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『国語の教科書に載るような短編集』

#016『焔《ほむら》を継ぐ吐息』

掲載日:2026/06/24

 容赦なく照りつける八月の残暑。しかし、トタン屋根の古い工房の中は、外の暑さすら冷気に思えるほどの圧倒的な熱に支配されていました。

 中央に鎮座する溶解炉の温度は、千三百度。

 ガラス工芸の巨匠である師が倒れ、一人でこの熱の檻に向き合うことになった田島理沙。彼女の作るガラスは、形も光の屈折も完璧でした。

 ――しかし、完璧だからこそ、冷たい。

 兄弟子から突きつけられる諦め混じりの言葉と、病床の師から投げかけられる、狂気にも似た圧倒的な重圧。

 二人の男の視線と呪縛の狭間で、息苦しさを抱える理沙が、手にした吹き竿を再び炉へと突き進めるところから、この物語は始まります。


 焦げた紙と機械油の匂い。五感を突き刺すような、ひりつく表現者の闘争をぜひ体感してください。

     『ほむらを継ぐ吐息』



     1


 轟音を立てて燃え盛る溶解炉ようこうろの前に立つと、外の厳しい残暑すら冷気に思えるほどだった。

 季節は八月半ば。

 トタン屋根の工房は、それ自体が巨大なオーブンのように熱を溜め込んでいる。

 中央に鎮座する溶解炉の温度は千三百度。炉の扉を開けるたびに、物理的な質量を伴ったかのような熱波が押し寄せ、むき出しの肌を容赦なく鞭打つ。

 濡らしたタオルの上からでも、首筋がヒリヒリと焼けるように痛んだ。

 田島たじま理沙りさは重い吹き竿を両手で支えながら、炉の中で赤々と溶けゆくガラスの塊をじっと見つめていた。ドロドロのマグマのように波打つその物質は、常に回転させ続けていないと重力に負けて床に落ちてしまう。竿を回すたびに、てのひらの豆が潰れた痕が鈍く痛み、革手袋の奥でじっとりと不快な湿り気を帯びていた。

「違う……これじゃない」

 理沙は奥歯を噛み締め、作業台ベンチに座り込んだ。濡らした新聞紙を折り畳んだ「紙リン」と呼ばれる道具で、竿の先のガラスを包み込み、形を整えようとする。「ジュッ」という甲高い音とともに白煙が上がり、焦げた紙の酸っぱい匂いと、鉄が熱された特有の匂いが鼻腔を突き刺した。

 しかし、ガラスは彼女の意図を嘲笑あざわらうかのように、歪な楕円を描いて冷え固まりつつあった。

 理沙は躊躇ためらうことなく、そのガラスの塊を水を入れたドラム缶へと叩き落とした。

 パリン、という硬質で冷酷な音が工房に響き渡り、彼女の数十分の苦闘は一瞬にして水底のゴミへと変わった。

 顎を伝う汗の雫が、唇の端に触れる。ひどく塩辛く、そして泥臭い味がした。

「また失敗か、理沙」

 背後から掛けられた粘り気のある声に、理沙は肩をビクッと震わせた。

 振り返ると、兄弟子の竹本たけもと健一けんいちが冷たいスポーツドリンクのペットボトルを手に立っていた。彼は自身の作業をとうに終え、普段着のポロシャツに着替えている。汗の匂いはなく、安価な柔軟剤の香りが妙に鼻についた。

「……すみません。片付け、遅くなります」

「それは構わない。でもおまえ、この一週間ずっとそれだな」

 健一はドラム缶を覗き込み、低く鼻で笑った。底には、透明度こそ高いものの、どこか生命力に欠けるガラスの破片が幾重にも積もっている。そのガラスの死骸を愛おしそうにつまみ上げようとして、健一は手を引っ込めた。

