69 とある二人の夏祭り
八島 華苗は焦っていた。他でもない、その右手が原因である。
さっきまではちょっと慌てていたとはいえ、隣を歩く柊はもうすでにいつも通りの落ち着きを取り戻している。ちょっと気恥しい無言を打ち破って話を振ってくれたのは柊だし、人の波に飲まれそうになるたびにさりげなく助けてくれるのも柊だ。ちゃんと歩幅も合わせてくれるし、さっきなんておいしそうなチョコバナナを華苗に奢ってくれもした。
華苗は改めて意識する。誰がどう見ても、これはデートと言う奴だろう。生まれて初めて──子供扱いではない意味で──エスコートされているのだから。右手から伝わってくる、あたたかくてちょっと固い感触がその紛れもない証拠だ。
「やっぱりけっこう混んでるね……」
「そ、そうだねっ!」
うひゃあ、と華苗は心の中で悲鳴を上げた。いつも通りの受け答えのはずなのに声が上ずってしまった。
華苗は今日、ばっちりおめかしをしてきた。あの紙芝居の後に祭りの開催を聞いてから、少ない時間でオシャレな浴衣を探し出した。もちろん、浴衣なんて小さいころしか着たことのない華苗に最近の流行なんてわかるはずもない。散々に迷った挙句、おかあさんに車を出してもらい、隣町まで吟味しに行った。
そしてこのヘアセット。最近すこし気にするようになってきたとはいえ、華苗は今どきの子ほど髪型にこだわりを持っていない。体育の時や部活の時はヘアゴムで適当に後ろでまとめるが、普段は櫛を入れて自然に整える程度である。そりゃあ、気分によってちょこちょこヘアピンやその他アレンジを加えたりはするけれど、それは女の子なら誰だってすることであり、特筆するべきことじゃあない。
だけれども、今日に限って華苗は髪型に気合を入れた。浴衣に似合うようなヘアセットをおかあさんといっしょに考え、時間をかけて整えてもらった。午前中に部活を切り上げたとはいえ、そこからシャワーを浴びて、髪を整え、そして浴衣の着付けまで行って結構ギリギリの時刻になってしまったのだ。午後の時間のほとんど全てを身だしなみに使ったと言える。
つまるところ、華苗は身だしなみだけは完璧のはずなのだ。それはみんなで待ち合わせをした時に確認してさえいる。ほかでもない柊だってほめてくれたのだから、それに関しては自信を持っていいはずなのだ。
だが、現実はどうだ。
「……八島さん? なんか様子が変だけど……」
「なっ、なんでもないよっ!」
心配そうに顔を覗き込んできた柊を見て、再び華苗の心臓はレッドゾーンに突入する。自分でも顔が真っ赤になっていることを自覚しながら、華苗はぎこちない笑みを浮かべてぱたぱたと手を振った。
そうなのだ。さっきから嬉しすぎて頭が真っ白になっているのである。まるで自分が自分でないような気がして、柊にどう接すればいいのか、自分がどう行動すればいいのかさっぱりわからないのだ。
悲しいことに、いくら装備だけをフルに固めていたとしても、肝心の華苗自身には一切の戦闘経験が無いのである。ましてや人生初の、産まれて初めての実戦だ。もともとこの手のことにはかなり疎い華苗が、実地訓練で成果を上げられるはずもなかった。
唯一挙げられた成果と言えばこの右手──デートらしく手をつないで歩くことくらいだが、華苗はそこから先、どうすればいいのかわからなかったのである。
「……もしかして退屈して、たり?」
「そ、そんなことないもんっ!」
しょんぼりした表情を見せた柊を、華苗は喰い気味で否定した。
夢にまで見た光景なのだ。これで退屈なはずがない。むしろ一生続いてほしいくらいである。欲を言えば、もっとこう、イチャイチャと言うわけではないが、高校生らしい青春のようなあれこれを体験してみたくもある。少女漫画のような──とまではいわないけれども、夏の思い出になるようなロマンティックなドキドキイベントの一つや二つくらいはほしいと思っている。
