[設定資料/総括]
<設定資料/総括、あるいは蛇足以外の何物でもない何か:拡大版>
○謎の空間。
不審気な面持ちで辺りを見回す肇。ティルはその背後から近付いて声を掛ける。
肇「あれ? 何なんだ、ここは」
ティル「二十話到達記念ってことで何かやりたくなったらしいよ」
肇「あれか。制作進行が滞ったアニメが総集編ばっかりやるようなものか」
ティル「違うよ。作者が手直しをしようとして読み返そうとしたんだけど、途中で読むのを挫折したので、自身の備忘録用にここらでいろいろ纏めておこうかと思ったらしい」
肇「自分で書いておいて途中で読むのを挫折したって、よっぽど酷い文章じゃないか?」
ティル「十一話からはもれなく明日使えない名言コーナーが付いて、読みにくさ倍増だからね」
肇「……読者のことを全く考えていないな」
ティル「さて。今回のこのコーナーはこんな方のために書かれています」
・あまりにもマニアックすぎて読むのを諦めた人
・二十話まで全て目を通した強者……っていうか猛者
ティル「これから二十話全部読んでやろう、という気概のある読者の方はネタバレ必至なので、後で目を通されるといいかと思います」
肇「これから何をするんだ」
ティル「設定資料の作成&物語の総括でもしようか、と。実はこれまで設定資料なしかつノープロットでお送りしてきたので、作者にも意味不明なところがたくさんあるらしいんだよね」
肇「なんじゃそりゃ」
ティル「作者は書き出したときには全く何も考えてないらしいから」
呆れたような顔をする肇。
肇「普通、設定資料って小説を書く前に作るものじゃないのか? よくそれでここまで書いてきたな」
ティル「無計画だからね。梗概とか絶対書けないタイプなんだ」
肇「梗概?」
ティル「小説原稿に付ける物語のあらすじのこと」
肇「……師匠と同じでティルも無駄に日本語能力高いな」
ティル「僕に日本語を教えた師匠の知識が偏ってたんだよ」
肇「ふうん。で、結局この話は何なんだ?」
ティル「英国詩人と科学者と聖書が好きなラヴクラフティアン(怪奇作家ラヴクラフトの熱烈なファン)が、SAN値を減少させつつ書き綴った小説に似た何か。愛とか勇気とか友情とかを期待すると足元を掬われるよ」
肇「SAN値?」
ティル「Sanity(正気度)を表すパラメータだよ……0になると発狂するんだ」
なぜか深刻そうに言うティル。
肇「何それ」
ティル「近所にクトゥルフ神話に詳しい人がいれば、絶対知ってると思う」
肇「悠なら知ってる気がするなあ」
・主要キャラクター紹介(二十話現在)
肇「ほんとに今更な気がするんだけど」
ティル「確かに」
久住肇 (くじゅうはじめ) 奇妙なる魅了者
主人公。通りがかりに魔術師に襲われる体質の高校生。
SAN値が異常に高い。
詠唱なしで魔術を扱える特殊技能の持ち主。
科学オタク。特に数学者について語らせると熱い。
宮路悠 (みやじゆう)
主人公の幼馴染にして同級生。オカルトマニア。
肇を科学オタクにした張本人。
上野寿人 (うえのひさと)
主人公の同級生。天文部部長。
アルファルド・シュタイン 災厄
主人公の師匠。睡眠なしでは生きていけない美形。
寝起きはかなり凶暴になる傾向あり。
人外にやたら好かれる体質だが、本人が人外だという説もある。
よく窓から逃走する。
綾織絢 (あやおりあや) 黒の人形師
アルファルドの監視役。人形使い。
魔術師の警察である剣の一員。
無表情でたまに怖いことを言う。
ティル・エックハート 詐欺師/天翼
アルファルドの友人。言霊使い。
ロンドン在住の癖に、しょっちゅう城ヶ崎市を訪れる。
蛇足(略)コーナーの主。
芦川賢治 (あしかわけんじ) 時計仕掛けの叡智
日本魔術組合支部の偉い人。ルーン魔術の使い手。
片眼鏡がトレードマーク。神経質で几帳面な性格。
レネ・テトラフォリウム 幸運の四葉
アイルランド出身のドルイド。
ロンドン在住。過保護な師匠に日々悩まされている。
高野淵明 (たかのえんめい) 非万能博士
城ヶ崎市、豊原町に住む錬金術師。
ヘブライ語に詳しい。通称、ゴーレムの五柳先生。
座右の銘は試行錯誤。
黒須恭平 (くろすきょうへい) 孤独な散歩者
アルファルドの友人。死霊術師。
城ヶ崎市の隣町、雲井市に住む。手先が器用。
通称、根暗死霊術師。
ナイジェル・ハーグリーヴス 違法的魔術師
悪魔憑きの祓魔師。
悪魔に憑かれてからもっぱら大人しくなったと評判の人物。
通称、似非祓魔師。
・魔術師の位階について
肇「確か、魔術師の階級は十二の位階に分類されているんだったよな」
ティル「うん。ここに書くよ」
I <ウーヌス>
II <ドゥオ>
III <トレース>
……ここまでが特級魔導師
IV <クァットゥオル>
V <クィーンクェ>
VI <セクス>
……ここまでが上級魔術師
VII <セプテム>
VIII <オクトー>
IX <ノウェム>
……ここまでが中級魔術師
X <デケム>
XI <ウーンデキム>
XII <デゥオデキム>
……ここまでが初級魔術師
肇「これってラテン数字だったっけ」
ティル「そうそう。ラテン語で単に数字を数えただけ。最高位のIはこの世界に七人しかいないんだ。よく話題には上るけど、アレフ以外は出番がないんだよねえ。以下が今現在のIだ」
アルファルド・シュタイン 災厄
上記参照。
メリル・シェーラザード 理の王
