倒れた聖女
ここは宮区にある七の御社。
真珠の如く艶めく美しい乳白色の長く真っ直ぐな髪と撫子色の瞳を持つ美女が靴の音を響かせて廊下を歩いていた。その足音は些か強く大きく、怒っている事が分かる。
彼女の名前は真珠。七の神子の補佐役であり、この神域では知らぬ者はいない聖女である。
「真珠様! 真珠様、お待ちください!」
その真珠の後を追いかけるのは、毛先だけが漆黒に染まった鳩羽色の髪と灰色の瞳を持つ七の神子護衛役の狛秋である。
「あなたには失望しましたよ、狛秋」
「自分は自分の目で見てきたものをありのままに報告しただけです」
つい先日まで狛秋は十の御社にいた。
その時観察した紅玉について報告せよと七の神子から命を受け、ありのままに報告をした。
紅玉は〈能無し〉などと揶揄すべき存在ではないこと。
神子や神、同僚の職員達にも慕われ頼りにされ、大変優秀な職員であると。
七の神子は紅玉のことを勘違いしていると。
「今こそ姫神子様には現実を見て頂き、真実を知るべきです」
「その〈能無し〉が姫神子様を傷付けたのですよ!? この国が誇る愛されるべき姫君があんな目に遭うなんて……!」
先日起きた「七の御社制圧事件」で、七の神子こと桜姫は皇太子や法の一族から説教を受ける羽目になった。
強固な結界の中に閉じ込められた桜姫の姿が思い浮かぶ。
「なんとお痛わしいこと! それもこれも全て、〈能無し〉のせいではありませんか!」
「……お言葉ですが、今回の件に関して言えば、姫神子様が間違っていたと自分は思います」
皇族神子の立場を使い、蘇芳を無理矢理傍に置き、挙句逃れられないように皇族神子の力を使って、決して逆らう事ができない命令術で蘇芳を縛りつけようとしたのだから。
「黙りなさい、狛秋! 姫神子様が間違っているなどあり得ないでしょう!?」
真珠が睨み付けるが、狛秋は引かない。
真っ直ぐ見つめ返す。
「いいえ。姫神子様は間違ってしまった。我々が……いや……あなたが姫神子様を過剰に甘やかしすぎた結果」
狛秋は気づいていた。
聖女こと真珠は事あるごとに桜姫を褒め称えた。
それは最早崇拝と言うより狂信に近かったように思う。
そして、桜姫もまた聖女である真珠の言葉を鵜呑みし続けその結果、過ちを犯してしまった。
「……いくらあなたが神域を救った聖女と言えども……これ以上、姫神子様に害を為すのであれば、自分は――」
そう言いかけた時だった。
真珠が顔を歪ませて突然胸を押さえたのは――。
「っぅああぁぁっ!!」
「っ!? 真珠様!?」
挙げ句、真珠はその場に倒れ苦しみ出す。
「うっ――ああああっ!! うっ、あぅぅ……っ!」
「真珠様!? 真珠様! どうしたんですか!? 真珠様! 誰が! 来てくれ!」
狛秋の声を聞いて駆け付けたのは――。
「真珠!? どうしたの!? 真珠! 真珠!! しっかりして!!」
苦しむ真珠を見て、桜姫は取り乱してしまう。
「姫神子様、どうか落ち着いてください……誰か! 誰か! 医務部を呼べ!!」
「真珠! 真珠!! しっかりして!! 真珠!!」
桜姫の叫びも、御社が騒々しくなっていくのも、真珠には気に留める余裕もなかった。
ただひたすら胸を絞め殺すような激しい苦しみを耐えるので精一杯だ。
「……っのれ……っ! ふ、じのみこ……っ!」
思わずその元凶の名を怨めしく呼び、真珠は意識を手放した。
*****
聖女真珠が倒れた。
その話は瞬く間に神域中へ広まり、あっという間に茶屋で働く彼女の耳にも届いていた。
「ねえ、真珠様のこと……」
「ええ、勿論聞いたわ」
「呪いが進行しているらしい……」
「藤の神子の呪いだろ? 藤の神子ってやっぱり生きているのか……?」
様々な憶測の噂を耳にしているのは、金糸雀色のふわふわの髪に雛菊の髪飾りで留めて、お日様のような橙色のクリクリとした瞳を持つ雛菊だ。
(……藤の神子って確か……)
藤の神子――そう呼ばれる存在を雛菊も知っている。
三年前「藤の神子乱心事件」という神域史上最悪の事件を招いた黒幕――元二十七の神子である藤紫のことだ。
そして、紅玉の幼馴染でもある……。
「もし生きていたらとしたら、神域管理庁内に協力者がいるって専らの噂だぞ」
「そんなヤツ、一人しかいねぇだろ。藤の神子の幼馴染で唯一の生き残り」
「ああ~」
根も葉もない噂をする客に一瞬怒鳴り付けたくなったが、相手は客だと雛菊は堪える。
「そういや、藤の神子に殺された神子の血縁者が神域で働いているって話じゃなかったか?」
「ああそうだったそうだった」
「丁度この近くだったよな~」
客は悪い笑みを浮かべて文を横目で見ていた。
(もう限界!)