「大林先生の『ほむら』シリーズを超えようとしてるんだろう?」

「……そんな、おこがましいこと」

「嘘をいうな。顔に書いてあるぞ」

「お見通しですか……」

「俺を侮るなよ。だがな、理沙。おまえのガラスは綺麗すぎるんだよ」

 健一の言葉は、冷たい爪を立てるように理沙の肌を引っ掻いた。

「形は整っている。光の屈折も完璧に計算されている。しかし、それだけだ。冷たいんだよ。あの親父の作品にあった、触れたら火傷しそうな『熱』がない。おまえの作品は、頭で作ってる。だからガラスが息苦しそうんだ。……いや、おまえ自身が息苦しそうに見せてるのか?」

 健一は一歩、理沙に近づいた。作業着の襟元から覗く、理沙の汗に濡れた鎖骨に視線を落とす。その目は、純粋な批評家のそれではなく、どこか粘着質で、諦めに満ちた男の歪んだ愛執を含んでいた。

「俺はさ、もう諦めたんだよ。あの親父の領域には行けないって。だからこうして、適度に売れる実用的な器だけを作って、さっさと着替えて帰る。おまえもさ、そんなに自分を追い詰めるなよ。そんなに汗をかいて、肌をボロボロにして……なにが欲しいんだ? 親父の認め印か? それとも、親父そのものか?」

「やめてください」

 理沙の声は震えていた。健一の言葉の端々ににじむ、才能への嫉妬と、自分と同じ泥濘でいねいに引きずり込もうとする暗い誘惑。それが工房が持つ熱気とは別の吐き気を催させた。

「あはは、冗談だよ。そんなに怒るな」

 健一はそれだけ言うと、ペットボトルをベンチに、わざと音を立てて置き、工房を出て行った。夕暮れの蝉時雨だけが、理沙を嘲笑うかのようにやかましく響き続けた。

 喉の渇きを思い出し、ぬるくなったスポーツドリンクを流し込む。甘ったるい液体が喉を通っていくが、心の渇きは癒えなかった。むしろ、健一の残していった言葉の毒が、体内でじわじわと回っていくようだった。



     2


 ガラス工芸の巨匠と呼ばれた師匠、大林おおばやし基経もとつねが脳梗塞で倒れてから半年が経つ。幸い命に別状はなかったものの、右半身に麻痺が残り、彼は二度と吹き竿を握れなくなった。

 大林の作品は無骨で荒々しく、それでいて繊細な命の輝きを宿していた。特に彼がライフワークとしていた「焔」と名付けられた花器は、中に水を入れてもなお、火の粉が舞い散っているかのような錯覚を起こさせる傑作だった。

 理沙は大林の工房を引き継ぐ形でこの場所に残った。若手作家として賞もいくつか貰い、技術には自信があった。しかし、大林がいなくなった工房で一人炉に向かうたび、自分の技術の底の浅さを思い知らされていた。

 健一の言う通りだ。自分の作るガラスには、血が通っていなかった。

 その夜、理沙は大林の入院する病院を訪れた。

 閉館間際の病室は、無機質な静寂に包まれていた。微かに漂うアルコール消毒液の冷たい匂いと、規則正しい心電図の電子音が、工房の熱気とは対極の世界を作り出している。

 大林はベッドの背を起こし、窓の外の夜景をぼんやりと眺めていた。かつて丸太のように太かった腕は見る影もなく細り、白髪の混じった頭部には深い疲労が刻まれている。しかし、その眼光だけは、病魔に侵されてなお、異様な鋭さを失っていなかった。

「先生、こんばんは」

「……おう、理沙か」

 呂律の回らない、かすれた声。理沙は胸の奥が締め付けられるのを感じながら、丸椅子に腰を下ろした。

「どうだ、工房は。火の加減は」

「はい、問題ありません。今日も……新しい型の試作をしていました」

 大林は不自由な左手で、ベッドサイドの湯呑みを探った。理沙が慌てて手を添え、彼に一口飲ませる。大林の唇から溢れたわずかな水滴が、彼の顎を伝ってシーツに染みを作った。