言霊の支配者。ティルの師匠。通称、ランカシャーの魔女。
ヘルムート・リドフォール 神殿の首領
魔術組合特別顧問。世界最強の魔術師にして、元祓魔師。
ソフィア・クウェルクス 緑なす深淵
元老院議員。ドルイド。レネの師匠。
ルドラ・シャフジャハン 咆哮する嵐
剣長官。
クリスタロス・ヴァイナモイネン 海神の顎門
元老院議長。アルファルドの天敵。
リチャード・バロール 邪悪なる瞳/賢者の蒼眼
魔術組合長。
・その他脇役キャラクター(二十話現在)
ティル「ここからは、ちょい役の紹介」
肇「無駄にキャラクターが多いんだよな……」
ティル「全然設定が皆無な癖にね」
斉藤慎 (さいとうしん) 闇狩人
戦闘狂の変態。
宮路明海 (みやじあけみ)
悠の母親。
クロネッカー
主人公の飼猫。
ニャル
黒須恭平の使い魔。
サラマンダー
アルファルドの使い魔。
タイローン
布施湖の竜。通称フッシー。
草壁刈也 (くさかべかりや) 猟犬
魔術師殺し、草壁家出身の暗殺者。
ヴィンセント/エアリアル
ティルの使い魔。
べへモット
食欲の牛。
シャルロット
ティルの同僚。
眠りの神様
某魔術書を書かせた神様。何故かアルファルドがお気に入り。
オクシア
清滝山に棲まう精霊。森の女王。
宰相殿
アルファルドを探しにやってきた金髪の天使。
ヘレメレク
宰相殿の部下。
プラヴュイル
宰相殿の天敵。バベルの図書館員。
フラン・キュリー
伝説の錬金術師。フランス人。
イツァムナ
淵明の友人。人竜。
ルーディ・ホワイト 無作法者のルーディ
召喚術師を目指すうっかり魔女。
ソラト
六六六の太陽の獣。
ルカ・ゼッレフェッリ
ナイジェルの元上司。性悪祓魔師。
ロバート・ウォレス 陽気な風来坊のロビン
さすらいのスコットランド人。通称、ハイランドの魔術師。
・魔術の属性について
肇「次は何するんだ」
ティル「魔術属性について解説しようかな。右へ行くほど上位属性。括弧内はその属性を持っていると考えられている存在」
肇「考えられているって?」
ティル「この分類は便宜的なものなんだ。世界に起こる魔術的現象をわざわざステレオタイプに定義付けする訳だから。この世界に存在する精霊だって、四大だけとは限らない。結局のところ、精霊、悪魔、天使、神、といった魔術的存在についてはよく分からないことが多いんだよ。魔術っていうのは基本的にそういった存在に力を借りて行われているんだけれど、形式的に長く行われているものになると、術者が力を借りる存在を意識しなくても、発動したりするんだ。何に力を借りているのかさえ、分からない魔術だってたくさん存在する」
水 (ニンフ)
風 (シルフ) 光 (天使)
火 (サラマンダー)
土 (ピグミー) 闇 (悪魔) 空 (?)
肇「なるほど。師匠よりも分かりやすいな」
ティル「じゃあ、次はこれまでの話をおさらいしてみよう」
・これまでの話のおさらいとネタ解説
ティル「これまでの話をおさらいする前に一つ読者の皆さんに言っておくことがあります」
肇「言っておくことって?」
ティル「作者は一万人の読者のうち一人しか分からない、というようなネタでも平気でやる人です(特に聖書関連とクトゥルフ神話関連)。なので以下の文章は読む方によってはかなり意味不明かもしれません」
肇「総読者数よりも、たぶん多いぞ……これって、あらすじのところに掲げておくべき注意事項じゃないのか?」
ティル「そんなことしたらきっと誰も読んでくれないよ」
[第一話 それが苦渋の始まり]
肇「これは俺が師匠に会った話だな」
ティル「一言で説明したね。わざわざ長々と読む必要なんてないじゃないか」
肇「作者がこの頃はまだまともだったんだ」
ティル「SAN値が(笑)」
納得したように頷く肇。
肇「なるほど、この単語はこういうときに使うんだな」
ティル「でも良く見たら盾持ちし狼とかやってたけど」
肇「何の話だ」
ティル「ほら、ラヴクラフトの銀の鍵だよ。ラウンドウルフ略してランドルフみたいな。後、悠の誕生日プレゼント三倍返しは魔女の所業、だそうだ」
肇はティルに訝しげな視線を向ける。
肇「???」
ティル「魔女の"three fold law"については、ちらっと十一話で書かれてるよ。レネが悠に感謝するときに言ってる」
肇「何それ」
ティル「自分の行った行為は良きにしろ悪しきにしろ三倍にして返ってくる、っていう魔女宗の考え方のこと」
肇「情けは人の為ならず、って感じかな?」
ティル「なんか違う気も」
[第二話 魔術師の魔術師による魔術師のための講義]
肇「世界観説明を会話調でやった話だ」
ティル「ここまで読んでくれている方は、特に読み返す必要もないよね」
肇「ストレンジ・アトラクタはカオス理論のあれ。後、師匠の過去の悪行について、綾織さんが解説してる」
[第三話 プリンキピア・マギカ/Principia Magica]
ティル「タイトル通り魔術の原理について解説している話だね」
肇「二話に渡って設定説明って……読むの挫折しそうじゃないか」
ティル「アレフ以外のIの名前がここで初めて出てるよ。まあ神殿の首領が何故人外を表すか、っていうのは十八話まで明かされない訳だけど」
[第四話 黒猫のフーガ]
肇「俺が使い魔をゲットする話だな」
ティル「魔術師って案外地道に使い魔を捕まえてるんじゃないかな、って話だ。もし猫の名前ネタ全部分かった人がいれば神だよね」
