…先輩には悪いのですけれども。
こんな出戻りの、こどももいるような女の事をこんなに意識していただけるというのは…正直とても、悪戯心をくすぐられてしまいます。
「今度一緒にこの足袋を履いて、街までお買い物に行きましょうか?」
「…はい」
頬を赤らめて従順に答える先輩は…あの頃の謎めいた、不思議な魅力を持つ女学生ではなくなりましたが、今の凛々しくて可愛らしい先輩の事も、私は好ましく思っているのです。
いつか七夕の日に、街のフルーツパーラーで、薔薇水晶のような桃のタルトタタンでも食べましょう。
二人で揃いの紫陽花の足袋を履いて。
可愛らしくて男前な、貴女と一緒に。
終




