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麗しの泥棒貴族  作者: えきすとら
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第十章 そして、物語のはじまり

  

 ローデラントに戻って二日後。

 ラキシスはサルバローデに呼ばれて宮殿へ参内した。

 レイジェルとダヤンを控えの間に待たせ、一人で太后の居室へ通される。

 係の女官がラキシスの来訪を告げると、(うすぎぬ)で仕切られた部屋の奥から「お入りなさい」とサルバローデの声がした。

 半透明の布で仕切られた奥に入れば、サルバローデが席を立ってラキシスを手招きした。

 その横には、ティーカップを手にしたアストルードが座っていた。第九代ローデラント国王、アストルード四世陛下。

 まさか国王もお成りとは知らず、ラキシスは黙って膝をつき、深々と頭を下げる。


「オランジュ伯爵。こたびは王国のため、そして我が母と兄弟のためによく働いてくれた。王室を代表して礼を申す。どうもありがとう」

「身に余るお言葉にございます」

「顔を上げなさい。そしてここへ座るといい。母上、では私はこれで失礼しますので、後はお二人でゆっくりと。私はアリオンと釣りをしに参ります」

「アリオン王子とは、打ち解けましたか」

 サルバローデが聞くと、アストルードは相好を崩し、嬉しそうに頷いた。

「それはもう。話すことが尽きません。お互いに離れていた間にあった全てを教えあうには、時間がいくらあっても足りぬような気がします」

「そうでしょうね。こうして共に過ごせる時間を大切になさいませ。ある意味お金や宝石よりもずっと貴重なのですから」

アストルードは義母に一礼すると、活発な足取りで部屋を出て行った。 

「ラキシス、こちらへいらっしゃい。お茶はいかが?」

「頂戴します」

 王太后が手ずから()れてくれる紅茶を椅子に掛けて待ちながら、ラキシスは聞いてみた。


「陛下は、事情をすべてご存知で……?」

「話せることは話しました。国王陛下に隠し事があってはなりませんからね。ご自身に兄弟がいて、理由(わけ)あって離れ離れに暮らしているという事情も、陛下は幼い頃から先王さまに聞かされて育っておいでです。今回の事件のこともあらかたは。レッド・オーランドと王家の間で交わされた契約については省きましたけれど。大方の話は包み隠さずに報告しましたが、あなたは単にわたくしの使いとして、指輪を受け取りに行ったということにしています。お砂糖はひとつ?」

「いえ、今日は何も入れずに結構です」

「どうぞ、召し上がれ」

 湯気立つ紅茶のカップを受け取り、ラキシスは香りをまず楽しみ、熱い茶を一口含んだ。スズランに似た甘い匂いがする。

「ウバですね。いい香り……」

「あなた好きでしょう。ストレートが一番良いけど、ミルクをいれても美味しいのよ」

 サルバローデも自分のカップを取って、その香りよい湯気を口元にあてる。

「いろいろと聞きたい話があるのでしょう。答えられる限りのことには、全て答えますよ」

 ただし、言えないことは言わない、という意思表示。ラキシスは、こうはっきり言われてはかなわないなあ、と苦笑する。

「リオンの……いえ、アリオン王子殿下のお母さまは、結局どなたなのですか」

 それは同時に、アストルード四世の生母は誰なのかという問いでもある。


 サルバローデは目を伏せた。

「その話をするなら、もっと古い話から始めなくてはいけません。構わないかしら?」

 ラキシスは無言で頷いた。

「昔、わたくしがまだ王室に嫁ぐ前のことです。わたくしには親友が二人いました。一人はアルキス。あなたのお母さま。もう一人はリアンヌ・ド・ボルドー。あなたも先日リタリーの国境で会ったでしょう。リア・デ・モンローはリアンヌの変名です」

「ああ、あの方が……」

「アルキスは伯爵家を継ぎ、リアンヌは女性武官となって、近衛部隊の将校になりました。わたくし達は学友で。幼い頃から仲が良くて。何をするのもいつも一緒だったの。……ところでわたくしには姉が一人いたのですが」

「いきなり話が飛びますね」

「ごめんなさいね、わたくし、説明するのが下手なのよ」



 サルバローデには姉が一人いた。

 父親は同じだが母親が違う。サルバローデはリグドレン公家正室の娘だが、姉は公爵の愛人の子だった。公爵は自分の娘として認知していたが、癇癖(かんぺき)が強い正夫人が正式に引き取ることを嫌がったので、正妻の嫉視(しっし)を恐れた愛妾は第二夫人になることもできず、あくまでも情人として、生まれた娘と共に別の屋敷で暮らすことになった。

 それでも公爵は、愛妾の子を正妻の子と分け隔てなく可愛がって育てた。幼い頃から姉妹はさいさい顔を合わせ、仲の良い普通の姉妹として育った。姉の名は、エルフリーデといった。

 エルフリーデは妹よりも華やかな顔立ちをしていたが、性格は妹よりもおとなしやかで、より控えめな性質だった。サルバローデは、おとなしめの容貌に騙されがちだが、これで意外と気丈なところがある。二人の特性は正反対だが、それでよけいにウマが合った。

