第12話(1)
こと、恋愛に関して、俺は自分の気持ちにも他人の気持ちにも、ひどく疎い傾向にあるらしい。
その辺りが、遠野が口出ししたがる所以だろう。
けれど、一度気がついてみれば、意外と胸の奥でひっそりと想っていると言うこともあまり出来ないようだ。
好きだと思ってしまうと、後先を余り考えずにさっさと言ってしまいたくなる。ひとりでうだうだと、考えてもわかりようのないことを考えているのが嫌らしい。
なので、あの時――上原に『セクハラ』を受けた時に、自覚するなりその場で言ってしまっても別に構わなかったのだが、広瀬に先に伝えなければ卑怯じゃないかと思うと、タイミングを逃して言いそびれたのは結果的には良かったのだろうと言う気がする。
仕事としても、Blowin'は1月にツアーが入っているせいで何だかんだと忙しく、そうそう頭の中を恋愛ごとで一杯にしているわけにもいかないし、広瀬とようやく時間が合ったのが、1月も半ばを過ぎた頃だった。
相変わらず俺は、広瀬に伝える言葉をまだ、迷っている。
「……すっっっごい、おいしかった」
Blowin'はツアーの合間のオフ日、D.N.A.は仕事帰りで待ち合わせをしたその日、広瀬の希望でなぜか横浜まで車を走らせた俺は、なし崩しに山下公園付近にある店で広瀬とメシを食ったりしている。何をしておるのだろう。
「そう? 俺、横浜ってあんまり良く知らないから……あの店しかネタがない」
連れて行ったのは、言ってしまえば定食屋なのだが、綺麗で広く、温かみのある店内がわりと女性客の人気を呼んでいると聞いている。魚料理ばかりを扱っている店で、以前来た時に味が良かったので印象の良かった店だ。
俺の言葉に、隣を歩く広瀬が笑った。
「如月さん」
「ん」
「せっかくだから、山下公園、お散歩しませんか」
「……うん。いいけど」
久々に顔を合わせるなり、「俺、やっぱり上原が好きだからもう2人で会うのはやめよう」とは、今までの流れ上、さすがに言いにくい。
傷つけるだろうと思えば、俺自身少しでも話を先送りにしてしまい、そのくせどこか気はそぞろなままで、「やったー」と山下公園の方へ足を向ける広瀬の背中を見つめた。
ホテルニューグランドのそばから道路を渡り、山下公園の中に足を踏み入れる。綺麗に植えられた木々が大きく陰を作り、何となく視界が暗い。けれど、山下公園はきっちりと整備をされているので、歩きにくいようなことは全くない。
少し歩けば、そこはもう横浜港だ。木々やベンチの間を抜けて俺の少し先を歩いていた広瀬が、振り返った。
「寒いかも」
「……うん。先月だったら、イルミネーションが綺麗だったんだろうな」
「あ、そっかー」
7時とは言っても、1月の7時はすっかり暗い。けれど公園には結構人の姿が残っていて、氷川丸近くのやや広くなっている遊歩道では大道芸人がまだ芸を披露しているようだった。
「……あたし、横浜って憧れる」
海沿いを、氷川丸とは反対方向に歩いていく。少しずつ、人影が減っていくように感じた。ぽつりと言う広瀬を、黙って見下ろす。
「ほら、あたしって根が田舎者だし。出身の松本って、どっちかって言えば内陸だし。海沿いの、こんなお洒落な街に住みたかったなー」
「田舎者って話で言えば、俺も人のことは言えないよ」
「そうですか?」
「うん」
「横浜って憧れるから、如月さんと来てみたかった」
「……」
海を挟んで遠くに、いくつもの灯りが見える。赤レンガ倉庫群や、コスモワールドの灯りだろう。色とりどりに光る街のライトを背中に、広瀬が俺を振り返った。
「如月さん」
「うん……」
言わなければ。
2人で会うのは、これで最後にしようと。
これ以上、広瀬との関係を進めることは、俺には出来ない。
「広……」
「如月さん、あたしね」
口を開きかけた俺の言葉を遮るように、広瀬が言う。勢い、言葉を飲み込んで広瀬を見ると、少し困ったような顔で広瀬が笑った。
「ごめんね。あたしの話を先に聞いてもらっても、良いですか」
「……うん」
「あたしね」
「……」
「ずっと、如月さんのことが、好きでした」
海風に、広瀬の髪が舞い上がる。
「知ってたとは、思うですけど」
「……」
「あたし、如月さんが好きです。……付き合って欲しいです」
言葉もなく広瀬を見つめる俺に、広瀬は微笑みかけた。
それはなぜか、既に、諦めているような笑顔に見えた。
「……俺」
「ずっと、言いたかったんです」
「……」
「だけど、ずっと、怖かった」
「……」
「時々だけど2人で会ってくれて、それがとっても嬉しかったから、はっきり告白して……はっきり振られたら、もう2度と2人では会ってもらえないと思ったから」
「……」
「だから、それだったら曖昧なままでも良いって思ってました」
真っ直ぐに俺を見つめてそこまで言った広瀬は、くるっと背中を向けた。海に向かって、呟くように言葉を続ける。
「だけど、もうそんなふうに怖がる必要がなさそうだから、言っちゃうことにしました」