手をつなげるだけでもラッキーと思っていた華苗であったが、どうやら目標の一つが叶ったことで欲張りになってしまったらしい。
「ごめんね。僕もデートとかしたことない……っていうか、そもそも女子とこうして行動すること自体が無かったから。恥ずかしい話、イマイチ要領をつかめていないんだ」
「そうなの? なんか意外……」
「そうかなあ?」
何気ない柊の一言に、華苗はたまらなくうれしくなった。どうしてそうなったのかという理由は、今の華苗にはわからない。きっと自分がにっこりと笑い、ついついうっかり右手をきゅっと握ってしまったことにも気づいていない。
「そういう八島さんこそどうなの? こういうお祭りとか、誰かと一緒に来たり……」
「……私、そもそも誰かとお出かけしたこと自体があんまり……」
「ひ、人それぞれだからね!」
柊がきゅっと華苗の手を握り返す。お互いほとんど無意識に行っているからタチが悪い……と、その場を彼らのクラスメイト達が見ていたらそう言うだろう。
「ともかく、そんなわけで退屈だったらごめんね。代わりと言ったらなんだけど、屋台だったらいくらでも奢れるから!」
柊は満面の笑みでそう答えた。それはそれでどうなんだ、お前の誇れるところはそれしかないのか、それは言い切っていいことではないだろう──と、クラスメイトがその場を見ていたらそう言うだろう。しかし、今ここにいるのは同じように祭りを楽しむ全く知らない人たちと、屋台で威勢よく商売しているおじさんたち、そして頭がお花畑になりつつある華苗しかいない。そして、華苗は柊の笑顔を見るだけで満足できるのである。
「で、でもそんなの悪いよ! さっきだって奢ってもらったばかりだし……!」
「あはは、だいじょうぶ。元々ここの屋台ってすごく安いし。それに、実は楠先輩じゃないけど軍資金を貰ってるんだよね」
「軍資金?」
軍資金、とは華苗も初耳である。少なくとも先程みんなと別れる直前まで柊が誰かと接触した様子はないし、華苗が屋台で売り子をしている時に接触があったとしても、よっちゃんや清水ならその手の情報をこっそり教えてくれたはずだ。
「僕さ、大学生の姉がいるんだ」
「へえ、お姉さん!」
これはいいことを聞いた──と、華苗は心のメモ帳に記入した。
「友達と祭りに行くって言ったら、『貧乏学生に駄賃を恵んでやろう。せいぜい有効に使うが良い。ありがたく思え』って。浴衣まで買わせようとしてきてびっくりしたよ」
「お姉さんと仲がいいんだね。……いいなあ、うちは一人っ子だから、そういうのちょっと憧れるなぁ」
「実際は面倒くさいだけだけどね……。『弟よ、土産話を期待しておるぞ』ってどこで仕入れたのか、デートのエスコートの本までくれたし。それも二百ページもあったのに、中身は薄いし結論が『気合で何とかしろ! 雰囲気さえ作ればいける!』でさ」
「……読んだんだ?」
「あ」
柊はさっと顔を背けた。耳まで真っ赤になっているのが華苗の身長でもよくわかる。左手がビクッと震えたし、歩くのもほんのすこしだけ早くなったから間違いない。
「いや、あの、その……!」
「読・ん・だ・ん・だ・?」
しどろもどろになる柊を見て、華苗の心の中に今までにないいたずら心が沸き上がった。いつもは冷静な彼がこうも慌てているところを華苗は見たことが無い。なんだかそれがとってもおかしくて、ついついいじめたくなってきてしまう。
華苗はその瞬間に理解した。可愛い女の子をいじめてしまう男の子の心理を。
「ふふん、読んだんだ~?」
ずずい、と華苗は前に──正確には斜め前に回り込んだ。もちろん手はつないだままで、柊は否が応にも華苗から逃れられなくなる。しかも悲しいことに、華苗と柊の身長差はデフォルトで頭ひとつ以上ある。必然的に、華苗は柊の顔を見上げる形──すなわち、ちょっぴり挑戦的な上目遣いで見つめることになった。