 姉妹が宮中の舞踏会でお披露目される年頃になると、公爵は二人の娘を時の国王に紹介した。その舞踏会の席には、当時の王太子も列席していた。そして王太子はエルフリーデを見初(みそ)めたのだった。エルフリーデも王子に恋をした。サルバローデは姉の初恋を祝福し、若い二人の恋が成就するようにと見守った。

 しかし二人の恋には障害がいくつもあった。


「王家の典範で、王族の正妃になる娘はその父親の正妻の子でなくてはならないという決まりがあったのです。第二夫人の娘でも許されないのに、愛妾の子が王太子妃に選ばれるなど、あってはならぬと」

 リグドレン公は、それならエルフリーデを正妻の子として引き取ろうと考えたが、当の正妻の癇癪(かんしゃく)にあってままならない。

 むしろ正妻は自分の娘であるサルバローデを王太子妃に立てるべきだと画策した。正妻の親類には高級貴族や宮廷の官僚も多く、彼らもサルバローデ入内のために助力を惜しまなかった。

「わたくしにとっては迷惑なだけの話でした。それよりも、姉が可哀相でたまらなかった。姉も悩んで、自分が身を引けばそれで全てが丸く収まるかもしれないと言ったけれど、人の恋情とはそんな簡単に割り切れるものではなくて。そうしているうちに国王陛下がお隠れになり、王太子様が王位を継承されました」


 アベル・クロード二世の即位。それは他国にとっても新たなる政略相手の誕生であり、まだ独身の国王の価値を最大限利用しようとする者達には、無視できない事柄だった。

 真っ先に動いたのがアイネンザッハ帝国だ。

皇帝の息女シュザンナ・バルトロワ皇女との婚姻の申し入れ。これはローデラント側にとっても軽々とは扱えない提案だった。利用価値は大きいが、同時に危険性も計り知れない。そして、容易には断れない。迎え入れるなら、王妃の地位を持ってするしかない。

「でもわたくし達にとっては、むしろ好都合にも思えたの。シュザンナ様が王妃になるなら、わたくしが無理に輿入れする必要はなくなるわ。そして姉が第二妃として後宮に入ることには、何ら問題がないと思ったわ。確かに正妃様との確執は生じるかもしれないけれど、姉は立場はどうあれ、愛するお方にお仕えできるならそれに勝る幸せはないと考えていたの」


 しかし、周囲の思惑がそれを許さなかった。

 サルバローデの実母は自分の娘をとにかく後宮に上げることに執着し、その身分が第二妃であっても構わないと主張した。

 では、エルフリーデを第三妃として迎え入れるか? それは社会通念的に許されなかった。異腹とはいえ血の繋がった実の姉妹が、一人の男に妻として同時に(はべ)るなど、良識的に認められない。

 それ以前の問題として、アイネンザッハ帝国は宗教上の制約で一夫一婦制が原則だ。無論、実際には皇帝も友人という名の愛妾を幾人も抱えていたが、それらはあくまで愛人であって、妻ではない。

 第二妃という存在さえシュザンナ皇女の感情を害するのに、三人目の妃を後宮に上げるわけにはいかなかった。

 そして全ては周囲の人間の都合と欲のままに、当人同士の情愛は無視され、シュザンナ皇女が王妃に、サルバローデが第二妃として後宮の女主人の座を二分することとなった。

 サルバローデはそこまで話すと、ふっと自嘲に似た笑みを唇に宿す。


「これは内緒にしてちょうだいね。わたくしは実のところ、前の王様を女として愛してはいなかった。兄のように思っていたし、友人としてはとても良い人。そして国王陛下として忠誠を誓っていたけれど、それは恋でも愛でもなかった。むしろ家族としては姉の方がずっと好きだし、大事だったわ。先王様もおそらくそれは同じこと。わたくしを妹のようには愛せても、妻として受け入れることは決して出来なかったでしょう。だからわたくしは、わたくしの地位と立場を最大限利用して、姉と先王様の仲立ちをすることにしたの。姉をわたくしの侍女として後宮へ迎え入れたわ。そして二人の関係が続けられるよう、影から手助けをしました」

 しかしそれは、シュザンナ王妃にとっては夫の裏切り行為以外の何物でもなかった。

「アルキスやリアンヌもわたくし達に協力してくれて。しばらくはそれで上手くいっていたの。シュザンナ妃が、姉と先王様の関係に気づくまでは……」

 その頃にはすでに先王とシュザンナ妃の関係は冷え切っていて、夫が不貞を働くならば自分もと、まるであてつけるように遊興の生活を激しくするようになっていた。

 もともと()が強く、派手な遊び好きの女性ではあったが、その傾向がいっそう強まり、王宮を出て離宮にこもり、アイネンザッハ出身の外交官や貴族ばかりの取り巻きを集めて、好き勝手をし……やがてシュザンナは懐妊した。

 子の父親は、当然のごとく先王とは別の男だった。


「同じ頃、姉も先王さまの御子(みこ)を身ごもりました。わたくしは姉が懐妊したら、その子をわたくしが産んだことにして、王室に迎え入れるつもりだったのだけれど……偶然にも姉の出産が迫った頃に、シュザンナ様が死産をされてしまったの」

