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「それで、そのまま帰ってきちゃったってわけね」

「ええ、だってどうしようもないですもの。まさか子供を詰問するわけにもいかないですし」

 ベッドの上に寝っ転がった沙月は、ふて腐れたような口調でそう言った。枕の上に頭をのせ、クッションの上で両足をばたばたさせる。視線の先では、長い黒髪の女性が、沙月の筋電義手の整備をしていた。全体の汚れを拭き取り、義手固定のためのハーネスにゆるみがないか調べ、関節部の調子をみている。いつも沙月が自分で行っている手入れよりも、ずっと念入りな整備だった。

(昨日もメンテしたはずなのに……)

 やけに丁寧なその作業に、沙月はむぅとうなり、それから口を開いた。

「あ、水萌さん。ひょっとして、私が向こうで暴れたりしたんじゃないか、とか思ってません?」

「う~ん……まぁ、ちょっと、ね。少しだけ想像しちゃったかな」

「あ~、ひどいです。水萌さんにそんな風に思われていたなんて……ショックです」

 沙月がわざとらしく口を尖らすと、水萌は「うそ、冗談よ」と言って笑った。

 麻津水萌。それが黒髪の女性の名前だった。株式会社ユウシの社員であり、優秀な義肢装具士でもある。もっとも沙月にとっては、水萌は父の会社の有能な社員である前に、大切なお姉さんと呼ぶべき人であった。小学生の頃はよく遊び相手になってもらい、今はこうして義手の整備までしてもらっている。つらいリハビリも水萌が支えてくれたから耐えられたようなものであり、今の沙月があるのは、彼女のお陰によるところが大きいのであった。

「でも、今日その人に会えなかったのは、考えようによってはよかったかもしれないわね」

「え、どうしてですか?」

「だって沙月ちゃん、彼女の名前と住所、あと年齢? それぐらいしか相手のこと知らないでしょう。性格とか今の仕事とか家族関係とか、そういったことはまだ副社長の方でも調べてないんだから、沙月ちゃんも知っているわけないし。ただでさえ演技とか腹のさぐり合いとか苦手なのに、そんな状態で彼女に会ったって、まともな説得ができるとは思えないんだけど?」

「う……」

 反論できず、沙月は小さく呻いた。

 ユウシの社員を装って相手に近づき、アンケートをとるふりをして義肢のことを聞き出し、研究のためと偽って義肢を回収する。それが沙月の考えであったのだが……水萌の言うとおり、ろくに相手のことも知らない状態で、そう都合よく事を運べるはずがなかった。

 そこまで考えが至ったところで、沙月は水萌をいかに心配させてしまっていたか、そのことに気づいた。自分の今日の行動は、無茶以外の何物でもない。さすがに襲われるとかそういったことはないだろうが、それでも身の危険がゼロというわけではないのだ。自分でも思っていたはずではないか、どのような事態に進展してしまうか予想はできないと。

 昨夜水萌は、聖樹の得た情報を沙月に伝えた後、もっと詳しいことが分かるまでは焦って行動したりしないようにと、確かに注意していた。それを無視して家に押しかけ、その上問題の人物に会えなかった不満を水萌にぶつけていた自分は、なんと身勝手なのだろう。

「……水萌さん、ごめんなさい」

 ベッドから身を起こし、その場で正座して、沙月は水萌に謝った。

「あと五分その言葉が出てくるのが遅かったら、ちょっと怒ってたかなぁ」

 水萌は冗談めかしてそう言ったが、沙月に向けられた目は真剣だった。義手をテーブルの上に置いて、イスごと沙月の方に向き直り、水萌は言葉を続けた。

「昨日の夜、ちゃんと止めなかった私にも責任があるから、もうこれ以上は言わないけど……でも、次はダメだからね」

「はい……」

「あと、副社長……楯場さんにも謝っておくように。沙月ちゃんとの約束だから、情報はすぐ渡すようにしてるけど、それは無茶させるためじゃないんだからね」

「はい……」

 反論などできるわけもなく、沙月は素直に頷いた。

「じゃ、この話はここまで。次の話に移りましょ」

「次って?」

 沙月の問いかけに応えるように、水萌はカバンの中からA4サイズのクリアホルダーを取り出した。その中から抜き出されたのは、書類の束だった。

「それって……」

「新しい情報よ。例の彼女……小納谷冬栄さんについての、ね」

 その名前に、沙月はこくりと唾を飲み込んだ。

 小納谷冬栄、それがようやく見つけた五人目の名前だった。彼女が持っているはずなのだ、沙月の母親が開発した義肢を。そして、

(きっと今も身に着けているっ)

