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源道秀1

 源道秀(げんどうしゅう)は競馬の騎手になる学校で教官をしている。

 生徒の集まる場で一度厳しく指導しただけで、その後ゲドウシュウと陰で生徒たちから呼ばれてしまっていた。

 もうずいぶん前に付けられた陰で口にされる呼び名だが、先輩が使うことで後輩に引き継がれてしまっている不名誉な陰口だった。

 元はある特撮番組の悪役全般を指す呼称らしいが、漢字にしたら真ん中の『道』しか合っていない安直なネーミングセンス。

 この呼び名を始めた生徒は将軍の時代劇を観るし、日曜朝の特撮番組が好きという生徒だった。

 元から人相は怖いと言われるが、ヒゲを中途半端に伸ばしてしまう癖があるから自業自得だと思っている。

 疲れが溜まってくると億劫になり、剃るのが面倒くさくなってしまう。

 ゲドウシュウとは陰で呼ばれているだけなのもあり、余り気にしてはない。

 50代にもなると日々の疲れが蓄積して、中々に抜けてくれないのだから仕方がないだろう。

 それに中学校を卒業したてから20歳未満の10代が生徒なので、侮蔑や蔑称でない限り、陰であだ名を付けられたくらい腹を立てず聞き流すのが大人だ。

 ただ恐れられているだけなのだから。

 幸い職質を受けたためしがないし、顔の恐さに触れられたら警察に職業を聞かれたことないから安心しろと、冗談交じりの返しも出来る。

 しかし、誰もが例に倣うわけではないし、顔を合わせるだけで恐れる生徒ばかりでもない。

 その中でも風越(かざこし)みるめは、自分を前にして恐れないだけでなく、数年に一度の印象深い女子生徒だった。

 初対面で表情を硬くするのは当然としても、大抵女性が見せる第一印象の時の反応は、不安顔を浮かべるか瞳が恐怖で震える。

 もう慣れて諦めているけれど、別に教官なのだから怯える必要はないと伝えたかった。

 そんな毎年同じ反応の中、その年に入学した女性騎手候補生の一人が風越みるめだった。

 目に入ってくる姿勢の良さと、女子にしては高い方な背丈、眼の下には涙袋と目元にホクロがあり、大人になれば美人になるだろう顔立ちをしていた。

 話す時は怯えるでも目を逸らすでもない、真っ直ぐ黒目がちの瞳を向けてくる。

 毎年騎手課程の受験を受けるのは150人いかないくらい。

 一次の後、二次が30人後半の数まで絞られ、最終的に受かるのは一桁未満の年も珍しくない。

 しかも女子が三人受かれば多いと言われ、まだまだ男子が多い種類の物だ。

 それもあって目を引いたのかもしれないが、印象に強く残る女子生徒だった。

「源道先生。みるめさん、規則正しい子ですね。神社の娘さんなんです?」

「ああ、はい」

 週一で茶道の授業のため、学校に来てもらっている茶道の先生にそう話しかけられた。

「正座が様になっていて他の生徒さんとは違うし、用意した和菓子を分ける手伝いの手付きや、季節による和菓子の話ができる生徒さんは初めてで。驚きましたけど、嬉しかったですよ」

