プロローグ
瞳に映る右腕は、しみ一つないきれいな肌色をしていた。不気味なほどに美しい肌色だ。だから一目で分かった。この腕が、もう生身のものではないということが。皮膚の下に血の通っていた温かい腕は、永遠にこの世から失われてしまったことを、普森沙月は今改めて思い知らされていた。
自然と口からため息が漏れた。覚悟していたこととはいえ、目の当たりにするとさすがにこたえるものがあった。ようやく立ち直りかけていた心が、またくずおれそうになってしまうほどだ。
「……負ける、もんか」
小さく呟いた。次いで唇を噛みしめ、萎えた気力を再度奮い起こす。まだ最初の第一歩を踏み出してもいないのに、こんなところで挫けるわけにはいかなかった。自分には、果たさなければならない目的があるのだから。
「沙月ちゃん、大丈夫かい?」
かけられた声に、沙月は顔を上向けた。長身の男、楯場聖樹がこちらを見下ろしてきていた。顔の上には、心配のためか深いしわがいくつも生まれている。童顔の上に浮かんだ深刻な表情はどこか可愛らしく見え、沙月はつい笑ってしまった。そのお陰だろうか、心が落ち着きを取り戻した。知らず曲がっていた背は真っ直ぐに伸び、視界も心なしか明るくなる。自分の腕の色も、そんなに悪くないような気がした。しみもしわもない皮膚はひどく人工的だが、丁寧に染められた肌色の美しさを、少しだけ素直に受け止められた。
「大丈夫です、おじ様。もう痛みもありませんし、これなら、すぐにでも義手の訓練を始められそうです」
笑いながら、沙月は言った。だがその言葉に、聖樹はかえって表情を暗くするだけだった。その顔を見て思い出す。聖樹が、沙月の提案に最後まで反対していたことを。同時に悟る。聖樹が今も、沙月の考えには賛成していないことを。
「本当に大丈夫です、おじ様。想像していたより着け心地は悪くないですし、見た目だって、遠目には義手だなんて分からないぐらいよくできていますもの。それに、リハビリとか訓練とか、やることがあった方が励みになりますから。神経接続式とかAI管理型義手とかであんまり楽してしまうと、全身の筋肉がやせ細ることもあるって……」
聖樹を心配させていることを申し訳なく思い、沙月は大げさなほど明るい口調で、浮かんだ言葉を口から吐き出し続けた。自分が喋れば喋るほど、聖樹の表情は逆に暗くなっていってしまう。余計に心配させてしまっている。それが分かっていながら、沙月は自分の口を止められなかった。
「沙月ちゃん」
沙月の口を止めたのは、鉛のように重たい、聖樹の声だった。
「……何度訊いても同じだろうけど、最後にもう一回だけ、訊かせて欲しい。沙月ちゃん、決意は、変わらないんだね?」
聖樹の問いかけに、沙月は黙って頷いた。首を深く縦に折り、ゆっくりともとに戻す。自分が無茶なことを言っているのは分かっていた。聖樹に心配をかけていることも分かっていた。下手をしたら、聖樹が今、父に代わって守ってくれている会社「ユウシ」を潰してしまいかねないことも、十二分に分かっていた。
それでも、沙月の決意は変わらなかった。
これは、自分にしかできないことだから。
そして、自分がやらなければならないことなのだから。
「はい……おじ様、ごめんなさい……でも、お願いします。やらせてください」
「……ならせめて、義手をもう少し新しいものにする気は……」
「……ごめんなさい、このままで、やらせてください。我が儘なのは分かってます……でも、これが限界ですから……」
顔を上げ、聖樹の目を真っ直ぐに見て、沙月は言った。
「……そう、分かったよ、沙月ちゃん」
数秒とも数十分ともとれる時間が過ぎた後、聖樹は表情を緩め、そう言った。
聖樹の控え目な笑みの下に、押し込めた不安が隠されていることを感じ取り、沙月は泣きそうになってしまった。浮かびかけた涙を、沙月は唇を噛みしめてこらえた。泣くわけにはいかなかった。もうこれ以上、聖樹に心配をかけるわけにはいかないのだ。ここで泣いて、聖樹をさらに不安にさせてしまうようなら、自分にはこの先の道を歩む資格などないだろう。
(泣くな、沙月。絶対に泣くな!)
微かに血の味のする唾を飲み込んで、沙月は腰掛けていたベッドから立ち上がった。途端、僅かにバランスを崩し、体が右に傾いてしまう。肩の接合部がずきんと痛んだ。治まったはずの幻肢痛や断端痛までぶりかえしてきそうな気がした。
「くっ……」
右膝に力を入れ、姿勢を立て直す。左右のバランスが悪いのは明らかだった。右腕の電動義手の型はとても古いものなのだ。現在ではほとんど使われていないタイプの、筋電制御全腕義手。制御用のマイコンを搭載したインテリジェント・タイプではないため、内部の制御回路は複雑で、ひどく重い。沙月のために特別な軽量化を施してはいるが、それでもその重量は左腕と比ぶべくもなかった。
(それでも、これが私の選んだ道なんだからっ)
ともすれば折れそうになる右足に力を入れ、必死に姿勢を保つ。
(大丈夫。リハビリもトレーニングも続けてきたんだから……これぐらいじゃ倒れない……絶対に倒れたりしない!)
深呼吸をし、左足を持ち上げた。右足が震える。右肩が沈む。断端がまた痛む。だがそれだけだ。震えても右足は崩れない。痛みは顔をしかめるほどのものでもない。重さも痛みも、自分の歩みを邪魔するほどのものではなかった。 いや、むしろ逆だ。右腕の重みと痛みが、自分の意識を鼓舞し、体をしっかりと支えてくれていた。
左足を床に下ろした。続けて右足を持ち上げ、前へ。右足はすっと動いた。左足を追い越して進み、数十センチ先の床に下ろされる。これで二歩。大丈夫。自分は歩ける。この先ずっと、このバランスの悪い両腕を抱えたままでも。
「おじ様。会社のこと、それに父のこと、よろしくお願いします」
ゆっくりと足を動かし、体の向きを変え、聖樹の正面で、沙月は頭を下げた。
「分かった。沙月ちゃんのお父様は、私がきっと見つけてみせる。それまで、会社も責任もって私が守ろう。だから……だから沙月ちゃんは、自由に、やりなさい」
聖樹の言葉にもう一度頭を下げると、沙月は病室から外に出た。白色灯に照らされた、人気のない廊下。そこに一瞬、亡き母の姿が見えたような気がした。
「……っ」
首を左右に振り、幻を振り払う。母は、もうこの世にはいない。半年前の交通事故で、自分を庇って死んだのだ。沙月が腕を失ったのも、そのときだった。
「そう、母さんは死んだのよ、父さん……」
言って、沙月はリハビリ・ルームに向かって歩を進めた。事実を口にしても、胸はもう痛まなかった。歩き続けても、右腕の痛みが増すことはなかった。ただ左腕が、痛むはずのない左腕が、なぜだかひどく疼いた。その痛みは、まるで誰かのすすり泣きのように、沙月には思えた。
それから、三年の月日が流れた。母、安和が他界してから三度目の秋を迎え、父、著人の行方は分からないまま、九月九日の誕生日は過ぎて……。
普森沙月は、二十歳になっていた。