幻想的な提灯の明かりが灯るその場所。いつもと違う、活力に満ちながらもどこか神秘的で何かが起きそうな雰囲気。いつもの女の子が見せる、いつもと違ったちょっぴり大人な表情。
くらり、と来たのは果たして誰、あるいは何だったのか。
「よ、読みました……結構しっかりガッツリ、ちょっと夜更かししてまで読みました……いやでも、覚えておいて損はないし、せっかくくれたものを読まないのも悪かったから!」
「そういうことにしてあげる!」
いつになく強気で華苗は柊をからかう。なんてことはない、ただ単にお祭りの雰囲気にあてられたこと、高校生のお祭りだから羽目を外してふざけようと半ばヤケクソ気味になっていたこと、そして柊が漏らした言葉に舞い上がってハイテンションになっていただけである。もし彼女が第三者視点で自分を見ていたとしたら、恥ずかしさのあまり気絶していたとしてもおかしくない。
華苗は基本的にウブで人見知りで引っ込み思案なのだ。こうもふざけた態度が取れるのはなにもかもお祭りの魔力のせいなのである。
「きゃっ!?」
「おっと」
なんてふざけていたからだろうか。華苗は誰かとぶつかって不意にバランスを崩す。思わずよろけて転びそうになるも、さすがは運動部と言うべきか、柊がサッと動いて受け止めた。
そう、柊は華苗の手を引っ張り、そのまま受け止めたのだ。
「……ぁ」
「ほら、あんまりふざけているから」
上から降ってくる柊の声を、華苗はほとんど聞くことが出来なかった。
だって華苗は今、柊の腕の中にいるのだから。
本日何度目になるかもわからないが、華苗の心臓は再びレッドゾーンに突入した。耳も顔も真っ赤だし、ついでに体の奥底からかあっと熱くなってくる。おまけに今回は完全に不意打ちなうえ、現在進行形でそれが続いているのだ。
ついでに言えば、密着度が凄まじい。なんかいい感じの汗の匂いがする。ずっとすんすんと嗅いでいたくなるようなそんな匂いだ。しかも微妙にどくどくと心臓の音が聞こえる。それは果たして自分のものなのか、それとも柊のものなのか、華苗にはさっぱりわからなかった。
「大丈夫? ケガとかしなかった?」
「……だ、だいじょうぶです」
うひゃあ、と華苗は別の意味で心の中で叫んだ。
いったいどうして柊はこんなにも平然としているのだろう。どうして何事もなかったかのように心配をしてくれるのだろう。もしかして、自分はそういう対象として見られていないんじゃないかとさえ思えてきてしまう。
一瞬のうちにそれだけのことが頭を巡って、華苗の脳みそはオーバーヒート寸前になっていた。目はぐるぐると周り、もうほとんど何も聞こえていないし、何も考えていない。ただ、無意識的にぎゅっと空いている手で柊を抱きしめ返し、なんとなくほおずりしてしまっていた。
「……あっ、ごめん! もしかして汗臭かった!?」
「そ、そんなことないですよ?」
汗臭くなどあるものか、と華苗はぼんやりと思う。武道部なのに、どういうわけか柊に限ってそんな匂いなんてしたことがない。それを言ったら、むしろ炎天下でバリバリ作業をする華苗のほうが汗臭い可能性すらある。
さらに、さっきからなぜか体が熱いせいで、こうしてしゃべっている今でさえ華苗の浴衣の中は結構蒸れて汗をかいているのだ。実はちょっと気になってはいるのだが、さりとてそのためだけにこの腕の中から出るのはあまりにも惜しい。
「ああっ! ごめん、その、浴衣とか触っちゃって……!」
「ちょっとまえもおなじことしたじゃないですか。はずかしいことなんてないです、はい」
肩から手が外れるのを惜しく想いながらも華苗は機械のように答える。ほんの二週間とちょっと前にも同じように抱きしめられたことがあるのだ。今更である。それが例えクマから守ってもらうためだったという緊急事態だったとしても、事実は事実だ。決してノーカンではない。むしろ華苗がノーカンにさせない。
それに、だ。
デートなら、むしろこの程度のイベントくらい、息をするようにこなさねばならないのではないか?