「え?」
「ヒロセは、如月さんがずっと好きでした。付き合って下さい」
それから、俺に背中を向けたまま、顔だけ僅かに振り返る。儚い笑顔を覗かせた横顔が、胸に突き刺さった。
「……如月さんのお話、聞かせて下さい」
広瀬……。
込み上げる苦い想いに、顔を伏せる。
広瀬は、全部、わかってるんだ。
俺の話の内容なんて、きっと。
これから伝えられるだろう話の内容を覚悟しているかのような広瀬の姿に、罪悪感で眩暈すらした。
「俺……」
「はい」
「……もう、広瀬と2人で会うことは、出来ないよ……」
「……はい」
広瀬の声が、掠れる。
「俺、好きな奴が、いる」
「……」
「ずっと曖昧な態度を続けて……広瀬の気持ちも、わかってて」
「はい……」
「今頃になってこんなこと言うのは、最低だってわかってるけど」
けれど、気づいてしまった以上このまま黙っている方が、もっと最低だろう……。
「……」
「広瀬と会ってるのは楽しかったけど……」
好きになれるかもしれないと思ったのは、嘘じゃない。
気が合うと思った。それ以上になれることを、俺自身も期待してはいた。
だけど、それ以上には、なれなかった。
「他に好きな奴がいるってわかってて、広瀬とこれ以上2人で会ったり、出来ない」
「……」
「……ごめんな。今更」
「本当に、最低ですよ、如月さん」
「……」
俺に背中を向けたままで、広瀬が言う。返す言葉がなくて黙っていると、広瀬はまた横顔だけをちらりと覗かせて、笑った。
「好きな女の子、こんなに長い間待たせるなんて」
「え?」
「……ヒロセは知ってました。ずっと」
くるり、と広瀬が体ごと俺に向き直る。両手を後ろで組んで、俺を見上げて何も気にしていないような笑顔を見せた。
「如月さんが、飛鳥ちゃんのことが好きなんだろうなあってこと、ヒロセはずっと、知ってました」
「……どうして」
「それから、飛鳥ちゃんが、如月さんを想っているんだろうなあってことも」
無言で、目を見開く。見つめる俺の視線に、広瀬はふいっと顔を背けて、遠く赤レンガ倉庫群の方へ視線を彷徨わせた。
「見てたら、わかります。そうかなあって思ってた」
「……」
「だけどあたしは、如月さんにあたしの方を向いて欲しかった。如月さんと飛鳥ちゃんのことは、2人のことだから、あたしはあたしで……」
「……」
「……駄目、だったけど」
広瀬の横顔に、涙が滲む気配はない。そのことに幾分かほっとしつつも、遠い目線がその顔を寂しく彩って、胸を突かれる。
「あたしは、飛鳥ちゃんと友達だけど……でもあたし、飛鳥ちゃんに、如月さんの気持ち、教えてあげないですからね」
それからまた俺の方に顔を向けた広瀬は、そう言ってにこっといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「……うん」
「如月さんの口から、ちゃんと伝えてあげて下さい。きっと……如月さんの言葉を、待ってると、思うから」
言いながら広瀬は、一歩、下がった。
「如月さん」
「うん」
「ここで、ばいばいしましょう」
「でも……」
横浜くんだりまで連れてきて、置いて帰るわけにはいかないだろう。
困惑して黙る俺に、広瀬はもう一歩下がりながら、笑った。
「ヒロセを置いて、先に帰って下さい」
「そういうわけには……」
「野暮ですよ」
「……」
「泣かせて下さい」
その言葉と、そして裏腹の笑顔に、胸が深く抉られる。
あくまでも俺の前では笑顔のままで、広瀬が続けた。
「自分のボロアパートよりは、海の見える山下公園の方が、ドラマのヒロイン気分で気持ち良く泣けるじゃないですか」
「広瀬」
「だから、置いて帰って下さい」
「……」
「如月さん……」
「……」
「……さよなら」
そこで、広瀬は俺に背中を向けた。
もうこちらを振り向く気配はない。
何かを口にしかけて、俺は結局言葉を飲み込んだ。かけられる言葉なんて、見つけられるはずがない。彼女が喜ぶ言葉をかけてやることは、俺には出来ないんだから。
少し迷って、俺は、踵を返した。広瀬を深く傷つけたことが、俺自身の心を重く、苦い痛みで締め付ける。
かけたい言葉なら、ないわけじゃない。
けれどどれも、今の広瀬に伝えるのは、傷を深くするだけだろう。
広瀬を振り返るのはしてはいけないことだと言う気がして、俺は真っ直ぐ山下公園の出口に足を向けた。振り返れば、広瀬が俺に見せたくない姿を見てしまうのだろうと思った。
伝えることは出来なかったけれど、広瀬が俺を好きになってくれたことは、感謝している。
その気持ちは、嬉しかったんだ。
けれど、曖昧なままで、傷つけるだけで、何もしてやることが出来なくて……。
……応えて、あげられなくて。
ごめん……。
◆ ◇ ◆
広瀬には、俺の気持ちをきちんと伝えた。
1月も終わりに近付き、Blowin'の短いツアーも終了を迎えた。
俺としては、結果的に何がどうなろうが、ともかくも俺自身の気持ちは上原にさっさと言ってしまいたいと思っている。