【番外編】とある神子管理部と、とある神子の不思議な縁
敢えて固有名詞を伏せてお送りしております。
読みにくいかもしれませんが、誰だか予想しながらお読みください。
ごうごうと、激しい雨風が吹き荒ぶ。
ざあざあと、水が建物すら押し流していく。
突如、その地を襲った豪雨は、何時間も続き、結果、水地獄と化していた。
(こわい……っ!)
少女は必死にしがみ付く。
荒ぶる濁流の中で、辛うじて立つ細い木に、必死でしがみ付く。
(こわい……っ……こわいよ……っ!)
濁流で濡れた全身が冷え、手が悴み、今にも手が離れてしまいそうだ。
死の恐怖で、心も身体も冷え切ってしまう。
泣く余裕も、無い。
避難が僅かに遅れ、家の周囲は濁流に飲まれ、少女は滑って転んだ拍子に、誤って母親から手を離してしまい、一人あっという間に流されてしまった。
なんとか木にしがみ付いたが、それももう時間の問題だった。
(お父さん……っ! お母さん……っ! お兄ちゃん……っ!)
もう限界で――最後に家族の姿を思い浮かべた――。
その瞬間、奇跡が起きた。
「…………?」
風が止み、豪雨は止まり、濁流が穏やかなものになったのだ。
「……え……?」
そして、少女の周りには無数の蝶々が飛び交っていた――薔薇色の羽根を持つ蝶々が。
その蝶々は次々と薔薇色に煌めいていく。
その光景はあまりにも幻想的で、少女は思わず見惚れてしまう。
そして、少女にもう一筋の光が射す。
それは救助隊の救援の光だった。
薔薇色の蝶々の煌めきに気付いた救助隊が、木にしがみ付く少女の存在に気付いたのだ。
こうして少女は、九死に一生を得て、無事家族と再会する事ができたのだった。
少女はあの時起きた奇跡の事を話すと、救助隊の人が教えてくれた。
「それは、神域の神子様のおかげだ」
「……神子様?」
「そうだ。神子様は神様に祈りを捧げ、国に平和と繁栄を齎して、時には奇跡を起こす事ができると言われている。きっと神子様の祈りが神様に届いて、雨が止んだんだろうな」
「……じゃあ、あの蝶々は……」
「神子様のお力だよ」
少女は薔薇色の蝶々を思い出す。
本当に綺麗な蝶々だった。
優しくて、温かくて、自分を励ましてくれた素敵な力。
「私っ、神子様に会ってお礼が言いたいっ!」
「神子様はお忙しい方だからな。会うのは難しいぞ」
それでも、少女は直接会ってお礼を言いたかった。
助けてくれて、ありがとうございます。神子様の蝶々のおかげで、私は生きている事ができますって伝えたい。
でも、どんなに願っても、やっぱり神子様に会う事は出来なかった……。
手紙は送ったけれど、返事は返ってこないだろうと言われてしまった。
(……なら、私が神子様に直接恩返しをするんだ)
日々、国の平和を祈り続けている、忙しい神子様の為に。
神子様を守り支える神域管理庁へ行こうと、少女は決意する。
(そして、いつか、私を助けてくれた神子様にお礼を言えたらいいな……)
**********
ごうごうと、激しい雨風が吹き荒んでいる。
ざあざあと、水が建物すら押し流していく光景が見える。
水地獄と化していたその地の光景を、若い神子は絶望した気持ちで見ている事しかできなかった。
(何でっ!?)
祈りを捧げても、捧げても、雨も風も弱まる気配はない。
濁流は更に勢いを増し、町も建物も人も飲み込んでいく。
(どうしてっ!?)
その理由は分かっている。
ここが乾区だから……人の欲望と憎悪が入り乱れた娯楽街のある乾区だから。
自身がまだ神子になって間もなく、力不足であるから。
祈っても、祈っても、汚れは祓えず、邪神が溢れ、その結果、現世に悪影響を及ぼす。
現に今も、町一つが濁流に飲み込まれ、崩壊していく。
先輩神子達にも、祈りを捧げるよう何度も声を掛けた。
しかし、どの神子も堕落し、欲に塗れた、最早神子と呼べない神子であった。
唯一、三十八の神子は祈りを捧げているが、たった二人で状況を変える事など、やはり不可能だった。
(このまま、見ている事しかできないなんて……っ!)