もはや正常を失いつつある華苗の脳みそは、そんな己が欲望に塗れた結論を出した。
「……それとも、私じゃ嫌だった?」
ほんのちょっとだけ、華苗は勇気を出した。自分でも声が震えているのがはっきりとわかるし、声に出した瞬間、やっぱり言わなければよかったとも思った。それでなお言い切れたのは、柊の胸に顔をうずめている今、どう頑張っても互いに表情がわからないことと、今なら言える気がすると思ったからだ。
「嫌じゃない……っていうか、むしろ嬉しくて願ったりかなったりではあるんだけど……!」
何か電撃の様なものが華苗の体の真ん中を突き抜けた。それは頭のてっぺんから足の先まで駆け巡っていく。ほとんど無意識に、華苗は自分の体を柊に押し付け、先程よりも強く柊を抱きしめた。
どうせ、周りには似たようなことをしているのがいっぱいいるのである。わざわざ華苗たちだけに注目するような奇特な人間はいない。そして、今この瞬間を逃したら二度とチャンスはこないかもしれないのである。
いつになく強気で肉食系な華苗であった。もちろん、何もかもお祭り効果である。
「ご、ご機嫌そうだね?」
「デートだからね!」
「楽しんでもらえて何よりでございます」
パッと離される体。華苗のくちびるがむぅ、ととがってしまったのはもはやしょうがないことだろう。柊のこの勇気ある行動によって、後に華苗が枕に顔を埋めてバタバタと悶絶する未来は回避されることとなった。この段階においては、だが。
「……あ」
「どうかした?」
しかしながら、だ。
同じく道行く着物姿の女の子たちを見て、華苗は考えたくない一つの想像をしてしまった。
「……ごめんね、貧相な体で。もっとこう、女の子らしい体だったらよかったんだけど」
「ややや、八島さん!? どうしたの!? 今日なんか変だよ!」
華苗の視界の端にふっと映った浴衣姿の──小学生の女の子。お兄ちゃんだろうか、中学生か高校生か微妙な年代の男の子にじゃれついている。まさにさっきの華苗のように、腕に絡みついて、抱きしめられるように。
ふと、華苗は自分を客観的に見てしまう。もしかしてさっきのは、デートと言うよりかはむしろ、兄と戯れる妹のそれに近かったのではないかと。
「ううん、わかってるもん。私、いろんな意味で小さいし……」
「そんなことないから! 八島さんは可愛いから!」
「……ホントに?」
「本当! 浴衣もすっごく綺麗だし、髪形も可愛いし、あと腕の中にすっぽり収まるところが特に! 柔らかいし、なんか良い匂いするし、強く抱き締めたら壊れちゃいそうで……!」
「……なんかえっち」
「あ」
柊が華苗のいつもと違う雰囲気にドキドキしていたのはおそらく本当だろう。華苗でもはっきりわかるくらいに華苗の右手から感じるそれは熱くなってきている。ついでに柊の眼は気恥ずかし気にあちこちに動いているし、華苗と顔を合わせようともしない。華苗がにまにま笑いながら目の前に動くと、まるで同極の磁石のようにそっぽを向く。
どうやら、柊はうっかり口を滑らせてしまう癖があるらしい。いいことを覚えたと、華苗は心の中で密かにほくそ笑む。
「あっ! ほら! あそこにりんご飴の屋台が! 八島さん、ああいうの好きじゃない?」
「……なんかえっち」
「ごめんなさい」
パッと華苗は右手を離す。柊が絶望の表情を浮かべた。りんごのように真っ赤になったほっぺをゆるゆると膨らませながら華苗はにっこりと笑う。
今なら、行ける気がしたのだ。
「これはお仕置き、なんだからね!」
さっと指を絡める。五本のそれらが互いの体温を伝え合い、今までにない高揚感と幸福感を華苗にもたらした。先程までとは違い、指の間からもその豆でちょっと硬くなった感覚が伝わってくる。
おそらく、今日一番華苗が勇気を出した瞬間ではないだろうか。
「あの……」
「何も言わないで」
自分からやったというのに、華苗は恥ずかしくてとても柊の顔を見る気にはなれなかった。話すのだって気恥ずかしい。自分でも何をしているかわかっているのにわかっていなくて、照れた顔を見られないように逆に柊の腕を引っ張って屋台へと歩いていく。
「……私じゃ、いや?」
右手が強く、されど優しくぎゅっと握り返された。それが答えで、それ以上は必要なかった。
さて、いかにも高校生らしく恋人つなぎをした華苗たちは、とても高校生とは思えない初々しさを纏ってその屋台へと近づいていった。どうやらかなり盛況のようで、小学生を中心としてかなりの人混みとなっている。
