第3話 理由
息を止め、ただ願う。湿気った風が体を切り裂き、耳の内は心臓の鼓動で満たされた。
「ふぅ、いったか……。」
木の陰に隠れる自分に気づかずにそのまま飛び去っていくワイバーンの群れを確認すればまた歩き出す。
ナナバは森の異変を感じていた。冒険者としてあまり長くない、がしかし今日は静か過ぎるとそう肌で感じていた。
森は生きている。ここを歩けばいやでも直接に分からせられる。今日は全身を切り刻むかのようなプレッシャーがひたすらに通り過ぎていく。
とめどなく溢れ出る恐怖の感情に逃げなくちゃと思考が染まりそうになる。
そうだ、俺は冒険者だ。生きなくちゃいけない。死んじゃいけないのに。
俺は、俺は……
私の名はライーエ・イサーテン。その名を知らぬ人の居ない貴族の名家、ライーエ家の次男だ。由緒正しき召喚術の家系であり、その腕はほかに類を見ないほどに優れている。そして私もまたその一人だ。
自分で言うのもなんだが私は天才だ。
自惚れに聞こえるかもしれない。だがしかしもはや自分でさえ否定できない程に私は優れていた。
ライーエの名すら飛び越えて、私はもはや天才のイサーテンと認識される。
そんな私にとって、ライーエ家の悲願というのは正直な話どうでもよかった。
そして、だからこそにそれをなしてやろうとも考えていた。
龍種の召喚。
下品に何体も召喚をしたり、何度もやり直すなどといった事は私等ライーエ家の術師はしない。
ただの一度、術師として成熟した頃に召喚し従える。それは必ずしも強大な召還獣を呼んだ。
そしてその頂点に位置するのが龍種の召喚というわけだ。
もはや夢物語の英雄譚とも呼べるその偉業、私は今日それに挑む。
私にとってすべてのことは取るに足らないことだった。故にそれを目指す。私にとってさえ成し得るかわからないその頂きを求める。
カツカツと汚れ一つ無い純白の道が我が歩みを音にして返す。それがイヤに耳につくのはおそらく緊張だ。
一体いつぶりだろうか。ずっと忘れていた感覚だ。口の中が乾き、喉の奥で水を求めているのがわかる。
今日私は、龍種を召喚してみせる。
「散れ、我が魂が欠片よ。集めよ、世界の理の全てを。」
ロッドの石突をもって地面を打てば混じりけのない透明の水晶が応え、辺りに光を解き放つ。腕を伝い体中の魔力が全て吸い上がられてゆくのがわかった。
遠くへ、遠くへ。目をつぶり鮮明にイメージをする。膨大な量の魔力をすべて自らの感覚として世界を認識する。
果ての果て、世界全てを満たしてやれ。そう頭で唱えて辺り一帯を自分の魔力で満たせば次の段階へとようやく進む。
失敗は許されない。もし、制御しきれなければ町一つは消してしまえるほどの魔力を操ろうとしているのだから。
ゾクリと背中に悪寒が走り、額に冷や汗が垂れた。
ああ、これだ。私に足りなかったのはきっとこの感覚だ。
同調、私の魔力を空間を満たす他の全ての魔力と同調させてそのまま導いてやる。
属性など絞ってやるものか。全て、全てこの水晶に集え。
唐突に夜が訪れる。水晶は暗黒に染まり全ての光を吸い上げる。渦を巻いて水晶の奥の奥へと光たちが私の体を通り飲み込まれて行く。
鼓動が早まるのを感じる。汗が吹き出るのを感じる。いったいどれだけ集中すればいい。一体どれだけ時を早めればいい。
一粒たりとも逃がしてはやらない。全ての魔力を吸い上げて私の制御下においてみせる。
水晶から色が消え、透明に透き通ると世界に光が戻った。風ひとつなく、まるで時が止まってしまったのかと錯覚してしまいそうだ。