 それはシュザンナ妃にとっては不幸な出来事であり、そしてローデラントにとって幸いしたというのは、あまりにも残酷だろうか。

「シュザンナ様のお産はきつくて。お子様は、亡くなった状態でお生まれになりました。出血がひどかったシュザンナ様も、しばらくは意識が戻らない状態が続き……。その間に、ほどなくして姉が双子の王子を産みました。先王さまとわたくしは相談し、姉が産んだ子を王妃様が産んだことにするよう、信頼できる侍医に命じました。シュザンナ様が死産なさったのはまだ内密の状態でしたから、それが可能でした。そうすれば、第二妃の産んだ子というよりもはるかに格が上がりますから。廷臣達の中にはシュザンナ妃の不貞を疑う者も多かったけれど、先王さまが明確に自分の御子として宣言したので、噂はすぐになくなりました。帝国(アイネンザッハ)にとっても、皇室の血が混じった世継ぎの王子は、喉から手が出るほど欲しいはず。他の女が産んだ子に王位を継がれるのは都合が悪いでしょうから、シュザンナ妃が王子を産むまで、絶対に諦めないでしょう。そこを逆手に取ろうと考えたのです。やがてシュザンナ様は意識を取り戻し、あの方は自分の子と信じてアストリード王子を腕に抱かれた……。アリオン王子は姉が引き取り、後宮を下がって自分の手で育てることにしました」


 リアンヌがその護衛役を買って出、国王がローデラントの片田舎に屋敷を用意し、母子(おやこ)はひっそりと生活するようになった。

 双子を忌む習慣のため、兄弟を別れ別れにするのはエルフリーデも悲しんだが、これは致し方のないことだった。

 やがて数ヶ月が過ぎた頃。

 シュザンナは、明らかにアベル・クロード二世に似てくるアストリードの様子を見て、違和感を覚え始めた。王家の伝統的な赤毛と、巻き毛。顔立ちも自分とはまるで似ずに、ましてや実の父親の面影が少しも無い子……。

「シュザンナ妃自身が、ご自分が身ごもった子の父親が先王様ではないと百も承知していましたから、それは不気味だったでしょう。だからと言って、自分が気に入りの男と密通していたなどと公表するわけにはいかない。王家の世継ぎを必ず産めと、帝国から命じられて来たのですから。自分が不貞を働いたなどと、自ら皇室に暴露することも出来ません。なにしろアストリード陛下は、先王様によく似ていらっしゃいますからね。そのおかげで、シュザンナ妃の不倫を疑う者は今の宮廷には一人もいません。まぎれもなく先王様のお子として皆に信じられています。実際、それは事実なのですが」

 しかし、シュザンナにとってはありえないことなのだった。この子は自分の産んだ子ではないのではないか。女の本能でそう疑い始めたのも、無理からぬ話であった。


「シュザンナ様はもともと子供好きではいらっしゃいませんでしたが、それに加えてだんだん王子を気味悪がるようになって、遠ざけて……。それでアストリード様の養育は、わたくしが中心となって出来るようになりました。帝国側が送り込んできた教育係は良い顔をしなかったけれど、何しろローデラント語よりも先にアイネンザッハ語を教えようとするような者達ですもの。そんな教育係など、宮廷中の誰も支持しやしません。わたくしは先王様と共に、アストリード様を精一杯お育てしようと努力しました。本当の子供のような気持ちで育てたわ……。それが余計にシュザンナ様の気に障ったのか、あの方はいっそうわたくしを嫌われて、そして疑惑を深めていったのです」

 それはいっそ偏執的な、あるいは病的な執念で、やがてシュザンナは側近に命じ、エルフリーデの行方を探し当てた。エルフリーデが男児を育てていることも知った。その子供がアストリードと双子の兄弟であることも調べ抜いた。疑惑は憎しみとなり、憎悪はそこで頂点に達した。アリオンは、その頃一才になろうとしていた。

「一人の女として嫉妬にかられたのか、あるいは帝国(アイネンザッハ)から共について来た臣下達にそそのかされたのか。理由は様々でしょうけど、シュザンナ様は姉とアリオン王子が暮らす屋敷に刺客を放ったのです。それを察知した先王様とわたくし、それにアルキスが姉の元へ駆けつけて。リアンヌとも協力し、なんとか刺客は撃退できたものの、姉は負傷を負い、アリオン王子はシュザンナ様の手の者にさらわれてしまいました」


 シュザンナは王子を何かの要求の引き換えにしようとしたのか、あるいは自己保身のための人質にするつもりだったか、アリオンと手勢をつれて、一路帝国へ向かい始めた。

 父たる皇帝に自分のおかれた窮状を訴え、助力を求めるつもりだったのかもしれない。

「王子という身分を公表していないとはいえ、アリオン殿下はまぎれもなくローデラントの王位継承権保有者です。そのような方を他国の人質に取られるわけにはいきません。先王さまはすぐに追っ手をかけられ、アルキスとリアンヌもそれに従い、リタリーとの国境間際でアリオン殿下を何とか取り戻しました。同時にシュザンナ妃の身柄も確保しましたが、彼女はそのまま帝国に帰りたいと希望されました。公式には一時的な里帰りという発表をしましたが、あれは事実上の離縁です。その時リアンヌがシュザンナ様から王妃の指輪を返してもらい、シュザンナ様の身柄は帝国から迎えが来るのを待って、あちらに引き渡しました。……そしてその後、事故に合われて亡くなったのだそうです」


 事故……だったのだろうか、本当に?