「よう、華苗ちゃんに克哉。文化研究部の屋台──《甘夢工房》へようこそだ」
「あ、おじいちゃん!」
その屋台では、いつも通りの甚平姿をした──男のようにも女のようにも見える、纏うオーラが歳よりくさい、髪の毛なんて完全に白髪のおじいちゃん、すなわち園島西高校のおじいちゃんがいた。
どうやら気づかぬうちに華苗たちはペット入場可能エリアをぐるっと一周回ってきていたらしい。ちょうどみんなと別れて行動し始めたのがここからすぐ近くの園芸部の屋台だから間違いないだろう。
チラッと華苗は焼きトウモロコシの香がする方向を見る。盛況しているためか、ここからじゃ澄香の頭がちょろっとしか見えない。華苗は自分の母親の背の低さに心からの感謝と賛辞を送った。
「その様子だとなかなか楽しんでいるようだねェ。仲良きことは実に善き哉ってやつだ」
「お、おじいちゃん!?」
「なんだい、別に恥ずかしがるこたぁないだろうに。同じようなのがそこらにゃたくさんいるじゃあないか。これも思い出の一つだろう? 華苗ちゃんはこういう思い出を作りたいと思っていたはずなんだがねェ?」
おじいちゃんがいたずらっぽくからからと笑う。言い返そうにも、まったくもってその通りなので華苗は赤くなって黙りこくるほかない。からかわれてなお柊と手を離さないあたり、華苗も成長したのだろう。尤も、そんなことなど頭からすっぽ抜けていただけの可能性もあるが。
そして、助け舟を出してくれたのもまた、柊であった。
「そ、それよりおじいさん! ここの名前の甘夢工房──スウィートドリームファクトリーってどういう意味なんですか? なにかこう、名前の由来とかってあるんですか?」
「うん? まあ、そう大したこたぁないんだが……。ちょっとしたシャレさね」
「しゃれ?」
おじいちゃんは大仰にうなずきながら、何か大いなる秘密を打ち明けるかのようにもったいぶって話し出す。
「一応、この手の甘味については夢一が主導するってことになっているんだ。私はあくまで文化研究部で、あいつはお菓子部を兼任しているからねェ」
「そういえば、おじいちゃんってなんだかんだでかけもちはしていないんですよね」
割といろんな部活でちょくちょく見かけるおじいちゃんであるが、彼はあくまで助っ人として参加しているだけであり、部活動そのものは文化研究部一本に絞っているのである。
「で、だ。夢一は──さとう ゆめひとで苗字がサトウだろう? 砂糖だから甘い。甘いんだ」
「……」
「夢はそのまま夢さね」
「……」
「甘い夢の、高校生の坊主──こりゃあ、高坊、コウボウじゃあないか!」
何がおかしいのか、おじいちゃんは自分で言って自分でケラケラ笑っていた。
「だから、甘夢工房。直訳してスウィートドリームファクトリーってわけだ」
「あ、あはは……」
華苗の口からは乾いた笑いしか出てこない。
よりによって、よりにもよって、名前の由来が親父ギャグなのだ。それも発案者があのおじいちゃんである。もっとこう、おじいちゃんなら理知的でしっかりとした由緒ある名前を付けそうなはずなのにだ。こうも肝心なところですごく残念だったとはいったい誰が思ったことだろう。
華苗はこの短いようで長い五か月間の中で、初めておじいちゃんの短所、あるいは人間染みたところを見つけてしまった。
「さて、そんな話は置いとくとして、だ。何も冷やかしに来たわけじゃあないだろう?」
「あ、そうでした。えーと、りんご飴と……わたあめもください。二つずつで」
「はいな、毎度あり。危ないからどこかで立ち止まって気を付けて食べるようにね。なんにせよ、祭りを楽しむといい」
「了解です!」
おじいちゃんはわざわざ、りんご飴を手提げのビニール袋に入れてくれた。もちろん、華苗たちはそれぞれ片手しか開いていないためである。柊が渡した五百円玉からお釣りをしっかりとはじき出し、ポケットに入れてくれるサービス付きだ。
「とりあえず、どこかでわたあめ食べようか」
「そだね」
華苗の頭ほどもある大きなわたあめ。これだけ大きいとなると、食べきるのにも相応の時間が必要だろう。この人ごみの中、歩きながら食べるのは困難を極めるし、そもそもとてもキケンな行為である。
