第5話(4)
「俺? 19歳か、20歳か……そんくらいかな」
広瀬も煙草の火を灰皿に押し付けて消した。代わりに箸を取り上げる。サラダを口に運びながら問いを重ねた。
「男の子って、高校生の時とかみんなで煙草吸ったりしないですか」
「するね」
「如月さん、しなかったですか」
「ああ……しないこともなかったけど……」
俺も自分の箸に手を伸ばし、寄せ豆腐を口に運んだ。
「……俺と、ウチのヴォーカルの遠野って、桜沢さんとか池山さんと同じ高校なの」
「へ?」
突然の話題に広瀬は面食らったような顔をしながら、それでも口だけはしっかり動かしながら首を傾げた。
「桜沢さんって……CRYですか」
「そう。……ああ。広瀬は冬間さんも知ってるんだっけ」
「冬間さんは知ってます」
「冬間さんも、同じなんだけどね」
「そうなんですか」
「ほう」
フライドポテトを頬張ったせいで、変な発音になってしまった。
CRYは、天才的なヴォーカリスト桜沢天秋他4人の正規メンバーがいる。池山さんと言うのはそのメンバーではなく、少し特殊な立場にいる人で、端的に言えばソングライター兼スタジオミュージシャンと言うことになるんだろうが、桜沢さんと池山さんの関係がそれに留まらない。
高校時代に、桜沢さんと池山さんがバンドを組んでいて、俺と遠野は池山さんのギターに憧れ、彼を追いかけて同じ高校に入った。
そして、CRYのサポートキーボーディストの冬間さんは、元々は池山さんが桜沢さんと組む前に、池山さんとバンドを組んでいた人だ。池山さんとも桜沢さんとも仲が悪くて、特に桜沢さんと冬間さんは双方キツイ性格をしているものだからその険悪さは見るに耐えないものがあるのだが、桜沢さんがとにかく冬間さんの腕だけは気に入っていて引っ張ってきたらしい。けれど、ソリが合わないのは今も同じらしく……四六時中険悪な空気が漂っている印象がある。
「池山さんは知ってる?」
「あ、噂だけ……」
「噂? どんな?」
「……桜沢さんを乗りこなせるジョッキーは池山さんだけだって……」
「……」
凄いこと言われてるな……。
「池山さんは元々桜沢さんと一緒にやってたギタリストなんだよ。今はスタジオミュージシャンやったりしながら、楽曲の提供をあちこちにしてるけど」
知らないもんなんだなあ、と変な感慨を覚えてしまう。池山さんが楽曲を提供している範囲はかなり広く、ヒットになった曲もかなりあるから、名前くらいは知っているかとも思ったんだけど。まあ、確かにあまり表舞台には出てこない人だからな……。それでも一部のマニアックなアマバン小僧には『幻のギタリスト』とか呼ばれて密かな人気があったりもするが。
「へえ」
寄せ豆腐についていた漬物をパリパリと食べながら広瀬は首を傾げて問うた。
「何で今は一緒にやってないですか」
「……」
それについてはいろいろ事情があり、桜沢さんと池山さんが別々にやらざるを得なくなったその現場には俺も実は居合わせたのだが、多くをここで語る気にはなれない。
「……ま、いろいろと」
「ふうん」
あまり言いたくないという俺の気持ちを広瀬は察してくれて、それ以上は突っ込んでこなかった。
「2人と同じ高校で結構可愛がってもらったりもして……俺にとっては、桜沢さんと池山さんがいたからこそ、プロになりたいって頑張ってこられたって言うのがあるんだ。高校の時、凄く憧れてた」
「へえ……」
「で、あの2人って煙草も酒もやんないの」
「そうなんですか?」
「うん。……ああ、今は良く知らないけど」
「……高校生の時にお酒も煙草もやらないのが普通だと思うですけど」
広瀬の言葉に思わず苦笑した。ライブハウスなんてところに入り浸っている高校生だったから、不健全な空気が妙に当たり前なところがあるのかもしれない。
「それもそうか。ま、バンドやってる高校生なんて、大人が……しかも、品行方正とは言えない大人が集まるようなところに出入りしてたりするわけで。そんな中、池山さんと桜沢さんって、ホントそういう意味では品行方正って言うか、音楽一筋な人たちだったんだよな」
「ふうん……」
