第2話 わたしの声、聞こえてますか?
ねこやに来るお客さんは、ちょっとだけ心に“ざらつき”を抱えている人たち。
今日、店のドアを開けたのは、静かな目をした女の子でした。
教室で、誰にも気づかれないまま、消えてしまいそうだった――
そんな彼女と向き合うのは、奏。そして、猫たち。
少し切なくて、でも心がふわっとする、そんなお話です。
──来ちゃった。
そう思いながら、私は店の前に立っていた。
昨日と同じ、木の扉。少し重たくて、ちょっとあたたかい。
まるで、誰かの背中みたいだなと思う。
「……また来たにゃ?」
扉を押し込むと、クロエの声が聞こえた。
黒猫の彼女は、昨日と同じ位置、カウンターの上に座っていて、
しっぽだけゆっくり左右に揺らしていた。
「勝手に来ちゃったけど、いい?」
「ここは、ただのカフェにゃ。来たい人が来る場所にゃ。勝手でいいにゃ」
空いている席に向かう途中、小さな鈴の音がした。
足元を見ると、ミルキーがころんと転がってきて、私の靴に頭をこすりつけた。
真っ白な子猫。まるで、夢からそのまま出てきたみたいな存在。
「また会えたね」
しゃがんでそう声をかけると、ミルキーは小さく「んにゃ」と鳴いた。
昨日座った奥のカウンター席に腰を下ろすと、視線が上にいった。
棚にぶら下がったティースプーン。どれも少しずつ形が違っている。
星型、鈴、そして……猫のしっぽ。
「これ、なんで吊るしてるの?」
「売り物にゃ」
クロエが、スプーンを1本とって見せてくれた。
「しゃらんって鳴る音で、誰かの気持ちが動くことがあるにゃ。
気に入った音があったら買っていいにゃよ。」
意味はよくわからないけれど、私はうなずいた。
そのとき、扉の鈴がかすかに鳴った。
背筋がすっと伸びる。誰かが入ってきたのだとわかったから。
ぱた、ぱた、ぱた。
軽い足音が、私のすぐ横を通っていく。
ふわっとしたベージュのセーター、制服のスカート。
彼女は私から2席ほど離れた、カウンターの端に座った。
手に持っていたトートバッグを、そっと床に置く。
その一連の動作すべてが、静かだった。
まるで、自分の存在を薄めることに慣れているみたいに。
「ひとり、ですかにゃ?」
クロエの問いかけに、彼女は小さくうなずいた。
その声は聞こえなかったけれど、確かに動いた頬とまつげが、答えになっていた。
「今日は、こっそりクッキーとカフェオレにゃ」
クロエは、焦がしキャラメルの香りを漂わせながら、
カップとお皿を彼女の前に置いた。
そして、猫しっぽ型のチャームがついたティースプーンも。
その音が、“しゃらん”と、ほんのかすかに響いた。
彼女はスプーンのチャームを指でつまんで、そっと揺らしていた。
目の前のクッキーにはまだ手をつけていない。
そして、口をひらいた。
「……教室、で」
その声が小さくて、でも真っ直ぐで、私はついそちらを見た。
「……いないみたいにされるのって、こんなに痛いんだって思って」
カフェオレを見つめながら、彼女は続けた。
「毎日、席に座って、授業を受けて、
何もしてないのに、誰にも名前を呼ばれなくて、
声を出すタイミングさえ見つからない」
私は息をのんだ。
わかる。わかりすぎて、胸の奥がぎゅっとなる。
「私も……おなじ」
気づいたら、声が出ていた。
彼女が、初めて私を見た。目が合った。
「“いたはずの人”って、扱いされて。
いるのに、見えてないってことにされて。
なんでかって理由もわからないまま、笑えなくなった」
彼女の目に、じわりと光るものが浮かぶ。
「私ね……朝がこわいの。
目が覚めて、制服に袖を通した瞬間、心がどこか遠くに行く感じ。
授業中に黒板を見てるふりして、ずっと“存在”のことを考えてた」
「“存在”?」
「……どうしたら、わたしって“ここにいる”って認められるのかなって。
どうして誰も、目を合わせてくれないのかなって」
その言葉に、私は涙をこらえきれなかった。
ミルキーが、いつの間にか私の膝に飛び乗ってきた。
白い毛並みがあたたかくて、すり寄る動きが、胸に沁みる。
「“ここにいる”って、ちゃんと感じられる場所があれば、違うのにね」
「ここは……そんな感じが、する」
彼女がようやく、焦がしキャラメルのカフェオレに口をつけた。
そして、小さなクッキーをひとかけら食べた瞬間──
チャームのスプーンが、私のスプーンとふれて、しゃらん、と音を鳴らした。
まるで、それが合図だったみたいに。
「昔も、ここで泣いた子がいたにゃ」
クロエが、カウンターの上からぽつりとつぶやいた。
「名前を呼ばれなかった子。
声を出しても、誰にも届かなかった子。
でも……クッキーと、猫と、誰かの言葉で、涙が出て、
“わたし、いたんだ”って気づいたにゃ」
「……その子、いまは?」
「もう、たぶん立派な人間にゃよ。
聞こえなくても、声は消えないって知ったからにゃ」
私たちは無言でカフェオレを飲み干した。
甘さの中にある、ちょっとした苦みと塩気が、
教室にはない優しさのように思えた。
「……また来ていいですか?」
彼女が立ち上がりながら聞いた。
「もちろんにゃ。また、こっそりクッキー焼いておくにゃ」
クロエがしっぽで軽く返す。
帰り際、彼女はティースプーンをひとつ購入していった。
「じゃあ……また」
「また」
彼女が帰っていったあと、ミルキーが椅子の背もたれに飛び乗って、私の肩に顔を押しつけてきた。
「……ありがと、ミルキー」
私は言葉をこぼして、目を閉じた。
そのとき、不意に浮かんだのは──
「“わたしの声”は、ちゃんと、聞こえてる?」
あの子に、あたしの言葉が届いていたなら。
クロエが、ミルキーの背中をなでながら言った。
「声は、空気の中で響くにゃ。
でも、心の中ではもっと遠くまで届くにゃ。
だから、きっと届いてるにゃよ」
私はもう一度、うなずいた。
そのまま席を立ち、扉の前で一度ふり返る。
棚にぶら下がったチャーム付きのスプーンたちが、
しゃらん、しゃらんと、まるで“またおいで”と手を振るように鳴っていた。
今日のメニュー
•焦がしキャラメルのカフェオレ
•こっそりソルトバタークッキー
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
教室での“無視”や“孤独”は、言葉にできない痛みを残します。
でも、誰かがちゃんと見ていてくれるだけで、
少しだけ、心がほぐれることってありますよね。
奏も、来店者の女の子も、まだ不器用なまま。
でも「わたしの声、聞こえてますか?」という問いかけに、
そっと耳を傾けてくれる存在がいるなら、きっと大丈夫。
よろしければ、ご感想やお気に入り登録などいただけると励みになります。
また次の放課後、お会いしましょう。