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 宗助さんに悪いところがあるとすれば、それは生真面目すぎることだ――すこしやりきれなくなって、「門」から顔をあげると、萌黄の竹薮が南風に揺すられてざわざわと鳴っていた。竹の薮といっても、紘子のおじいさんが生前好んで手入れをしたものだから、夏空にむかって太くまっすぐ伸びた竹は適度にまばらで、葉を透かしたひかりが柔らかそうな土のうえに豊かに射していた。そのひかりが、爽やかな風の抜けていくたび、ざわつく葉たちと一緒になって揺らぎ、跳ねまわる。ここの竹は、宗助さんちの裏手の崖のうえにある淋しげなやつと、品種からして違うように、僕の眼には見えた。

「その小説、面白い?」と、訝しげに聞くのは幼馴染の紘子である。かの女は僕とならんで縁側に坐り、パレットの淡い水彩の絵具を、めんどうくさそうに筆ですくって、画板に挟んだ画用紙になすりつけている。そう、なすりつけている。実際のところ、竹薮を描写しているというような風情はあんまりない。

 夏休みはもうすぐ終わってしまうけれど、僕たちにはやり残した宿題があった。僕は自由課題に、読書感想文を、かの女は写生を選んだが、一昨日市営プールでばったり逢って、お互いにまだ済んでない、どうしたものだろう、という話になった。そうして紘子が、お父さんの実家は閑静で涼しいところだから、きっと読書も捗る、だから来なよ、という。迷惑じゃない? と念を押したが紘子は平気だというし、十年くらいまえ――幼稚園の時分、いちど泊めてもらったことがあって、そのときはまだ生きていた紘子のおじいさんに、きっとまた行くからと約束してそのままになっていたことをふと思いだしたから、ご厚意に甘えることにしたのだ。ところがここへ来て初めて、おじいさんは僕が小六の年、便所で倒れて救急車で運ばれ、そのまま息を引き取ってしまったと、紘子から聞かされた。脳卒中ということだった。

 紘子はいきなりピシャッと手を叩いた。蚊がいるのかと聞くと、いるという。それで僕は蚊取線香を風上のほうへ動かした。すると紘子は煙ったいと苦情を言い、それからジーンズのスカートのなかに手をつっこんで、内腿をぼりぼりと掻きはじめた。――黙っていれば可愛いのに、言うこととやることにまったく女らしさがない。それでクラスの男子からしょっちゅうからかわれているのだが、実をいうと僕などは紘子と親しいことで、やっかみを受けたり、かの女のことを根掘り葉掘り訊かれたりと、いろいろ苦労しているのである。

「よくそんなの読めんね」と、僕の手許を横から覗き込んだ紘子は顔をしかめた。

「けっこう面白いよ」

 僕は、紘子が話でもしたがっているのかなと思ったから、小説に栞をはさんで脇に置いた。紘子は絵具ですこし汚れた手をのばしてそれを取り上げ、

「なに、これ。恋愛小説?」

 カヴァーには、お米さんと思われる女性の、日傘をさして微笑む絵があった。

「超可愛いんだよ、そのひと」

 夏目漱石の小説にしては珍しく夫思いで順良なこの女性を、さりげなく紘子にアピールしてみた。すると紘子は、ばかじゃないのという顔をして、

「こんなサザエさんみたいな頭の」

「丸髷のこと?」

「どーでもいいけどさ。むかしの人でしょ。きっと今頃は、皺だらけの、よぼよぼの、すっごいお婆ちゃんだよ」

「ていうか、亡くなってるだろ。明治だし」

 紘子は小説をぱらぱら捲っていたが、「『おじょうずじゃなくってよ』ですってよ」と、揶揄するように言って、それから放り出した。

「そっちはどう、進んでるの?」

 イーゼルを覗いてみると、あきらかに調色に失敗している、へんな生き物でも湧き出てきそうな怪しい緑が、画用紙を一面に蓋っていた。

「あたし絵の才能あると思うんだけど。美大目指そっかな」

 と、紘子は得意である。

「これ、知ってる。生物の教科書に載ってたよね。アオミドロだっけ」

「……ムッカつく」

 紘子の僕を睨む目は力強かったけれど、口元は優しく綻んでいた。それで僕もつい、微笑みたくなった。

 夏の風が、蚊取線香から立ちのぼる一条の紫煙を巻き込んで流れた。そうして僕は、紘子が漂わせる、中学生らしい香水の薫りのなかに、ほんの僅かな汗の匂いを嗅ぎ取って、かの女のリアリティを切実に感じた。まるで紘子を腕のなかに抱いているようだった。僕はその感覚に意識のほとんどを占領されながら、竹薮の光と影のなかに拡散していく青い煙をぼんやりと眺めた。やがて胸の鼓動がおちつくと、宗助さんとお米さんの暮らす借家へ戻っていった。

 竹薮の高いところが、ざわざわと鳴っていて、紘子の水差しで筆を濯ぐ、涼しげな音が、それにときどき混じる。やがて紘子は鼻歌で流行歌をうたい始め、それが突如として止まった。