 上品に微笑む茶道の先生は、前任の茶道の先生のお弟子さんで、どちらかというと自分より生徒たちの年齢に近い。

 競馬学校で茶道の授業と思うかもしれないが、ちゃんと昔からある教科だ。

 午前中の実技の他に午後は馬や競馬の法則など専門的な物の他、国語、数学などの一般科目に加え、美術の普通の学校と変わらない授業もある。

 茶道は姿勢や所作を学ぶという一面もあるけれど、生徒におやつタイムを与えることを主に設けられた授業だと聞く。

 騎手は体重制限との戦い。

 お菓子は完全に禁止しているわけではないが、体重によっては退学もありえるため、禁止して反発を生むよりも、目の届くところでガス抜きとして加えられたらしい。

 たった一口サイズだが合法的なおやつタイムであり、一昔前ならまだしも、現代の子で甘いものが苦手という生徒は希だ。

 幼い頃から甘いものを口にしているので、昔の生徒に比べて禁止されたら辛いだろう。

 まして普通の高校に行っていれば、放課後に友達と甘い物を食べに行きたいだろう女子生徒も居る。

「穏やかで男の子たちの大人しいとは違って、全然騎手になって馬に乗ってる姿が想像し辛くて。むしろ茶道にみるめさんが欲しいくらいですよ」

 着物を着て半分冗談とも思えない笑みを浮かべる彼女。

 見たことはないが、風越みるめの着物姿は想像に難くなく、茶道をする姿は様になること間違いない。

 けれど同意しながらも言葉を返す。

「そうかもしれないですね。でも、馬に乗ってる姿を一度でも目にしてもらえば、逆に馬の背に乗ってる姿しかイメージ出来なくなりますよ」

 男子たちが大人しいのは、自分たちの母親よりも若い女性を相手にして居るからだろう。

 着物姿が似合う美人相手なら、恋愛対象でない年上でも良く見せようと行儀よくするものだ。

 中には逆に浮き立つ男子も居るには居る。

 源道は男子同士で騒ぐところを注意するので、真面目で規則正しい男子たちでないのは分かっている。

 特殊な学校に入学したところで、年相応の生徒たちでしかない。

 大人びていたとしても、大人びているということはまだ子供なのだから。

「そうです? 今度時間を用意して皆が乗馬しているところを見学させていただこうかしら?」

「ぜひ」

 毎週茶道だけに訪問してもらってるので、授業で使う和菓子を手に早く訪れてもらえれば観てもらえるだろう。

「みるめさんみたいなしっかりした生徒さんより、手のかかる子の方が可愛いものなんですか?」

 なぜそんな質問をしてくるのかと思えば、話してくれたのは該当の風越みるめと同期に入学した生徒の名前が出た。

「手がかかると愛情が湧く分、その点はそうかもしれません」

「やっぱり。あの子明るくて人懐っこいから余計じゃないですか? すごく距離感が近くて驚きました」

 茶道の先生は胸の前で手を合わせて微笑む。

 確かに彼女の言う女子生徒の未帆(みほ)は、同期の中ではムードメーカー的ではある。

 未帆は風越みるめの同期で同室の女子。

 ミディアムの髪に人懐っこい雰囲気の生徒だ。

 中学校ではスポーツをしていた過去を持つ、入学まで乗馬経験の無い生徒だった。

「そうですか。ま、女子が少ないですからね。週に一回でもお姉さんみたいな先生に会えて嬉しいんじゃないですか。もし、困るようなことがあれば言って下さい。余り戯れ付かないよう控えろと注意しますんで」

 寮生活で外出の機会が日曜しかなく、圧倒的に女子の少ない競馬学校では仕方ないのかもしれない。

 女子生徒が少ない上に相性もあるため、上級生とも仲が良いとは限らないのが現実。

 色々とお喋りしたい年頃でもあるだろう。

 そうだとしても茶道の先生に迷惑がかかるようなら、言ってきかせないといけない。

 一応寮監が相談役にもなるけれど、たまにしか顔を合わせないから、気軽にお喋り出来るという心理も理解はする。

 すると茶道の先生は、そんなことないと手をひらひらさせる。

「私も学生に戻った気がして楽しいですし、大丈夫ですよ。女の子は大抵お喋り好きなので」

 そんな溌剌とした女子は中学生の頃、地区大会ではそこそこ名の知れた強い選手だったらしいけれど、楽しく部活をしたい彼女に対し、周りは真剣に取り組みたい者たちで食い違いが生まれ、居辛くなって辞めてしまったという。