絶望に打ち拉がれそうになったその時だった。
濁流の中で、必死に木にしがみ付く少女の姿が見えたのは……。
考えるより先に身体が動いていて、我武者羅に薔薇色の神力を放出させていた――。
そして、気付いた時には寝台の上だった。
しかも、あれから丸一日も眠っていたそうだ。
流石に神子も愕然としてしまう。
三十八の神子の報告によると、あの少女は無事救助されたらしい。
離れ離れになっていた家族とも再会できたとのことだ。
だが、今回の豪雨被害で、多数の死者も出てしまった……。
町も洪水のせいで、建物は流され、復興には相当な時間が掛かると予測された。
(……全てを、助ける事は出来なかったのね……)
己の無力感に、神子は涙した。
(……神子のくせに……っ!)
悔しい。悔しくて堪らない。
(何も、できなかった……っ!)
娯楽街なんて不浄の地が無ければ。
怠惰な神子達さえいなければ。
自分の力がもっと強ければ……。
考えても、考えても、浮かぶのは後悔ばかり。
自分が最後に救った少女から手紙を貰ったけれど、目を通す気になれなかった。
そもそも乾区が穢れているから起きた豪雨なのだ。
元凶を断てなかった神子である自分に、礼を言われる資格なんてないのだから……。
神子は手紙を読まずに、そっと棚へ仕舞った。
(いつか、神域を完璧に浄化できるようになったら、その時に…………)
**********
あの豪雨の日から、十四年の月日が流れた。
奇跡的に濁流から生還したあの少女は成人し、神域管理庁の面接を受けて、見事、この春から神域管理庁神子管理部の職員として入職した。
尊敬する神子様、憧れの神域管理庁……胸は希望に満ち溢れていた。
しかし、入職早々、その希望は打ち砕かれてしまった。
神域というところは、神力の強さで人を判断し、神力の少ない者は見下され、神力の強い者が偉そうに踏ん反り返る、とんでもない場所だったのだ。
彼女も決して神力が強くない……むしろ、弱い部類だった。
しかし、彼女よりも酷かったのは、一緒に大鳥居をくぐった同期だ。
色が変化しない、漆黒の髪と瞳を持つ〈能無し〉……同期はそれだけの理由で忌み嫌われた。
だから、彼女は同期の味方であり続けようと決めた。
神力が無かろうと、それが禍を招く存在だったとしても、同期自身は心優しい素敵な人だったから。
彼女は、自分が見て、信じたいものを信じると決めたのだ。
(……でも、やっぱり風当たりが強いよなぁ……)
溜め息を吐きたくなる気持ちを必死に堪えながら、彼女は大量の書類を抱えて、神子管理部事務所の中を移動していた。
研修先の御社から、突如呼び出され、命じられたのは、書類整理の依頼だ。
(これはパワハラですって訴えたい……でも、神力が少ないと、この程度もできないんですか? って言われるのも癪だから、やるしかない)
ようは負けたくないのだ。いろいろと。
(第一に、私よりもっと仕事を押し付けられている紅ちゃんが頑張っているっていうのに、私が頑張らないでどうする!)
思い浮かぶのは、上司からあり得ない程の量の書類作成を依頼された同期の姿だ。
彼女は文句一つ言わず、了承だけすると、大量の書類を抱えて、神子管理部事務所から研修先の御社へ戻っていった。
あと、同じく、神力があまりない同期と、〈神力持ち〉の同期――この二人も、〈能無し〉の同期を庇っているせいで、余計な仕事を押し付けられているのだ。
ようは、〈能無し〉と縁を切れ。見捨てろ――という話なのだが。
(ぜっっっったい言う事なんか聞いてやるもんか!)
「……あの~?」
ぷりぷりと怒りながら、彼女は歩を速める。
今は一刻も早く、研修先に戻って、研修と押し付けられた仕事を早々に片付けたい。
(あの主任……美人で〈神力持ち〉だからって、何をしても赦されるわけじゃないんだからね! 全部綺麗に終わらせて、ぎゃふんと言わせてやるっ!)