 パチン。

 見やると、紘子は猫じゃらしを追う猫みたいに中腰になって、蚊を追いかけていた。

「また食われた?」

 紘子はそれには答えず、ぺたんと縁側に座り込むと、「そう!」と思い出したように言った。「あたし、勉強しなきゃヤバいんだよね。お父さんもお母さんも、直接言わないんだけどさ、『紘子が私立にいったら大変』とか話してるの、たまたま聞いちゃってさ」

 僕はふと、立眩みのような感覚に襲われた。紘子がお父さんという言葉を口にしたのが、妙に感じられた。暑気のせいで記憶の錯乱でも起こしたのだろうか。それでなんとなく、

「そういえば、おじさんは元気? もう何年も逢ってないから、逢いたかったのに」と、尋ねてみた。最初、おじさん――紘子のお父さんが、仕事の合間を縫って、紘子と僕を車でここまで送ってくれる予定だった。けれども、急に商談が入ったとかで、僕たちは電車に乗ってやってきたのである。

「普通に元気だよ? でも、セールスやってるから土日いないし、夜も遅いし、あたしもほとんど逢えないんだけどね」

 それを聞いて、僕はやけに安心した。「そっか。じゃあ、良かった」

「……ねえ、シュウ、どうして泣いてるの?」

 気付くと、紘子が僕を覗き込んでいる。なるほど、頬に水っぽい感じがある。指で拭ってみると、確かに濡れていた。雨でも降り出したのだろうか――けれど、竹の葉のむこうは、黄金色のひかりで満ちていた。

「なんでだろう。煙が眼に染みたのかな」

「ごみでも入ったんじゃない? あたし、見てあげる」

 そうして紘子は蚊取線香をサッシのほうに寄せると、僕の傍にひざをついた。自然、僕は紘子と間近に見つめあう格好になった。初めのうちは目を凝らして細かいゴミを捜している様子だった紘子が、やがて、僕に少しずつ、不自然に近づいてくる。ついに、僕の肩に紘子の手がかかった。かの女の細い腰に手をふれたら、きっと僕たちは一線を超えてしまうだろう――そんな張り詰めた空気が、二人のあいだに、ナイフで切れそうなほど濃く凝っていた。

「あのね……おばあちゃん、いま、お買い物に行ってるから」

 と、紘子は悪いことへ誘うように囁いた。僕が華奢な背中に腕をまわすと、紘子は半目になって僕にもたれかかってきた。

 紘子の黒髪のむこうに、日本家屋の昏い軒の裏側と、光り輝く夏の雲が見えた。かの女のティーシャツは、汗を吸ってすこし湿っている。僕はそれを両腕でぎゅっと抱きしめた。ブラジャーのかたい感じが、胸にすこし苦しかった。そうして唇を重ねたり、頬や鼻先を合わせたりしながら、二人の熱い息が交錯して、穏やかに音を立てるのを、じっと聴き入った。

 紘子の顎先から汗が滴って、僕の喉にぽとりと落ちた瞬間、全身の毛穴からどっと汗が吹き出た。――どれくらい、抱き合っていただろう。やがて紘子は身体を起こして火照った顔をあげると、眠たそうにとろんと微笑んで、

「にゃはーん、好き」と言った。


 二学期が始まるとすぐ、都会の、熱で溶けそうなアスファルトのうえに立つ陽炎を、野分が根こそぎ吹き払っていった。それからは日々の秋霖が空を少しずつ研磨するように高くしていった。僕はその高々と澄みわたった青空を、部屋の窓から眺め、そこに紘子のすがたを思い描いた。

 台風が街をゆさぶった日、僕は昇降口に紘子と肩をならべて、空がおちつくのを待っていた。五時をまわり、はやく帰れと言わんばかりに「新世界」の旋律がスピーカーから零れてくるけれど、突風のびゅうびゅう鳴る勢いに押されて、なんだかいつもの慇懃無礼な感じがなかった。僕たちは委員会の仕事のせいで帰りそびれ、二人きりだった。――誰も見ていないと思ったから、手を繋ぎ、ときどき抱擁した。そうして、こんなに幸せなら、世のバカップルがバカップルのレッテルを甘受してしまうのも無理はないと考えた。

 紘子が、とつぜん、鼻をぐずつかせ、それから大粒の涙がひらめく黒髪と一緒になって白い頬のうえに斜めのラインをなぞった。どうしたのと聞いたら、かの女はこんなことを言った。……

「初恋のひととは結ばれないっていうじゃない。わかんないけどさ、あたしたち、いつか大学生とか社会人とかになったら、別々のひとに恋していたりするのかな」

 その説を耳にしたことは、僕にもあった。けれど、実際にそうなった、ならなかった恋人たちをひと組でも知っている訳ではなかったので、答えようがなかった。だから、ただ、

「いつまでも続けばいいと思う」と、正直な気持を打ち明けた。すると紘子は、あたしも、と同意して微笑んでくれた。――僕はそれまで、紘子がそんな風の感傷を言うタイプとは思っていなかっただけに、あの涙は、僕の胸に深く刻みつけられた。この痕はたぶん一生消えない。僕はこの先、紘子に裏切られたとしても、紘子を裏切ることはしないだろう。