肇「名前には著作権がないってことを逆手に取ってる」
ティル「難易度が高いのは十八話の蛇足(略)コーナーで解説してるよ」
肇「俺にはほとんど分からなかったんだけど」
ティル「アルファドは某ゲームの魔王の飼い猫」
肇「えっ?」
肇は疑問の声を上げる。
ティル「たぶん若い読者の方には分からないと思う。時空を越えたり魔王が仲間になったりする超有名RPGだ」
肇「寿人は何で知ってたんだ」
ティル「きっとレトロゲーマーなんだよ……まあ密かにここでアレフの名前の由来が明らかになってる訳だけど」
肇「どういう意味だ」
ティル「天文部部長が付けるのは、星の名前ってことだよ」
肇「そうなのか?」
ティル「そうだよ。アルフとピートは作者の好きな二重の意味だ」
怪訝そうに首を傾ける肇。
肇「???」
ティル「アルフと聞いて猫を食べる異星人と某過激派組織のどちらを思い浮かべるのかってこと」
肇「どっちも知らないな。ピートは?」
ティル「著作権的に危険な黒鼠のライバルと護民官ペトロニウスのどちらを思い浮かべるのかって話だよ。まあSF好きで猫好きなら間違いなく後者を思い浮かべるはず」
肇「俺には全然分からないんだけど」
ティル「他の名前ネタについては、あえて説明するまでもないと思う。後、アレフのことを人外発言している猫もどきが一匹」
肇「こんなところに伏線が張ってあったとは」
ティル「作者もびっくりだったらしいよ」
[第五話 雨の弓と、魔物と]
肇「悠がオカルト雑誌に触発されて、布施湖に未確認生物を探しに行く話だな」
ティル「オカルト雑誌って広告がめちゃくちゃ面白いよね(笑)」
肇「また一部の読者しか分からないネタを」
ティル「雨の弓と竜の不思議な関係について、悠が考察する話でもあります」
肇「虹っていう漢字は竜を表しているんだよな。知らなかったよ」
ティル「契約の虹が、旧約聖書の大洪水後のあれになぞらえているって気付いた人はいるのかな」
肇「作者の常識は世間の非常識だから」
[第六話 ブラック・カプリコーン・デイ/Black Capricorn Day]
肇「暗黒の山羊座の一日。変な暗殺者に追いかけ回されて散々だった」
ティル「山羊座って不幸っぽいのかな」
肇「でもキリストもよく考えたら山羊座だ」
ティル「確かに……けどあの人の人生って受難の連続じゃない?」
肇「やっぱり不幸なんだ」
暗い表情で俯く肇。
ティル「そんなので落ち込まない! なぜ悠がわざわざ占星術における角度の話をしていたのか、肇には分かった?」
肇「分からないよ」
ティル「九十度の角度から侵入してきて、どこまでも追いかけてくる猟犬」
肇「???」
ティル「ほら、ティンダロスの」
肇「さっぱり意味が分からないんだけど」
[第七話 マーキュリアン・アタック/Mercurian Attack]
肇「ティル・エックハート襲来」
ティル「何か異星人みたいだよね。まあマーキュリーと言えば詐欺師にして翼ある使者な神様だ」
肇「そうなのか」
考え込むようにして肇は腕を組む。
ティル「僕の愛杖も彼の持つ伝説の杖から名前をとったんだよ。クロッカスも彼由来の植物だし。わざわざ僕が手品をしているのは某ウェルズさんに対するオマージュ」
肇「どっちの?」
ティルは一瞬驚いたような顔をしてから、嬉しそうに笑みを浮かべる。
ティル「肇でもこれは知ってたんだ」
肇「悠から聞いてたから」
ティル「マーキュリー劇場の彼のほうだよ」
肇「作家じゃない彼、だな」
ティル「薔薇の蕾、の」
肇「……ここで外伝の話をしても分からないと思う。しかし、ヴォイニッチ手稿みたいなマニアックなアイテムを持ってくるとは」
ティル「ジョン・ディー博士の文書と同じく、ネクロノミコン絡みで出てくることの多い実在の文書だね。そうそう、太陽が第五の宮(獅子宮)に入りかつ土星が三分の一対座(百二十度)になる時に、バルザイの偃月刀があれば無名の霧が召喚できます」
肇「だから何の話をしてるんだ?」
[第八話 コリーダ・デ・トロス/Corrida de Toros]
ティル「牛バトルだ。食欲の牛VS睡眠欲の牛だね。断じて格好いい闘牛の話なんかじゃない」
肇「ふざけた話だけど、これが十四話に繋がるんだよな」
ティル「創造主以外は剣を突きつける者がいない獣に、あえて剣で闘いを挑むのがアレフクオリティ」
肇「何の話だ」
ティル「旧約聖書ヨブ記四十章十九節を参照」
ティルの言葉に肇は戸惑ったような顔をする。
肇「???」
ティル「これは結構重要なポイントだよ」
肇「ヨブ記ってどんな話なんだ?」
ティル「神様に試されたある人物が、ひたすら遠回しに神様を呪う話」
肇「それのどこに獣の出てくる余地があるんだ」
ティル「いや、神様が一番最後にやってきて、突如自分の作った獣の自慢を始めるんだよ」
肇「なんじゃそりゃ」
ティル「しかしまあ、この時点で十四話の展開を予測してた読者がいたら、かなり凄いかな」
肇「作者にすら、予測不能だからな。後は非因果的連関の原理」
ティル「えっ?」
肇「パウリ効果(十二話参照)をいたく気にしていた物理学者ヴォルフガング・パウリさんの研究の成果だ」
ティル「肇が意味分からないことを言ってる」
肇「要するに共時性」
ティル「……ユングだね」
[第九話/第十話 眠れる都市の奇書]
肇「これは……」
ティル「作者がネクロノミコンは死霊術師の必須アイテムじゃないってことを言いたかった話。ファンタジー小説に出てくるとなぜかそう思われてることが多いから」
