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書簡  作者: いちはつ
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アヤメ

社交界デビューのその日、イリスは父とともに舞踏会の会場を訪れた。弦楽隊が奏でる音楽、紳士たちの会話、貴婦人たちの笑いさざめく声。知らない熱と、知らない香りに包まれて、イリスは身を強張らせた。ここはイリスの知らない世界だった。そして、これから知らなければならない世界だった。


父に連れられ、主催者である侯爵夫妻に笑顔で挨拶をする。王宮での行儀見習いは無駄ではなかったという証拠に、イリスは堂々と振舞って見せた。ただ、人々の視線が、イリスを落ち着かない気持ちにさせる。それは、王宮では殿下やアガタ様に向けられるものだった。馴染みのあるものを探そうにも、ここにいる生きものと言えばとげを折られたバラと葯をとられたユリの花だけだった。それから、ヒトの群れ。ここにはイリスがなかなか興味を持てないでいた動物が、たくさんいた。


「アルブスクラ卿、それにイリス。……社交界デビュー、おめでとう」


声をかけられて、イリスは優雅にひざを折る。その相手と父が会話を始めたが、イリスは口を挟まずに父の傍らに控えていた。そうした慎ましく淑やかな振舞いがレディに求められると知っていたからだ。父はさらに一言二言言葉を交わすと、イリスを彼に託して去っていった。

その人は海色の瞳に、イリスには読み取り方がわからない感情を浮かべてイリスを見つめていた。大好きなはずのその眼の色に、どこか居心地の悪さを感じて、イリスは視線をさまよわせた。


「……よかったのかしら」


イリスはそっと首飾りに触れて言う。言いたかったのはお礼のはずなのに、うれしいはずなのに、口に出たのは別の言葉だった。自分の心の動きがつかみきれなくて、イリスは戸惑っていた。


「気に入らなかった? 君の好きそうなものを、詰め込んだんだけれど」


その相手は相変わらず微笑みを絶やさず、凪いだ瞳で言った。その返答に、イリスはこの首飾りの贈り手が自分の予想通りであることを知った。


「気に入りましたわ。いただいたときにはとても嬉しかった……。とても素敵だと、思いましたわ」

「なら良いじゃないか」

「でも、」

「でも?」

「でも……」


イリスは必死に言葉を探した。ここ一年間にわたって彼のことを思うたびに感じていた違和感が、胸の奥底からせり上がってきていた。ずっと逃げてきていたそのもやもやを何とか言葉にしようとして、イリスは小さくつぶやいた。


「……いただく理由がありませんわ」


そう言ってイリスは、ああ、と腑に落ちた。

装飾品を贈る意味は知っていても、それが自分と彼との間に起こることだとは思わなかった。従姉たちから聞く社交界の彼と、自分が知る彼がつながらなかった。従姉たちから聞いた紳士の理想的なふるまいを、彼がどこかのレディにしているところが想像できなかった。今まで、彼と会うのは自分の世界の中だけだった。彼はイリスのおしゃべりを面白がって聞き、イリスの小ささをからかい、リュートを弾き、一緒に庭を探検して回る大切な親友だった。彼はイリスの小さな庭の中を知っているけれど、自分は彼の世界を知らなかった。だから、自分が知らない彼の存在に、何も気づかないでいられた。だけれども、今ここで自分は社交界に出てしまった。今まで知らないでいられた、自分の知らない彼の世界に入るきっかけを得てしまった。

そして、気づいてしまった。自分の中に、彼の特別になりたいという願いがあることに。贈り物も、優し気な口調も、物腰柔らかなエスコートも、自分以外の誰かにはしないでほしかった。だがそれを言葉にして良いのかわからなかった。言葉にしてしまえば、彼は離れて行ってしまうかもしれない。

数年の別離で開いてしまった彼との距離は、時間が縮めてくれると信じていた。だが、大人になってしまった今、それは叶わぬ夢なのかもしれない。イリスは初めて、すらりと伸びた自分の身長を恨んだ。なぜ彼が自分に小さいままでいることを望んだか、分かった気がした。


下唇をきゅっと噛んでうつむくイリスを、彼は静かに待っていてくれた。



「高価なアクセサリーは、恋人に贈るものでしょう?」


葛藤の末にぽつりと言った言葉は、自分ではっきりとわかるくらい震えていた。


「俺からじゃ不満?」


予想外な答えに、イリスは驚いて顔を上げた。目に入った彼の瞳が知らない海の色をしていて、イリスは顔をゆがめた。


「そんなことはありませんけれど、」

「ならどうして」

「フェリクス様は親友ですもの」


泣きそうな顔で言われたその返事にフェリクスは少し困った顔をして、イリスの頬に指を伸ばした。その指はこの間のように躊躇うことはなく、昔のように優しく、昔とは違ったやさしさでイリスに触れた。イリスの頬を優しく撫でながら、フェリクスは微笑んだ。


「いきものの話を聞いてくれる人が良いんだろう?」

「ええ」

「それから音楽が好きで」

「ええ」

「優しい声で歌ってくれて」

「ええ」


それなら、とフェリクスは微笑んだ。


「お手をどうぞ、私のレディ」





これで、小さなイリスの物語はおしまい。


海色の花の名をもつ少女と、海色の瞳をした騎士は、ゆれうごく時代の中で生きていくのだけれど、それはまた別のお話、別の時に語られるでしょう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 素晴らしい物語でした。ブラヴォー
[良い点] ものすごく好きなお話です。 何度も読み返しています。
[一言] 何度も読み返している大好きな作品です。素敵な作品をありがとうございます。
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