 僕はこの想いを、宝石商がいちばん大切なダイヤモンドを頑丈な金庫に仕舞うようにして胸の奥に安置した。自分の手垢で汚してしまいたくない、誰にも触れられたくない気がした。そうしてそれを一人っきりでいるときに、絹の手袋をはめてそっと取り出し、七彩の輝きに見蕩れるような、戸惑うような、妙な気分になるのだった。

 そんな僕の、審美家のようでその実、切羽詰った受け止めかたが、紘子の目にどう映っていたのか、僕には分からない。じれったいようにも、なにか疚しいことを隠しているようにも見えていたのかもしれない。ふたりの間に、ささやかな懸案が持ち上がった。それは新学期早々に着任した、教育実習生のことである。片桐という女子大生で、体育を担当している。ひと夏じゅう遊びまくって過ごしましたと言わんばかりに日焼けをしていて、潮風と太陽に漂白されたような色調の巻き髪をながく背に垂れている。いつもはジャージ姿だけど、朝と放課後は、ダンサーみたいに細くてしなやかな身体を、肩紐のない白のワンピースとか、花柄の短いスカートとかで飾っている。目と口の大きい、欧米風の美人で、しかも保健体育の授業で「セックスが悪いのではなく、無知が悪いんです!」などとあけすけに持論を展開するものだから、男子生徒から大人気である。その片桐先生のお気に入りが、どうも僕であるらしいと、紘子の耳には届いていたようだ。手を繋いで下校していると、ときどき紘子がそのことを持ち出して拗ねてしまう。そのつど僕はかの女に機嫌を直してもらうため、赤面するようなことを、焼けた鉄でも嚥みこむつもりで言わなければいけなかった。

 実際に、片桐先生が僕を気に入っていたのかどうかは知らないが、僕がよく用事を言い付かっていたのは確かだ。体育館の鍵の受け渡しとか、コピーの手伝いとか、用具の準備とかならまだいいが、購買部でいちご牛乳を買ってこいとか、車のキーを渡されてバッグを取ってこいとか、ほとんど使い走り同然に扱われることもあった。けれども僕は黙って云うとおりになった。僕はこのひとに対して、同級生たちが敬慕するのとは微妙に違う意味で親近感をもっていた。片桐先生は、化粧もアクセサリーも派手なわりに、ネイルだけはやらない。好んで保健室登校の生徒の話し相手になる。生徒同士の喧嘩を仲裁したり、問題行動を注意をしたりするときは、上からものを言ったり決め付けたりせず、意表をつくようなこととかひょうきんなことを言って、なんとなく丸くおさめてしまう。そういう感覚が、僕は好きだった。「先生は見た目ギャルだけど中身はおばちゃんみたいですね」と言ってやったことがある。すると先生は、「あたし、何年生きてると思ってんのよ」と怪訝な顔をする。

 その片桐先生がある日、休み時間に教室へやってきて、用事のついでという風に僕を呼び、

「紘子ちゃんて、あの子でしょ」

 と、円座になって騒いでいる女子たちを指さした。紘子はそのなかで最もはしゃいでいるひとりだった。

「素敵な子だよね。シュウが好きになるのもわかる……」

 僕は、うまく隠しているつもりだったけれど、傍目にはバレバレだったのかと思うと、冷や汗が出てきた。

「なんで分かったんですか」小声で訊いてみた。

 片桐先生は、思わせぶりな微笑を湛えたまま、行ってしまった。


 そうして期間の三週間が過ぎ、半袖のワイシャツが肌寒く感じられるようになる頃、片桐先生は離任していった。最後の日、僕は先生に頼まれて、体育館の用具室の整理を手伝ったのだけれど、終わり間際になって、かの女は急に改まり、

「紘子ちゃんと幸せにね」

 僕は初めのうち、それを尋常な別れの挨拶と受けとって、

「先生も、お元気で」

 と答えたが、数日もしないうちに、かの女のことが気になって気になって仕方なくなってきた。もう逢えなくて淋しいという気持も勿論あったけれど、それより、別れぎわの、やたらそわそわした感じとか、その直前の、先生にしてはやけに不自然な沈黙が、僕の記憶に、腑に落ちないものとして残ったのである。

 どうも、重要なことを失念しているような気がする。そして、先生はそのことを僕に知らせるか知らせまいかで逡巡していたのではないだろうか。――そんな小説的な空想が、僕の裡に膨らんでいく。けれども、紘子と触れあったり、微笑みあったりたりするときに生起する甘い悦びが、針を風船に刺すような要領で、それを弾き飛ばす。たとえ、僕が大切なことを忘れていたからといって、それがなんだというのだろう。誰がなんといおうとも、人間は幸福のために生きるのだし、僕はいま、胸のうちにそれを持っている。……

