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 一瞬、自分の首が曲がっているのだろうかと、沙月は思ってしまった。それほどまでに、目の前のアパートは、傾いていた。

「ええっとぉ……」

 なんと言っていいか分からず、無意味な呟きを漏らしてしまう。念のため視線を落とし、自分の影を見てみたが……自分の首は、曲がっても傾けられてもいなかった。傾いているのは、確かに眼前の、木造二階建てアパートであった。

「本当にここなの?」

 胸の前で停止させた右腕、その手の中のメモを何度も読み返すが、書かれた住所が変わるわけもない。読み違えてもいなかった。番地もアパート名も、路地奥の廃墟モドキと同じだ。間違いなく一致している。ということは、目的地はやはりここなのだ。

「おじ様が間違えるわけないし……やっぱり、ここなのよね」

 言いながら、沙月は右肩から力を抜いた。筋肉が弛緩し、若干右肩が下がる。同時に義手が動いた。曲げられていた肘が真っ直ぐ伸び、腕が体の脇に垂らされる。義手に内蔵された検出器が筋肉収縮時の神経インパルスを検出し、それにあわせて関節が動かされたのである。手の中のメモ用紙は、地面に置かれたオフホワイトのハンドバッグの中に、吸い込まれるように落ちていった。

「じゃ、行ってみますか」

 義手の指をバッグの紐に引っかけて拾うと、沙月はアパートに向かって歩き始めた。黒いスーツに身を包み、ゆるくパーマをかけた髪先を首筋にのせて歩く自分の姿は、周りの通行人にはどう見えているだろうか? そのことが少し不安ではあった。願わくば、普通の社会人と同じように映ってくれていればいいのだが。

(社会人を装うには、顔の幼さが致命的なんだけどね……もう二十歳になったんだし、いい加減ちょっとは老けてくれないかしら)

 胸中でぼやきながら、沙月はアパートの階段を上った。建物の外部に無理やり取り付けたようなその階段は、アパートの傾きと張り合っているかのような急勾配であった。老朽化が進んでいるのか、それとも手抜き工事の結果なのか、やけに揺れるし、嫌な音まで響いている。錆の浮いた手摺りは触れただけで折れそうだったし、黒いしみがついた壁は蹴ったら穴があきそうだ。地震がきたらひとたまりもないだろう。

(でも、こんなボロアパートに住んでいる人に、どうして?)

 内心首を傾げながら、最後の段を上がる。上りきったそこは、階段同様、あとから無理やり取り付けられたような廊下だった。廊下ではなく、少し長い階段の踊り場と言うべきかもしれない。ひどく狭く、やはり斜めになっていた。建物の壁との間には、僅かではあるが隙間まである。ほんとに、まともな人間が住んでいるところには見えなかった。

 一つ吐息をつき、沙月は奥の部屋へ向かった。目的の部屋は二〇四号室。二階の一番奥にあるはずだった。

(三年かかってようやく五人目、か)

 短い廊下はすぐに尽き、沙月は端の部屋の前に着いた。表札を探したが、どこにも見当たらない。その代わりだろうか、ドアにマジックで数字が書かれていた。大きく、いびつで、薄く消えかかった、『二〇四』……。

「ここ、だ」

 ここにいるはずだった。ずっと探していた人々の一人が。ようやく見つけた五人目が。

 そして、ここにあるはずだった。

(母さんの開発した義肢の、一つが……)

 ここに住んでいる女性が、その義肢をつけているはずなのである。それを、自分は回収しなくてはならない。なんとしても、

(絶対に!)

 膝を曲げて、ハンドバックを足下に置く。深呼吸をして、それから沙月は、右肩に力を入れ、肩を前に突き出そうとした。それにあわせて義手が動き始める。モーターによって肩の関節部が回転し、義手が真っ直ぐ前に伸ばされた。塩化ビニール製の指先は、黒く汚れたインターホンの手前で止まっている。沙月があと一歩前に踏み出せば、ボタンは押され、インターホンが鳴るはずだった。

(焦っちゃダメ。落ち着きなさい、沙月)

 逸る心を抑え、頭の中で自分の演じる役を思い返す。自分は株式会社ユウシの社員で、義肢の研究開発に携わっている。今は義肢の改良に生かすために、義肢の利用者や研究者、障害者の支援団体などにアンケートの協力をお願いしているところだ。是非、あなたのご意見を伺わせて欲しい……口にするべき言葉を、脳内で二回繰り返した。淀みなく自然に言えるよう、口の中で小さくもう一度呟く。相手の性格や今の立場が分からない以上、いきなり自分の目的をあかすわけにはいかなかった。できるだけ穏便にすませるためにも、本当の目的を気取られないようにする必要もある。自分の正体だって秘密にしておかなくてはならないだろう。どのような事態に進展してしまうか、まるで予想できないのだから。