 かつて絶対的な神のようだった男の衰えを目の当たりにするたび、理沙の心には、サディスティックなまでの切なさと、強烈な圧迫感が同時に湧き上がる。

 大林はゆっくりと息を吐き出すと、左手で理沙の手首を掴んだ。

 その握力は、病人のものとは思えないほど強かった。骨が軋むような痛みに、理沙は小さく息を呑む。大林の目は、理沙の顔を通り抜けて、彼女の肉体の奥にあるなにかを凝視しているようだった。

「おまえは、真面目すぎるんだ」

「え……?」

「綺麗に作ろう。完璧に作ろう。そう思えば思うほど、ガラスは縮こまる。おまえは俺の形をなぞろうとしている。だがな、理沙。俺の『焔』はおまえのものじゃない。おまえは、なにを隠している?」

 大林の顔が近づく。老人の、しかし圧倒的な捕食者の匂いが理沙を包み込んだ。

「ガラスってのはな、地球の血だ。砂と灰と火が交わって生まれた、生き物だよ。職人はな、その生き物と寝なきゃいけないんだ。従わせるんじゃない。おまえの身体を開いて、あいつらを中に受け入れるんだよ」

 大林の指が、理沙の手首から掌へと滑り、火傷の痕とマメだらけの皮膚を執拗に撫で回した。それは愛撫というよりも、自分の魂を他者の肉体に無理やり植え付けようとする、呪術的な侵入だった。

「俺はもう動かん。この右手は死んだ。だが、おまえの身体は動く。おまえの若い肌、その奥にある熱い血を、全部ガラスに吸わせろ。火を怖がるな。自分を曝け出せ。俺を越えてみろ、理沙。それとも、俺の影に抱かれたまま、一生綺麗なゴミを作り続けるか?」

 大林の瞳の奥で、ドロドロとした執念の炎が揺れていた。それは弟子への純粋な期待などではない。自分が失った「創造」という快楽を、理沙の肉体を依り代にして貪ろうとする、老巨匠の醜い飢餓感だった。

「先生……」

 理沙は逃げるように大林の手を振り払い、病室を飛び出した。

 夜の廊下を走る彼女の耳には、大林の荒い呼吸と、心電図の電子音が、まるで淫らなビートのように響き続けていた。



      3


 深夜零時。理沙は再び工房に戻っていた。

 周囲の住宅街はすでに深い眠りについており、虫の音すら聞こえない。その静寂の中、工房のシャッターを開ける。暗闇の中で、溶解炉のコントロールパネルの緑色のランプだけが、獣の目のように光っていた。

 大林の言葉が、健一の視線が、理沙の身体の奥で異常な熱を持って疼いていた。

「俺の影に抱かれたまま、一生綺麗なゴミを作り続けるか?」

 その呪いを解くためには、この身を焦がすしかなかった。

 理沙は狂ったように作業着を脱ぎ捨てた。重いデニムのジャケットも、厚手のシャツもいらない。彼女は薄手の白いタンクトップと、穿き古したデニムのショートパンツという、極限まで身軽な格好になった。衣服というわずかな重ささえ、いまは炎という怪物と対峙するための障壁に思えた。

 髪を頭の上で無造作に束ね、バーナーのスイッチを入れる。

 ゴォォォォォッ!!

 爆発音にも似た轟音とともに、再加熱炉グローリーホールにオレンジ色の炎が渦巻いた。途端に、工房の温度が急上昇する。密閉された空間は、一瞬にして濃厚な熱の檻へと変わった。

 理沙は大きく深呼吸をし、炉の熱気を肺の奥深くまで吸い込んだ。

 焦げた匂い、埃の匂い、そして火の匂い。

 五感が極限まで研ぎ澄まされていく。

 肌の表面が、熱によってピリピリと粟立つ。

 鉄の吹き竿を手に取り、溶解炉の扉を開ける。千三百度の光が、深夜の闇を切り裂き、理沙の無防備な肉体を鮮烈に照らし出した。

 竿の先をマグマのようなガラスだまりに突っ込み、クルクルと巻き取る。一巻き、二巻き。ズシリとした重みが手首に伝わる。

 ベンチに戻り、色ガラスの粉末が敷き詰められた鉄板の上で、熱いガラスを転がす。今回は大林の「焔」に近い深い赤と、理沙が好む透明感のある青を混ぜた。しかし、ただ混ぜるのではない。