 僕は髪をかきまわして、机に突っ伏した。なぜ、こんなことを考えている? それは、自分がなにか大切なことから目を背けようとしていたことに、瞭然として気付いてしまったからじゃないか? 僕はスコップをもって、根元に死体の埋められた桜の木のしたに立っている。薄桃色の花びらの風に舞うなかに立っている。甘くて優しい薫りのなかに立っている。スコップを放り出すことはできても、埋められた死体のことを忘れることはもう決してできない。

 僕は授業中であることも構わず、席を立った。教室の生徒たちがいっせいに僕のほうを見た。離れた席にいる紘子も、不安そうに眼を細くしている。僕は胸が締めつけられるようになりながら、そっと紘子から視線を外した。

 昇降口まで走っていくと、さっきまで教室にいたはずの紘子が、下駄箱に寄りかかっていた。

「どこへ行くの?」

「桜の下を掘ってくる――それだけ」

 僕は紘子の傍を過ぎて、自分のところから靴を取り出した。すると紘子が僕の腕にしがみつき、肩に頬を押しあてた。

「お願い、行かないで」

「僕は冗談だって紘子のことを嫌いなんて言いたくない。まぼろしだったとしても、紘子の姿形をしているものにノーとは答えたくない。――どうか、わかって。確かめなきゃいけないことがあるんだ」

 紘子は顔をあげた。その眼には涙がいっぱい溜まっていた。

 僕はかの女を抱きしめて、「ありがとう」と言った。そうして、腕のなかで泣き崩れてしまった紘子から、そっと離れた。


 ローカル線の鈍行に揺られながら、田舎じみた踏切をいくつも見送った。鼠色のアスファルトをすべる秋のひかりが、赤帽のトラックや、出光の古びたスタンド、商店街の垂幕を、淡いパステル・カラーのうちに閉じ込めている。その柔らかい光景のなかに、建物の黒々とした影が、空間に穿たれた虚無のように横たわっていた。

 ペンキで塗りたてた小さな駅を出、渓流にかかったつり橋を渡って、紘子のおばあちゃんの家の菩提寺へやってきた。脇に松のならぶ石畳の道をあるき、立派な瓦屋根のついた門をくぐって、僕は不意に切なくなった。これらの全てが虚構なのだとしたら、どうしてこんなにそれらしくする必要があるのだろう。

 微風がそよぎ、抹香の匂いが漂った。塔婆や墓石のならぶ狭く入組んだ舗道をとぼとぼとあるき、とうとう紘子の家の墓に辿りついた。いつか、その前に額をおしつけて号泣した御影の墓石だ。

 脇にまわり、彫ってある名前を検めた。――そのなかに、紘子のものもあった。朱が這入っているのを見て、僕は呟いた、

(もう……いいから……分かってるから……)

 名前を親指で幾度もなぞるうち、ふと背中で砂利を踏む気配がした。――振り返ってみると、黒のパンツ・スーツ姿の片桐先生が立っていた。

「思い出したんだね」

 僕は頷いた。

「ここまで来るの、辛かったよ。ほんと、キツかった」

「ごめん。あたしのせいだね」

「いや、いいんだ」

 かの女は、――イパルネモアニは、羽目越しに手を伸ばして、墓石の脇に触れた。すると、手品のように朱が落ちて、紘子の名前が悲しいほど碑銘らしくなった。

「紘子ちゃんのお父さんはね、シュウに話を聞かされてから、半年も頑張ったんだよ。けれど、結局駄目だった。トラックと正面衝突して……即死だった」

「おじさん、苦しみ抜いただろうな」

「………」

 僕は呆然として、空を仰いだ。

「『運命』は、変えられない……変えることが……」

「でも、シュウの努力がすべて無駄だった訳じゃないよ。紘子ちゃんは、輪廻の道へ歩みだしている。自殺者がみんな囚われる、閉じた輪の苦しみから放たれて、ね。――シュウが十二年間、紘子ちゃんのことを思い、悔やみ続けてきたことは、かの女にちゃんと伝わったから。ひとはね、たった一滴でも、混じり気のない純粋な愛を注いでくれるひとがいれば、それだけで、光の射すほうへ意識を向けることができるの。だから、心配しないで。あの子は、もう大丈夫だから」

 僕は膝をおって、あのときとまったく同じように泣いて、泣いて、泣き明かした。

 西のひくい空が橙に染まり、紅葉のはじまった山々の裾が黒々と翳っている。

「そろそろ、戻ろう」と、僕は涙をぬぐって言った、「あの黴の生えた神をブッ倒さなきゃならない。ジュノ様をお守りしなきゃならない。おまえだって、どうしてもヤツと決着をつけたくて、僕を起こしに来たんだろ? けれど、僕があまりに気持良さそうに眠りこけてるものだから、揺り起こすのが可哀想になって、躊躇していたんだろ?」