肇「一度も作中でネクロノミコンって言ってないんだよな。驚くべきことに」
ティル「そう。だから知らない人はなんでこんなに延々と読まされてるのか分からない。知ってる人にとっては結構退屈かも。ネクロノミコンの歴史を捏造するのに無駄に力が入ってるからね」
肇「……どっちにしろ読みにくいんだな」
ティル「ブエノスアイレスの図書館員(ホルへ・ルイス・ボルヘス)がハワード・フィリップス・ラヴクラフトの死後の作品をでっちあげようとして失敗した(本人談)小説のタイトルが、シェークスピアのあの有名な文句(十一話の蛇足(略)コーナー参照)なんだよね」
肇「???」
ティルに問うような視線を向ける肇。
ティル「で、ラヴクラフトの設定によればネクロノミコンはブエノスアイレス大学付属図書館に置かれている訳」
肇「後書きの二人の作家に捧げられているっていうのは、そういうことか」
ティル「そう。夢はこの二人の作家の主要テーマだから。ボルヘスはアラビアンナイト好きだったので、それ関係の名前が散りばめられております」
肇「眠りの神様の正体については?」
ティル「『アル・キターブ・アル・フェッカ』で分かった人はおそらくいないだろうかと」
肇「どういう意味だ」
ティル「ラヴクラフティアンかつ天文マニアでないと分からないから」
呆れた顔をして、肇はティルの顔を見る。
肇「……難しい関門だな」
ティル「でもラヴクラフト本人はかなりの天文マニアだよ。某ラヴクラフト作品に登場した冠座の方角から嘲笑う神様だ」
肇「欠けたる何とかって言ってなかったか?」
ティル「アル・フェッカはアラビア語で欠けたるものっていう意味なんだよ。すなわち半円形をした星座、冠座のこと。通常は冠座のα星を指す」
肇「なんてマニアックな」
ティル「まあこんなの分からなくても、死と表裏一体で、ギリシャ文字で名前が書ける眠りの神様っていえば、あの方しかいないね。英語の催眠、という意味の単語の語源にもなっている彼だ。それに綴れば一発だし」
肇「ギリシャ文字は数学でもお馴染みだから、分からないでもないけど。SpiritusAsperってなんだったんだ」
ティル「アポストロフィー(’)の逆向きの形をしているギリシャ語の有気記号。Hで発音してね」
肇「なるほど」
[第十一話 森の女王]
ティル「レネが日本に来た話だね」
肇「確か、杖を作りに来たんだったっけ」
ティル「オガム文字が飛び交ってる」
肇「またマイナーなものを」
ティル「ドルイドと言えばオガム文字だよ。そうそう、森の女王と言えば、ヨーロッパではブナの木のことを指します」
肇「サブタイトルにそんな隠された意味があったとは」
ティル「それと、レネの魔法名に含まれるシャムロック、という単語は三つ葉のクローバーを指すんだ。アイルランドの象徴だよ。十九話の蛇足(略)コーナーで解説されている三位一体を表している、と言われている」
肇「アイルランドはほんとにキリスト教の国家なんだな。ドルイドがいなくなるはずだ。しかし植物ネタばかりやってるのはどうしてだろう」
ティル「森に行く話だから、仕方ないんじゃない?」
[第十二話 博士の非常な日常]
肇「ゴーレム先生こと五柳先生登場だな」
ティル「正しいゴーレムの作り方と倒し方。正しく倒してる人はファンタジー小説でもよく見かけるけど、正しく作ってる人はあんまり見たことがないね」
肇「ヘブライ語だし、間が持たないから」
ティル「ゴーレムのようなカバラ神秘思想とカントールの対角線論法をヘブライ文字で関連付けるっていうのは、ブエノスアイレスの図書館員(十話参照)な彼のアイデアです」
肇は意外そうにティルに聞き返す。
肇「そうなのか? 小説になりそうなアイデアとも思えないけど」
ティル「うん。『エル・アレフ』でやってる。でもクロネッカー→ワイエルシュトラス→カントールなんて数学者の連想をする小説の主人公はおそらく君だけだよ」
肇「カントールはワイエルシュトラスの弟子……っていう以前にこいつら誰って思った読者の方が大多数に違いない。三人とも知名度は微妙だし。クロネッカーはクロネッカー積とかクロネッカーのデルタとかマイナーなところにしか名を残してないから、数学の功績よりもカントール苛めのほうが有名なくらいだ」
ティル「クロネッカーに褒め言葉でも小さい人とか言うと絶交されるんだよね」
ティルを感心したような様子で眺める肇。
肇「小柄な人間に対して身長を連想させる言葉は御法度だからな……しかしよくそんな話知ってたな」
ティル「まあね。猫に生クリームよりは有名なんじゃないかな?」
肇「五柳先生が猫にやってたけど、お腹壊しそうだよな」
ティル「クトゥルフ神話最大の謎。きっとウルタールの猫とかなら大丈夫なんだよ」
肇「何の話だよ、それ」
ティル「未知なるカダスを夢に求めて、だ」
疑問に満ちた表情で黙り込む肇。
肇「???」
ティル「ラヴクラフティアンならきっと分かるはず。後、陶淵明は夏目漱石のお気に入りの詩人です」
肇「意味が分からないんだけど」
ティル「名前はまだ無い」
肇「なるほど、一人称が我輩な猫の話か」
[第十三話 孤独な散歩者の苦悩]
ティル「根暗死霊術師の苦悩」
肇「幽霊探索話だ。語り得ぬものについては――だな」
ティル「肇もヴィトゲンシュタインについては知ってたのか」