魔力は十二分。半ば確信のようなものまである。私は今日、龍種を召喚するだろう。
「私は哀しき召喚者! 此処に世界の理すべてを御して捧げよう。矮小な祈りを飲み込みて、尊大な力を表して見せよ。」
詠唱は長くなくていい。その言葉に感情を折り曲げて結べば意味は何重にも広がる。
もう一度、地面を叩く。すべての地面を塗り尽くす勢いであまりに魔法門が広がってゆく。
「私は哀れな召喚者! お前たちの全てを捧げてみせよ、贄となり餌となり偉大なる魂に名を残せ。」
そして更にもう一度。
私はあえて魔力の収束を召喚と分けて行った。
空中にいくつもの小さな魔法門が浮かび上がった。いい、僥倖だ。理論通りうまくいった。
同時召喚が不可能だと言われる理由は魔力の収束を別々に行うことが不可能とされるためだ。それでは魔力を収束する媒体が足りない。だがしかしもとよりすべてを一点に集め、既に収束している魔力を別々に放ってやるのなら不可能じゃない。
理論上可能だ。
だけど、これでようやく理論上可能というレベル。それは事実上の不可能という意味に近しい。
だけどそれは凡人であればの話だ。
私ならば制御しきれるはずだ。
三桁にも至ろうとする小さな魔法門が開かれる。空中のあちこちで真っ黒の穴が生まれて風が吹き、吸い込まれてゆく。
水晶からはシャボンのように白い魔力の粒が溢れ出してプカプカと空を泳ぐ。
「こいッ!」
呼びかけとともに穴からいくつもの影が飛び出した。二つの翼をはためかせて魔力に齧り付くのは名前もない鳥龍だろう。
目の前が鳥龍で埋め尽くされれば次のステップだ。
端が見えないほどに広がった足元の魔法門が開く。自分の足元もろとも消えて、地面に立っていながら宙に浮いているという変な感覚に襲われた。
お前か……
頭を鈍器で思い切り叩かれたかの様な衝撃に襲われた。低く重い声が脳に響き渡った。
ロッドが杖を模した形をしているのはこうやって支えにするためだったのか、そんな馬鹿な考えも浮かぶ。
あたりの空気が振動を初めて暗黒が魔力すべてを吸い込もうと引力を強めた。
脳を直接殴りつけるかのような鈍痛に目を見開いて奥歯を砕いて耐える。ここで全てを渡すわけにはいかない。
「俺の望みを叶えろッッッッ!!!!!」
バクンッ
穴の端から暗黒が広がって半球状になってすべてを包み込んだ。空間から重力が消えて体が浮かび上がる。
浮遊感は体の力をすべて奪い去ってゆく。果てしない暗闇の中でどこへも行けない恐怖が募る。
どれだけの時間が経ったのか、おそらく数秒だったのだろ。その何百倍にも感じた時間が過ぎると半球の闇のドームの頂点から暗黒が潰れて元の円に戻る。
ああ……騒々しい。
いったい誰だ。俺を呼ぶのはいったい誰だ。
ああ……鬱陶しい。
いったい誰だ。俺の耳元で泣き喚くのは誰だ。
ああ……なんて身の程知らずなやつだ……。
まさか俺を従えようだなどと……ちっぽけな餌まで用意しやがって……。
ああ……なんて寂しい男だ。
これは、俺の気まぐれだ。その奥に眠る哀れな泣き虫坊主の行く末が少し気になった。
ざまぁみろ。
俺が初めて見たその男の顔は実に滑稽だった。口はひらきっぱなしで目は綺麗な真ん丸だ。
あたりの連中の笑い声と共に膝から崩れ落ちたあの瞬間ほど面白いものも他にない。
それから、男の人生はそれを真似た喜劇となった。召喚術師として築き上げるはずだった足場が全て崩れ落ちて、最後には何も残りはしなかった。
あちらこちらの権威を集めた召喚術のお披露目会で土亀を召喚した男は愛想つかされ勘当された。しかし、あれほど溺愛してくれた父や母にさえ顔に唾を吐かれて尚も男は涙を流さなかった。