「……もしも~し?」
彼女は、ようやっと気づいた。
声を掛けられている事に。
振り返れば、そこにいたのは……。
「やあ。やっと気づいてくれた。はじめまして」
「……はじめ、まして……」
見知らぬ男だった。
鉛色の髪と、瞳は……閉じられていて、色が分からない。
初対面のはずなのだが、纏う気配が只物ではないと、即座に分かった……。
「うんうん。見た目は至って普通の女性だねぇ~。特にこれといって、特別な力があるわけでもなさそうだなぁ……」
ジロジロと人の事を見ながら、ブツブツと考察を述べていく姿に、ますます警戒心が強まっていく。
「……あの、いきなり何ですか?」
「ああ、ごめんね。君はとてもイレギュラーな存在だから、一度会っておきたくってさ~」
「……はい?」
「あ、理解しなくていいよ。考えたところで分かんないだろうから。あははっ」
全く以って、意味不明だった。
今すぐここから逃げ出したいと思ってしまう。
「う~ん……やっぱり分岐点は君かなぁ……鈴太郎君はともかく、実善君はここまでじゃなかったし……」
尚も、男はブツブツと独り言を呟く。
その内容も全然訳が分からない。分かりたくもない。
「あ、あの……私、これで失礼しますね……」
「あ、待って。最後に一つ……君、過去に死にかけた事無い?」
その質問に、彼女は思わず目を見開く。
「……どうしてその話を?」
「いやいや、ちょっとした勘でさ。ちなみに、それは何年前の話? 事故? 事件?」
随分と遠慮なく聞いてくるなぁとは思いつつ、彼女は答えた。
「……十四年前、起きた豪雨災害です」
「ああ、あの……なるほどね。そういうことか。ありがとね」
男はにっこりと笑うと、くるりと向きを変える。
「じゃっ!」
「へ?」
そして、男は召喚した扉の中に飛び込んで、あっという間に去っていってしまった。
「…………なんだったの?」
**********
それは、神子護衛役と神子補佐役と参道街を歩いている時だった。
突如、目の前におどろおどろしい扉が現われて、中からその者が出てきた。
鉛色の髪と色が不明の瞳を持つ男。
確か、中央本部の人事課の不気味な男だったと、神子は記憶していた。
「……いきなり何の御用ですの?」
「やあやあ、神子様、朗報ですよ~、朗報」
ニコニコと胡散臭い笑顔を振り撒きながら、こちらへ近寄ってくる男……実に無遠慮である。
神子と男の間に護衛役と補佐役が立ってくれた。
「いやだなぁ。そんなに警戒しないでくださいよ~」
「いきなり神子であるあたくしの目の前に現れて、怪しい話を持ちかけたら、誰だって警戒しますわ」
「ヒドイ……傷付くなぁ……」
男はシクシクと泣いたふりをするが、もうすでにその行動が胡散臭い。
神子は思わず睨みつけた。
「まあ、冗談はさておきとしまして……会いましたよ」
「……誰に?」
「十四年前、日護で起きた豪雨災害の生き残りさんに」
「っ!!??」
それだけ聞いて、神子は目を見開いてしまった。
「……会いたいですか?」
「…………いいえ。結構よ」
くるりと向きを変え、神子は去ろうとする。
「あなたが救った命ですよ」
「あの時の事はもう忘れましたわ!」
忌わしい記憶……。
神子としての初の大きな仕事だった。
だが、力及ばず、何もできず、多くの命が失われた。
自分が救えたのは、幼い命たった一つ……。
「あたくしには関係ありませんわっ!」
「…………」
それだけ言うと、神子は去る。
足早に去っていく。
「彼女は、神子管理部の新人です」
「…………」
神子は男の声を無視する。
無視だ。ひたすら無視。
「背が少し高めで、神力の量は少なめですが、色は青系統。気が向いたら、調べてみてください」
「…………」
気なんて向かない。調べたりしない。誰がするものか。
そう思いながら、神子はそのまま立ち去っていった。
「神子様、調べてきました。今年の新人で、神力が青系統の背の高い神子管理部の女性を」
神子は神子補佐役から調査報告書を受け取っていた。
「……この子が?」
「はい。例の〈能無し〉を庇っている一人らしくて、今少し難しい立ち位置にいるそうですよ。神力の量も少ない事も相まって」
「…………そう」
神力至上主義の神域において、〈能無し〉という忌み嫌われる存在を庇うなど非常に愚かであると、神子は思う。
「…………研修先はどちら?」
「四十二の御社です」
「あら、星奈のところだったのね」
「……いかが致しますか?」
神子補佐役の質問に、神子は首を傾げた。
「あら、別に何もしませんわよ。あたくしには何の関係の無い話ですもの」
神子は調査報告書を机の上に投げ捨てながら、あっさりと答えた。
「……ですが、愚かな新人がどんな顔をしているのか調べてきてちょうだい。四十二の御社宛に、あたくしから手紙を書いてあげるから」
そう言って、神子はさらさらと一筆書くと、神子補佐役に手紙を渡した。
「かしこまりました」
「それと、あまりにもその新人の出来が悪くて、星奈達に迷惑をかけているようなら、あなた、ちょっと手伝ってあげてちょうだい」
「承知しました」
神子補佐役は頭を下げると、退室した。
部屋に残るは、神子一人だけだ。
「……あれから、十四年も経っていたなんて……」
投げ捨てた調査報告書に載る新人の写真を見て、そっと指先でなぞった。
思い出すのは、濁流の中、必死に木にしがみ付く少女の姿……。
「……大きく、なりましたわね……」
調査報告書に、ぽたりと雫が零れ落ちた……。