「あたしも、つらかったんだよ」

「ごめん。でも、お蔭でいい夢を見られたよ。いままで生きてきたなかで、いちばん幸せな時間だった。――あまりだらだらしていると、中学校に戻りたくなる。行こう」

 僕が立ちあがると、イパルネモアニは頷いた。

「あんた、紫の雲の魔法で、水晶のなかに閉じ込められてしまったの、覚えてる?」

「うん」

「あの魔法は、相手の心の弱みにつけこむことで効果を発揮するの。だから、あんたがこだわりを棄てて、心を強くもつことができれば、水晶は自ずと砕け散る。――あんたはもう目が覚めた。だがら、封印が解かれるのは時間の問題だと思う」

「なるほど」

「それからね、水晶から解き放たれたらすぐにあたしを召喚して。紫の雲にダメージを与えてもすぐに再生してしまうのは、ハプカトゥリポスがあいつを加護しているから。あたしが、紫の雲からハプカトゥリポスを引き離してあげる」

「そんなことができるのか?」

「だってあたし、エウハールの愛の女神だもん。ハプカトゥリポスはあたしの旦那だもん」

「マジかよ……」

 僕がかの女の意外な告白に目を細くしたとき、なにか硬くて大きなものが砕けるような、物凄い音が空から落ちかかってきた。見上げると、蒼然とした大気に、巨大な亀裂が縦横に走っている。

「準備はいい?」

 イパルネモアニが、空を見上げながら言った。かの女のむこうの叢林にも、蜘蛛の巣さながらにひび割れが拡がっていた。


 硝子の砕けるような音が響く。バラバラに飛び散った水晶の破片が、篝火の真っ赤なひかりを一様に反映して煌いている。漆黒に塗り込められたそのむこうには、仲間たちの戦う気配があった。そうして紫の雲の咆哮が、ときおり空気を激しく揺さぶる。――目が慣れてくると、光沢する筋繊維の塊がうっすらと見えてきた。リンパ液にまみれた脂が飛び散り、それが床のそこかしこで蠢いている。ほの暗い視界の、右手のほうに、身体を横たえたまま激しく身悶えするジュノ様のすがたが見えた。脚には肉塊がまとわりついていて、それがジュノ様の動きを阻んでいるらしい。僕は駆け寄って、ダガーで肉に切れ目を入れた。ジュノ様は弾くようにそこから脚を引き抜くと、僕を見つめて悲しげな顔をされた。

「もう戻ってこないかと思っていたぞ」

「水晶のなかは居心地がよくて、つい、戻ってくるのが遅くなりました。ごめんなさい」

 ジュノ様の長い睫のあいだが、みるみる潤んでいく。

「私に無断で遠くへ行ってしまうことは絶対に許さない。――決めた。もし生きて帰ることができたなら、シュウには首輪をつけてやる。覚悟しておけ」

「それっぽい性的嗜好を持っているひとなのかなと誤解されても構わないなら、どうぞお好きなように。それよりジュノ様、いまは紫の雲を倒すことを考えなければいけません」

「そのことだ」と、ジュノ様は、闇のむこうで暴れている巨大な肉塊を睨んだ。「いくら斬りつけてもすぐに再生してしまう。手の打ちようがない。ディオール殿の弾丸はもう尽きてしまった。いまはああして銃剣で戦っている。ベネッタの矢が底をつくのも時間の問題だろう」

「僕と契約を交わしている女神――イパルネモアニが、やつの再生能力に対処することができると言っています。かの女を召喚したいので、援護をお願いできますか」

「わかった。任せておけ」

 ジュノ様がガントレットを鳴らして剣を構える。僕はすぐさま呪文の詠唱に入った。脳裏でなぞるだけで召喚することは可能だが、万全を期すために小声で囁く。紫の雲のほうも、僕にイパルネモアニを召喚させてはいけないことを認識しているようで、奴はロアたちを放って、こっちに鎌首を向けてきた。

 赤くてらてら濡れる肉の巨大な塊が、もはや原形を留めていないグロテスクな顔の中央に盤踞する眼球をぎろつかせ、下半身を引きずるようにして迫ってくる。そうして、バオバブの幹さながらの頑強そうな腕をふりあげた。僕は援護を信じて詠唱を続ける。奴の腕がふりおろされると、ジュノ様が大砲の弾のようにそれへ飛びついて、薪割りのようにざっくりと縦に裂く。

 肉塊が苦しげに咆哮をあげ、のたうちながらも、全身に無数の突起を現わした。それがみるみるうちに軟体生物の触手のように伸びて投網さながらに広がり、八方から鋭くジュノ様に迫る。そのうちの幾つかは、援護にまわったロアが銃剣で串刺しにした。ベネッタの放った矢が風を切って貫いた。三本の触手はジュノ様みずから切り落としたが、一本がジュノ様の胴に巻きついた。僕は仲間を信じて呪文の仕上げにかかるより他になかった。やがてロアの振り下ろしたレイピアが、ジュノ様を引き寄せようとするどろどろした触手をぶっつりと断ち切った。紫の雲が新たな突起の群を巌のような肩に現わしたとき、僕はついに詠唱を完遂した。