「もっと……私を混ぜる」

 グローリーホールにガラスを突っ込み、再び熱を与える。熱波が容赦なく理沙を包み込んだ。

 汗が吹き出し、薄いタンクトップが重く濡れて肌に張り付く。

 激しい呼吸が肋骨を軋ませ、熱気を吸い込んだ肺がチリチリとした鈍い痛みを訴えてくる。

 普段なら不快でしかないその極限の負荷すらも、いまの理沙にとっては、思考が真っ白に削ぎ落とされ、炉のエネルギーと自らの生命力を真っ向から衝突させる闘争のスイッチへと反転していた。

 視線はただ一点、炎の中で蠢くガラスの塊にのみ注がれている。

 ガラスはいま、千度を超える熱の中で、歓喜するように形を崩し、水飴のように柔らかくなっている。全身の毛穴が開き、千三百度の輻射熱を貪欲に吸い込んでいる感覚。自分の肉体がただの器ではなく、火のバケモノの首根っこを掴み、自らの命をガソリンとして注ぎ込むような、剥き出しの野性に支配されていく。

「ここに来い」

 理沙は竿を引き抜いた。

 ベンチに座り、太ももの上で竿を転がしながら形を整えていく。ガラスの表面温度はまだ千度近い。凄まじい輻射熱が顔面を焼き、露出した太ももの皮膚をジリジリと焦がす。

 熱湯のような汗が目に入り、視界が滲む。掌の豆が破れ、滲み出た血が革手袋の中でじっとりと広がっていく。

 しかし、その痛覚さえもが、いまの理沙にとっては肉体が生きていることを証明するただのシグナルに過ぎなかった。大地を踏みしめる太ももの筋肉が痙攣し、全身の毛細血管が破裂しそうなほどに血流が昂る。

 彼女はいま、大林の呪縛からも、健一の嫉妬からも解放され、ただ己の内のドロドロとしたものを、ガラスに叩きつけることだけを求めていた。

「ここだ」

 理沙は竿の端、吹き口に唇を当てた。

 鉄の冷たさと、奥から伝わってくる微かな熱。

 大林の不気味な左手の感触、健一の執拗な視線。それらすべてを、自分の中にあるすべての感情──愛憎、軽蔑、絶望──というエネルギーに変換し、肺の奥底で圧縮する。

 綺麗に作ろうとする意識は完全に死んだ。

 形なんてどうでもいい。破裂しても構わない。

 理沙は目を閉じ、肺の底にあるすべての空気を、その細い鉄の管へと一気に注ぎ込んだ。

 フゥゥゥゥゥ……ッ!!

 静かで、しかし狂気を孕んだ吐息が、灼熱のガラスの塊へと送り込まれる。

 竿の先で、ガラスが理沙の吐息を貪って、不気味に膨らんだ。理沙の体内から出た湿った空気が、千度の熱と混ざり合い、透明な壁を内側から暴力的に押し広げていく。

 息を吹き込みながら、洋紙(濡らした新聞紙)で外側から形を包み込む。

 ジュウウウウッ! という凄まじい悲鳴のような音が上がり、大量の白煙が理沙の顔を覆った。掌から沸騰した水蒸気が、彼女の腕の皮膚を容赦なく焼く。

 激痛。しかし、理沙は竿を離さない。

 むしろ、その痛みに抗うように、さらに深く、強く息を吹き込んだ。

「動け……! 生きろ……っ!」

 青と赤の顔料が、膨らむガラスの中で引き伸ばされ、混ざり合い、まるで引き裂かれた内臓の静脈と動脈のように、生々しく、グロテスクな模様を描き出した。それは光の屈折という計算された美しさなどでは到底ない。内側から湧き上がる衝動が、ガラスという皮膚を突き破って溢れ出たような、醜悪で、だからこそ抗えない生命の脈動だった。