(演技は苦手なんだけどね)

 だからといって、ここまで来て逃げるわけにもいかない。最後に時間をかけて深呼吸をしてから、沙月は足を前に踏み出した。指がインターホンを押す。義手をつけた肩に僅かな抵抗を感じた。ドアの向こうで、古臭いベルが鳴り響く。それは目覚まし時計の出来損ないのような音をしていた。

 一歩後ろに下がり、沙月はインターホンから指を離した。その彼女を追いかけるように、ドアは意外なほど早く開き……その隙間から外を窺っていたのは、十歳前後の少年だった。

(……子供?)

 予想外の人間が現れたことに、沙月は内心首を傾げていた。

(ああ、ひょっとしてお子さんなのかしら)

 目的の人物はもう四十を過ぎた女性だ。これぐらいの歳の子供がいてもおかしくはないだろう。

(彼女の子供だとしたら……)

 母親のことを、少しは聞き出せるかもしれない。そう思い、

「あの……」

 彼女のことを尋ねようと開いた口の中へ、なにかの液体が飛び込んできた。突然のことに、沙月はたまらずむせた。みっともないとは思ったが我慢できず、その液体を廊下に吐き出してしまう。それでも少し飲んでしまったのか、沙月はしばらく咳き込み続けた。

「けっ、けほっ……ちょっと、なにを……」

 顔を上げると、少年の手にプラスチック製の銃が握られているのが見えた。それがなにかは、問うまでもなくすぐ分かった。昔自分も遊んだことがある、水鉄砲だった。

(なに考えてんのよ、この子はっ)

 少年の非常識な行動に、沙月は本来の目的を忘れて、少年を叱りつけようとした。

「ちょっと……あのねえ、人の向かって水鉄砲を撃ったりしちゃだめでしょ。ましてや顔に水をかけるなんて……」

 沙月のお説教を無視して、少年は水鉄砲をまた撃った。足下の廊下を塗らし、宙に小さなアーチを浮かべ、沙月のスーツにしみを増やしていく。沙月の話など、まるで聞いていなかった。

「ちょっと、いい加減に……」

 少年を怒鳴りつけようとした沙月だったが、怒声は途中で途切れてしまっていた。声を続けることができなかった。少年の顔が、あまりにつらそうなことに気づいたからだ。

(なんなの、この子?)

 訪問者を水鉄砲で撃つというのは、子供らしい悪戯かもしれない。だが、少年の表情は、悪戯をしている子供のそれではなかった。とてもつらそうで、そして疲れ切っているように見える。やめてはいけないと自分に言い聞かせ、無理して悪戯をしているようにすら見えた。

(はぁ……いったいどうしたもんかしらね、この状況……)

 水鉄砲を撃ち続けている少年を見て、沙月は内心、ため息をついた。スーツにしみが増えていくことは、もう大して気にならない。それより、少年の表情の方がずっと気になった。それは年不相応の表情だった。少なくとも、十歳程度の子供が浮かべるものではない。こんな、絶望に耐えているかのような表情は。

「……お姉ちゃん、なに?」

 水鉄砲の水が尽きたためだろうか、少年が初めて声を発した。こけた頬を動かし、平坦な口調で言葉を紡ぐ。その時になって、沙月は初めて気づいた。少年がひどく痩せていることに。血色も悪い。髪の毛は少年が自分で切っているのだろう、それが分かるぐらいぼさぼさで、長さも不揃いだった。前髪の隙間から見える瞳は、淀んだ沼のように濁っている。その目に見つめられ、沙月は思わず一歩後ずさってしまっていた。

「お姉ちゃん?」

 黙っている沙月に、再度少年が尋ねる。どうにも訊きづらい雰囲気ではあったが、このまま帰ってしまうわけにもいかない。沙月は唾を飲み込んでから、口を開いた。

「えっと……あのね、ちょっとあなたのお母さんに用事があって来たんだけどね……」

「いないよ」

 素っ気ない口調で、少年が言った。空になった水鉄砲の引き金を引きながら、もう一度「いないよ」と繰り返す。

「いないって……じゃあ、その……いつ帰ってくるか、分かるかな?」

「帰ってこないよ」

「帰ってこないって……」

「だってここ、お母さんの家じゃないもの」

 水鉄砲の引き金がまた引かれ、わずかに残っていた水が銃口から吐き出される。その水滴を思わず目で追ったが……宙に舞った水がどこへ行ったのか、沙月の瞳は見つけることができなかった。

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