肇「哲学書はよく分からないんだけど、これは薄かったし、数学で使う論理記号が多くて読みやすかったから」
ティルは呆れて肇の顔を見る。
ティル「……さすがは科学オタク」
肇「語り得ぬものは示されうるってことだろ?」
ティル「"Because it is there!"だね」
[第十四話/第十五話/第十六話 天使等の力学的理論]
肇「天使がやって来て、師匠の生態がついに明らかになった話だ」
ティル「宰相殿はよく天使もののファンタジー小説に登場するんだけど、なぜか大抵三流悪役っぷりを発揮するんだよね……光を掲げる者の人気に嫉妬(笑)。宰相殿はかのお方に拉致られるは、彼の師匠に逃げられるはでかなりの面白不幸人生を送ってきた方なのに」
肇「作者は宰相殿が主人公のファンタジー小説を誰かに書いて欲しかったらしい」
ティル「ああ、宰相殿の正体がまだ分からないって方は例の名前で検索すると一発だよ。で、彼はこの話でもやっぱり脇役だ。けど、みなみのうお座の一つ星の魚の口が炎の象徴ってどれだけの人が分かるんだか」
肇「作者はクトゥルフ神話が世間の常識だと思ってるから。後、師匠の魔法名の由来が密かに明かされてるんだよな」
ティル「二話から随分引っ張ったよねえ。災厄を英語で書けば"disaster"だ。"dis"は外れた、逆らった、否定、冥界の王(笑)の意。"aster"はラテン語"astrum"由来の言葉で、天、星、転じて運命を表す」
納得した顔で頷く肇。
肇「だから、天の理を外れた者なのか」
ティル「まあ実際はアンラッキーっていうぐらいの意味合いなんだけど。しかし宰相殿本人がエノク語を喋っている話っていうのは、本邦初ぐらいの勢いじゃないかなあ」
肇「オリジナリティー皆無な話だからこそ生じるオリジナリティー、だな」
[第十七話 ラスト・アルマゲスト/Last Almagest]
ティル「ケインジアンの陰謀」
肇「何言ってるんだ」
不可解な面持ちで首を捻る肇。
ティル「市場経済への介入だけでなくこんなところまで介入してくるとは」
肇「……古典派? 意味不明だな、それ」
ティル「まあ一部の人しか分からない冗談はこれくらいにしておいて。万有引力の法則で有名なサー・アイザック・ニュートンが最後の錬金術師などと呼ばれるようになったのは、おそらく経済学者ジョン・メイナード・ケインズが彼のことを最後の魔術師なんて呼んだからだろうね」
肇「そうなのか」
ティル「ケインズはニュートンの錬金術関係の資料を蒐集していたらしいよ」
肇「経済学と関連があるとも思えないけど」
ティル「ケインズはヴィトゲンシュタイン(十三話参照)を神って呼んだりしているし、よく分からないネーミングセンスの持ち主だね」
肇「ふうん。で、五柳先生がニュートンに酷い形容詞を付けてる理由について触れなくてもいいのか?」
ティル「肇なら分かってるはずだ」
何故か肇の目を覗き込むティル。
肇「ライプニッツとのバトルだな」
ティル「微積分学を発見した功績はニュートンに帰せられるべきかもしれないけど、あれはちょっとやりすぎだよね……」
肇「水銀を取り扱う錬金術を研究していた割にえらい健康的だしな」
ティル「そうそう」
力強く相槌を打つティルに、肇は呆れた視線を向ける。
肇「……って全然話が脱線してるぞ」
ティル「要するに、これは最後の錬金術師フルカネッリの、最後の偉大なる書の物語」
[第十八話 ルーディ・アンド・ザ・ビースト/Rudy and the Beast]
肇「ある獣を封印した魔法具が持ち出された話だな。通りがかりに襲われて大変だった」
ティル「深淵と獣がこの話のテーマ。ニーチェを引用した時点で、かなり作者のSAN値が低くなってる」
肇「まともじゃないってことか?」
ティル「ニーチェは最終的にSAN値が0になった人だから」
ティルの言葉に、肇は考え込むように腕を組む。
肇「……発狂したのか」
ティル「まあニーチェの超人ネタはいつかやるんじゃないかとは思ってたけど、ここで持ってくるとは。それと、例の獣の名前サウラシュトラは西インドの地名から取りました」
肇「どうして」
ティル「略して"Sorath"って呼ばれているらしいよ」
[第十九話 テスト・イン・ピース/Test in Peace]
肇「テストを受けに行った話だ。めちゃくちゃ疲れた」
ティル「変な祓魔師に付き合わされて大変だったね。ところで肇は君を散々悩ませた教科、英文法のもともとの語源が魔術だってことを知ってた?」
肇は驚いたようにティルの顔を見る。
肇「えっ?」
ティル「肉感的な魅力のある女性を形容するときにも、グラマーって単語を使うよね。これを英語で綴ると"glamour"。英文法のほうは"grammar"。この両者の語源は"gramaire"という古い言葉から来ているんだ。これは書物に関する術、すなわち魔術のことを指す。英語で魅了するっていう意味の言葉は大抵魔術絡みなんだよ」
肇「他にどんなのがあるんだ」
ティル「"enchant"も魅了するって意味の言葉だけど、これは歌って呪文をかけるっていうのが元々の語源。チャーミングな、なんていうときに使う魅力を表す単語"charm"の原義は魔よけ、まじないだ」
肇「俺の能力を表す"attractor"は?」
ティル「単に引き寄せるって意味(笑)」
肇「……なんかがっかりだな」
[第二十話 フー・リヴド・ローヴィン・ロビン/Who Lived Rovin Robin?]