 口をついて出そうになる疑問を、ラキシスは寸前で飲み込む。

 聞いたところで答えてはくれまい。

 サルバローデにも、答えようがないかもしれない。

 シュザンナ妃は馬車の事故で死んだ。それだけが、正史に記される確かな事実だ。


「シュザンナ様を通じてアリオン殿下の存在をアイネンザッハに知られてしまい、後々の陰謀を危惧した先王様は、姉とアリオン殿下の住居を移動させ、一定の場所に長く留まらないようにと指示しました。王宮に引き取ることも考えましたが、そうすると宮中が二人の王子の支持者らによって分かれ、また新たな陰謀の火種が起こるかもしれません。結局、リアンヌが引き続き護衛として行動を共にすることになり、その後もずっと、姉と殿下は王室から離れて暮らす生活を続けたのです」

 シュザンナ妃亡き後には、サルバローデが正妃として立后するのが自然な流れであった。

 ラキシスは聞きにくいな、と思いながらも、一つの疑問を口にした。

「シュザンナ妃の密通相手は、その後……どうなったのですか」

「相手の男を調べて。口封じの金を与えて国外に追放しました。その後の行方はわたくしも知りません」

 あるいはもう、その男も生きていないのではないだろうか。

 ラキシスは背筋がふっと冷たくなるのを感じた。

 金銭だけでこれほど重要な秘密が守れると思うほど、サルバローデは甘い人間ではないだろう。もっと確実に口を封じようとするなら……

 自分の想像に戦慄(せんりつ)を覚えながら、ラキシスは質問を変えた。


「シュザンナ妃から返してもらった指輪は、なぜ王太后様のお手元を離れたのですか?」

「わたくしが姉に渡したからです。そもそもあの結婚指輪は、姉が授かるべきものだったのですから。王妃の地位も名誉も全て、本当ならシュザンナ妃でもわたくしでもなく、姉が受け取るべきものでした。先王様が真に愛した女性は生涯、彼女だけだったのですから」

 サルバローデは、痛いほど寂しげで(はかな)い笑みをその頬に浮かべた。

「わたくしは、ローデラントを離れて他国を転々として暮らさねばならない姉に、せめてもの(あかし)を渡してあげたかったのです。アストリード陛下が今代の王となり、新しい王妃を迎えられるその日まで、王妃の指輪の持ち主はわたくしではなく、姉エルフリーデでなければいけませんでした」


 サルバローデは代わりに偽の指輪を作らせ、公式の場では、それを自分の指に飾った。

 しかし今、太后の左の薬指にはあのルビーの指輪ではなく、その身分にふさわしくないほど質素な、小ぶりな真珠の指輪が()められていた。

 そういえば、いつからだろう。公式の場以外では、サルバローデはこの真珠の指輪を好んで、ほとんど習慣的に嵌めている。

 よほどお気に入りなのかしら。それほど高価なものには見えないんだけど。

 そう思いつつ、ラキシスはこの日、一番聞きたかった質問を口にした。

「王太后様は、リアに私を試験しろとお命じになったそうですね。指輪をどうやって取り返すのか、私の交渉能力をテストしろと」

 サルバローデの笑顔が途端に柔らかくなる。

「ええ、そのつもりでした。あなたへの最後の宿題。わたくしからの卒業試験にする予定だったのですよ。それがどうしてか、こんな大事(おおごと)になってしまうなんて……。まさかリアンヌが帝国の刺客に襲われ、アリオン王子の身柄を奪われるなんて、予想もしていませんでした。彼らが王子の行方を捜しているのは承知していましたが、居所を突き止めるとは敵もさるものです。相当優秀な諜報員を使ったのでしょうが……」

「イカロス」

「え?」

「あの目立つ銀髪の男が主導権を握って動いていた様子です。切れ者で、情報通でした。私の本名も知っていました。一体、あいつは何者なのか……」

 それを聞いてサルバローデも眉をひそめる。

「わたくしも気になって調べているのですが、詳細はまだ掴めません。何か分かったら、あなたにもすぐ知らせるわね」

「あの男は、王妃の指輪にはまだ秘密が隠されていると言いました。太后様は、その内容をもちろんご存知ですよね……?」

 聞いても教えてもらえないかもしれない。

 もし太后にはぐらかされたら、ラキシスは自力で調べるつもりだった。

 サルバローデは黙って席を立ち、部屋の奥から小さな宝石箱を取って戻ってきた。

 蓋を開けると、中に入っていたのは王妃の指輪と、もう一つ。

 王妃の指輪と似たデザインの、サファイアの指輪があった。矢車菊の(コーンフラワー・ブルー)の青玉。しかも見事なスター・サファイアだ。

「こちらのサファイアの指輪は、国王陛下の持ち物です。王妃の指輪と対になるもので、君主の指輪と呼ばれています。先ほど陛下からお借りしてきました」

 サルバローデは蓋を閉めた宝石箱を持って、ラキシスについてくるように言った。

「ついておいでなさい。あなたは指輪の秘密を知る、唯一の権利を持った人なのですから」

ラキシスには、その言葉の真意が理解できない。

 分からないまま、太后の後に従って行った。



「この二つの指輪は、レッド・オーランドが初代の王と王妃に捧げたものでした。初代の王とオーランドの、いわば信頼と友情の証です。王家は代々オーランドから託された秘密を守ってきました。最後の契約者にその秘密を知らせるかどうかは、その時代の王権者の裁量に任されています。つまりわたくしと、あなたのことなのですけれど」