雛菊が客を叩き出そうと決意したその時だった。
「「「にっがああああっ!!??」」」
(えっ!?)
客が団子を頬張った瞬間、叫び声をあげて苦しみ出したので、雛菊はギョッとしてしまう。
「なんだごれぇ!? んげぇにげぇっ!」
「ひぬっ! ひぬほろにげぇっ!」
「うえぇ……! にがぐでくちのなかがおがじい……!」
相当苦いらしく、客全員、涙目である。
「ほっほっほっ、新商品の薬団子はお気に召さなかったかな?」
「おっ、おばあちゃんっ!?」
ふわふわと微笑みながら客の前に進み出たのは白鼠の髪と垂れ下がった草色の瞳を持つ高年の女性――この茶屋の店主こと、よもぎだ。
「あんまりお喋りが過ぎるからお喋りの病気を治してやろうと思って薬団子を出してやったんだよ」
「ババア!! ふざけやがって!!」
「ほっほっほっ、まだまだお口が悪いようだねぇ。ほれほれ、追加のお薬だよ」
よもぎはそう言って何やら粉を振り撒いた。
「ぎゃあっ! やめろ! 目が! 目がしみる!」
「にげぇっ! 全身で苦さを感じる!?」
「ほっほっほっ、安心をし。苦い薬草を粉末にしたもんだから、目に入っても害はないよ。すんごい苦いけど」
「全然大丈夫じゃねえぇぇっ!!」
客は苦い薬に噎せて悶えて涙が止まらないが、薬のお陰か肌艶は良さそうだ。
「大丈夫、大丈夫。このお薬には『でとっくす効果』っちゅうもんがあってのぅ。お肌がピッチピチのぷるんっぷるんになるんだよぉ」
「「「そんな効果いらねぇっ!!」」」
いや嬉しい効能だろう、と雛菊は思うが、苦さに耐えられるかは話が別だ。
「っざけんなババア! げほっげほっ! 覚えていやがれ!」
「にげぇっ! にげぇよぉっ!」
「涙が止まらねぇ~~っ!!」
そう吠え面をかいて、客は足をもつれさせながら出ていってしまった。
「文ちゃん、お塩を撒いておいておくれ」
「はいはい」
文は溜め息を吐きながらも手際よく塩を撒いていた。
終始その様子を見守っていただけの雛菊だったが、文の背後にそっと近づく。
「…………文」
「なに?」
「……ごめんね……あのお客達に、何も言い返せなくて……」
文が振り返るとそこにはシュンとした顔の雛菊がいた。
「……気づいていたの?」
「え?」
「俺が神子の血縁者だって」
「……あ、えっと……文が紅の幼馴染の弟だって聞いていたから……なんとなく、は……」
「……そう」
雛菊に直接話したことはなかったと記憶しているが、そう言えば初めて会った時に幼馴染の弟だとは紹介されたことを文は思い出していた。
「……言っておくけど、姉さんを殺したのは藤の神子だなんて、俺信じてないから」
「えっ!?」
「誰がなんと言おうと、藤紫さんに姉さんが殺せるはずがない」
「…………」
雛菊は藤紫にも蜜柑にも会ったことはない。
会ったことはないけれど……。
「私もそう思う。絶対に!」
「…………」
雛菊の真っ直ぐな瞳を文は見つめると、わずかに頬を綻ばせた。
「当然」
「えへへっ」
きっぱりと言い切った文の言葉が清々しく、雛菊も笑っていた。
「……姉さんを殺した真犯人は必ず見つけて、俺が……」
「……文……? 今、何か……」
その時だった。
「よもぎさん!」
「よもぎ様!」
「おやまあ、源さんとえっちゃんじゃないかい」
店に飛び込んできたのは、店によもぎ団子の仕入れをしている男性職員と女性職員だった。
随分と慌てた様子である。
「どうしたんだい? そんなに慌てて」
「大変だ! 十の御社に宮区の警備部が押し寄せて……!」
「紅玉さんの身柄を拘束するって大騒ぎになっています!」
「えっ!?」
「っ!」
二人の話を聞いて、文が真っ先に飛び出し、その後を雛菊も追った。
*****
二人が十の御社の前へたどり着くと、店主の話通り、大騒動になっていた。
