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翌日の月曜日、太陽がまだビルの谷間に埋もれている頃、沙月は再び冬栄のアパートの前に来ていた。表の通りでは大勢の会社員や学生が駅へと向かっているというのに、この路地には人影はまるで見えない。ひどく静かで、まるで別世界のように沙月には思えた。
(本当は私も、あっちの世界にいなきゃいけないんだけどね)
昨日の今日でまた水萌に心配をかけるわけにはいかないのだから、今すぐ自分はこの路地から出なければならない。大学の一限に間に合うためにも、早く駅に行かなければならない。それは分かっているはずなのに、沙月の足は路地の出口には向かわず、アパートの階段を上り始めてしまっていた。
(……まったく、どこまでみんなに心配をかければ気が済むのかしら。顔だけじゃなくて、心の中まで子供のままじゃない)
心中で自嘲気味に呟きながらも、沙月の足が止まることはなかった。階段を下りて大学に向かう気にはなれない。仮に大学に行ったところで、とてもではないが授業に集中することなどできないだろう。小納谷冬栄から義手を回収するまで、他のことなどできるわけがなかった。たとえ身勝手でも、我が儘でも。大切な人に、心配をかけてしまっていても。
(母さんの義肢は、私が回収しなきゃいけないんだから!)
最後の段をこえ、二階に上がる。決意が揺るがないように奥歯を噛みしめ、沙月は汚れた廊下を進んだ。デニムパンツにデニムジャケットをまとって歩くその様は、まるでケンカにでも行くのかと思わせる姿であった。実際、沙月の頭の中の決意は、ケンカに行くときのそれと同じようなものだった。無理やりにでも、力ずくでも、義手を回収する。冬栄を説得しようなどとは考えない。もし最悪のケースに陥っているのなら、
「……その方が、好都合よ」
声に出して自分に言い聞かせ、沙月は二〇四号室の扉の前で足を止めた。扉に書かれた数字を睨み付けながら、右腕の義手を真っ直ぐ前に伸ばす。間髪を入れずに足を踏み出し、右手の指でインターホンを押した。一瞬脳裏にあの子供の顔がよぎったが、沙月は意識してそれを頭の外に追い出した。あんな子供のことなど、自分が気にする必要はない。ないはずだ。
昨日と同じように、扉はすぐに開いた。その隙間から、意識の中から追い出したばかりの少年がこちらを窺っていた。ともすれば下がりそうになる視線を、沙月は無理やり上向けた。
(やっぱり小納谷さんはいないみたいね)
少年の頭越しに部屋の中を覗いたが、人影は見えなかった。布団が雪崩を打って床に落ち、空っぽになってしまっている押入。戸が壊れているのか、半開きのまま中が覗けるトイレ。そこにも誰の姿も見えない。風呂場は見当たらず、他には隠れられるような場所もなく、人の気配だって感じられなかった。彼女は、小納谷冬栄は、ここにはいない。
落胆はしなかった。それは予想済みだったからだ。冬栄が今どのような状態にあるのかは分からないが、彼女がここに来ているわけがないのだ。この少年が昨日言ったように、
(……ここは彼女の家じゃないのだから)
ちらと少年を一瞥し、沙月は踵をめぐらした。ここには念のために、そして自分の決意を固めるために寄ったにすぎない。冬栄がいないことが確認できれば、もう用はなかった。少年に背を向け、廊下を進む。頭の中で、冬栄が行きそうな場所をリストアップした。
(一番可能性が高いのは今の職場か、そうでなければ付き合っている恋人の家か……あと考えられそうなのは……)
と、後頭部に小さな衝撃を感じた。水をかけられたのだと、すぐに分かった。またあの子の仕業だろう。振り返って確認するまでもない。昨日の少年が、水鉄砲で沙月を撃ったのだ。
(……あの子の相手をする必要なんて、ない)
自分の目的は、冬栄から義手を回収することだ。あの子供は関係ない。あの少年の相手をしたって、義手は回収できない。
(もうここに用はないんだから、早く行かないと)
頭を振って足を速める。それでも階段は、なかなか近づいてこなかった。この廊下はこんなにも長かっただろうか?
(知らないわよ、彼女の子供のことなんてっ)
ようやく、沙月は階段についた。深呼吸一回分そこで足を止めたが、沙月に水がかかることはもうなかった。水鉄砲は特に沙月を狙ったものではなく、ほとんど出鱈目に撃たれているにすぎないのだろう。思い返してみれば、昨日もそうだったような気がする。そもそもあの子は、自分の悪戯を楽しんでいるようには見えなかった。あんなつらそうな顔でする悪戯など、あるわけがない。
(……しているのは、悪戯じゃない?)
だとしたら、あの子はなにをしているのだろう? つらそうな顔で、それでもやめずに、いったいなんのために水鉄砲を撃つような真似を繰り返しているのか。
首をめぐらし、廊下の奥に顔を向けた。あの少年は、まだ扉の隙間から水鉄砲を撃ち続けていた。だが遠目にも、もう水は出ていないことが分かる。あの子だって、水鉄砲が空になっていることには気がついているはずだ。それでも、少年は指を止めようとはしなかった。その素振りすら見せない。ただ黙々と周りに銃口を向け、引き金を引き続けていた。
(いったいなにを撃とうとしているの、あの子は?)
そんなことを気にしたところで意味はない。あの子供の側にいても、冬栄の持っている義手を回収できるわけではないのだ。だから早く、自分は次の場所に向かわなければいけない。向かわなければいけない、というのに……
「まったく、もう……」
階段を下りることが、沙月にはどうしてもできなかった。放っておいたってかまわないというのに。自分の目的を考えたら、無視しておいた方がずっといいというのに。そのことは、頭では十二分に分かっているはずなのに。それでも、どうしても……。
「ああっ、もうっ!」
二回怒鳴ってまた踵を返して。沙月は廊下の奥へと向かった。近づいてくる沙月に気づいたのか、少年の顔がこちらを向いた。狙っているわけではないだろうが、銃口も沙月の方に向けられている。沙月が少年の手前で足を止めたとき、同時に引き金が引かれた。どこか間の抜けた音とともに、空気だけが吐き出された。もう一滴の水すら、そこから零れることはなかった。
「……弾切れみたいよ、小納谷純一君」
銃口の前で、初めて沙月は、その少年の名前を口にした。