「最後の契約者……」

 サルバローデがラキシスを連れてきたのは、王宮の地下。ラキシスの後ろにはレイジェルとダヤンもいる。立ち会ってよいと、太后に許されたのだ。

 冷たい石の廊下は真っ暗で、壁にかけられた松明に順番に火をつけていかねば、行く先は何も見えない。火を灯しても薄暗い廊下の終点に、両開きの大きな扉があった。

 硬い御影石(みかげいし)を削って作られた古めかしい扉の取っ手には、何かをはめ込む丸い小さな穴が二つ、左右に開いていた。

 サルバローデは扉の手前で足を止め、ラキシスに宝石箱を差し出して蓋を開ける。

「あなたなら、この二つの指輪に細工された仕掛けにすぐ気づくでしょう。よく見て御覧なさい」

 ラキシスは王妃の指輪を手にとって、松明の火の下でじっくりと観察した。

 指輪はポイズンリングになっていて、宝石を嵌めた台座が、蓋になって開く仕組みだ。

 驚いたことに、中には折りたたんだ小さな鍵が入っていた。指輪の中でたたまれた鍵を伸ばすと、かちゃりと微かな音が鳴り、まっすぐ伸びた後は指輪についたまま固定される。

 君主の指輪の中も同じだった。

 形の違う二つの鍵。

 サルバローデが微かに頷く。


「それがこの扉の鍵です。二つ揃わなくては扉は開きません。そして、この扉を開けて中に入ることを許されているのは、ラキシス、オーランドの直系子孫であり、契約の最後の執行者であるあなただけなのです。……さあ、お入りなさい」

 まるで催眠術でもかけられたように、ラキシスは従順にサルバローデの言葉に従った。

 指輪から伸びる鍵を二つの穴へはめ込み、同時に回す。

 扉を押して、ゆっくりと開く。

 中は狭く、暗い。ひんやりと寒い部屋の正面の壁一面に、奇妙な絵が描かれ、文字が細かく彫られているのが見えた。

 絵の中央にはオレンジがかった金色の大きな鳥が翼を広げ、右手に緑色の竜、左手に青い猫科の動物を連想させる架空の獣を従えて、今にも飛び立とうとする姿が躍動的に描かれていた。

 それぞれの獣の額には、宝石が埋め込まれている。

 竜にはルビー、猫科の獣にはサファイア。そして中央の金色の鳥には、

「パパラチア……?」

 赤みがかったオレンジ色の、オーロラ・レッドとも呼ばれるその不可思議な色。ルビーやサファイアとは色違いの兄弟石。コランダムという同種類の鉱物。

 松明を持ったダヤンがしげしげと壁に彫られた文字を観察する。古代文字だ。ゴート語よりもさらに古い。


「こいつはルーン文字だ。それもさらに暗号化されてるな、しかしだ、この天才ダヤン様にかかれば、こんな暗号は半年もあれば……」

「あたし読めるけど」

「なんですとぉ!」

 ダヤンは驚いてひっくり返りそうになった。

 ラキシスは一歩前に進み、文字の下に手を添えて、一行目から読み始めた。


「汝、我が血脈を継ぎし者。三人の偉大なる賢者に祝福されし者よ。時の扉を開き、我が足跡(そくせき)を辿りて、約束の地へ迎え。そこに、至高の宝は眠らん……」


 サルバローデがラキシスの横に立った。

「言い伝えによると、ここにはオーランドが世界のどこかに封じた、隠し財宝の在処(ありか)を示す手がかりが記されているそうです。何代か前の王が学者に暗号を解読させようとしたけれど、結局読めなかったようで。だけどラキシス、一目ですらすらと古代文字を読み上げるなんて、あなたさすがだわ」

「文字は読めても、その意味が分かるかと言うとまた別の話ですわ……でも太后様、なぜですの? どうしてこんな大事な秘密を私に打ち明けるんですか。オーランドの隠し財宝。それはきっと莫大なものです。王家だけで密かに調べて、探すこともできたのでは」

「さっきも言ったとおり、よその家のご先祖様の宝を横取りしようとした王もいたけれど、結局誰も暗号を解読できなかったのですよ。そしてわたくしは、オーランドの隠し財宝には全く興味がありません。幸いなことに、オーランドの助力で建国されたこの国は、今のところ財政に困ってはいませんから。それよりこんな大層な秘密をいつまでも守り続ける方が、面倒で仕方ありませんでしたの。さあ、これでもう我が王家には余計な秘密がなくなったわ。どろぼう貴族オーランドの契約は、これにてお(しま)い。隠し財宝の秘密は子孫のあなたに正しく受け継がれた。肩の荷が下りてせいせいするわ。後はあなたの判断に任せますから、好きなようにおやりなさい」