 何度も炉に入れ、熱し、息を吹き込み、形を整える。

 汗は床に滴り、ジュッと音を立てて蒸発していく。

 理沙の呼吸は獣の咆哮のように荒くなり、肩で激しく息をしていた。理沙は完全に、ガラスという「地球の血」と真っ向から組み合い、自らの肉体と精神を捧げていた。



     4


 夜の闇が白み始めた頃。

 理沙は限界まで形を追い込んだ「それ」をポンテ竿から切り離し、徐冷炉(ゆっくりと温度を下げるための窯)へと慎重に運び入れた。分厚い耐火扉を閉め、温度設定のダイヤルを回した瞬間、全身の緊張がぷつりと切れた。

「はぁ……っ、はぁ……、っ」

 全身から一気に力が抜け、理沙はコンクリートの床にへたり込んだ。

 荒い呼吸が、静まり返った工房に響く。全身は汗と灰にまみれ、腕や太ももには無数の小さな火傷の痕が赤く腫れ上がっていた。

 ガタッと工房の入り口で音がした。

 振り返ると、出勤してきた健一が、シャッターの隙間に立ち尽くしていた。

 彼は床に座り込む理沙の姿を見て、言葉を失った。身体中に火傷を負い、灰にまみれながら笑っている理沙。その姿は、かつての優等生だった彼女の面影など微塵もなく、圧倒的に凄惨で、そして狂っていた。

 健一は彼女の目に、かつて自分を絶望させた大林の熱と、それをさらに禍々しく歪ませた新しい怪物の誕生を見た。

「おまえ……」

 恐怖と敗北感が健一の顔を歪ませる。彼はそれ以上言葉を紡ぐことができず、這うようにして工房から立ち去った。理沙は彼を追うこともせず、ただ水道の蛇口へと向かい、冷たい水を勢いよく喉に流し込んだ。

 そして──翌日の昼。

 工房の空気は昨夜の狂乱が嘘のように静まり返っていた。

 徐冷炉の温度計は、すでに室温と同じ数字を示している。

 冷却の時間は終わった。

 理沙は、分厚い耐火手袋をはめ、徐冷炉の前に立った。

 背後で、ガラガラとシャッターが開く不躾な音が響いた。振り返ると、健一が立っていた。

 普段着のままで、髪は寝癖で乱れ、ポロシャツの襟も歪んでいる。いつもなら自分の作業が終われば真っ先に帰る男が、吸い寄せられるようにここへ戻ってきたのだ。

 理沙が何を産み落としたのか、それをこの目で確かめなければ一歩も前に進めないと言わんばかりの、取り憑かれた目で。

 健一は理沙から少し離れた場所で腕を組み、息を潜めて立ち尽くした。

「開けろよ」

 健一の声には、奇妙な焦燥が混じっていた。傑作であってほしいという願いと、完全な失敗作であってくれという嫉妬が、ドロドロに混ざり合っている。

 理沙は無言のまま、重い鉄の扉のハンドルを引き下げた。

 ギィという鈍い音とともに、真っ暗な窯の内部が露わになる。

 理沙は両手を差し入れ、確かな重量を持った「それ」を抱え出した。

 窓から差し込む真昼の光の下に晒されたそれは──圧倒的に、醜悪しゅうあくだった。

 大林の「焔」が持っていたような、見る者を魅了する計算された調和など欠片もない。

 不格好に膨らみ、左右のバランスは完全に崩れている。表面には無数の気泡が水ぶくれのように浮かび上がり、かつて理沙が得意としていた「完璧に計算された透明な青」の意匠は、底の方で無惨にも引き裂かれていた。その青い静寂を食い破るように、毒々しい赤の顔料が激しく脈打ちながら器全体を侵食している。まるで、優等生だった過去の自分を内側から殺して産み落とされた、生々しい内臓の塊のような禍々しい形。