 無言でベッドから下りると、沙月はテーブルに近寄った。その上にのせられた義手を見つめ、一瞬躊躇った後、左腕で筋電義手を掴んだ。ソケットを肩にはめ、ハーネスを固定する。軽く動作確認をしてから、沙月は水萌から書類を受け取った。一旦肩を下ろして義手を体の脇に垂らし、肩を前に突き出すようにして義手の肘だけを曲げる。胸の前にきた義手の手の平、その中の書類に沙月は視線を落とした。

(小納谷冬栄、四十三歳……広告会社勤務、転職前はスーパーのパート……夫とは六年前に離婚……)

 左上をホッチキスでとめられた書類を、沙月は読み進めていった。

(七年前、交通事故が原因で右肘関節より離断……補助金絡みの問題から、最初は装飾用義手を処方される……)

 そこまで読んだところで、沙月は一旦書類から顔を上げた。瞳を閉じて、軽く深呼吸をする。胸の内にたまったもやもやを、なんとか吐き出したかったのだ。

(事故で右腕を失ったのは七年前……旦那さんと離婚したのが六年前、か……)

 書類に書かれている情報は、それだけだった。だから離婚の原因は、その本当のところは分からない。分からないが……

(でも、多分……)

 冬栄が夫と別れることになってしまったのは、彼女が右腕を失ったからではないだろうか。それが直接の原因ではないかもしれないが、離婚の理由の一つには入っているような気がした。それは沙月の邪推かもしれない。だがその想像を振り払うことが、沙月にはできなかった。

「沙月ちゃん、大丈夫?」

「……大丈夫です」

 心配そうな面持ちの水萌を安心させたくて、沙月は無理やり笑みを浮かべた。そして、また書類を見つめる。冬栄の詳しい家族構成、親類についての記述を読み、近所での評判や噂話の類に視線を走らせる。会社での成績や、それに彼女の子供、今付き合っているらしい恋人についての説明にも目を通した。五枚のA4用紙にびっしりと書き込まれた情報を頭の中に入れ終わる頃には、重たい疲労が沙月の両肩の上に乗っかっていた。

 書類の束をテーブルの上に置き、水萌がそっと動かしてくれたイスに腰を落とす。首を上向け天井を見つめ、

「まずいなぁ……」

 小さな声で、沙月は呟いた。水萌はなにも言わない。その沈黙は自分の呟きへの同意なのだろうと、沙月は思った。

 首をもとに戻し、テーブルの上の書類を見つめる。頭の中で、読み終えたばかりの書類の内容を反芻した。その中に、冬栄が新しい義手を手に入れた経緯については書かれていなかった。極秘事項だから当たり前だろう。それについて知っているのは、

(母さんと、父さんだけ……)

 その母、安和は他界し、父、著人は行方不明になっている。義肢についての詳細なデータや利用者目録を持っているのも、著人だけだ。沙月たちが、安和が開発した義肢について知っていることは少ない。今誰が利用しているのかも不明なら、彼らに与えられた理由、その選考過程だって分からなかった。だから沙月たちは、非常時に義肢から送られてくる緊急コール、それによってもたらされる最低限の個人情報をもとに彼らの居場所を突き止め、現在の生活を調べ、義肢を回収するための説得方法を考えているのである。

(だけど、説得に応じない人の方がずっと多い……)

 というよりも、過去四回、穏便に回収できたことは一度としてなかった。

「今回も多分、説得は無理だと思います」

 言って、沙月はため息をついた。書類の中身から、冬栄が義手を手に入れた時期の予想はついた。彼女がどんな思いで義手を身に着け、今はどのような心境にあるのかも想像できる。だから分かってしまう。冬栄が決して、安和が開発した義手を手放しはしないだろうということが。