「……は?」

 好きなようにって、それは、どういう意味で。

「ご先祖様の財宝を探しに行くもよし、もっと別のやりたいことがあるなら、それに挑戦するもよし。……ねえラキシス、あなたはもう自由なの。気づいているかしら」

 サルバローデはラキシスの頬を指先で軽くつついた。

「卒業試験は終わりましたよ。あなたはそれに合格したの。これからは、あなたの好きなようにおいきなさい」

 それは、人生という長く険しい道のりを(おのれ)の好きに()くという意味であり、これからは自分の判断で自律して生きろという、保護者からの手向(たむ)けの言葉でもある。

 サルバローデは、生前のアルキスと約束した言葉を思い出す。


 ねえローデ、うちの娘は自身過剰すぎて、ちょっと危なっかしいところがあるの。もしあの子にその才覚がないと判断したら、オーランドの隠し財宝のことを話すのは、やめておいて。きっと娘の寿命を縮める結果になってしまうわ。どうかお願いね。私の代わりに、あの子を見守ってちょうだいね。


 ……だいじょうぶ。アルキス、あなたの娘には立派にその才覚があるわ。わたくしは、そう信じます。


「王太后陛下」

 三人を残して秘密の小部屋から出て行こうとしていたサルバローデは、ラキシスに呼び止められて振り返った。

「私はまだ、自分が試験に合格できたとは納得してません。だから、あなたがいつかお困りになって、助け手が必要な時。いつの日かそんな時が来たら、私を呼んで下さい。どこにいても必ず助力に参ります。それまでには、今よりもっと経験を積んで。この次こそは完璧な仕事ができる人間になっていますから」

サルバローデはふ、と小さく笑った。

「出来ればそんな苦難の時は来ない方がいいわねえ。わたくしはあなたと違って、平穏無事な人生を送りたいと望みますから。でも今のあなたの言葉は、有り難く預かっておきましょう」

 そうしてサルバローデはその場を去った。


 ラキシスはサルバローデを見送りながら、両手をぎゅっと握りこむ。レイジェルがその横に立った。

「ラキさん、なんかすごく口惜(くや)しそうですよ」

「くやしいわよ。決まってるじゃない。今回のことだって結局ぜんぶ、あの人の手の平の上で踊ってたみたいなんだもの」

 ラキシスは天井を見上げ、次にあーあ、と呟きながらがっくり(うつむ)いた。

「大した人よね、あたしなんかぜんっぜん(かな)わない。でも見てなさい、今にあの人を遥かに超える、すごい女傑になってやるんだから」

 途中から勢い良く顔を上げたラキシスに、レイジェルは笑いかける。

「負けを素直に認められるのも人間が出来てきた証拠ですよ。ラキさんが活躍する時代は、これからなんだから。期待してますよ、麗しの泥棒貴族」

「ねえその言い方やめてくれない? ものすごく恥ずかしいんだけど」

「なんでですか。俺けっこう気に入ってるんですよー」

 そんなどうでもいいことを言い合う二人の背後では、ダヤンが真剣な顔で壁に張りつき、古代文字の解読にせっせと(いそ)しんでいた。



 ミネルヴァ駅。

 ルーベプール行きの列車が来るまで待合室で過ごす客達の中に、ラキシスの姿があった。

 その横にはレイジェルとダヤン。

 三人ともいかにも旅慣れた姿で目立たず騒がず。おとなしく待合席に座っている。

 しかし彼らが小声で口にしている言葉は、ちょっとばかり物騒だ。

 ダヤンはメモ帳を鉛筆で指しながら言った。

「……でな、この部分を解読すると、第一の手がかりがある地域が特定されるんだ。キーワードは〝神聖なる墓〟と〝鍵の使徒〟だ」

「ふむふむ、で、その意味は?」

 レイジェルにはさっぱり分からない。

「ラキならパツイチでわかるだろ? 神聖なる墓の上に立つ寺院、そして鍵! そんなの世界に一箇所っきゃねえよ」

「イタリア王国のバチカン市。旧教皇領内にあるサン・ピエトロ大聖堂ね」

 十二使徒の一人ペテロの墓の上に立つと言われるサン・ピエトロ大聖堂。天国の鍵を授かったと伝えられるペテロがローマ教会最初の司教であり、ローマ教皇はペテロの唯一の後継者だと主張している。鍵と王冠を組み合わせた紋章の教皇旗は有名だ。