ただ目から光が消えて感情が失せていた。
最後に投げつけられた金貨を握りしめて森の中へ入っていく男の目には何一つ写ってなんかいなかった。
雨が降っていた。
ずぶ濡れになって顔を雫が伝って、それを拭いもせずに森の奥へ奥へと歩いた。
何だこんなものかと、ただそう思った。
俺を呼び起こした男は随分とつまらない最後を選ぶものだと呆れの感情が沸くのみだった。
無防備に構える人の子は魔物にとっては格好の獲物だ。飛び出てきた狼の牙が首筋に至るのを俺はただ見ていた。
男も只それを見ていた。とうに男は死んでいた。ただ次は心臓が止まるだけのことだったんだろう。
ギュウウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥウゥゥ
俺は嘲笑うように鳴いた。その結末を罵った。
だがそうはならなかった。
男の前に別の男が立っていた。開かれた狼の口に自分の左腕を与えて見ず知らずの男を守る。
男はディアンと名乗った。
ディアンは男を連れて自分が泊まる宿にまで連れて行った。薄汚れた男を風呂に入れて暖かいシチューを与えた。ついでに俺に狼の肉を投げてよこした。あれはなかなかにうまかった。
この時、ようやく男の目から涙が落ちた。汚い顔で食うもんだからディアンは大声を上げて笑っていた。
それでも、あの死んだ顔よりは遥かにマシな表情だった。
ディアンはこの世界で珍しい世話焼きな男だった。何処の馬の骨ともわからん男を連れてクエストを受けた。
大した役にも立たない男に冒険者としての基礎をすべて教え込んだ。常識知らずの男にあれほどの知識を叩き込むのは骨が折れたことだろう。
全く採算に合わない。男は最後にディアンへ金貨を差し出した。それは両親が最後に投げつけた手切れ金だった。
今日まですべての食事代、宿代、家庭教師代といったところか。それが割に合ってないことは男もわかっていたのだろう。だから俯いていた。
ディアンはその金貨さえ受け取らなかった。ディアンはいろいろ金が要るだろうといつか俺だけじゃ達成できないクエストを手伝ってくれといった。
「今日からお前も一人前の冒険者だ。えっと……そうだなぁ。結局最後まで名前も言わずじまいだったしな……よし。今日からお前はナナバだ!」
ディアンは最後に名前を渡した。全てを失ったナナバに少し、少しずつ何かが満たされ始めていた。
それからナナバは幾度となく失敗をした。何度も何度もクエストを受けて何十何百と失敗を繰り返した。常識知らずのナナバが一端の冒険者になるにはディアンの知識を持ってしてもまだ足りなかった。
それでも挫けないナナバを見て冒険者たちは大いに笑った。顔にタコを乗せた男がナナバのことをマヌケのナナバと罵った。
この時、ナナバはようやく笑うことができた。
また汚い顔だった。だがあの日、俺を呼んだあの日よりはるかに生きていた。
冒険者として生きて、傷ついて、酒を飲んで笑う。そうやって幾日も過ぎた。
ナナバは充足しきった生活を送っていた。
ガキの目は随分と眩しくなった。雨上がりの太陽みたいにキラキラと輝いて心底楽しそうに笑う。
ナナバが本当に求めていたのはきっとこれだったんだろう。
ようやく……
ようやく見つけたんだ……
「アニキっっっっ!!!!!」
ディアンはあちこちに傷を作り服を赤に染め上げ、雨が血を吸って運び地面を染め上げていた。
「ナ、ナナバ………。」
ただ、雨が降っていた。
次でおしまいです!
トータル・・・なかなかに好きなキャラだ・・・