「……説得を試みることができれば、まだいいんだけどね」

 水萌の言葉に、沙月は彼女の顔をまじまじと見つめてしまっていた。同意されると思っていたところに予想外の言葉が返ってきたため、驚きの表情を隠すこともできなかった。

「え……どういうことですか?」

「一昨日の朝、どこから緊急コールが発信されたかは、話したわよね?」

「はい、聞いてます。確か、I区H町の辺りでしたよね」

「そう。で、一昨日の朝、やっぱりI区H町で大きな交通事故が起きているの。橋の上で玉突き事故が起きて、数台の車が川に落ちたっていう……」

 言われて、はっとした。

「まさか、その事故に小納谷さんが巻き込まれて、それで義手が緊急コールを送ってきたっていうんですか?」

 それは有り得ないことではなかった。安和が開発した義肢には、高性能のAIが搭載されている。AIは、義肢のメンテやエラーの修正などを自動で行うだけでなく、義肢の使用者が深刻な身体的異常に見舞われた場合や、自動修復が不可能な故障が義肢に発生したときなどには、ユウシのサポートセンターに緊急コールを送るようにプログラミングされているのだ。大きな事故に巻き込まれれば、確かに義肢が緊急コールを送ってくる可能性は高い。

「でも、病院に搬送された怪我人の中に、小納谷さんはいなかったはずです。怪我人の中に市販されていない義手をつけている人がいたら、会社の方に連絡がくるでしょうし……それに、緊急コールは一度だけで、二度目は送られきてないですよね。それなら、彼女が自分でコール機能を止めたか、異常状態から脱することができたはずで……」

「それ以外にコール機能が止まる可能性が、まだあるでしょ」

 一番考えたくない可能性を指摘されて、沙月は口を噤んだ。

「小納谷さんの携帯にもつながらないし、彼女の恋人とも連絡がとれないわ。まだ川底から引き上げられていない車、それにもし彼女が乗っていたとしたら……」

「それ以上言わないでください!」

 叫ぶように、沙月は言った。唾を一塊飲み込んでから、言葉を続ける。

「……言わなくても、分かりますから」

 言い終わるが早いか、沙月の左肩に痛みが走った。波のように疼きと震えが繰り返される。それを抑えたくても、沙月の右腕は左肩には届かない。こういうときばかりは、古い筋電義手をつけていることを後悔してしまう。ロボットアームとも呼ばれるAI管理型義手や、手術によって人の神経と繋げる神経接続式義手ならば、疼く左腕を抑えられるのに。同じ筋電義手でも、マイコンを積んだインテリジェント・タイプならば、もっと自由に動かせるのに……。

(……でも、無理よ)

 それらの義手を身に着けることが、沙月にはできなかった。くだらない意地と嗤われても考えを変えることはできなかったし、恐怖心を消し去ることもできない。もし無理につけたとしても、体が拒否してしまうだろう。この古い筋電義手ですら、長いリハビリの末に、ようやく身に着けることができたのだから。

 唇を噛みしめ、沙月は左肩の痛みに耐えていた。と、その痛みを和らげるような温もりを、肩に感じた。首をめぐらすと、誰かの手が添えられていた。白い肌に、義手を整備したときのものだろうか、黒い汚れがいくつかついている。それは水萌の手だった。

「……ごめんなさい」

 どこか泣き声のようで、それでいて怒っているかのような声音で、水萌が言った。その声を聞いて、思わず沙月も「ごめんなさい」と言いそうになり、

「……っ」

 唇を血が出るほど噛みしめて、言葉を飲み込んだ。謝らなければいけないのは水萌ではない。自分だ。本当は沙月自身が、謝らなければいけないのだ。だから余計、謝れなかった。ここで、今ここで謝罪の言葉を口にすることはできない。さっきとは違うのだ。今謝ることは、ただの自己満足だ。

 深く俯いたまま、血と一緒に言葉を飲み込み続ける。水萌ももうなにも言わなかった。通りを行き交う車の音ばかりが、騒々しく部屋の中で響いていた。

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