番外編 ねこやのヒミツ、ちょっとだけ。
午後の光が、カフェのガラス扉をやさしく透かしていた。
奏がドアを開けて入ってきたとき、店の奥から一人の男性が立ち上がった。
黒いシャツに淡い色のジャケット、年齢は雪と同じくらいか。
「……あれ?」
その男性が扉を開けて出ていくのと、奏が入ってくるのが、ちょうど入れ違いになった。
すれ違う瞬間、男性は一瞬だけこちらに目を向けたような気がしたが、なにも言わず、風のように去っていった。
カウンターの向こうで、雪が静かにその背中を見送っていた。
彼女は、何も言わず、ただ左手の薬指にある指輪をそっと撫でる。
光が当たり、銀のリングが一瞬だけ微かに輝いた。
「……こんにちは」
奏が遠慮がちに声をかけると、雪はゆっくり振り向いて、いつも通りのやさしい笑みを返した。
「いらっしゃいませ、今日は何にしようか」
そう言ったその笑顔に、どこか、名残のようなものが混じっていた。
⸻
奥の棚で、レーズンがこっそりとチョコのしっぽを踏んでいた。
「いたっ!」
「しーっ!バレるにゃ!」
「今誰もいないにゃ。今がチャンス!」
「何のチャンスにゃ?」
大福が眉をしかめながらも、つられてついてくる。
猫たち三匹は、いつもは近づかない“店の奥”へ向かっていた。
「クロエが言ってたにゃ。“雪さんのヒミツは、箱に入ってる”って」
「またクロエの謎発言に踊らされてるにゃ……」
「でも、気になるにゃ?」
「……ちょっとだけにゃ」
奥の間は、古い木の香りがした。
棚に並ぶのは使われなくなったカップや古いランプ、猫たちが普段遊ぶことのない空間。
その一角に、ひとつだけ異質な気配の漂う小さなチェストがあった。
布がかけられていて、“触れるな”と言われているわけじゃないのに、誰も近づこうとしなかった場所。
「これ……」
大福がそっと前脚で布をめくると、下から現れたのは、アンティークのアクセサリーボックスだった。
木製で、角がすこし削れている。
でも、手入れはされているようで、丁寧な時間がそこに息づいていた。
「開けてみるにゃ……?」
誰ともなくつぶやいた声に、大福がコクンとうなずいた。
ぎぃ――
蓋が静かに開くと、そこにはいくつかの小物が入っていた。
色あせたリボン。片方だけのイヤリング。写真立ての裏に隠された映画チケット。
そして、小さな銀のペンダント。
それをチョコがくわえて持ち上げようとした瞬間、
「そいつは、記憶の鍵にゃよ」
低い声が響いた。
振り返ると、クロエがいた。
いつの間にか、黒い影のように現れて、猫たちの後ろに立っていた。
「記憶……?」
「にゃ。鍵がないと、見えない過去がある。触れても、思い出しても、言葉にしない。それでも、そこにある」
クロエはペンダントに視線を落としながら言った。
「誰のものにゃ?」
大福がそっとたずねる。
「それは、“雪さんだけのもの”じゃないにゃ。……でも、もう一人は、ここにはいないにゃ」
そう言ってクロエは、ふ、と目を閉じる。
「過去ってのはにゃ、しまっておくことで、未来にスペースを作るのにゃよ。
しまったものがある人間の方が、ちゃんと誰かにやさしくできる。
……あんがい、そういうもんにゃ」
クロエの目が、ふっと柔らかくなる。
「……にゃんか、クロエっぽくないにゃ」
レーズンがぽそっと言うと、クロエはふふんと笑った。
「たまには言ってみたくなるにゃ。……“昔のあたし”のふり、にゃ」
⸻
その日、カウンターに戻ると、奏がホットミルクと“猫のかたちのクッキー”を眺めていた。
「雪さん……」
彼はひとつ言いかけて、やめた。
雪は、さっきと同じように静かな笑みを浮かべ、ミルクティーをそっと差し出す。
そのスプーンには、揺れるチャームがついていた。
「……昔の、約束のチャーム?」
そう問いかけると、雪は少しだけ驚いたような顔をして――
「気のせいかもね」
そう言って、くすっと笑った。
猫たちはその足元で、何も知らないふりをして眠ったふりをする。
でも、みんな知っている。
この店の空気に混ざっている、“誰か”の気配。
過去と未来をつなぐ、小さなヒミツ。
ほんの少しだけ、そっと覗いてしまったヒミツ。
だけど、それがあるからこそ、今日も“ねこや”は、あたたかい。
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この“番外編”が物語に優しい余白を添えられていれば嬉しいです