 本人曰く、辛い思い出になってしまったから、今は触れたくないという。

「みるめさんよりも手がかかると思いますが、叱られてあの人懐っこさを無くさないで欲しいですね」

「私的には授業をちゃんと受けてくれるならですけど。それに手がからなくても、風越みるめには驚かされます……」

 口に出す直前で同僚の恥を、講師に来てもらっているとは言え外部の彼女に話すのはよろしくないと思い止まった。

 一旦職員室内を気にするフリで、変に切ってしまった言葉を誤魔化し、喋ってしまいそうになった話題を引っ込め、何でも無かったように別の話を切り出す。

「私は直接見たわけではないですが。女子の寮監から連絡で上がってきたものですけど、二年の女子と若干もめたらしいんですよ」

 入学した4月は不安と緊張で余裕が無く、5月近くになると慣れない生活の中でも幽かに周りが見え始め、疲れとこの先も続けられるか不安で余裕が無くなる。

 それは人懐っこいと言われた女子生徒の未帆も例外ではなかった。

 よほどの進学校でなければ、本来なら新しい友達との生活が始まり、楽しくて仕方ない時期だろう。

 しかし、競馬学校の生活は規律があり、寮生活は相部屋でプライベートが無い。

 季節によるが起床が4時や5時になるし、寮監の目がある元で毎日検量する。

 自身の体重をグラフに書き込み、体重の変化と制限体重を超過していないか確認する作業だ。

 そしたら厩舎作業、練習馬を各二頭担当で馬房清掃、飼い葉付けを一時間ほど行う。

 終えたら管理栄養士による朝食を男子寮の建物内の食堂で摂る。

 男女共有のスペースや食堂は、建物が大きい隣り合う男子寮側にあった。

 8時から馬の手入れの後、馬装、ウォーミングアップして馬場へ出て実技訓練。

 一年は基本の乗馬訓練になる。

 半年間は自分の思い通りに馬を走らす訓練で、バーなど使って障害飛越や走路騎乗などを行う。

 フィジカルトレーニングで体力はもちろん、体感や姿勢の感覚なども養わなければならない。

 二年には厩舎実習時間前に騎手になるための騎乗訓練をし、正しい騎乗姿勢、馬をコントロールする技術の向上、速度感覚の取得など。

 騎乗姿勢が悪いと馬の動きを阻害して結果的に遅くなるため、正しい姿勢が絶対なのはもちろん、速度感覚で言えばハロン棒の間隔を目印とし、言われた秒数で走らせなければならない。

 学年が上がれば求められる技術も高く難しくなる。

 昼前には馬を使った授業は終わり、馬装を解き、馬房に帰した馬を手入れをして昼食時間を迎える。

 午後は学科の授業を受け、授業終了後は再び馬の世話のため厩舎作業に戻らなければならない。

 担当する練習馬二頭の飼い葉付けして自分の夕食。

 その後は自由時間になり、各々自分のしなければならないことを始める。

 自主トレに座学の復習、洗濯に道具の手入れ、余りに部屋が散らかって居れば寮監の注意が入るだろう。

 あとは入浴して9時、10時には就寝の流れだ。

 慣れない間は手間も体力も時間もかかり、アレもコレもやらなければとキャパオーバーを起こし、パニックに陥る生徒も少なくない。

 前に寮監を手こずらせる女子が居たが、アレはしばらく語り継がれることになった。

 それは忙しいからと一日二日は普通にフロキャン、洗濯は一週間まとめるため部屋に衣類が山積み、同室の子からは汚いし消臭剤を含めて臭いし、物が侵食されている上に虫が出て嫌だとクレームが入った事件は印象に残っている。

