和解①
時間軸は本編終了後であり、本編のネタバレが多分に含まれています。
未読の方は、本編読了後に読むことを強くお勧めいたします。
それは、王都決戦が終わって間もなくの頃――新たに天界も統治することを求められた魔王は多忙を極めていた。
正天使のせいで荒れ果てていた天界を正しくあるべき姿に戻すのは骨が折れる。
昨日、天界から戻って来た魔王は、不在を任せていたゼルカヴィアから仕事の引継ぎを受けると、いくつか追加で指示を出し、今日は朝から執務室に籠っていた。
今は時間が惜しい。休む時間などない。執務室のドアがノックされた時も、手元の書類から視線を外さないまま雑に入室の許可を出した。どうせ、多忙を極めてやや機嫌が悪い今の魔王の執務室を訪れるような度胸のある者など、ミュルソスくらいだろうと思ったからだ。
「――あれっ? ここにもいない……」
来訪者の上げた暢気な声に、予想が外れたことを悟る。すぅっと澄んだ蒼い瞳が、入口へと向けられた。
そこには、今の城内で不機嫌な魔王にも臆せず語り掛ける魔界の太陽――アリアネルが立っていた。
「……どうした」
「朝からゼルを探してるんだけど、見当たらなくて――パパの部屋かなと思ったんだけど」
少しがっかりした様子の愛娘は、残りの心当たりを考えているらしい。魔王は小さく嘆息してから少し前にロォヌが淹れた花茶に手を伸ばす。
「ゼルは今、城にいない。昨夜、人間界の偵察任務に赴かせた」
「えっ!」
「何か用があったのか?」
カップは冷え切っていて、思った以上に長い間集中していたらしい。口を付けながら問いかけると、アリアネルは正直に口を開く。
「聞きたいことがあって、探してたの」
「急ぎなら、伝言を使えばいい」
雑談が苦手な魔王らしく、身も蓋もない端的な解決策の提示にも、アリアネルは気分を害した様子はない。少し口をとがらせて、親代わりのゼルカヴィアへの不満を漏らす。
「たぶん、無視されるかはぐらかされて終わりだもん。ここ何日か追いかけまわしてたから、うんざりされてると思うし」
「?」
魔王は整った顔に特大の疑問符を浮かべる。聡明な頭脳は、愚かな人間がする無意味な行動原理が理解できない。
何日もゼルカヴィアが回答を避けているということは、答えたくないことか、回答を持ち合わせていないことかのどちらかだ。
「尋ねても答えが得られないと予測していながら、なぜ今日もまた探そうとする?」
「時間がないの! 一週間後には、新月が来ちゃうのに――」
「新月……」
ゼルカヴィアに関することで、新月が関係するとすれば、心当たりは一つしかない。
ゼルカヴィアの新月の夜だけの特別な姿――アリアネルが”お兄ちゃん”と呼んで慕う存在についての何かだろう。
「”影”がどうかしたのか」
「……あ、そっか! もしかしてパパなら、知ってる!?」
ぱぁっとアリアネルの顔が期待に輝き、嬉しそうに続ける。
「”お兄ちゃん”の、喜びそうなもの!」
「―――――……」
――妙な沈黙が執務室を支配する。
魔王は、何と口を開くべきか逡巡した。
(ゼルは、未だに自分と”影”が同一の存在であると明かしていないのか)
とりあえず、ゼルカヴィアがうんざりした顔で数日逃げ回っていた理由は分かった。
アリアネルは、どうやら”影”にサプライズでも仕掛けようとしているらしい。まさか、当の本人に相談しているとは思いもしないで。
「……何故そんなものを知りたいと思う?」
「だって……最後にお兄ちゃんに会ったとき、すごく、すごく、心配かけちゃったから」
しゅん、と愁いを帯びた瞳を伏せるアリアネルに、魔王も記憶を辿る。
(確か――そうか。最後に”影”が姿を現したのは、アリィが正天使に攫われたあの夜か)
「お兄ちゃん、きっと、すごく心配してるもん。だから、無事だったよって伝えたい。お兄ちゃんは何も心配しなくていいよって――でも、心配かけちゃってごめんねって、謝りたい」
アリアネルの気持ちはわからなくない。ゼルカヴィアと”影”が別個の存在であると考えるならば、当然の帰結だろう。
だが、実際は違うのだ。
”影”は翌朝にはゼルカヴィアに戻り、彼もアリアネルを正天使から取り戻す作戦に参加した。顛末までよく知っている。
「ゼルは、『伝えておきますよ』とか言ってはぐらかすの」
「……はぐらかしているわけではないだろう。”影”にゼルの記憶は継承される。伝えたいことも、渡したいものも、ゼルに預ければいい。自然に”影”にも渡る」
「パパもゼルと同じこというの!? 二人とも、お兄ちゃんの心配性を知らないから、そんなこと言えるんだよ!」
アリアネルは、信じられない、という様子で目を見開いて非難する。
