姉は振り返るのを止める
※残虐・流血表現あります
閲覧ご注意ください
真っ赤な血の海に紅玉は一人佇んでいた。
足元に転がるのは夥しい数の死体。
手足をもがれ、全身バラバラになった空。
あり得ない方向に身体が折れ曲がった鞠。
全身串刺しにされ血塗れになった幽吾。
角が折られ腕や足や顔が潰された轟。
胴体が真っ二つに引き裂かれた世流。
身体の一部が炭化する程焼かれた焔。
身体の半身を大岩に潰された文。
全身をズタズタに切り裂かれた美月。
羽をもがれ腕や足がひしゃげた天海。
くり貫かれた眼球や切断された手足が積み上げられた右京と左京。
地獄のような光景を呆然と見つめることしかできない。
悪夢だと分かっていても、偽物だと分かっていても、大事な仲間達の変わり果てた姿を見るのは耐えがたいものだった。
これは夢――頭でそう分かっているのに、視線がそらせない。
これは悪夢――分かっているのに、虚ろになった仲間達の死体から目をそらせない。
ぼとり――何かが落ちて転がる。
恐る恐る振り返れば、目に入ったのは美しい白縹の――血で染まった長い髪。
そこに転がっていたのは、水晶の首だった。
夢だと分かっているのに、泣き叫びたくて堪らない。
夢だと分かっているのに、恐ろしくて堪らない。
この夢が只の夢ではなく、いつか正夢になってしまうかもしれないと思うと……背筋が凍りつく。
どろり――黒いどろどろした何かが目の前に落ちる。
そして、それはあっという間に目の前で塊となり、醜い化け物へ変貌していく。
悍しいその姿に、血のような真っ赤な不気味な瞳に、目が逸らせない。
ぐしゃり――目の前で血の雨が降り、何かが地面に叩き付けられた。
ゆっくりと視線を落とせば、それは仁王か軍神かと呼ばれる、愛する蘇芳の変わり果てた姿だった。
心が、壊れそう。
精神が、ゆっくりと確実に蝕まれていく。
発狂してしまいそうだ。
いっそこのまま壊れてしまおうか……そう思う程……。
「……っ、これは夢っ!!」
目の前の蘇芳が本物とどこまでも瓜二つであったとしてもこれは偽物。
これがいつかの正夢であったとしても、決して今現在の光景ではない偽り。
幻で、夢で、悪夢で……呪いだ。
「これは夢、これは偽物……大丈夫、大丈夫……!」
必死に己に言い聞かせながら、紅玉は冷静さを忘れない。
己を見失わないように、掌に爪を立て、歯を食い縛って耐え続ける。
「絶対に……っ、負けるものですか……っ!」
そんな紅玉の言葉に黒いどろどろが震えた。
「コレヲミテ、ドウヨウシナイナンテ……レイコクナオンナ……ゼンブ、アナタノセイナノニ……」
低い声と高い声……あらゆる声を混ぜ合わせたような不気味な声が響く。
「アナタガイルカラ、ミンナ、シンデシマウノ。ナラバ、アナタガイノチヲモッテツグナウベキヨ!」
黒いどろどろの腕が紅玉の首を掴む――が、紅玉はその腕に思いっきり噛み付いた。
「ギャアアアア!?」
怯んだ黒い化け物を紅玉は鋭く睨み付けた。
「わたくしはっ、貴方なんかに負けない! 生きます! 全力で生き抜きます! そして、わたくしの大切な人達を守ってみせますっ!!」
「オノレェッ! ノウナシッ!!」
黒い化け物が再び紅玉へ襲いかかる――!
