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その後の話 ―遥と美咲―

「……また作ってる」



リビングでパソコンを叩いていた遥が、甘い香りにふと手を止めてキッチンの方へと視線を上げた。

そこには、真剣な表情でボウルと格闘する美咲の背中があった。

仕事終わるまでちょっと待ってて、と伝えたら、「キッチン使ってもいいですか?」と言われて快諾したら――これだ。



「美咲ちゃん、今日でお菓子作り何回目だっけ?」

「えっ、あ、……えっと、3回目、です」



美咲が恥ずかしそうに振り返る。

キッチン台の上には、既に焼き上がった、少し形が崩れたり、焼き色が甘かったりするマフィンが並んでいた。

付き合い始めて2ヶ月。

美咲は、幸せの真っ只中にいながら、密かな、けれど深刻な悩みを抱えていた。

それは、「ちょうどいい恋人」がどんなものか、いまだに正解が見つからないこと。

重すぎず、軽すぎず。

わがままを言いすぎず、でも素っ気なくもしない。

遥に「やっぱり面倒くさいな」と思われないための、絶妙なライン。

それを模索するあまり、彼女は差し入れひとつ選ぶにも、過剰に心血を注いでしまっていた。

買ったものより作ったほうが良いかな、とか。

せっかくなら美味しいって思ってほしいな、とか。

そんなことを考えているうちに、遥の家で持て余す時間は自然とお菓子や料理を作る時間に充てるようになった。



「そんなに毎回気合入れなくていいのに。美咲ちゃんが焼いたなら、なんだって美味しいよ」



遥が背後から近づき、美咲の腰に腕を回して笑う。

止める前に、遥は作業台の上に所在なさげに置かれた不格好なマフィンをかじって見せた。

「うん、美味しい」と自分の口元についた欠片を舐める遥に、美咲は困ったように笑う。



「……でも、遥さん、ちゃんとしたものが好きそうだから」

「『ちゃんとしたもの』より、私は『美咲ちゃんがつくってくれたもの』が好きなんだけどな」



耳元で囁かれる甘い声。

それでも美咲の不安は消えない。



「私……重くないですか? 毎日連絡したり、こうしてお菓子作ってたり」



遥は意外そうに首を振った。



「全然。むしろ、もっとわがまま言われてもいいと思ってるくらい。美咲ちゃん、私に「して欲しい」はほとんど言わないじゃない」



美咲はボウルを持ったまま、俯いた。



「だって、わがまま言って、嫌われたら嫌だし……。私、遥さんにとって『ちょうどいい』彼女でいたいんです。邪魔にならなくて、心地よくて……」



その言葉に、遥が回していた腕に少しだけ力を込めた。

遥は美咲の身体をくるりと自分の方へ反転させる。



「『ちょうどいい』なんて、探さなくていいよ」

「え……」

「心地いい場所っていうのは、お互いに相談して作っていくものでしょ? 美咲ちゃんが無理して形を固定したら、私が寄り添う隙間がなくなっちゃう」



遥は美咲の手からボウルを取り、キッチン台に置くと、彼女の両頬を包み込んだ。



「お菓子が焦げても、連絡が多くても、たまに泣いても。私はそれを『面倒』だなんて思わない。それは全部、美咲ちゃんが私を好きでいてくれる証拠でしょ?」

「……本当に? 変なことで嫉妬したり、仕事の邪魔しちゃったりしても、嫌いにならない?」

「うん。その時はちゃんと『今は仕事中だよ』って言うし、嫉妬されたら『可愛いな』って思うだけ。……美咲ちゃんが思ってるより、私、タフなんだよ?」



悪戯っぽく笑う遥に、美咲はようやく、ふっと肩の力を抜いた。



「……じゃあ、今日、泊まっていってもいいですか」

「いいよ」

「明日、お休みだから……お昼まで、寝ててもいいですか」

「いいよ。……他には?」

「……朝起きたら、一番にキスしてください」



小さな、けれど切実なわがまま。



「それは、今すぐ叶えてあげる」



遥は満足げに目を細めると、マフィンの甘い香りが漂うキッチンで、美咲の唇を優しく塞いだ。

ちょうどいい場所なんて、どこにもない。

ただ、不器用にはみ出した部分を、お互いの熱で溶かし合っていけばいい。

そう思うと、美咲の心にあった重い「正解」は、ホットミルクの砂糖みたいに静かに溶けて消えていった。


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