なんとなく、そう、なんとなく華苗は人ごみの少ない方向を意識して歩いて行った。別に深い意味があったわけじゃあない。おいしいわたあめなら誰にも邪魔されないようにゆっくりと食べたいと思っただけである。決してロマンチックな場所を探していたわけではない。
やがて、あつらえたかのように人が少なく、どことなく静かでしんみりとした雰囲気、かつ提灯の明かりが遠くて薄暗く、ぼんやりとした光しかない場所に出た。
「ちょっと暗いけど、ここでいいかな?」
「うん。勝手知ったるなんとやら。ここなら何度も通ってるし、多少暗くても僕は大丈夫だよ」
ちょうど中庭の外れ……というか裏手にあたるところなのだろうか。校舎から武道場までの抜け道として使われる場所らしい。見晴らしがよく、昼休みにはここでキャッチボールをする生徒もいるのだと柊が教えてくれた。
「それにしても、おっきいねぇ……!」
華苗はぱくりとわたあめにかじりついた。思っていた通り、いや、ある意味では思った以上にそれは美味しい。わたあめ特有の優しい甘さと、口の中に入れた瞬間にほわんと溶けてしまうその舌触りが最高である。お祭りの時だけしか食べられないからか、なんだか記憶にある以上に楽しく、ステキなもののように感じられた。
「確かに。このサイズ、最近はそうそう見られないよ」
それは柊も同じだったのだろう。いつもよりいくばくか子供っぽい笑みを浮かべて、楽しそうにわたあめにかじりついている。わたあめに顔を埋めるかのように貪る彼の姿を見て、華苗はなんだかとっても嬉しい気分になった。
そして調子に乗りまくっていた華苗は、後のことなどすっかり忘れ去ったままあることをしてしまいたくなった。
「ねえねえ、柊くん」
「はいはい、なんでしょう?」
「私、一回でいいからやってみたかったことがあるの」
くどいようだがもう一度言おう。今の華苗はお祭りの魔力にあてられている。RPG風に言うならば、混乱とか魅了のバッドステータスにかかっている状態、すなわち正常な判断力が失われた状態にあるのだ。
「はい、あーん!」
華苗はさっと柊のわたあめを奪い取り、ずずいとそれを突き出した。チキンな華苗は、未だ自分のそれでやってみる勇気は出なかったのである。
「や、八島さん?」
「えとね、男の子って女の子からこういうことされると嬉しいって読んだの。男子高校生の憧れのトップテンに入るって」
それ以外にも、様々な理由がある。
先ほどから自分ばかり楽しんでいるが、果たして柊はどうなのだろうかと華苗は思ったのだ。デートっぽいことがあまりできていないし、ここらで一発、女としての甲斐性を見せようと思った次第である。柊が喜んでくれるならそれでいいし、なによりもすごくそれっぽい。それに、これなら華苗の臆病なチキンハートでもハードルは低めだ。
だが、華苗は自分で墓穴を掘ったことに気づいていなかった。
「……八島さん、そういうの読んだんだ?」
「あ」
ほんの少し前に自分がしたことに対する強烈なカウンターを喰らってしまった。
「あ、や、その……!」
「読・ん・だ・ん・だ・?」
しどろもどろになる華苗を見て、柊はしてやったりとばかりににっこりと笑った。どうやら先程の件を少し根に持っていたらしい。まあ、わからないことも無い話である。
その顔なんてはっきりは見えないはずなのに、華苗は何もかもを見透かされたような気分になってしまい、最初の威勢はすっかりとなくなってしまっていた。
「よ、読みました……。おかあさんが、万が一のこともあるから覚えておけって本を買って……。おかあさんの無駄に惚気た思い出話と一緒に、二人でわいわいしながら読みました……」
そう、華苗は全てにおいて準備してきたのである。当然、なんだかんだ言いながらもこういったデートの定番だってしっかり学んでいた。残念ながら有効なコイバナをしてくれる相手がおかあさんしかいなかったが、まるで漫画を読むような気持ちで二人でそれを読み、ああでもない、こうでもないと想像を膨らませて楽しんでいたのは紛れもない事実である。
確認するまでもないが、華苗の母の美桜はかなり乙女チックな思考回路を持っている。その娘である華苗もまた、その嗜好の一部を引き継いでいた。
「だっ、だってさ! 少しでもみんなで楽しみたいって思ったんだもんっ! こ、高校生なんだしこのくらいのノリは普通だと思ったのっ!」
苦しい言い訳である。なんでもかんでも高校生のノリやお祭りの魔力にされてはたまったものじゃない。こういう変に見栄を張るところも、華苗が子供っぽく見える理由なのだろう。