 きらきらと輝く粒子が、床から飛沫のように吹き上がって、まばゆいひかりの円柱を形成する。そのなかに、褐色の肌を無数のアクセサリーで飾った女神――イパルネモアニが、うっすらと姿を現わした。かの女は、高く掲げた右腕を、風を切るようにして横に払った。すると、蛍の大群のような光の帯が、幾条にも分かれ、拡散して、紫の雲へと躍りかかる。肉塊は激しくのたうち、凄まじい絶叫をあげた。

 やがて光がゆっくり霧散していくと、ひとつの人影が浮かび上がった。聖職者を連想させるフードつきの白いローブが、はためいている。フードのしたには、ミイラのように干からびて、目の落ちくぼんだ貌があった。その人物は、足下にのたうちまわる紫の雲を無視して、イパルネモアニに貌を向けていた。

「良人の大義を阻むか……愚か者め」

「あんた、しっかりしなよ。これのどこが大義だっていうの。大陸の人間たちは戦争を終わらせようとしている。……横槍を入れるなんて、あんたらしくないよ」

 骸のような男が、薄茶に汚れた歯をギリリと剥いた。

「まるで予が平和を憎悪しているようなことを言う! 寝言も大概にせよ! あの者どもが停戦を模索するのは、ひとを殺めるのに飽いたためではない。平和をひとつの理想としたからでもない。ただ単に、あやつらの政体が、権力が、たちゆかなくなる危機を孕みはじめたからに他ならぬ。よしんば、あの者どもが利害の一致に基づいて停戦の約定を交わしたとしても、互いに国力を回復させ、戦いを継続するだけの富を蓄えた暁には、自ずと約定は反故となろう。――目を見開き、そして現実を識れ、イパルネモアニよ。罪を背負って生まれたるひとの子は分裂し、互いに闘争し、自ら滅びを招きよせるものぞ。ひとは自ら招いたことを自ら倦み憎むことでよってしか、罪を拭うことはできぬのだ。されば、ひとはどこまでも堕ちねばならぬ。不浄の罪は苦難の焔のなかで焼き尽くされなければならぬ」

「あんたの言ってることが、分からないわけじゃない。でも、あんたは人間に想像力と理性があることを忘れている、じゃなかったら、過小評価をしている。どうしてきかない子をひっぱたこうとするの? 辛抱強く見守ってあげることができないの?」

「実におまえらしい言い草よ!」男神は痩せた顎をあげて大笑いした。「人間の営む社会の、いったいどこに、想像力と理性の偉大な痕跡がある。おまえの希望は、儚い曙光をもって鉄鍋に汲んだ水を沸かそうとするに等しいものだ」

 イパルネモアニの双眸が、悲しげに、けれど毅然として険しくなった。

「あんた、いつから人間たちの祈りが聴こえなくなっちゃったの? ねえ、あんたの眼と耳を蓋っているものがいったいなんなのか、自分で分かっているんでしょ? もうやめなよ。あんたのそんな姿、もう見たくないよ……」

 ハプカトゥリポスの、フードの陰になった髑髏さながらの貌から、笑みが消えた。

「……なにが言いたい」

「エウハールの民が滅びていくのを、あたしたちは見届けた。あたしたちは、民を正しく導くことができなかった。わかるよ、責任感のつよいあんたのことだもの。苦しんだんだよね。でも、もういいの」

 イパルネモアニは、まばゆい光をまとったまま、ゆっくりとハプカトゥリポスに近づいていく。すると、毅然たる有様だったいにしえの男神が、瘧に罹ったようにがくがくと震えはじめた。

 女神が、男神をゆっくりと抱擁する。そのとき、二人は色彩を暖かくした光のなかで姿をかえ、まるで長く連れ添った老夫婦のように見えた。――男神が落涙している。子供のように護り続けてきた民が滅んでしまった無念を、噛みしめているのかもしれない。