 しかも現在はイタリア王国に接収された領地であり、それを頑として認めぬ教皇がイタリア王国政府との関係を断絶中だ。政治的にこじれている当地の情勢は、非常にキナ臭い。


「ローマ教皇のお膝元かよ。そんな警戒ヤバそうなとこに忍び込んじゃうのか俺ら。うわあ、ぞくぞくしちゃうなあ」

 レイジェルは口の端に小さくシワを刻んで笑う。さすがに顔がひきつっている。 

「成功したとしても、まだ第一の手がかりが見つかるだけだもの。先は長いわよレイジ君、ダヤン、覚悟はできてる?」

「おれ、やっぱリチカと結婚してから来れば良かった……」

ダヤンの婚約者リチカ嬢は、駅の前まで三人を見送りに来てくれた。純朴で可愛い娘だ。

 お手紙を下さいね、あたたかくして、お風邪を引かないで、とダヤンに笑いかけていた。単なる出張の旅だと思っているのだ。

「てめえ一人にだけシアワセな思いさせてたまるか。けけけ、死なば諸共、一蓮托生よ」

「縁起でもないことを言うなぁぁっ」

「そうよレイジ君。やる前から失敗するみたいなこと言わないで。やるからには成功させるわよ。今度こそ、完璧に!」

 ラキシスはぐっと拳を掲げた。

「はいっ、ラキさん。頑張りましょう!」

気合を入れる三人の背後から、対照的に暢気(のんき)な声がかかる。

「よう、姉ちゃん。今度はまたどんなお宝を盗みに行くんだい?」

 何を人聞きの悪いことをでかい声でいうか! とラキシスが目を剥いて振り返ると、ラキシス達の席の後ろに、リオンとトーマが立っていた。

 リオンはにやにやと笑っている。


「オレらに挨拶も無しで行くなんて、水臭いって言うかちょっとひどくね? 一言ぐらいなんかあってもいいんじゃん。なあ?」

 リオンがトーマを軽く見上げる。トーマは黙って、一つ頷く。

「あんた、怪我はもう大丈夫なの?」

 ラキシスが聞くと、トーマは軽く頷いた。

「おかげさまでな。さすがに王家の侍医団は腕がいい」

 誰かさんに麻酔無しでざくざく縫われた肩を押さえて言うトーマに、それは嫌味かこの野郎、とレイジェルが小声で呟く。

 あの事件以来、すでに一ヶ月近く立っていた。互いに会うのは久しぶりだ。

「見送りに来てくれたの? ……って、そういうわけでもなさそうね、何よその旅支度」

 見ればリオンとトーマの二人も、旅装を整え、手にはさして大きくないトランクを持っていた。トーマは無論、あの長い刀袋を肩に引っ掛けている。

「ん? オレらもちょっと旅行でもしよっかなーって思ってさ」

「王室に残るんじゃなかったの?」

 声を潜めて聞くと、リオンは軽く顔の前で手を横に振った。

「いや。オレがいたら兄貴の仕事の邪魔になるかもしれないし。あ、兄貴ってのはあいつね、……王様のこと」

 こそりと小声でリオンは答える。アストルード陛下。二人でいる時、リオンはルドと呼ぶようになった。同い年の、まるで似ていない双子の兄弟。

「あちらがお兄様だったの? ちょっと意外だわ」

「いんや、オレらもどっちが兄貴で弟なんだか知らないんだよ。しょうがないから、一年ごとに誕生日で交代しようって話になって。今年はオレが弟。ほら、こないだオレ達ちょうど誕生日だったんだ」

「そっか。十五歳おめでとう」

「ありがと。で、オレももうガキじゃない年頃になったしさ、いつまでも人に面倒みてもらってないで、自立してみようかと思ってな」

「十五なんてまだ子供のうちでしょ」

「ローデおばちゃんにもそう言われた、で、仕方ないからこいつが目付け役ってことで」

 リオンはトーマを、親指を立てて示した。

「オレ、ルドと約束したんだ。あいつがやりたくても出来ないような色んなことを、オレが変わりにやって来るって。あいつが一度も見たことのないようなところへ行って、食ったことのないもん食べて、色んな奴に会って、話して。なんつーの、冒険ってやつ? そういうのをして来ようってさ」


 ――君には僕の代わりに色んなものを見てきて欲しいんだ。僕はおいそれと、王宮(ここ)を出るわけにはいかないからね。


 そう言って、ほのかに笑った。同い年の兄弟。父の後を継いで国王となり、一度も顔を見たことのない六歳違いの少女をやがて妻に迎える。人生のほとんどを政略で翻弄され、自由に街を出歩くことも許されない。