ティル「ハイランドの魔術師登場。僕の師匠の酒呑み仲間らしい」
肇「スコットランドの話題は俺にはさっぱりだった」
ティル「出身地がスコットランドに近い僕には馴染み深い話ばかりだったけど。まああの出だしから考えると、エルデシュ数を持ってくるのは僕にも何となく予想が付いたよ」
肇「ティルもついに作者の思考が読めるようになったのか」
ティル「ある意味君とそっくりだから」
ティルの言葉に顔を顰める肇。
肇「嫌な感じだ」
ティル「君のほうがはるかにSAN値は高いけどね」
肇「それは褒めてるのか?」
ティル「もちろん」
肇は沈黙するが、しばらくして気を取り直したように口を開く。
肇「……まあいいか。以上でこれまでの話のおさらいは終わりだな」
ティル「ここまで無駄話に付き合ってくれた根性のある読者の方には感謝を。僕達の出番はこれでお終い」
肇「どういう意味なんだ」
ティル「別の空間で、永遠に出番がないかもしれない人達が自己主張してるんだよ」
肇「???」
ティル「では読者の皆さん! またお会いしましょう」
釈然としない表情の肇。一礼するティル。ゆっくりと幕が下りていく。
<災厄の魔術師外伝:Menschliches, Allzumenschliches>
ヘルムート・リドフォールは無表情に剣を構え直した。
彼の立っている場所は森の奥地だった。とはいっても辺りには灌木が生い茂り、そこだけが開けて広場のようになっている。木々によって遮られるということのない空は、もう少しで雨が降りそうな色彩を湛えて、仄暗い。
そんな暗澹たる空の下で、ヘルムートは自らを囲む人形達を見つめていた。それの見た目は人間と寸分違わない。しかし人間とは決定的に違っている点があった。それは行動パターンだ。その人形は確かに自律思考を持っていた。しかしどうも武力の行使については制約を受けているらしかった。人間から攻撃されないことには、こちらを攻撃してくることはないのだ。つまり彼等はその性質上、先手を取ることは決して不可能だった。
一つ息を吐いてから、柄を強く握り締めて、剣の切先をわずかに下げた。それから一歩踏み込んだ後、地面を叩くように蹴って疾り、攻撃の意思を見せる。そこでやっと人形達は、ヘルムートに反撃せんと一斉に襲い掛かってきた。
一番最初に狙いを定めた人形の首を、勢い良く薙ぎ払う。急所は人間と同じだ。何故ならその人形は人間の構造をそのまま模しているのだから。
まず一体。
背後から斬撃を繰り出そうとしてくるもう一体の人形の剣を、身を反らして避けると、振り向きざまにその人形の胸を突き刺した。
これで二体目。
剣を掲げてヘルムートの肩に振り下した刃の一閃を、半歩足をずらしただけで躱す。茶色の前髪が、宙に舞い散るが、気にしない。脇腹に渾身の一撃を食らわせる。
これで三体目。
あまりにも人間らしく地面にもんどりうち、呻き声を上げる人形達を見据えながら、ヘルムートは剣を振るい続ける。
ヘルムートがあえて魔術師らしからぬ戦い方を選んだ理由というのは、その人形達が抵抗らしきものを見せることを期待してのことだった。魔術で吹き飛ばせば済むことなのだが、それでは少し味気ない。これは別に嗜虐趣味、という訳ではない――実のところ彼は同僚達にそう誤解されることがかなり多かった。その誤解に反論すべく、苛立ちすら込めてサディストなのは神のほうだ、という持論を展開すると、何故か戦慄した表情で同僚達が自分のほうを見つめてくるのだったが。
彼はヴァチカンに所属する魔術師、すなわち祓魔師だった。彼等の職務というのは俗に知られているような悪魔退治だけではない。世に溢れる魔術的事象を管理するのも、彼等の仕事なのである。そうでもしないと、奇蹟は奇蹟――神の恩寵によるあれだ――として成立し得ないのだった。それでもその存在は一般の人間に認知されているために、他の魔術師達からは、嫉妬と揶揄を込めて合法的魔術師などと呼ばれていたりする。
数分も経たないうちに、全ての決着は付いた。その場で動くものはもはやヘルムートだけだ。彼は軽く剣の血糊を掃って、手馴れた様子で鞘に収める。
草葉の上に倒れ伏している人形達を冷然と見下ろす。曇り空の下では、その身体はますます人間の死体のように見えた。彼は手を天高く掲げると、囁くように呪文を詠唱する。
「燃え盛る炎よ」
彼の声に応えて炎が顕現し、それは人形達の残骸を勢い良く燃やした。鼻を刺すような臭いと、辺りに充満する煙に眉を顰める。崇高に生きた殉教者も、人に作られた人形も、辿る末路は同じだな、などと考えつつ、ヘルムートはその青色の目で、人形達が灰になる様子を眺めた。ぱちぱちと火の粉が雲に覆われた空へと舞い上っていく。
その光景を目にした彼の脳裏になんとなく浮かんだのは、この言葉だった。
「災禍は塵より起こらず、艱難は土より出でず、人の生まれて艱難を受くるは火の子の上に飛ぶがごとし」(旧約聖書ヨブ記五章六‐七節)
ヘルムートは口の端を歪めて自嘲する。思わず聖書の一節が浮かぶ自分に、おかしくなった。ひたすら祈り続けて、裏切られ続けてきたのに。しかし、これを作った者は一体何を考えていたのだろう? 創造主にでもなったつもりだろうか?