「お兄ちゃんって、過保護なゼルの何百倍も心配性なんだよ!? 小さい頃、新月の夜に私がゼルの部屋の外に出るときは、いつも、ずぅっと、蒼い顔で私のこと心配してた――『私はゼルカヴィアと違って、無力で無価値な存在なのです』『お願いだから危ないことはしないで、今夜だけはこの部屋から出ないと約束してください』って――」
「む――」
その言葉は、意図せず魔王の弱いところを突いた。
世界最強の男が、痛いところを突かれたように呻くが、アリアネルは気づかずに続ける。
「いつも自分は無力だから、何かあっても守れないからって言うくせに――いざとなったら、自分のこと犠牲にしても絶対に私のこと守ってくれようとするの! パパだって、私とお兄ちゃんが神殿に忍び込んだ夜のこと、覚えてるでしょ!?」
「ぅ、む……」
「それに昔、私が正天使を呼び出す囮になるよって言ったら、絶対に酷いことをされるからそんなこと考えるなって、血相変えて怒られたんだから! それなのに――お兄ちゃんの目の前で、正天使に攫われちゃって……きっと、すごく、すごく、心配かけたもん……」
「そ、う……だな……」
魔王は苦い顔で言葉少なく肯定する。何も知らない無垢な言葉が、過去の己の非を責め立てるようだった。
”影”が殊更に自分を無力だ、無価値だと己を卑下するのは、魔王のかつての行いのせいだという自覚があった。目の前で母が無惨に虐殺されるのを、何もできず見ているしかできなかった幼少期の記憶は、深刻なトラウマとして彼の心に根を張っていただろう。そして、母と生き写しの彼の姿を見るたび、魔王は二度と還らぬ愛しい存在を思い出しては天使を憎み、苦しんだ。
幼少期と同じ組成になる”影”としての自分を、無力と蔑み、己の外見を忌避し、何千年もの間、孤独を抱えて生き続けさせてしまった。
(魔族ゼルカヴィアとして生きている時は出てこない本音を、”影”だけが吐露したということは――同一人物とはいえ、精神構造は大きく異なっているのかもしれない)
神殿に忍び込んだ後に吐露された言葉を思い出し、魔王は反省する。――息子への気遣いが足りていなかったのかもしれない。
魔族ゼルカヴィアは何の憂いもなく毎日を生きているように見えても、新月の夜になれば、未だ癒えぬ孤独を抱えて震えているのかもしれない。あるいは、アリアネルが攫われたあの夜を、新しいトラウマとして根付かせ、不安に襲われているのかもしれなかった。
「だからお前は、次の新月の夜に”影”に逢いたいということか」
「うん。できれば、プレゼントとか用意したいなって思って。でも、お兄ちゃんと過ごしたのはずいぶん昔だし、最近は数年に一回、会うか会わないかだから、お兄ちゃんの好みってわからなくて……パパ、わかる?」
「む……アレの思考パターンはゼルと同じだ。ゼルが好むものは、大抵好むだろう」
論理的な帰結を告げると、アリアネルはまた信じられない、という顔をした。
「そんなことないよ! 確かに、ゼルとお兄ちゃんは似てるけど――性格は、全然違うよ!?」
「う……む……」
つい先ほど、精神構造が大きく異なっているのかもと反省をした矢先の指摘に、魔王は口ごもる。
「なんでパパ、知らないの!? パパは、お兄ちゃんとも付き合いが長いんじゃ――」
アリアネルは言いかけた言葉を飲み込み、「あっ」と何かに気付いたように口元に手を当てる。
「そっか……そういえばパパって、お兄ちゃんに嫌われてるんだっけ」
ひくっ……と普段は石像のように動かない魔王の頬が一瞬引き攣る。
「そ、れは……”影”本人が、そう言っていたのか……?」
「え? うん。……あ、ごめん。嫌い、じゃなくて、苦手、だったかも。怖い――だったかな? とにかく、パパと一緒にいるのはなるべく避けたいっぽかったよ」
「ぐ――」
己の過去の振る舞いのツケが回ってきた結果とはいえ、血を分けた一人息子から避けられていると知らされるのは、いかな完全無欠の魔王と言えど、ダメージを負うらしい。
「でも、それじゃパパもお兄ちゃんの好みとかはわかんないよね。うぅん……でもあと一週間かぁ、どうしようかな……」
「待て。俺は、”影”の性格や好むものについて、世界で一番詳しそうな男を知っている」
踵を返そうとしたアリアネルを呼び止める魔王の脳裏には、ゼルカヴィアの幼少期から教育係として最も長い時間を過ごしたはずの黄金の魔族の顔が浮かんでいた。
「ホントっ!?」
「あぁ。だが、教えるには交換条件がある」
「えっ、うん。私に出来ることなら、何でもするけど――」
魔王は、完全に書類仕事の存在など頭の片隅に追いやりながら、アリアネルに条件を告げるのだった。




