思いの残渣
紅玉はゆっくりと瞼を開けた。
目の前に広がるのは見慣れぬ天井だった。
ここはどこだろうとぼんやりと思いながら、先程の見た光景を思い出す。
(…………ゆ、め…………?)
はっきりと覚えている。
黒いどろどろの化け物に抗い、どこまでも落ちていく白い空間の中で誰かに助けられたこと――そして……。
「紅!」
「っ!」
精悍な顔をしたその人が酷く心配そうな表情で覗き込む。
「良かった……目を覚ましたんだな」
鮮やかな蘇芳色の髪に金色の瞳、仁王か軍神かと呼ばれる強靭な身体を持つ、紅玉のかけがえのない愛する人――蘇芳が優しく紅玉の頬を撫でる。
その優しい掌の温もりに、声に、存在に安心して……恐ろしい悪夢が蘇ってしまう。
「あ……あぁ……」
「紅……!?」
心配をかけさせてしまうと分かっていても、溢れる涙を止めることなんてできなかった。
「ああっ……すお、さまっ……すおう、さまぁっ……!」
「紅……紅……」
両手を伸ばして泣きじゃくる紅玉を蘇芳は何も聞かず抱き締め、その頭を優しく撫でる。
己にしがみついて震えて泣く紅玉が今にも儚げに消えてしまいそうな気がして、抱き締める腕に自然と力が入っていた。
「紅……紅……大丈夫だ。俺は、ずっと貴女の傍にいる」
「すお、さまっ……すお、っ……」
一向に泣き止む気配がない紅玉を一旦抱き起こすと、蘇芳は己の膝の上に紅玉を乗せた。
「紅」
未だ涙が溢れて止まらない漆黒の瞳をしっかり覗き込めば、紅玉はますます顔を歪めて泣いてしまう。
泣いてほしくなんかないのに、その泣き顔すらも愛おしくて、蘇芳はそっと真っ赤に染まる目元に唇を寄せた。
「大丈夫だ、紅……大丈夫だ……泣いていい。俺はここにいるから」
耳元でそう囁き、頬を撫で、額を寄せ、瞼に、頬に、口付けていくと、次第に紅玉は落ち着いていった。
「すお、う、さま……」
「ん?」
「蘇芳、さま……」
「ああ」
「蘇芳様……」
「どうした? 紅」
紅玉に呼ばれれば、蘇芳は微笑んで応える。
その微笑みは、仁王や軍神なんて表現が一切似合わない、酷く甘いものだ。
蕩けた砂糖と蜂蜜を混ぜ合わせたような。
そう、かつての――……。
「――かつての酸味強めの柑橘類はどこ行ったのさ?」
突如響いた声に蘇芳は驚いてバッと振り返った。
紅玉も声の響いた方に視線を向ける。
「甘いよ……甘過ぎるよ。あまりの甘さに胸焼けがするよ……」
呆れた表情で紅玉達を見つめていたのは絵に描いたような優男。
(この方は……!)
三十五の神子である風雪だ。
そして、その隣に立つのは神子補佐役の女性。
紅玉が意識を失う直前、異能の糸で紅玉達を捕らえた……。
「やあ、紅玉ちゃん、お目覚めかい?」
「……っ……」
囚われの身となってしまった状況に紅玉は思わず身体を強張らせ、思わず蘇芳にしがみついてしまう。
「ああ、警戒しないで。俺は確かに君達を捕らえたけど、皇族神子様達に付き出すつもりはないから」
「……えっ?」
風雪の言葉に紅玉は目を見開くしかない。
何故ならその言葉は正に皇族神子の命令に背いているということなのだから。
驚き戸惑う紅玉を労るように蘇芳はそっと紅玉の背中を撫で、風雪に小さく頷く。
風雪はニコッと笑うと寝台の横に置かれた椅子に座った。
「まずは改めて自己紹介をさせて。俺は風雪。知っての通り三十五の神子さ」
「……紅玉、です」
「んで、こっちが俺の補佐役の、ののちゃん」
風雪の紹介に、ののは軽く頭を下げ、フッと微笑む。
「うちの御社の子達は全員、紅玉ちゃん達の味方ただから安心してね」
紅玉の記憶にも三十五の御社関係者と、ましてや三十五の神子と直接進行を深めたことはない。
直接会ったのは、かつて神域図書館で声をかけてもらったあの一回だけだ。
それなのに、何故、皇族神子の命令に背いてまでそんなことをしてくれるのか――疑問しかない。
「……ど、うして……?」
「ま、その疑問は当然だよね。でも、頼まれちゃったからさ。前三十五の神子の清佳ちゃんに」
告げられたその名前に、その理由に、紅玉は驚くしかない。
何故なら風雪はその清佳の後任として神子に選ばれ、清佳が居なくなった後に神域へ足を踏み入れている。
清佳と話すことはおろか、会ったことだってないはずなのに……。
「な、ぜ……貴方が清佳ちゃんの、ことを?」
「う~ん……一応会った事になるのかな、あれは。というより、お願いされたに近いかな?」
「……えっ?」
風雪の言葉に紅玉はますます戸惑ってしまう。
動揺を隠せない紅玉を宥めるように蘇芳はそっと抱き寄せた。
紅玉が少し落ち着いたのを見計らって、風雪はゆっくりと語り出す。
「あれは俺が神子に就任して、初めてこの三十五の御社の敷地内に足を踏み入れた時だった。俺が感じたあの現象を一体どういう原理で起きたのか、口では説明できないんだけど……前の神子様の思いの残渣というか、心残りというか……そういうのが頭の中に直接流れ込んできたんだ」
風雪はあの時感じた「後悔の光景」を思い出していた――。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい、紅ちゃん。
いつも、自分の事ばっかりで。
ごめんなさい……っ!