 性格から来るものなので、苦労したと寮監は後に語り、競馬学校関係者で飲み会があると確実に俎上に上げていた。

 競馬学校での生活に慣れてからもだが、慣れるまで目まぐるしい生活に戸惑いながらも上手く肩の力を抜かなければ、ずっと神経を張り巡らせていては身体が保たない。

 慣れてくれば上手く時間を捻出することも可能だけれど、多忙な三年間に違いなかった。

 夢を目指す代償だと受け入れても、どうしてもストレスは生まれる。

 そんなわけで茶道の先生が褒めた明るい未帆と言えど、夜には疲労と慣れない寮生活で滅入ることもあるだろう。


 食堂で夕食を食べ終わり、まだ食べている生徒の姿のあるテーブルの間を二人は歩いていた。

「ほら、しっかり歩いて。部屋に戻ったら休んで良いから。お風呂の時間になったら起こしてあげる」

 後ろをついて歩く風越みるめは、そう前を歩く同室の彼女の背中を鼓舞した。

 優しくかけられた声に未帆は、消え入るような返事をする。

「ん~」

 スイッチが切れかかっている彼女の足が、二年の女子の椅子に引っかかる。

 椅子の脚と床とが擦れる嫌な音。

 一瞬前のめりになった未帆と、後ろの風越みるめは足を止める。

「あ……ごめんなさい」

 いつもの元気はないものの、未帆はちゃんと謝罪を口にした。

 しかし、ズレる椅子から落ちないようテーブルを押さえて振り返った先輩には、覇気の無い言葉が届かなかったようで。

「ちょっと! 何なの! またあなた、もう何度目! わざとなの!?」

 キッと眉をつり上げた先輩に追求されてしまう。

 それは二年の大姥(おおうば)先輩だった。

「いえ……そんな、ごめんなさい……」

 疲労したところに怒鳴られ、さすがの未帆も顔色を悪くする。

 いつものメンタル時なら、スパッと頭下げて謝罪するのだが、今は顔を伏せるのが精一杯。

 上げるのも億劫そうに見えてしまう。

「適当に謝ってんじゃないわよ!」

 彼女が謝って頭を下げるでなく、顔を伏せてしまったからか、気持ちがこもってないと取られて誤解された。

「すみません、先輩。最近慣れない寮生活に疲れ気味で元気が無いんです。わざとじゃないんです」

 風越みるめも謝りフォローに入って、両手で同期の肩を支えながら訳を話した。

 けれど、それも耳に入らないようで怒鳴られる。

「何度も人のイス蹴って! 何度目よ! そんなに楽しいの? いい加減にしなさいよ!」

 夕食で生徒の集まる食堂中に響き渡り、周りの女子どころか、男子たちまで何事かと視線を向けてくる。

 大姥先輩に優しいイメージは無いけれど、理不尽に後輩を怒る先輩でないことも知っている。

 きっと相手も虫の居所がたまたま悪く、普段の未帆と大姥先輩の関係性のせいもあり、日頃の不満が一気にやってきたに違いない。

「ちゃんと謝ってよね!」

 椅子を引いて立ち上がった先輩が、未帆の身体を伸ばした手で押した。

 軽く押されただけでも倒れそうな同室の彼女を庇うように支え、風越みるめはその態度をさすがに見過ごせず抗議する。

「っ!? 先輩! 彼女は謝りました。今日はもう許して下さい」

「謝っているようには聞こえないって言ってるの!」

「彼女は疲れているんです」

「疲れていれば人のイス蹴って構わないっての?! 違うよね! それに疲れているのはあなたたちだけじゃないのよ」

 先輩の声はヒートアップする一方で、同期を抱えながら向かい合う。

「は! 何その目」

「ちょっと! あんた止めなよ」

 怒る大姥先輩と一緒に夕食を採っていた二年の女子が止めに声をかけるが、その子に向かっても怒鳴り返す。

「うるさい! どうせ先輩なんて舐めてるのよ! じゃなきゃ、何回もこの子にイスを蹴られるなんてあり得ないでしょ?!」

 大姥先輩はバッと腕を振り、風越みるめたちを手で示しながら二人を睨んでくる。

 周りの生徒も気にはしつつ、誰も止めに入るタイミングを掴めず、同期の男子ですら困り顔で突っ立っていた。

 穏便に済まそうとしていた風越みるめだったが、先輩の一方的な決めつけに、腕の中で顔色を悪くしている未帆が悲痛に叫び返す。

「ごめんなさいって謝ったじゃないですか!? 何がいけないんですか! 先輩だって……先輩だって! 椅子に座る姿勢が悪いからっ! もっとテーブルに引いて座ってくれなくちゃ……引っかかっても仕方ないじゃん!」

「はぁ!? 道を塞ぐような座り方してないし、十分に通れるでしょ! ワタシを悪者にする気!? とっさにテーブルを掴んだから落ちなかったけど、イスを蹴られて困ってるのはワタシなの!」

 先輩は胸に手を当て自分は悪くないことを叫び、被害者はこちらだと主張する。

 怒鳴り声を上げている時点で、周りから見ても明らかだけれど、相手は興奮していて見えていないようだった。

 それに感情を爆発させるほど、強く椅子に未帆が引っかかってしまったのかも。

 悪い状況が続き、触れる手を伝って徐々に未帆の身体から力が抜ける間隔を覚えた風越みるめは、彼女に囁きかける。

「大丈夫?」

 すると小さく頷きが返され、顔を大姥先輩に向けて同期を庇うように頼み込んだ。

「こう見えて彼女、まだまだ寮生活を始めたばかりで、不安でもあって疲れているんです。だからお願いです」

 支えなければならないので頭だけ伏せて訴えた。

 ちょうどその時、寮生に連れられた女子寮の寮監が到着する。


 話して聞かせていた源道秀は、一旦話を切り腕組みをした。

「そこで風越は『先輩なら初めての寮生活が不安なの分かりますよね? だったら一度だけで良いので椅子を引っかけてしまったこと許してもらえませんか』って言ったらしいです。早く部屋で休ませたいからって」

 聞き入っていた茶道の先生を見やり、座っていた椅子の背もたれに体重をかけた。

「とても少し前まで中学生だったなんて思えませんよ。私なんて同い年の時なんてクソガキでしたから驚かされました。自分だったら先輩を説得しようなんて考えず、無視して肩で押し退けるっていう、直後にはケンカになりかねない態度しか取れません」

 その後寮監が間に入ったことにより、もめ事は収まり彼女は風越みるめに部屋へ連れてかれた。

 人懐っこい未帆は慣れない生活でストレス、その一年生を怒鳴った二年は進級してからの授業でのストレスも影響したのだろうと、女子寮の寮監から報告を受けている。

 進級には当然のように進級試験があり、技量が足らないと留年か場合によっては退学になる。

 二年になると実技は障害、走路に加え、騎乗姿勢や馬をコントロール出来ているかが厳しく見られる。

 それを合格しなければ、二年時の厩舎実習に出せないからだ。

 厩舎実習は学生という身分なだけで、ほぼ行うことは卒業後に厩舎に所属した後と変わりない。

 なので程度の差こそあれ、どの学年もピリついてしまう生徒は毎年目にする。

 三年生で言えば進級後一度厩舎実習に戻り、夏に学校に戻って卒業までの数ヶ月間で騎手としての最後の仕上げをする。

 三年の10月には現役の卒業生を交えての模擬レースが控えているし、しかも12月には実際の競馬場で、実況付きの本番レースさながらの模擬が控えている。

 もちろん芝やダート、色んな状況を体験するため、模擬レースは複数回行われ、デビューまで目まぐるしくクリアしなくてはいけない目標がずっと目の前にあり続けてしまう。

 模擬レースの後には、教官による解説があり、スタート後の位置取りや各人のポジションの推移、コーナーでの回り方、追い切りのタイミングなど、模擬レースの映像を振り返りながら解説を受ける。

