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Slow Luv Op.1  作者: 紙森けい
6/8

[ 土曜日-1-]


『ウィーン東京カルテット+ONE  室内楽はいかがです?』

 外国人演奏家による室内楽のコンサートは珍しくないが、今回、関東圏の三つのホールを回るウィーンからのカルテットは、クラシック界隈でちょっとした注目を浴びていた。

 日本人初のWフィルのチェリストで、楽団内でも評価が高いと言われる曽和英介と、ザルツブルグ国際コンクールにおいて十四歳で二位入賞を果しながら、それ以後表舞台から姿を消していた中原さく也が参加していたからである。

 その二人の凱旋と初演奏に、音楽関係者の関心は否が応でも高くなる。先に行われた横浜と埼玉のコンサートは期待を裏切らない演奏だと高い評価を得て、一般的に無名の若手カルテットでありながら、東京のチケットをソールド・アウトにした――という話は悦嗣の耳にも入っていた。そしてそれは本当なのだとゲネプロで実感した。

 悦嗣は楽屋の鏡の前に座り、自分の顔を見る。

「情けねぇ面」

 ゲネプロでの弦楽四重奏は素晴らしい出来だった。息の合ったその音は間違いなくウィーンのもの。五重奏に参加する悦嗣はその中に紛れ込んだ異物で、どうしても聴き劣りするのは否めない…などと口にしようものなら英介に叱られる。

 すでに最初の曲であるハイドンの弦楽四重奏『皇帝』が始まっていた。二曲目のドヴォルザーク『アメリカ』の後にインターミッションを挟む。悦嗣が出るブラームスの五重奏まで約一時間十五分というところか。ブラームスは約四十分の長丁場――すべてが終わればこの緊張から解放されるわけだが、それは永遠の彼方に感じる。

 解放までの時間に悦嗣が眩暈を感じた時、ドアがノックされた。開けると目の前に涼しげな麻のパンツスーツに身を包んだ女性が立っていた。

「小夜子」

「久しぶりね」

 英介の妻、曽和小夜子である。意外な訪問に悦嗣は目を見開く。

「来てくれたのか」

「エースケに聞いたの。久々にエツが弾くんだもの、聴かなきゃ」

 ドアを大きく開けて、彼女を中に招き入れた。

「ガッカリさせなきゃいいけどな」

「エツは本番に強いから、楽しみにしてるわ。でもひどい顔色」

「緊張で吐きそうだ。コーヒー、飲むか?」

 楽屋に用意されたポットから紙コップにコーヒーを注いで、彼女に渡した。

「自信家のエツにしては、ずい分と弱気ね」

 悦嗣は首をすくめてみせた。

 彼女とは英介の渡欧の際に会ったきりだから、四年ぶりになる。長かった髪は顎の辺りで切り揃えられ、キリリとした表情を引き立てていた。キャリアの高さを感じさせる。

「編集長になったんだって? おめでとう」

「ありがとう。エツも変わらないわね。なんだか若返ったみたい。仕事はどう?」

「まあまあ。これのおかげで商売上がったりだけどな」

 悦嗣はどれだけ強引に――立浪教授にまで手を借りて――英介が、このコンサートに自分を引き摺り込んだか、彼女に話して聞かせた。

「エースケは、エツのピアノ、好きだもの」

 小夜子は笑った。

「もう始まってるだろ? 聴かなくていいのか?」

「横浜の時に聴きに行ったの。ピアノ五重奏だけ曲目が変わったから、それだけ聴きに来ればいいって、エースケが」

 彼女の口は、ためらいなく英介の名前を語る。二人が離婚調停中だということを感じさせない。

「聞いたよ、離婚の話」

 悦嗣がそう切り出すと小夜子は目を伏せ、「そう」と答えた。

「なんとかならないのか? エースケはまだおまえに惚れてるぞ」

 今回、英介が帰国して、悦嗣は自分の気持ちに決着がついていないことを思い知った。しかし二人の離婚を望んでいるわけではない。たとえ二人が別れたからと言って、悦嗣は想いを英介に伝える気はなかったし、伝えたとしても結果は目に見えていた。何より英介はまだ小夜子を愛している。

 悦嗣の言葉に、彼女の目は笑んだ。

「わかってる。お互い、嫌い合ってるわけじゃないもの」

「だったら」

「でも、夫婦であり続ける必要もないの。お互い、それもわかってる」

「小夜子」

 言いかける悦嗣の口を、小夜子の人差し指が抑えた。

「これは私達の問題よ。エツは独身だし、わからないでしょう?」

「それを言われると、反論出来ない」

 悦嗣は苦笑した。

 小夜子は部屋の時計を見る。

「そろそろ行くわ。頑張って。大丈夫、エツなら」

「そうかな?」

「そうよ、だって『月島の奇跡』が太鼓判押してるんだもの。それに二人が組むと、無敵じゃない。自信持って。いつもの俺様面してよ」

 そう言うと立ち上がり、彼女は楽屋を出て行った。その後ろ姿を見送ってドアを閉める。

 小夜子のつけていた香水の、花のような香りが残っている。離婚の話をもっと追求したかったのに、英介同様、上手くかわされてしまった。

 彼女が去り一人になると、吐き気にも似た緊張感が戻ってきた。

 今、どのくらいまで進んでいるのだろう。

「いつもの俺様面…か」

 パンッと、両手で頬を打った。




 暗い舞台裏、悦嗣はインターミッションが終わるのを待っていた。

 今日は黒の燕尾服。スタンドカラーのシャツはスタッドを一つだけ使い、ノータイの開いた胸元にアクセントとして、十字架をモチーフにした銀のペンダントを使うよう指示されたが、演奏の邪魔になるからと悦嗣は断った。その胸元が頼りなくて気になるので、もう一つスタッドを付けさせてくれと言ってみたが、却下された。他の四人はそのように着崩した燕尾服も様になっているが、初めて着る悦嗣は気恥ずかしくて堪らない。もちろん燕尾服は借り物である。

 あと五分。

 悦嗣は楽譜を小脇に挟み、両手を見た。

「エツ、手、貸してみ」

 いつの間にか英介が、目の前に立っていた。

 言われた通り手を差し出すと、彼は自分の両手で包み込むように握りしめた。その手は温かく、やさしい感触がする。

「やっぱり冷たい。エツは緊張すると手が冷たくなるから」

「そうだっけ?」

 ここが暗くてよかったと悦嗣は思った。きっと今、自分は赤面しているだろう。

 悦嗣の手を揉みほぐすようにして温めながら、英介はふっと笑いを漏らした。

「でもそういう時って出来がいいんだよな。エツは緊張したら開き直って、肩の力が抜けるから。今日はいい演奏が出来る」

「呪文みたいだな、落ち着いてきた」

「よかった、いいデビューになるよ」

「何言ってやがる。こんなことは、これっきりだ」

「みんなが放っておかないさ」

「本人にやる気がなきゃ、無意味だろ?」

「やる気になるよ」

 英介は自信たっぷりの口ぶりでそう言うと、手を離した。

「なるもんか」

 本ベルが鳴った。 

 英介は袖に向った。舞台下手からチェロ、ヴィオラ、第二、第一ヴァイオリン、ピアノの順で出る。

 悦嗣の前にはさく也。彼は悦嗣を一瞥する。それはいつも通りの表情のない目だったが、かえってそれが英介の手の温もり同様、悦嗣を落ち着かせた。

 この第一ヴァイオリンが、きっと自分を引っ張ってくれる。

 「GO」のサインが出て、英介が一歩ステージに踏み出す。

 悦嗣は拳を、グッと握った。



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