「あたしたちの役目は終わったんだよ。さあ、自然に還ろう」

 男神はなにもこたえず、ただがっくりと項垂れた。その頭を、女神の腕が包んだ。

 そうしてイパルネモアニは、僕を振り返って微笑み、

「あたし、このひと連れて帰るから、ごめん、契約はここまでにさせて。――このひと、これでもね、昔はすごく素敵だったんだよ」

 なんとなくわかる、と僕が答えると、女神は、じゃあね、と手を振って、光のなかに消えていった。


 ロアは男神と女神のやりとりをはっきりと見届けることができなくとも、戦いの潮目が変化したことを瞭然と嗅ぎつけたようだった。

「何が起こったのかは知らん」と、かれは叫ぶ。「が、シュウ! でかしたぞ!」

 紫の雲は原始的な生物――捕食のことしか意識にない腔腸動物のようになって、魔方陣のうえを這いながらロアにせまる。ロアは篝火のうしろにまわりこんで、充分に敵をひきつけると、鉄製の三脚を蹴り倒して、真っ赤に焼けた炭をぶちまけた。凄まじい煙が朦々とあたりに拡がり、肉の焼ける嫌な匂いがたちこめた。紫の雲は、濁ったリンパ液に半分埋もれた目をぎろつかせ、恨めしげにロアを睨む。そこへジュノ様がつっこんでいって、蛙のそれのように膨れた腹のあたりを一文字に引き裂く。みるみる塞がるはずの傷口が、ばっくりとくちを開いたまま、黄色や濃い緑をした内臓をどぼどぼと吐き出す。そうしてうずくまった紫の雲の首を、ジュノ様はツーハンデッド・ソードを一閃させて斬りおとした。

 粘着質の水っぽい音とともに、大きな頚が転がる。その響きを最後に、闇で蔽われた天上から、静寂が降りてきた。――そうして浮かび上がった、篝火の焔の炭を焼く音が、侘しく、四辺に染みとおるようだった。


 ベネッタはその場にぺたりと座り込んでしまい、呆然と戦いのあとを眺めていた。ふたつの瞳が篝火の光を反射してきらきらしている。白い髪のうえの長い耳も、スカートから伸びた灰色の縞の尻尾も、困憊しきったように垂れていた。――かの女の弓を握る手は、潰れた血豆で真っ赤になっていた。

 ジュノ様はソードをブンと振って、刃にこびりついた肉片や血脂を払うと、タオルで丁寧に拭いながら、

「ディオール殿、皇女はどうする」と、恋人たちを閉じ込めた水晶の柱を見やった。

 ロアは煤でまっ黒になった銃に息を吹きかけ、軽く咽たりしながら、「封印を解くことができるのは、彼らだけです。無理に水晶を壊したら、二人の魂にまで亀裂が入ってしまうかもしれない。それに、せっかく甘い夢を見ている二人の邪魔をするってのも野暮な話ですからね。――仕方ない、今日のところは写真を撮って帰りますよ」

 かれは足元の三脚を起こすと、リュックのなかから写真機を取り出してきて、その上に乗せた。そうして篝火を水晶の逆になるほうに放射状に並べて、感光板の具合を確かめた。

「ちょっと暗いな。けれど、まあ、顔はちゃんと映るだろう。――おっとご令嬢、フレームのなかに入ってきちゃあいけません」

 と、ロアは、不思議そうな顔をして近づいてきたジュノ様の腕を掴んだ。三〇分ほど経つと、撮影は終わった。ロアはそれを記事と一緒に新聞に掲載してもらい、王国が皇女の失踪に関係していないことを、全大陸にむかって証明するつもりだという。

「さあ、みなさん」と、ロアはレストランのマネージャーのように手を叩き、「お疲れのところ悪いとは思うンですがね、大至急、街に戻らなきゃなりません。洋上でにらみ合ってる海軍の連中が心配だし、なにより、せっかくここまで来て、吸血鬼どもに帰り道を塞がれちまったら泣くに泣けませんからね」

 ベネッタが、もうすこし休ませてと言わんばかりの、悲しげな眼つきでロアを見上げる。

「そんな顔をしたって駄目だ」と、ロアは背を向けながら云った。それから、後ろ髪でもひかれたのか、嫌々という風に振り返って、「ああもう、しょうがないな。シュウ、リュックとランタンを頼む。俺はこのひとを負ぶって行くから」

「あっ、あたし歩けるから!」ベネッタがよろよろと立ち上がって、膝についた埃を払った。

「遠慮することはない。ディオール家の男はみんなろくでなしだが、老人にだけは優しくする習わしなんだ。あんた、八十過ぎなんだって? 無理をさせて、悪かったな」

「平気だってば」

 ベネッタはおばあちゃん扱いに反撥するかのように、歩きはじめた。けれども、三歩も進むと、へなへなと尻をついてしまった。それからベネッタは大人しくロアの背中に乗った。なんだか嫌そうな顔をしているけれど、尻尾はさかんにゆらゆらしていた。心の弾むことがあると、かの女はいつもそうなる。ジュノ様はその様子を見て、

「恋の始まり、かもしれないぞ」と、僕にそっと評された。

「それは意外ですね。――なにか徴候でも?」

「瘴気のなかを歩いてくるあいだ、ベネッタはときおり放心したようにディオール殿の背中を見つめていた。きっと、かれの心の囁きに耳を傾けていたのだろう。――シュウ、かれとはなにを話していた?」

「天然痘で亡くなった奥さんのこと、それから運命のことを」

「そうか」

 僕はジュノ様と並んで階段を上りはじめた。中腹まで辿りついた頃、ジュノ様がふと、

「シュウがあの水晶に閉じ込められた刹那、私も運命のことを思ったよ。おまえの頬に二度と触れることができなくなるかもしれないと考えると、涙が出そうだった。シュウに気持ちをちゃんと伝えないままだったことを、悔やんだ。そして、もしまた逢うことができたなら、必ず伝えようと心に決めていた。――できれば、こんな野暮な格好ではないときにしたかったけれど」