 褒められることは希であり、基本は厳しい意見ばかりが飛び交う。

「大変ですね」

 眉根を寄せる茶道の先生。

「まぁ、でも、この学校に入学した生徒は皆同じですから。ずっと神経を張り詰めているわけにいかないので、自分なりの力の抜き方とか、ストレスの解消の仕方を上手く出来る奴が、押し潰されずに残るんでしょうね」

 卒業出来るか、騎手として続けていけるかなんて、各々の性格や状況でしか分からない。

 卒業試験をクリアすると新年に騎手免許試験が待ち構え、試験に受かると免許が交付され、3月1日からやっと騎手として馬に乗ることが出来るようになる。

 それももちろん騎乗依頼が調教師や馬主からあればの話。無ければプロでも馬に乗ってレースには出られない。

 やはり言ってしまえば、騎手はずっと厳しい世界で生きていかなければならないことになる。

「外出も日曜日だけでしたっけ? 前から予定していた遊びに行くの楽しみすぎて、授業が全然入ってこないって、嬉しそうに教えてくれる子が居たんですけど」

「そうですね。外出の申請用紙に一緒に出かける人の名前と行き先、だいたいの予定表を提出が必要です。教官が目を通して問題が無ければ許可が下りる感じですね」

 申請が面倒で寮で過ごす生徒も居るけれど、正直普通の高校生のようにスマホ片手に、SNSや動画を見て過ごすという休日は不可能。

 スマホの所持も規定があり、入れられるアプリやフィルタリングは義務付けられ、使用時間にも制限がかかるためだ。

 ゲームやSNS類も禁止され、ネットで拾えるのは競馬関連の情報のみ、スマホは競馬学校や移動の多い厩舎実習の連絡用と化す。

 競馬開催の時に厩舎義務を知るため、競馬場に連れてかれることもあるからだ。

 騎乗フォームの確認や授業の記録などに動画や静止画の撮影は許されているが、SNSへの投稿はもちろん、その他の用途での使用を禁じられている。

 それは友達との思い出のためでも、気軽に撮れないという不便な環境での生活に違いない。

 一般的な学校に通う学生でさえ、ストレスや不満を覚えるのだから、不満を抱えるなという方が無理だろう。

 それでも多少気の毒と思いつつ指導する瞬間というのはある。

 騎手になるための体重制限があるので、ストレス発散の方法の一つではある暴飲暴食だって、退学を覚悟しなければ出来ない。

 プロの騎手になってからも、ずっと律していかなければならない職業の一つだ。

「大変ですね。夢のためとは言え、あの子たちは」

 少しでも作法に関して厳しくするのは止そうと考えているのだろうか? 