「だから、別に約束したわけじゃないけど、俺も遠野も2人を真似してってわけでもないけど……や、真似してたのかな。あんなふうになりたいって思ってて……あんなふうにかっこ良くなりたかったから、絶対煙草はやらなかったな」
「そうなんですか」
「うん。……東京来てストレスとかそういう感じでなし崩しに吸うようになったけど」
苦笑を口元に残したまま、牛のタタキに箸を伸ばす。それを口に放り込んでから、逆に俺が尋ねた。
「広瀬ってどこの出身なの?」
「あ、あたしは、長野です」
「へえ。いつから? こっち」
「あ、高校卒業してすぐで……だから、ええと、2年くらいです」
「そうなんだ」
広瀬はバツが悪そうに頭を掻きながら言った。
「だからあたし、最終学歴高校で。馬鹿なんです」
「それ、俺も一緒」
「え? そうなんですか」
「うん。俺、高卒で上京して就職したから。すぐ辞めちゃったけど」
「そうなんだぁ……」
ちなみに遠野も同様である。就職した会社は違ったけど。
「高卒ですぐ東京来るなんて、お父さんとか反対しなかった?」
俺は男だし、ウチの両親も変わってるので別段何を言われたわけでもないが、女の子だと親も心配するんじゃないだろうか。そんなふうに思って素朴な疑問だったのだけど。
広瀬が微かに顔を曇らせた。
「あ、ウチ……お父さん、いなくて。だから、反対されることもなかったです」
「ああ……そうなんだ。ごめん、俺知らなくて」
俺のセリフに広瀬が微笑んだ。
「誰にも言ってないのに如月さんがいきなり知ってたら、ヒロセの方が驚きます」
「それもそうか。……じゃあお母さん、ひとりなの? 今」
「妹がいて。ウチのお母さんって病気で今寝たきりで……妹、高校生なんですけど、任せちゃってて」
「大変なんだ」
こくり、と頷く。広瀬は煙草に手を伸ばして、少し遠い目をした。
「あたし、じゃなくて。……妹が。だからあたし、早く売れて、いっぱい稼げるようになって……早く2人をラクにさせてあげたいって、思ってて」
ふと、以前広瀬に会った時に言っていた言葉を思い出す。それは、この家庭環境のせいなのだろうか。
「広瀬、前に『プライベートでいろいろあって疲れてる』って言ってたじゃん」
「え?」
「話したの、2回目くらいん時」
わからないような顔をしていた広瀬は、俺の言葉で思い至ったようだ。
「ああ……。いや、あれは〜……」
「また別?」
「別です。はは。や、あれはただ恋愛沙汰で」
「ああ、そうなんだ。恋愛沙汰? 誰かと喧嘩でもしてたの」
「うーん、そんなようなものです……」
そう言って顔を少し俯ける。煙草に火をつけながら、俺は広瀬の言葉の続きを待った。
「喧嘩って言うか……別れて」
「あ、そうなの?」
不意に何かが頭に引っかかった。気まずい雰囲気。刺すような視線。あれは……。
「……この前の、男の子?」
広瀬と話していた時に通り過ぎた男。小柄で、短めの黒髪を少しだけ立てた、まだ少年ぽさの残る尖った表情。あの視線の意味を今理解した。多分、嫉妬……なんだろうな。
「えええええ……なななな」
広瀬。わかりやすすぎる。
あわあわしていた広瀬は、あきらめたようにふっと息をついて煙草の煙を吐き出した。
「……あたし、元々クラシックのピアニスト目指してたんです」
「そうなの?」
「はい。でも、クラシックの世界って凄くお金かかって。ウチ、お父さんいなくてお金なんかあるわけなかったし。あきらめようと思ってたら、中学の時カンちゃん……あ、D.N.Aってウチのバンドのキーボーディスト、神崎武弘って言うですけど、カンちゃんがキーボードを教えてくれて」
中学からか。長い付き合いなんだな。
広瀬が淡々と続ける。
「それで、バンド始めたんですけど。東京来て、その時ヴォーカルやってたコが……妊娠しちゃって」
「……ヘヴィーだね」
「そうなんです。で、付き合ってたドラムのコと一緒にバンドやめちゃって、あたしとカンちゃんと、ベースのじじってコの3人になっちゃって。で、あたしがヴォーカルやることになって、当時ギタリストだったカンちゃんがキーボードの打ち込みでドラムもギターもカバーすることにして。……で、今の形態になったですけど」