「ま、たしかに。──あと、八島さんが読んだ本、すっごく的を射ているいい本だよ」
「──あ」
柊は、ぱくっとそれを食べた。わたあめで隠れてしまっているが、華苗には柊の表情が手に取るように分かった。
「僕も、女の子からこうしてもらうの、実は憧れだったんだ」
「ひ、柊くぅん……!」
「い、言っとくけど、すっごく、すっごく恥ずかしいんだからね!」
言葉にされて、華苗も恥ずかしくなってしまう。よもや数時間後にこんなことになるなど、着付けをしている華苗は想像できただろうか。なんだかもう今日だけでいろんなことがありすぎて、華苗はもしかして自分が夢を見ているのではないかと思ってしまうくらいだった。
「それにしても、八島さん……っていうか、女の子ってお母さんとそういう本を読んだりするんだ。まあ、八島さんのお母さん、すっごく見た目が若いけど……ウチの母さんとは大違いだよ」
「……それ」
「……えっ」
もうここまで来たならなるようになれと、華苗はそのチキンハートを奮い立たせる。自動車で言うならアクセル全開、バイクで言うならフルスロットル、まあとにかく全身全霊、全力をもってまたも自己ベストとなる勇気を振り絞った。
「わ、わたっ! わたしのおかあさんも八島さんっ!」
頭がパニックになっているからか、まるで意味のある言葉を紡げていない。恥ずかしさのあまり華苗はうつむいてしまう。ついでに言えば、手も足もカタカタ震えているし、肩なんてぷるぷる震えて小刻みな振動を柊に与えていた。
「え……あ!」
だが、柊はそれでピンと来たらしい。華苗が何を言いたいのか、自分に何を求めているのか、しっかりと理解したようだ。
「──そうだね、華苗ちゃん」
もう何度目になるだろう。華苗の頭の中は真っ白になった。奇しくも耳元で囁かれたそれは、華苗が今まで感じたこともない何かを感じさせる。背中が妙にぞくぞくして、背骨から熱い何かが体中に広がっていくかのような奇妙な快感があった。
華苗は今まで恋の一つもしたことがなかった。同年代の友達が話す恋のことなんてこれっぽっちもわからなかった。なんだかんだでみんなませているだけ、実は本気で恋なんてしていないんじゃないかと捻くれて物を見ていたことさえある。
だがしかし、華苗は今この瞬間、はっきりと理解した。恋とは何か、自分が柊をどう思っているかを。
たかが、たかが名前を呼ばれただけなのだ。それなのに、こんなにも幸せで、嬉しくて、甘くて、胸がきゅっとなって、暖かな気持ちになれるのだ。
これこそが恋の甘さなのだと、華苗はしっかりと理解した。同時にまた自分は世界で一番幸せなのだと、自分以上に柊のことが好きな──否、この『好き』という気持ちよりも強い『好き』を持つ人間など未来永劫存在しえないと断言することだってできた。
「も、もういっかい!」
だから、ついついお願いしてしまう。
だって、とまらないのだ。しょうがないのだ。
「僕もすっごく恥ずかしいんだけど……」
「おねがい! なんでもするから!」
「……じゃあ、華苗ちゃんも同じことをしてくれる?」
「……っ!」
ぼふん、と華苗の頭はパンクした。
華苗は今までに男の子の名前を呼んだことが無い。そりゃあ、幼稚園の時とか小学校低学年の時くらいならあるが、子供のうちは男女の違いなんてあってないようなものである。つまりはノーカンだ。
この短時間の間で華苗の脳みそは酷使され過ぎた。もう、十年くらいぶっ続けで点けっぱなしの年代物のパソコンみたいな感じになっている。
「か、か、か……!」
否。どちらかというと壊れたラジカセだろうか。
「か、かつっ! かちゅっ!」
大きく噛んだ。果たしていま彼女が感じている恥ずかしさは、いったいどういうものなのか。
「──かちゅやくんっ! 克哉くんっ!」
言えた。言った。言い切った。
まさか本当に呼んでくれるとは思わなかったのだろうか。それともあまりにも彼にとっては破壊力があったのか。いずれにせよ、柊は華苗に負けないくらい放心してぼうっとしている。この様子だと華苗の現状にも気づいていないだろうし、そもそも華苗が噛んだこともすっかり忘れ去ってしまっているかもしれない。
「克哉くん? ──克哉くん!」
不思議なことに、一度言うと後はすんなりいけるようで、華苗は名前を何度も呼んでぼうっとしたまま動かない柊を呼び戻そうとする。