しかし、その腕は光の壁によって弾かれていた。
黒い化け物が動揺したように揺れる。
紅玉もまた驚きに目を見開いていた。
何故ならそこにいたのは、ふわりと波打つ輝く白縹の髪と穢れ無き水色の瞳を持つ全身に清廉な神力を纏う美しき少女――。
「晶ちゃん……!?」
それは間違いなく水晶であった。
狼狽える紅玉を水晶は振り返る。
「……まったく、いつまで寝ているの?」
「え……」
「あんまりすーさんに心配かけさせるんじゃない、このアンポンタン」
瞬間、赤黒い凄惨な空間に目映い白縹の神力の光が満ちていく。
「邪魔よ、出ていきなさい、邪悪なるモノ」
「ギャアアアアアアアアッ!!」
黒い化け物が白縹の光に浄化され、じゅわりじゅわりと音を立てて溶けていく。
しかし、そんな中で黒いどろどろはニタリと笑っていた。
「アアアアッ! コレヨ! コレヨ! ワタシガモトメテイタ! ゴクジョウノチカラ! ワタシノチカラァッ!!」
黒い化け物は溶けかかった腕を必死に水晶へ伸ばす。
身体が溶けて崩れ落ちても水晶へ手を伸ばそうとする。
「ワタシノォッ! ワタシノヂガラアアアアッ!!」
「……消えなさい」
冷酷な顔で水晶が腕を振り払った瞬間、黒い化け物は一瞬で蒸発してしまった。
あまりにも呆気ない幕引きに紅玉は驚きながらも、改めて思う。
(なんて……美しく、清廉で……強い力……)
そう感動を覚える一方で、ある思いも過る。
(……だからこそ、晶ちゃんは狙われ続けてきた……幼い頃からずっと)
強過ぎる力はあらゆる存在に狙われ続け、幾度浚われそうになったり、その命を脅かされそうになったり……。
(守らなくては……わたくしが……この子を……っ! 逃げ回っている場合ではありませんわ! 一刻も早く目覚めて十の御社へ!)
そう考えていた時だった。
パチンッと風船が破裂したような音が響いたのは。
目を丸くして状況を確認すれば、目の前にむぅっと頬を膨らませた水晶が紅玉の両頬をその小さな掌で叩いていたところだった。
紅玉は驚いてしまう。あまりにも痛みがなくて。
「……うみゅ、やっぱりビンタすると自分が痛い」
「しょっ、晶ちゃん!?」
紅玉が慌てて水晶の掌を確認すれば、掌全体がやや赤くなっていた。
相変わらずの身体のひ弱さに愕然とし、紅玉は青褪めてしまう。
「貴女って子は何をやっているのです!?」
「それはこっちの台詞じゃ。お姉ちゃんこそ、うっかりあっさりこんな悪夢に囚われているんじゃない」
水晶はそう言うと、紅玉の額をピシリと指で弾く。
「いい加減、妹離れして、もっと自分の事を大事にして。私なら絶対に大丈夫だから」
堂々とした水晶の佇まいに紅玉は目を見開いてしまう。
ずっと甘えん坊の妹だと思っていたのに。
姉の自分がいなくては駄目だと思っていたのに。
(……いつの間に、こんなに成長していたのかしら……)
それが嬉しいやら、寂しいやら……。
紅玉は水晶を抱き締めた。
「……本当に、大丈夫?」
「うん」
「お姉ちゃんがいなくても、本当に大丈夫?」
「大丈夫」
「ちゃんと早起きして、自分でお着替えして、好き嫌いせずちゃんと御飯食べて、お仕事もさぼらずにきちんとできます?」
「…………」
「そこはきちんと返事をしてくださいまし」
思わずクスリと笑ってしまった。
すると、水晶もぎゅっと紅玉を抱き締める。
「……お姉ちゃん」
「はい」
「ずっと守ってきてくれてありがと……今度は、私も守るから。お姉ちゃんのこと」
「まあ……!」
紅玉は思う。
やっぱり妹の成長が嬉しくて堪らない、と。
「貴女は今までもずぅっとわたくしのことを守ってきてくれていましたわ」
「……っ……!」
水晶の身体が震え、息を呑んだのが分かった。
「…………そっか」
その声は少し震えていた。
ふわり――淡い光が身体を包み込んだ。
ふわりふわり――温かな光は誰かの気配を彷彿とさせる。
「……ほら、ずっと待っているよ……すーさん」
「ええ……行かなくては」
紅玉は水晶から手を離し、光の方へ歩んでいく。
ふと、足を止めて、もう一度水晶を見ようとした。
「振り返っちゃダメ」
「……っ」
強い声に紅玉は振り返るのを止める。
「振り返らないで」
「…………晶ちゃん…………」
本当は心配で、心配で堪らない。
傍にいて守ってあげたい。
でも……だけど……。
「……信じていますよ、晶ちゃん……貴女なら全ての禍を振り払うことができるって」
「当然。だって、私は最強の神子様ですから」
自信満々な水晶の声が響き、紅玉はようやっとふわりと笑うことができた。
そして、紅玉は光を目指して歩き出す。
振り返ることなく、真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ。
待っているあの人の元へ――。