彼は胸の前で軽く十字を切ると、形式ばった祈りの言葉を捧げる。
「神の小羊よ、我等に安息を」
偽善だと分かってはいた。何しろ心が動かないのだ。それでも、気は少しばかり軽くなった。ヘルムートが炎に背を向けて、その場を立ち去ろうとしたときに。
彼の背後で何やらがさごそと音がした。ヘルムートは剣を再び鞘から抜き放つと、音の発生源――灌木の茂みに向けて、思い切り投げつける。
「出て来い」
苦笑するような声色で、反応が返ってきた。
「やれやれ、ばれてたか」
その陰から這い出てきたのは、眼帯をした金髪の男だった。彼は立ち上がると、服に付いた木の葉を手で軽く払って、うっすらと笑う。
ヘルムートは眼帯の男を射殺すように睨み付けて、口を開いた。
「悪趣味だな。隠れて見ていたのか、私のことを」
「ホムンクルスの処分、か。君も嫌な仕事を任されたものだ」
現れた眼帯の男は、ヘルムートに剣呑な視線を向けられても、笑みを崩さずに平然とした様子である。
ヘルムートは忌々しげに舌打ちし、吐き捨てるようにして、こう口にした。
「どうしてここにいる、邪悪なる瞳リチャード・バロール」
邪悪なる瞳。それは森羅万象を見通すと言われているこの男、リチャード・バロールの通り名だった。力ある邪視の持ち主。彼の顔はこの世界ではあまりにも有名すぎる。
「私達がやるはずだった仕事をヴァチカンが取ってしまったのでね。少々暇ができてしまったのさ。それに君が来ると聞いて、居ても立っても――」
ヘルムートは額に青筋を立てつつ、唸るような声を出して、リチャードの言葉を途中で遮った。
「物見遊山に来たという訳か」
「まあ、そんなところだ。面白いものを見せてもらった。戦闘機械と名高い君が、そんな無駄な戦い方をするとは驚きだ。君にも人間的な一面があったんだな」
余計なことをべらべらと喋る男だ、とヘルムートは思わず半眼になってしまう。
「用事がないのなら、さっさと帰れ」
「ふむ。用事はない、ということもない。君に伝言を、と」
「伝言?」
訝しげに聞き返したヘルムートに、リチャードは深い青色をした右目を真剣に細めて、今までの軽い口調とはうって変わった重々しい口調で、宣言した。
「君はこちら側に来る」
ヘルムートは目を見開いて、眼前の男をしげしげと見つめた。それから視線を下に落とし、肩をわずかに竦めて見せる。
「有名な君の予言か」
「君は多くの人間と同じように、私の目を誤解しているようだな。これは予言ではないよ。そして君達の好きな預言でもない」
リチャードはそこでかぶりを振ると、一拍置いて話を続けた。
「私に見えるのは、可能性だけだよ。神はサイコロ遊びをしない、と言ったのは有名な物理学者だが、私にはそうは思えない」
「同感だな。遊び心のない神など、信仰する価値はない」
ヘルムートの言葉を聞いたリチャードは一瞬、驚愕の表情を見せる。
それから口元を押さえて、その片目に涙すら浮かべながら、くっくっと笑い始めた。
「何がおかしい」
憮然とした顔をして、ヘルムートはリチャードを見据える。
眼帯の男はそこで笑いを引っ込めて、神妙な面持ちでこう告げた。
「そういう意味じゃないよ。単に確率の話さ。これで用事は終わったから、君の言う通りさっさと帰ることにする」
怪訝そうに片眉を上げるヘルムートに手をひらひらと振って、眼帯の男は身を翻す。
その人を食ったような唐突な行動に、ヘルムートは戸惑った。彼は予言ではない、と言ったが。眼帯の男の「目」は、デルフォイの神託までとはいかずとも、天気予報並みには正確だと聞いていた。しかし今のが彼流のジョークだ、という可能性もなきしもあらずだ。
「まさか、新手のヘッドハンティングじゃないだろうな」
顔全体に渋面を浮かべて、ヘルムートは茂みに落ちたままの剣を拾い上げながら、独り呟いた。
<災厄の魔術師外伝:魔術組合本部の日常>
部屋の主の性格を反映して、その内部には碌な飾り付けも成されていない――そんな一切の無駄を廃した執務室の一番奥で、愛用の椅子の背もたれを軋ませながら、読書にふけっているのは白髪頭をした若い男だった。一見したところでは十代後半から二十代前半に見える。
彼はぺらぺらとページをめくりながら、眉間に皺を寄せて溜め息を漏らした。
ちょうどそのとき、執務室の扉が勢い良く開け放たれる。ノックすらない。そうやってこの部屋の中へ入ってくる人間は非常に限られていた。入ってきた人物はきわめて明るい口調で白髪の男に声を掛ける。
「やあ、ジョーズ・クリス。何を読んでいるんだ」
「組合会報だ」
ジョーズ・クリスこと、海神の顎門クリスタロス・ヴァイナモイネンは、読んでいる雑誌から目を離さずに言葉を返す。相手の顔を見なくても、誰なのかは声だけで分かる。かの人物は全てを見通すと言われていた。過去も、現在も、未来さえも。クリスタロスはその噂が嘘であるということを知っている。彼の「目」はしょっちゅう外れるのだ。特に未来に関しては。彼はまた今回の賭けでも胴元に稼がせることになったな、などと苦笑を浮かべる。
会話の相手はクリスタロスに近付くと、怪訝そうな声を室内に響かせた。
「何か面白い記事でもあったのか」
そう問われてはじめて、クリスタロスは顔を上げる。その目線の先にいたのは彼の親友だ。金髪をした壮年の男。彼の左目を覆う眼帯はあまりにも有名だった。この業界で彼の顔を知らぬものなどいない。彼は全世界の魔術師達の頂点に君臨する人物なのだから。邪悪なる瞳と呼ばれる男、リチャード・バロール。
クリスタロスは手に持っていた雑誌を机の上に無造作に置くと、リチャードに柔和な笑みを向けた。
「お前が賭けていたあれだよ、あれ」
眼帯の男はそれだけで、クリスタロスが何に目を通しているのか理解したようだった。納得してぽんと手を打つ。
「ああ。例のランキングか」
「例のランキングだ」
クリスタロスはリチャードの言を鸚鵡返しに繰り返して肯定する。リチャードは訝しげに首を捻った。
「私の予想では今回はルドラが一位になるはずだったんだが」
「本人から圧力がかかってな。彼女に賭けていたお前には悪いが、仕方なく差し替えた」
その返答に、リチャードはわずかに肩を竦めてから、意外そうな表情を見せた。それから腕を組み、執務室の広い窓に凭れて、小さく呟いてくる。