「……なんだよ、それ」

 健一が、安堵と嘲笑がないまぜになったような、間の抜けた声を出した。

「バケモノじゃないか。結局、親父の足元にも及ばない、ただの失敗作……」

 しかし、健一の言葉は途中で消えた。

 理沙がその歪で醜いガラスの塊を、まるで愛おしい戦友を抱くように、両手でしっかりと胸に抱き寄せていたからだ。

 冷え切ったガラスの表面のゴツゴツとした手触りが、理沙の火傷だらけの肌に触れる。それは間違いなく、大林のものではない。誰に媚びることもない、理沙自身の血肉と絶望と狂気が凝縮された、痛々しいまでの自我そのものだった。いびつで、不格好で、世界のどこにも居場所がない、彼女だけの「命」。

「……ええ。可愛くて愛しい、私のバケモノです」

 理沙の唇から、ふふ、と笑い声が漏れた。

 それは健一に向けられたものでも、大林に向けられたものでもなかった。

 ただ純粋に、自らの内なる狂気を外界に産み落とすことができた、クリエイターとしての根源的な悦びの笑いだった。

 ガラスの表面に落ちた夏の光が、引き裂かれた青と赤い脈動を不気味に、そしてこの上なく美しく照らし出していた。

 理沙は、二度と揺らぐことのない獰猛な眼差しで、自らの産み落とした怪物と静かに見つめ合っていた。



      エピローグ


 季節が秋へと移り変わり、外の空気が肌寒さを帯びるようになっても、あの夜の熱は消えるどころか、静かに世界へと延焼し始めていた。

 都内のギャラリーで開催された若手ガラス作家の合同展示会。

 その最も奥まった一角で、理沙が産み落とした「それ」は、スポットライトの光を浴びて禍々しく脈打っていた。

「なんだこれは。造形としての調和が完全に崩壊している。こんなものはガラス工芸ではない」

「いや、見ろ。この恐ろしいほどの生命力を。大林の『焔』すらも喰い破るような狂気を感じないか?」

 足を止めた客や評論家たちの間で、顔をしかめる者と、魅入られたように釘付けになる者とが真っ二つに分かれ、賛否両論のざわめきが小さな嵐のように渦巻いている。

 理沙は少し離れた壁際に寄りかかり、その光景をどこか遠い世界の出来事のように冷めた目で見つめていた。

 自分に向けられる賞賛も、眉をひそめる批判も、いまの彼女にとってはガラスの表面を滑り落ちる水滴程度のものでしかない。

 他人の評価や「綺麗な形」という呪縛は、あの千三百度の熱波の中でとうに焼き尽くしていた。彼女の闘争は、自分だけのバケモノをこの世に引きずり出したあの深夜に、すでに完結しているのだ。

 ふと、理沙の脳裏にいまの工房の光景が過った。

 かつて、自分の作業を適当にこなし、夕方には安価な柔軟剤の香りを漂わせてさっさと帰っていた男は、もうそこにはいない。

 近頃の健一は、日付が変わるまで溶解炉の前に立ち続けている。

 髪は皮脂と汗で張り付き、作業着は灰と泥にまみれ、その顔にはかつての諦めではなく、凄惨なまでの焦燥と渇望が張り付いていた。

 理沙が産み落としたバケモノの圧倒的な熱は、適当に生きていこうとしていた凡人の心に、再び決して消えない執念の火を放ってしまったのだ。

 自分と同じ、いや、それ以上の火傷を負いながら、必死の形相で炎と睨み合う兄弟子の姿を思い出し、理沙の唇に微かな笑みが浮かぶ。

 理沙はギャラリーの喧騒から静かに背を向け、秋の夜風が吹く外へと歩き出した。

 私の帰るべき場所は、あの熱の檻しかない。

 さて、明日はどんなバケモノを孕もうか。 彼女の胸の奥底で、千三百度の熱波が静かに、そして獰猛に脈打っていた。



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