 そうして、腕をひろげ、傷だらけの鎧を僕に示した。

「どうして今まで伝えなかったのか――私にも言い分があるんだ。聞いてくれるか?」

「もちろん」

「シュウはいままで、一度も私にノーと云ったことがなかった。私はそれが嬉しくもあり、時には辛かった。なぜなら、それは私とおまえが、結局は主従であることを示していたから。そんなおまえに、気持を伝えるのはフェアじゃないと思った。断れない理由が相手にあるのなら、告白は押しつけとなにも変わらないから。けれども、振り返ってみれば、シュウはいつでも私に思ったところを率直に意見してくれるどころか、ときには憎まれ口さえ叩く。それで私はようやく気が付いたんだ、シュウはほんとうに私を愛してくれていると。シュウは、私がヒロコという少女の代わりだと言った。私への忠誠は紛い物だと言った。けれども、私には、そうは思えないんだ。私がいることで慰めを見出したとシュウが言ってくれたように、私も、シュウにはたくさん、たくさん支えてもらった。シュウがいたから、今まで耐えてこれた。クロウザントの屋敷で毒に果てようとも、戦場で槍に貫かれようとも、シュウが傍にいると思えばすこしも怖くなかった。――ああ、この告白が、少しでもシュウの心を明るくするものであったらいいなと思う。……シュウ、感謝している、それから……愛している」

 僕はジュノ様のその言葉で、この世界へやってきて過した十二年間は、どんなお伽噺にも負けないくらい幸せな物語だったと、初めて気がついた。僕に、運命を敵視する理由がいったいどこにあるのだろうと思った。むしろ僕は、この世界でいちばんの幸せ者かもしれない。そうして、苦笑いが込み上げてきた。つい数時間前、そんなふうに思ったというロアに激しい嫉妬を覚えたばかりだというのに。

 僕は、紘子の墓に額をあてて号泣した、あの雪の降る日を、昨日のことのように思い出し、なにかとても大切な戦いに――僕にとっては聖戦と呼んでいいくらいの――人生の闘争に、勝利したような、誇らしい気持ちに包まれた。

 イパルネモアニが、僕にこう言い遺した。――たった一滴でも、混じり気のない純粋な愛を注いでくれるひとがいれば、それだけで、ひとは光の射すほうへ意識を向けることができる、と。だから、紘子は大丈夫だと。僕は初めて、その言葉をただの慰めではなく、あるいは本当にそうかもしれない、紘子はもう大丈夫かもしれないと、胸の深いところで感じ始めていた。


 入口付近の、魔法の篝火のならぶ階段のところまで戻ると、鮮烈な幻視が始まった。階段のあいだに並ぶ、少女たちの石像に、メロンの網のような亀裂が走っている。その割れ目から、えもいわれない虹色の光がいっせいに流れ出て、ひとつの幻想的な光景を描き出していた。

 褐色の肌の、うつくしい少女たちが、手をとりあい、黒く波うつ髪をなびかせて、花の咲き乱れる森の路をかけている。その先の広場では、茜色のそらから西日が射し、樹木や家屋にながい影を落としている。キャンプファイアの焔が天を舐めるようにうねり、それを囲む集落のひとたちが、太鼓や足踏みで力強いリズムを刻みながら、神々と自然を讃える歌をうたっている。人々は少女たちを迎えると、その美しさを口々に褒めそやし、喝采を浴びせた。少女たちは祭りの主人公だった。

 祭壇のうえに、果物や生贄の肉、酒を満たした銀の杯が並んでいる。そのまわりには、エウハールの神々が集って、村の祭司の恭しく述べる、豊穣と息災を祈る詞に耳を傾けている。祭壇の正面にたって、王とその妃のようにひと際輝いている男神と女神は、恐らくハプカトゥリポスとイパルネモアニだろう。二人は寄り添い、微笑みあい、そうして優しげな眼で祭りの模様を見守っている。

 祭りはたけなわ、空は翳る。焔に身体を火照らせ、汗を滴にして踊る少女たちが、ひとり、またひとりと天に還っていく。――やがて、集落の広場には夜更けの静けさが降りてくる。そうして幻視は終わった。僕はドライアイスの煙のように階段を蔽うひかりの靄のなかに、石像たちがまるで千年の時を経たように風化し、崩れ落ちてしまったのを、見出した。

 ジュノ様が、その光景のなかにしゃがみこんで、ひかりの靄をすくおうと手を差し入れる。小さな黄金の滝のような髪を、流れる光が撫でている。――ジュノ様はうれしそうに目を細めて、掬ったひかりを僕に見せる。その微笑に、僕は夏の縁側で抱きあった紘子の俤を感じた。


(了)

 お付き合い頂きましてありがとうございました。この作品が読者さんの胸になにかを残すことができたら幸いです。

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