 もしくは単に頑張っている子たちに感心している呟きなのか。

「ちなみに先生。授業が頭に入ってこないと言ってた生徒は誰ですか? 在学生なら教えてもらえると」

 外出が楽しみで授業が上の空になりそうな候補は何人か浮かぶ。

 注意しないが聞き出すだけ聞き出そうとしたが、ちょうど事務の人がやって来て「お待たせしました」と、茶道の彼女を連れて行ってしまった。

 授業で使用したお茶菓子代か何かだろう。

 彼女に言いかけた騒動も、中々に驚かされた出来事ではあった。


 繰り返しのように思える日々を送っていたとしても、他人と関わる場所に居ると色々なことが起こるもの。

 それがまだ十代の若者が絡むと尚更だろう。

 教官の間でも気難しいと囁かれる人が、またへそを曲げた様子。

 午後の担当授業があるというのに、始業間もない頃に男性は職員室に戻って来た。

 全身から放つモヤモヤした雰囲気と、顔のパーツが真ん中に集まりそうな表情で察せられる。

 歩幅大きく紅茶を淹れに直行する背に、源道秀は職員室に残っていた年の近い教官と目を合わせ、目配せで会話をして肩をすくめた。

 機嫌を損ねた教官をなだめられるのは、ここで一番のベテランの教官だけだというのに、その人は今席を外している。

「謝りに来る方が早いですね」

「……」

 苦笑交じりに囁かれた同僚の言葉に、再び肩をすくめて答えた。

 温かいコーヒーを淹れたかったが諦め、仕方なく冷えてしまったカップに口をつける。

「不味い……」

 ここまで冷めてしまうと氷を入れてアイスにしてしまった方が薄味になるとしてもマシに思う。

 これは年に何回か発生する事案で、原因は生徒の態度や授業を聞いてないことが定番だ。

 だいたい普通の学校と変わらず、男子たち由来の要因が大半なのも同じだと思う。

 入学試験の時に面接で人物考査、言葉づかいや礼儀などを見ているが、やはりまだ十代の男子たち。

 集まり群がれば楽しくなるし、気も大きくなって騒ぎもすれば、態度や言葉づかいも荒れて当然。

 相性はあるだろうが、受かった同期の男子全員と息が合わないなんてことはない。

 誰かしらと仲良くなる。

 合格者が少数故の仲間意識や連帯感が、男子たちの一体感などを高めているのは間違いない。

 仲の良いことは悪くないが、盛り上がり騒ぎ出してしまうと、ちゃんと授業に集中するよう促すのが一苦労だ。

 源道秀は授業での時間のロスは、自分たちが成長する時間的ロスだと叱っている。

 結局は自身も学生時代似たような時間を過ごしていて、共感も出来るが、教官という立場上、生徒を一人前の騎手(ジョッキー)にするべく厳しく接さなければならない。

 嫌々叱るわけではないが、こちらが真面目にしている講義を聞いてくれないのは、なかなか怒りたくなってもくる。

 夏が終える頃には、大抵の生徒はそこら辺分かってくるのだけど、入学したての春頃はどうしても避けられない。

 競馬に関わる習慣の一つに、名前の後に調教師、職員、寮監は『先生』、厩舎関係者は名前に『さん』呼び、騎手は『先輩』を付けて呼ぶルールがある。

 絶対ではないが、ほぼそうと言って良い。

 そういう慣例事も、競馬学校で学ぶことの一つだ。

 要は年上の話はちゃんと聞けということにつきる。

 個人的思想による間違ったこと以外は、生徒たちに必要なことを教えているのだから。

 幸いなことに源道秀の場合、一度怒れば二度と起こらなかった。

 この時ばかりは顔の恐さがありがたいと感じているが、前に冗談交じりに恐い基準が源道秀のせいで、生徒は他の教官が優しく見える錯覚を起こしているのではと言われ、検証しづらい説に眉根を寄せた。