「……あ、ご、ごめん!」
「どしたの? だいじょうぶ?」
心配そうに柊を見上げる華苗。どうやら華苗は、人が自分にどういう影響を与えるかはわかっても、自分が人にどう影響を与えているかはまるでわからないらしい。
「ん、だいじょうぶ。ありがとね、華苗ちゃん」
優しく名前を呼んでくれた柊。華苗は再び歓喜の渦に包まれた。
「克哉くんも、これでいい?」
「十分すぎるほどでございます。……華苗ちゃん、もしよかったら今後ともそれでよろしくお願いできます?」
「ふふん、克哉くんこそ!」
ひゅるるる、とちょうどいいタイミングでいくばくか気の抜けた音が響き渡る。あ、と華苗と柊が空を見上げた瞬間、彩のある炎が夜空に大輪の花を咲かせていた。赤、青、黄色と色のバリエーションが豊富で、華苗はしばし、何もかもを忘れてぼうっとそれに見入ってしまう。
「きれい……!」
どどん、どんと景気よくそれは打ち上げられていく。知らず知らずのうちに、華苗は再び強く柊の手を握っていた。
「学校主催のお祭りの割りには結構本格的な花火だよね。なんでも、OBたちの寄付金でやってるそうだよ。で、花火関係の仕事をしているOBが毎年打ち上げてくれるんだとか」
「へえ……! 克哉くん、詳しいね!」
「まあ、ね。受験の時にちょっと調べたんだ」
ちなみに完全に余談であるが、園島西高校の毎年の卒業生はおよそ三百人である。これが一人一万円寄付してくれると仮定し、今までの卒業生三十年分が集まるとすると、なんと三百万円が三十年分で単純計算で毎年九千万円ものお金が花火のためだけに動くということになる。学校主催と言う規模にしてはバカスカ景気よく打ち上げられるのもこういった背景があるのだ。
「それにしても、本当に綺麗な花火だ……!」
「そうだね……!」
ぱあん、どおんと夜空に炎の花が咲くたびに、色鮮やかな炎が華苗たちの顔を照らす。お祭りのクライマックスに相応しいこのイベントは、まさに華苗が思い描いていた高校生活の思い出に相応しいものであった。
夏の夜花はずっとずっと空を染め上げていく。それが照らし出す二人の影は、手の部分でしっかりと重なっていた。情緒的な光は暑さも静かさも、華苗の心に渦巻いていたドキドキさえも飲み込んでどこかへすっと消えていく。
「克哉くん」
「華苗ちゃん?」
「……こういうのを見たときって、『君の方が綺麗だよ』って言うものじゃないの?」
なんだかたまらなく気恥ずかしくなった華苗は、最後にちょっとだけふざけてみた。
「……えー、あー、華苗ちゃんの浴衣姿のほうが、花火なんかよりも何倍も綺麗でかわいいです」
照れながらも返されたその答え。華苗は彼だけにとろけるような最高の笑顔を見せ、小さくガッツポーズをとった。
こうして、華苗の夏祭りは終わりを告げた。
ちなみに。
余談ではあるが、華苗は車で家に帰る途中、放心したかのように終始無言だったらしい。美桜は何があったのかとにこにこしながら何度も何度も問い詰めたそうだが、結局人形のように口を割らなかったそうな。
そのままぎくしゃくした動きで部屋の中へ戻った華苗は、ぱたんと扉を閉めた直後、みるみる顔が真っ赤になってぺたんと座り込んでしまった。
そして、祭りの中での自分の行動を思い出し、浴衣姿のままベッドにダイブ、枕に顔を埋めて悶絶したらしい。
これも善き思い出なのだろう。たぶん。
お祭りこれでおしまい! 次回からはいつも通りな感じに戻ります。
正直深夜テンションでもなければ書き上げることなぞできなかった。念のためですが、私自身にはこういったドキドキイベントなんて存在しなかった……と宣言しておきしょう。
華苗ちゃん、この手のことには疎くて消極的なはずなのに、園芸部、甘夢の計四ペアの中で一番イチャついているんじゃああるまいか?
男子高校生のあこがれトップ10ってなんだろう……。ひざまくら、あーん、ボディタッチ、服の裾くいくい、手繋ぎ、手料理、ぎゅってする、お弁当作ってもらう、一緒に登下校、自転車二人乗り、おでここつん、看病、回し飲み、ジャージ貸し出し、一緒に勉強……くらいしか思いつかないなぁ。
なお、お盆三日目の出来事ですので、この夏祭りは0815のことだと推測されます。某魔系学生のあいつはこの時期にはすでに、彼女(まだ正式に付き合っていない)と普通の恋人たちでさえしないほどイチャイチャしておりましたとさ。