「ふざけるなっ! そのような理由で紅を渡すわけにはいかない!!」
怒鳴り声は明らかに蘇芳のものだ。
人山からなんとか中を覗き見れば、宮区警備部と蘇芳が対峙しているのが見えた。
「これは七の神子様の命である。神域の聖女真珠様の呪いが進行した。これはつまり、藤の神子の生存の可能性かもしくは藤の神子の協力者がいる可能性がある。その最たる容疑者として十の神子補佐役、紅玉の名が挙がった。紅玉は藤の神子とは親しき仲であった。十分な拘束理由だ」
「聖女の呪いと紅は無関係だ! 何度言わせれば分かる!?」
「しかし、藤の神子との関係性は否定できない」
話し合いは完全に平行線である。
人山を何度も覗いてようやっと見つけた紅玉を見て、雛菊はギョッとした。
顔色が悪い。挙げ句、空と鞠に支えられてやっと立っている状態だった。
「先輩は今体調が悪いんです! せめて体調が安定するまで待っていてもらえませんか!?」
「体調不良が言い訳になるわけないだろう。どうせ仮病に決まっている」
「ケビョーじゃないデース! ベニちゃん、ホントにグアイbadなんデース!」
「信じられるか」
宮区警備部の一方的で強引な態度に、雛菊は怒りを覚える。
(いくらなんでも横暴よ!)
そうしている内に宮区の職員が強引に紅玉を連行しようとしていた。
「大人しく来い!」
「あ……!」
「ベニちゃん!」
「先輩を離せっす!」
無理矢理腕を引っ張られた紅玉がよろめいた次の瞬間、辺り一帯に赤黒い神力が迸り、雛菊は全身が凍りついた。
「紅に触れるな!!」
「ぐあっ!?」
気付けば紅玉の腕を掴んでいた職員は倒れ付し、憤怒の表情の蘇芳が紅玉を大事そうに抱えていた。
その姿はまさに仁王か軍神か。
(ひええええ! こっわああああっ!!)
久々に感じる蘇芳の覇気に雛菊は腰を抜かしそうになる。
実際、蘇芳の覇気に当てられ、野次馬が何人も泡を吹いて倒れていた。
「雛菊、しっかり。あんたが倒れたら誰が世話すると思ってるの?」
「あ、あや……」
文の厳しい声に雛菊は徐々に冷静になる。
蘇芳の怒りの矛先は宮区警備部に対してであって自分ではないのだ。
(大丈夫、大丈夫。蘇芳さんはコワクナイ、コワクナイ)
先日、紅玉と一緒に買い物に来た蘇芳の表情を思い出す。
溺愛して止まない紅玉の笑顔を見て、まるで苺大福の苺のように真っ赤に頬を染めたでっろでろに蕩けた蘇芳の顔を。
「仁王どこ行った?」と呟いた文の声に思わず吹き出してしまった事を。
(あ、ヤバい。思い出し笑いしそう……!)
「……冷静さ取り戻せたのはいいけど、ここで笑ったら一生『空気読めない女』って呼ぶからね」
「はい、すみません」
しかし、だからと言って状況が変わるわけではなかった。
「命令に従えないと言うのか!? 挙げ句、職員に手を上げるなど! 規律違反で身柄を拘束するぞ!?」
「やれるものならやってみろ!」
場は正に一触即発状態。
緊張がより一層走る。
その間も紅玉は蘇芳の腕の中でぐったりとしている。
そして、ついには水晶や十の御社の神々まで表に出てきて宮区警備部と対立し出す。
場はついに収拾のつかない混乱の極みへ発展しかけていた。
(あああ、ど、どうしよう……! みんな、完全に頭に血が上っちゃってる……!)
オロオロとする一方の雛菊に対し、文は終始冷静だった。
「……思ったより早く動いたな……つまり、そういうことなのか?」
ぶつぶつと何か呟きながら思案に浸る文を見れば、何故か文は伝令役の小鳥に紙を渡していた。
「え、文、あんた何やって……」
「……雛菊」
文はじろりと雛菊を見ると言った。
「今日からしばらく欠勤してもらうから」
「……はいっ?」
言っている意味が分からず、雛菊は目を剥いた。