「さて、今回はーー」

 背もたれに体重をかけると、ギッと鳴り職員室の扉を見やる。

 コンコン、コンコンと、静かにノックの音がした後、そっと扉が開いた。

「失礼しますーー源道先生、今よろしいでしょうか?」

 硬い言葉づかいとは裏腹に、扉から覗き込むように幼い仕草で顔を出したのは風越みるめだった。

 自分に声をかけたのは、最初に目が合ったからだろう。

 予想は出来ているけれど、何も知らない態度で頷き返す。

「ああ、問題ない。どうした?」

 身体を回して聞く姿勢で向き合うと、許しを得た彼女が目の前までやって来る。

「失礼しまーす」と、後ろを人懐っこい同期の女子、未帆も職員室なためか控え目に続く。

 誰かしら生徒が来るのは予想済みだったが、女子二人とは思わなかった。

「先生、椅子を借りても良いですか?」

「適当なの使え。このままでも良いんだが」

 立つ相手を見やると、困り顔が浮かぶ。

「腰の曲がったお年寄りたちと話す時も、目線を合わせてしゃがんでいたので。年上の人と話すのに見下ろすのはちょっと落ち着かないんです」

「そうか」

 風越みるめは空いていたデスクの椅子を借りると、向かいに膝を合わせて座り、背筋を伸ばして居住まいを正す。

 そして不機嫌な様子で帰ってきた教官の名前を口にし、今現在先生不在でこの時間どうするべきか、指示を仰ぎに来たと説明してみせた。

「とりあえず、自習で良いんじゃないか」

 当人を頭に浮かべながら、困っている彼女の要望に答えた。

 あの様子だと時間を置いた方が良さそうに見える。

 いま反省を口にして謝っても、相手が興奮状態では逆にややこしくなる未来しか見えない。

「良くありません。私は自習しに入学したんじゃありません。男子たちには謝らすので、先生には授業をして欲しいんです」

「そう……だな」

 相手の真っ直ぐな眼差しから、真剣さが伝わるし、主張も正当性があり、大人としての返しに困る。

 もっともだと自分も思うけれど、相手が人間なだけに単純じゃない。

 複雑でももちろんないが、目元にホクロのある顔を見返す。

「教官たちには給料が支払われているんですよね? お金が発生している時点で『プロ』なので、大人としての責任と生徒に授業をする義務が生まれているはずです」

 神妙な表情でプロを強調し、涙袋が特徴的な黒い瞳で訴えかけてくる。

 真っ直ぐで艶やかな黒髪と相まって、普段生徒を相手にしている態度では駄目だと、頷きつつ椅子に座り直して向き合う。

「授業を真面目に受けてなかった男子たちが悪いし責任がありますけど、授業を受ける意思のある生徒が目の前に一人でも居るなら、講義を再開するべきじゃないですか?」

 生徒が授業を聞いていなくても注意こそすれ、癇癪を起こして授業をボイコットするなと、そう言いたいらしい。

 単に授業をしろというだけかもしれないが、その気持ちは十分理解出来るし、納得もする。

 同じ教官という立場から見ても、自分の気分次第で一コマ分の仕事をせずに済むなんて、毎回ちゃんと授業をする側からすれば真面目が馬鹿を見ているのと変わらない。

 もちろん教官も人間だし、後で主任から注意を受けるのだけど、自身の感情のまま動けるという一点においては羨ましくもある。

 大人なら仕事だと我慢して自身の気持ちに蓋をするからだ。

「風越の言っていることは俺も同意見だ」

 それでも生徒の口から聞いたら、あの教官はどうなってしまうのか……予想するも好転しないのは確かに思う。

 紅茶を淹れに消えた方を意識しないようにし、視界の端に映る同僚の様子から、この会話が聞こえていないだろうことを推測する。

 もしマズければ自然に別室をすすめられるだろうから。

「とりあえず、今後授業を中断しないようの話は先生たちの方でやっとく。だから、風越は直接抗議したりするなよ」

 この言葉に不満を覚えてもおかしくないので、風越みるめの主張が正しいことに同意しつつ、この問題は自分に預けろと伝えて理由を説明する。

「言われる相手とタイミングによっては、状況を悪くしないとも限らないからな。蒸し返すのも無しだ」

 言っていて子供にする話じゃない上に、大人として情けないことを言い聞かせていた。

 先生たちは大人だが、大人になると変にプライドがあるから年下に指摘されると意地になってしまう。

 それが正しければ正しいほど、核心を突いていればいるほどプライドを傷つけてしまいかねない。

「心配するな」

「ーーはい」

 素直に彼女が頷いたのを見て、源道は二人に疑問を投げかけた。

「それとおおよその見当は付くが、授業中止の原因は何だったんだ? 風越が男子に謝らせると言っていたから、分かるっちゃあ分かるが」

 チラリと人懐っこくお喋りな未帆を見やると、彼女は目を丸くして顔の前で手を振り、自分は関係無いと主張された。

 風越みるめから男子が原因と聞かされているので、彼女が犯人でないのは分かっていても、つい日頃の様子から完全に白とは思えず見てしまう。

「分かってる」

 手のひらを見せるように手を上げて、慌てる未帆を一旦黙らして風越みるめの話を聞く。

「まずはチャイム鳴っても静かにならなくて。始業のチャイムも鳴っているし、先生もホワイトボード前に立っているから、自分達から黙るのを待っていたみたいです。けれどそれじゃお喋りは止まらなくて。結局、男子は注意されてようやく席に戻ったり前を向きました。そうしてようやく号令がかかり、数分遅れで授業が始まりました」

 お喋りと言えば女子のイメージがあるが、女子が二人か三人しか居ないので、割と注意することが少ない。

 相性によっては連絡事項くらいでしか話さない女子生徒同士も過去に存在したので、三人四人と集まれる男子の方が群れて気が大きくなる傾向を感じる。

 その上、源道の体感だが男子を叱ることが多い気がしていた。

 もちろん、比較したらというだけで、たぶん騎手という目標に直結している分、普通の学校よりも真剣に授業を受けているはずだ。

 新入生はまだ中学や高校の気分が残っているのだろう。

 競馬学校で過ごす時間が長くなるほど、礼儀などを学び、生活態度で注意することが無くなる。

「私もすぐに静かになるだろうと待たず、すぐに注意しておくべきでした。男子を甘く見てたのを後悔してます」

 小さく息をつきながら、彼女は説明を続ける。

「次に注意された男子の内、何人かが先生を描いた紙を回し始めたんです。ちょうどホワイトボードのマーカーが切れて、注意した後で少しイラついた姿を見せた後でした。それが面白かったのかコソコソし出して、注意された腹いせというか、反抗心を刺激されたのもあるかと思います」