 そんな兄弟のために自分が出来ることとは一体なんだろう? リオンにはまだ分からない。それを探すために、彼は旅に出る。


 手紙を書いておくれね、とアストルードは言った。僕は君がどこに行くのか分からないけど、僕の居場所は常にここだから。王宮宛に手紙をくれたら、必ず僕のところへ届く。


 君が見て知って感じたことを教えておくれ。可能なら、世界の果てまで見てきて欲しい。


「とりあえずオレは、手始めに新大陸にでも行ってみよっかなって」

「アメリカ?」

「うん。あんたらは確かヨーロッパに向かうんだろ。ちょうど逆方向だよな」

 カルバロッサ大陸から、船で東へ行けばヨーロッパ。西へ行けば、アメリカ大陸だ。

「地球って丸いんだろ? ぐるっと回ったら、そのうちどっかでまた会うかもな。トーマのご先祖様がいたっていう、東アジアの方にも行ってみたいんだ」

 東の果てにあるという。黄金の国ジバング。

「あんた、やっぱりあっちの方の人だったの」

 非礼にも顔を指差しながら聞くと、トーマは首をひねった。

「よくは知らん。ただ、俺の姓はもともと漢字圏のものらしいとは聞いている。先祖が混血しまくりだから、実際の東洋人とは似ても似つかん顔に生まれたが」

「そうよねえ……。あんた達日本(あっち)に行ったら、ぜひ忍者にも会って来てよね」

 ニンジャって何だ、と聞くリオンに、ラキシスは列車が来る時間まで、東洋の諜報員について詳しく説明してやった。


 やがてルーベプール行きの列車がプラットホームに到着した。

 リオン達が乗る予定の列車は反対ホームに来るのだが、まだ時間に余裕があると言う。

 列車に乗り込み、予約しておいたコンパートメントの窓を開けて顔を出したラキシスのところへ、リオンとトーマが歩いてきた。

「お先に失礼するわね。あんた達の旅の無事を祈ってるわ」

「そっちもな。元気で。……幸運を」

 リオンの言葉にラキシスが微笑む。

「あんた達もね」

 車掌が出発の合図をし、甲高く警笛を鳴らす。たくさんの見送りの客が、車内の乗客に向かって手を振っている。

 列車はゆっくりと進み始めた。

 ダヤンは窓枠から身を乗り出すようにして手を振り、レイジェルがその後ろに立って、脱いだ帽子を軽く掲げる。

 ラキシスは席に着き、お嬢様らしく優雅に手を振ると軽く一礼して、別れを告げた。

 リオンは、徐々に速度を上げていく列車を追って早足になり、やがて駆け出した。

「みんな、またいつか合おうな! きっと、どこかで! ……色々ありがとう!」

 パァァァン、と最後の警笛が長く鳴り響き、蒸気機関車は煙突からもくもくと煙を吐きながら、軽快に走っていく。

 ホームが途切れるぎりぎりまで追いかけて立ち止まり、遠ざかっていく車体が線路の向こうで小さくなって見えなくなるまで、リオンはずっと立ち続けていた。

 黒く塗装された鉄の車両が、決して後ろを振り向かない気丈な貴婦人のようにも見えた。


「俺達も行こう」

 しばらくたってトーマが声をかけると、リオンは黙って頷き、トーマと並んで歩き出す。

「寂しくなったのか?」

「いいや、別に」

「これから先は、俺達にも何が起こるかわからない旅だ。怖くはないか?」 

 リオンはトーマの前に回りこみ、にやり、と不敵な笑みを見せる。

「ぜんぜん? オレ、いますっげーわくわくしてんだぜ」

 そう言って笑う少年の首周りで、チャリ、と金色の鎖が揺れる。

 鎖の先には、清楚な純白の真珠が光る、金の指輪が吊るされていた。

 王室を去る前夜、サルバローデがリオンに渡してくれたものだ。


「これはあなたのお母さまが亡くなった時、わたくしへの形見と言って、アルキスが持ち帰って来たものです。昔、あなたのお父様がまだお若い頃、お母さまに贈られた指輪です」


 リオンもその指輪には見覚えがあった。母が一番気に入って、大事にし、死ぬまで身につけていた指輪だ。

 先の王がまだ王太子の時代。エルフリーデと恋に落ちた頃に、彼女に贈ったものだった。

 質実剛健で贅沢を嫌った父王の下では、王子といえども自由に使える金はそれほど多くなかった。むしろ一般貴族の子弟の方が、遊ぶ金には不自由していなかったかもしれない。

 そんな手元不如意(ふにょい)な時代に、王太子がお忍びで街へ出かけて、買い求めたものだという。

「ルビーの指輪は代々の王妃に受け継がれていく物だけれど、この真珠の指輪は別。いつかあなたに好きな娘ができて、結婚するときが来たら。その方にこの指輪を差し上げると良いですわ」


 叔母(サルバローデ)は、そう言って微笑んだ。

 王宮(ここ)はいつまでもあなたの家なのですから、無事のお帰りを、待っていますよ。

 そう言って、笑顔で送り出してくれた。

 亡き母と横顔が良く似た女性(ひと)から形見を受け継ぎ、兄弟の希望を胸に抱いて、リオンはまだ見ぬ広い世界を目指して旅立つ。

 何が起こるかはわからない。それは確かに恐ろしいことかもしれないが、きっと血沸き胸踊る楽しい出来事にも、たくさん巡り合うはずだ。

 恋をするかもしれないし、新たな友人にも出会うだろう。敵も増えるかもしれないが、敵を通じて、多くのことを学ぶだろう。

 まだ何の経験も少ないリオンだけれど、胸の中には無限に広がる希望と期待がはちきれそうに躍動している。生まれたばかりの太陽にも似た、爆発するようなきらめきが。

「行こうか、トーマ」

 どこへ行き着くか、まだ明確には分からない。けれどリオンは、自分の意思で前に向かって一歩を踏み出す。


 ――そして、新しい物語が始まる。



これでこの話は完結です。


もしよろしければ、感想などお寄せ頂けましたら、幸いです。

よろしくお願いいたします。


読了、お疲れ様でした。ありがとうございました。



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