響く声は悲しいもの。
目の前に立つのは涙を流すとても美しい女性。
気付けば女性は風雪を振り返っていた。
お願い……!
紅ちゃんを……!
私の親友を助けて……!
告げられた悲痛な願いとともに、光が弾けて飛んだ――。
「『紅ちゃんを助けて』――そう言われたんだ」
あの美しい女性が前三十五の神子であった清佳だと知ったのはそのすぐ後。
そして、清佳の幼馴染に神域管理庁で働く「紅」という愛称の「紅玉」という女性がいることもすぐに知った。
そして、その紅玉が〈能無し〉という不幸を振り撒く存在だということも……。
「紅玉ちゃんの力になる為に知り合いになろうとも考えたんだけど……俺は敢えて紅玉ちゃんとは接触せず、ちょっと遠くから見守らせてもらっていたんだ。〈能無し〉の紅玉ちゃんは神域ではあまりにも立場が弱かったから、もしもの時に備えて……本当に誰も頼れなくなってしまった時に、密かに匿えるように」
まさに今の状況である。
紅玉をそっと抱き寄せながら、蘇芳は風雪に捕まった時に告げられた言葉を思い出していた。
「じゃ、早速で申し訳ないけど、大人しく捕まってもらおうか…………それに、紅玉ちゃん、限界でしょ?」
「…………は?」
「三十五の御社で休ませよう」
「何、を?」
戸惑う蘇芳に風雪は手を差し出す。
「俺は君達の味方だ。どうか俺を信じて欲しい」
蘇芳は驚愕で目を見開くしかなかったが、風雪が嘘を吐いているように見えず……風雪の提案を信じることにしたのだった。
そして、その結果、紅玉を安全な場所で休ませることができたのだ。
風雪の選択にいろいろ感謝するしかなかった。
回想を終え、ふと紅玉に視線をやると、紅玉は未だ驚きに言葉もでないようだった。
蘇芳は紅玉を宥めるように背中を擦ってやる。
仲睦まじい二人の様子にふっと笑みをこぼしながら風雪は再び語り出す。
「しばらくは三十五の御社にいるといいよ。外に出れば皇族神子様達が血眼になって探しているからさ」
風雪がチラリとののを見ると、ののは小さく頷き食事が乗った台車を運んできた。
「お腹空いたでしょ。栄養をしっかり摂ってゆっくり休んでね」
「……あ……ありがとう、ございます……」
ほかほかと湯気をたてている美味しそうな料理。
隣でずっと寄り添ってくれる蘇芳。
目の前で優しい笑みを浮かべて見つめてくる風雪。
そして、清佳……。
あらゆる情報が、あらゆる感情が、唐突に紅玉の胸を揺さぶり、涙となって溢れ出てくる。
「っ……ぅぅっ……!」
「紅」
すかさず蘇芳が紅玉を抱き締めて頭を撫でる。
「紅……」
「ふっ……ぅぅ……っ!」
会いたくても、もう会えない。
今目の前にいても、また失うかもしれないということが酷く恐ろしい。
だから、今こうして一緒にいられるということが奇跡のようで幸せ。
でも、会えなくなっても、今でも鮮明に思い出せる懐かしい人の面影。
嬉しさ、悲しさ、安心感、恐怖感、愛おしさ、切なさ……あらゆる想いが涙となって、溢れて止まらない。
「俺はここにいる。絶対に貴女より先に逝ったりなんかしない。ずっと、貴女の傍にいて、貴女を守ってみせる」
抱き締める大きな身体に紅玉はしがみついて声を殺して泣いた。
今度こそ守ってみせる。
絶対にこの手を離さない。
もう二度と大切な人を失いたくないから。
そんな二人の様子を風雪とののはそっと見守っていた。