そこで広瀬は言葉を区切ってビールを一口飲んだ。当時のことを思い出しているような目付き。
「今、大倉さんのバックで、もうひとり若いキーボーディスト欲しいとかって話で、この前カンちゃん連れて来てて……そうやってプロの現場とか出入りするようになったら、何か……怖くなっちゃって」
「怖くなった? 何が?」
「カンちゃんと付き合い続けることが」
言っていることが難しくて俺は返答に詰まった。音楽の話と恋愛の話とがどう絡まっているのかが、うまく理解出来ない。
「どういうこと?」
「アマチュアで、いろんなバンド見てて。メンバーに女の子がいて、恋愛沙汰でモメて壊れるバンド、いっぱい見たです」
「ああ……」
確かにそういうバンドは少なくない。どうしても異性がいて、ツアー行ったり一緒に音楽作っていったりしてると恋愛沙汰というのは起きやすく、うまく付き合ってれば良いものを例えば片方が浮気しかだとかなってくると、それはそれこれはこれというふうに一緒にバンドを続けるのが難しくなるわけで。
あるいは同じメンバーの女の子を2人の男が好きになって、片方と付き合いだしたとかって場合も、やはり双方キツイものがあるらしい。幸い俺はそういう事態になったことはないんだが。
「アマチュアでやってくんだったら仮にそうでもメンバーチェンジってまだ出来る気もするけど、あたしはプロになりたくて頑張ってるし、もしプロになっちゃってから恋愛沙汰でモメて、今のD.N.Aが壊れたらって思うと、凄く怖くて」
「……それで別れたの?」
広瀬は言葉もなく頷いた。
「あたしとカンちゃんは付き合いが長いから、今熱愛ラブラブって状態じゃ全然なくて、むしろ友達って空気の方が強いから……変にごたごたしてからだと、もう遅いから」
「……」
「……音楽に、恋愛持ち込みたくなかった」
思わずその神崎という人に同情する。別にどちらが悪いでもなく、お互い嫌いになったでもなく、別れようと言われて納得は出来ないだろう。あの様子では間違いなく神崎は広瀬に未練がある。
「その……神崎くんて人は、それで納得したの?」
新しい煙草にまた火をつけながら尋ねると、広瀬はこくりと頷いた。……本当か?
「あたしがどうしてもって言い張るから」
「それは、納得したと言うより、折れただけなんじゃ……」
「……そうとも言うですけど」
「……」
俺があれこれ言うことでもないから、いいんだけど……。
思っていたより、広瀬はいろんなことを背負っていて、いろんなことを一生懸命やってる感じで、それが少し意外な感じだった。いつも天然って言うか……あんまり悩んだりとかしなさそうなイメージがあったから。
だから、大人びたような落ち着いた、独特の空気があるのかもしれないけれど……。
それから1時間くらいしてから、俺と広瀬は店を出た。目黒に住んでいると言う広瀬を車で送り届ける。あまり大きくない、木造のアパートの前で車を止め、広瀬が降りると俺は助手席側の窓を開けた。
「如月さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかったよ」
軽く手を振って、窓を閉めようとする。すると、それより一瞬早く広瀬が意を決したように言った。
「ああああああのッ……」
「え?」
「ま、また、ゴハンとか、一緒したら、ダメッ……ですか」
「……」
思いがけずどきりとする。真っ赤に俯く広瀬の顔。これは……ええとー……。
「……いいよ」
短い返事に広瀬が顔を上げる。ぱっと、長い髪が散った。
「ホントですか」
「うん。また一緒にメシでも行こう」
「……はいッ」
嬉しそうな笑顔。それを見て俺も少し、嬉しいような気持ちになった。
気が合う。話していて楽しいと思える。思いがけない姿が出てきて、興味が湧く。……多分、俺に対して少し、好意を持ってくれている。
――もしかすると。
(広瀬のことを好きに……)
なれる、かも、しれない。……瀬名のことを、忘れて。
「じゃあ、また」
見送る広瀬に手を振って車を発進させた、戸惑いに似た予感の中。
なぜか俺の胸に、上原の笑顔が……過ぎって、消えた。