 自分の場合は教室の人数が少ないため、板書していても気配を感じるし、何かしているのも何となく気づいていたりする。

 あとは注意するレベルかどうかを念頭に置いて授業をしていた。

「それで見つかったのか」

 今ここで聞かせてくれている以上、不真面目な所業がバレる流れなのだろう。

「はい。回されていたメモが回収され、しかも悪いことに先生が注意しているタイミングで、ちゃんと授業を受けていたこの子から欠伸が出てしまって」

 いつの間にか後ろから風越みるめに抱き付いていた未帆に手を添える。

「かみ殺してはいたんですが、それを見た先生が『ふざけている人たちに授業をする気はありません!』って怒鳴って。驚いて皆が固まる内に教室から居なくなったんです」

「私は宣言します! 私は悪くありません。男子たちがつまらないことで怒られてて、それが退屈で欠伸がでちゃったんです! 分かってくれますよね」

「別に何も言ってないだろ? それに悪いとは思ってない。タイミングが悪かっただけなのも信じる」

 それを聞いた風越みるめは、一つ頷き落ち着いた口調で、無罪を主張するクラスメイトをなだめる。

「良かったね」

 未帆は人懐っこくてお喋りのイメージがあるけれど、授業はちゃんと聞くし、元運動部なだけあって指導者からの話はちゃんと聞いている。

 それにフィジカルトレーニングをしていても、ダルそうな動きは一切しない。

 なので経緯を聞いていて思ったが、よく細々としたことが重なったものだと鼻から息を吐く。

「なるほど」

 未帆が職員室について来た理由も判明し、ここからは奥は見えないが、腕を組み思案するフリをしながらチラリと給湯室の方を見やる。

 剃らなければと思っている顎ヒゲに触れ、同僚が紅茶で落ち着いて出て来た後の算段を立てる。

「ねぇ、みるめ。何で怖いゲド先生に相談するの? もっと優しい話しやすい先生も居るよ」

 ちょっと目を離しただけで、そんなことを囁かれた。

 まさか裏の呼び名を略しているとは言え、本人を前に口にしたことに内心驚く。

 度胸があるのか馬鹿なのか、驚きすぎて反応して良いものか困ってしまう。

「怖いけど叱らなくちゃいけないところだから怒っているだけで、画一な他の先生たちよりも私たちの話を聞いて、気持ちを分かって接してくれるし対応してくれてる。怖いだけじゃないんだよ?」

 女子生徒から褒めの言葉に更に驚かされ、顔を戻すに戻せなくなってしまう。

 恐がられても褒められることは希なせいで、どう返したものか困惑する。

 明後日の方向を向いていたのもあって、引き続き反応に困ってしまう。

 端から見たら変な状況だろうと頭に浮かべながら、考えるフリを続けてジャリジャリと顎を撫でた。

「それに私は源道先生の授業嫌いじゃないよ。たまに話が逸れるけど、それでも午後の授業で眠くならないのは、聞かせる話し方が上手いからだと思うな。ただ教科書を読んで説明するだけは堅苦しいけど、間に豆知識みたいな話も聞かせてくれるから為になるし、飽きずに居られるでしょ?」

 余りのベタ褒めにとうとう顔を戻せなくなる。

 恐い厳しいと言われ続け、騎手になって再会した卒業生にしか感謝されない。

 感謝されるために教官をしているわけではないと、割り切っているが、いざ褒められると居心地が悪くて仕方ない。

「えー、そお? 怖いじゃん、顔」

「確かに顔は怖いけど、実家では年が近い人より、おじいちゃんおばあちゃん、年上の人と話すことが多かったから。大人の方が私は話しやすいんだよ。それに常に怒ってるおじいちゃんとか、頑固なおじいちゃん、近所の人間関係に詳しいお喋り好きなおばあちゃんを相手にして居たから全然慣れてるよ」

 風越みるめの実家は田舎にある神社なので、話に出てくるおじいちゃんおばあちゃんは、軽く源道秀の二十や三十上の年齢に違いない。

 まだまだ若い気でいるため、高齢者に見られているかと思うと、急に落とされた気分になった。

 これ以上聞いてもいられないので、軽い咳払いで顔を戻すことにする。

「んっん! 男子たちが謝るにしても、授業時間が終わってからだな。今すぐ謝りに来ても、教室での延長線上にしかならない。男子たちには自習と、チャイムが鳴ったら謝りに職員室へ来るよう話しに行くよ」

 相手の真剣な眼差しを受け止め、幾つか風越みるめに提案する。

「自習だがトレーニングルームを開けて体動かすか、もくしは今馬場に練習で出てる二年生の見学辺りになるが。どうする?」

 そう教室での自習に不満を漏らしていた風越みるめに提案した。

 しばらく思案する様子を見せた後、彼女は要望をハッキリと口に出す。

「代理で源道先生に授業してもらうことは出来ませんか?」


 回想から戻り、一息吐いて立ち上がる。

 その騒動の結末は想定通り、怒りのピークを終えた教官に男子たちが謝罪し、風越みるめの訴えを含めた一連の報告を受けた昔から居る教官が、ボイコットした該当の教官に訓戒して一先ずの終息を見せた。

 腰を伸ばしてから空のカップを手に、コーヒーを淹れに行く。

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