「……さすがの君も彼女の圧力には屈するのか」
当然、といった面持ちでクリスタロスは即答した。
「もちろんだ。私は基本的に平和主義者だからな」
「日和見主義者の間違いじゃないのか?」
からかうように笑む眼帯の男に、クリスタロスは青灰色の目を怜悧に煌めかせて聞き返す。
「じゃあお前は彼女の圧力に屈しないとでもいうのか、リチャード」
「私の人生の指針は暴力反対、だ。よって彼女の圧力に屈しないということはありえない」
リチャードは顔を引き締めると、神妙な面持ちで断言した。クリスタロスは呆れ顔でリチャードを見据える。
「なるほど、二重否定だな。しかし情けない、魔術組合長ともあろうお方がびびるとは」
「仕方ないよ。この組織は君と私と彼女で作り上げたようなものだ。彼女には頭が上がらないのさ。君もバーミンガムであった事件のことを覚えているだろう? あの時の彼女の活躍は、ブライス・ロードの戦いにおけるアレイスター・クロウリーもかくやと言うものだった――」
突如回想モードに入り、遠い目をして長々と語り始めようとする眼帯の男を、クリスタロスは視線で遮った。
「昔話がやたら長いのは年寄りの証拠だぞ、リチャード」
むっとしたのか、リチャードは顔を顰めて言葉を口にする。
「確か君のほうが私よりもはるかに年上だったはずだが」
「見た目だけなら私のほうがはるかに若い」
「知っているか? 外見年齢は精神年齢を反映しているということを」
「その理論は一概に魔術師に対して当てはまるとは言えないだろう。だいたい精神年齢が若くてどこが悪い」
「実年齢に比べて精神年齢が若いということは、君自身の知能指数の低さを露呈していることになるんじゃないのか?」
無駄に舌鋒を鋭くさせて、両者が不毛な言い争いを続けていると、唐突に派手な音が響き渡った。二人は思わず振り向いて、その発生源である執務室の扉のほうを見やる。
執務室の扉が開いた音、ではない。新たな闖入者は、扉を破壊したのだ。大穴が開いて、無機質な廊下の風景が覗いている。そこをくぐって入って来たのは、一人の若い女だった。背はすらりと高く、焦茶色の髪は肩までしかない。肌の色は褐色をしていて、その整った顔に、猫を思わせるアーモンド形の茶褐色の瞳が絶妙の位置で嵌っている。
彼女は開口一番、こう告げた。
「君達、今もしかして私の悪口でも言ってた?」
「「いや」」
短く否定するクリスタロスとリチャードの声が見事に重なった。
「そう。ならいいんだけど。もし、何か言ってたんなら、殺すよ」
彼女は目を穏やかに伏せると、天気の話題でもするように、気軽な口調で言ってきた。
「何も言って――」
クリスタロスは間髪入れず、物騒な言葉に抗弁したが。
それを問答無用で遮って、褐色の肌をした魔女は繰り返した。
「殺すよ」
口元に湛えられているのは、ごく自然体の笑みだ。倣岸でもなく、不遜でもなく。人を威圧させる雰囲気を発している訳でもない。それでも、彼女が本気であることは誰もが知っていることだった。
有言実行の魔女、咆哮する嵐ルドラ・シャフジャハン。
心の内の動揺など微塵も見せず――この辺りはさすがに年の功といったところだろう――クリスタロスはかぶりを振って、静かに言葉を発した。
「誰もお前の悪口など言っていない」
彼女は実に可愛らしく小首を傾げて見せた。
「そう? 私の名前が聞こえた気がしたんだけどな」
クリスタロスはこの地獄耳め、と密かに胸中で毒付きながら弁解する。
「いや、リチャードがお前を褒めていただけだ」
「あれ、そう言えばリチャードがいないなあ。さっきまでいたはずなのに」
不思議そうに周囲を見回すルドラの様子に、クリスタロスはそこで初めてその事実に気付いた。いつの間にやら執務室の窓が開いており、外から風が吹き込んで、カーテンがぱたぱたとはためいている。先程まで傍らにいた眼帯の男の姿は見当たらない。
「……逃げたな、リチャード」
「リチャードが逃げるっていうのは、心に疚しいことがあるってことでしょ」
ルドラは茶褐色の目を細めてにこやかに笑う。
このとき、クリスタロスの脳裏に浮かんだのは、無数の言い訳だった。だが、それを瞬時に頭の内からかき消す。それは彼女に対しては効果を成さないことを、長年の経験から学習していたからだ。絶望の学習。
額に脂汗を浮かせつつ、クリスタロスはルドラと対峙した。
眼前の魔女はどこから取り出したのか、その手には大剣を携えている。それを軽々と構えると、その鈍色をした切先を、クリスタロスに向けた。
「疚しいことなどない」
感情を律することを完全に諦め、忌々しげに吐き捨てたクリスタロスの言葉を無視すると、ルドラは体重を感じさせない軽やかな動きで、距離を瞬時に詰めてきた。そして手に持った剣をクリスタロスに思い切り投げ付けてくる。
「っ!?」
予想もしなかった動作にクリスタロスは驚愕する。少し頬を掠ったものの、辛うじて避けることには成功した。その剣はクリスタロスの背後の壁に突き刺さる。
そのわずかな隙を見逃さず、ルドラは片手で印を描いて魔術を発動させる。部屋を切り裂くように荒れ狂う風を、クリスタロスは光の障壁を自身の周りに展開して防いだ。
「イージスの盾よ」
クリスタロスは舌打ちした。後手に回ったせいで、無傷という訳にはいかない。ルドラが後ろに跳んで一旦間合いをとったのを鋭く睨み据えながら、彼は短く詠唱した。
「光よ」
次の瞬間、執務室中を膨大な光が満たした。
それは魔女の視界を完璧に奪う。ルドラが再び目を開けたときには、もうクリスタロスの姿は忽然とその場から消えていた。
「逃げられた、か」
不服そうに呟くと、取り残されたルドラはなんとなく執務室の机の上に視線を落とす。窓からの風にぱらぱらとめくられて開かれた雑誌のページを眺めて、独りごちた。
「ふうん? 約束は守ってくれたみたいだね、ジョーズ・クリスも」
それから机の傍に近付き、雑誌を手に取ってぱたん、と閉じる。
「今月の呪い殺したいランキング一位は災厄か。若いのに恨まれて大変だなあ。あの子に迷惑かかんなきゃいいけど」
壁に突き刺さったままの剣を一気に引き抜いて、ルドラは執務室を後にした。