戻ってきた日常と紅玉の異変
蘇芳が十の御社に戻ると同時に、狛秋も七の御社に戻る事になった。
「世話になった」
清々しい笑顔を浮かべながら、狛秋は紅玉に握手を求める。
十の御社に来た当初と比べると、その変化に驚いてしまうが、狛秋と仲良くなれた事が嬉しくて紅玉も手を差し伸べ……ようとしたが、蘇芳に阻まれてしまった。
「……貴様は少し心に余裕を持て」
「無理だ。紅に関しては特に」
きっぱりとそう言い切った蘇芳に狛秋は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「またお会いできましたら、ご挨拶させてください」
「ああ」
そうして狛秋は七の御社へ帰っていった。
**********
そうして、十の御社にいつもの日々が戻ってきた。
「晶ちゃああああああああんっ!!!!」
朝早くから水晶を起こす為に、紅玉が怒鳴り声を上げる。
可愛い弟妹分の空と鞠が仕事を学ぼうと、ヒヨコのように紅玉の後を付いて回る。
今日も今日とて粗相をする紫に、紅玉が絶対零度の微笑みをぶつける。
いつも通りの日々。しかし、蘇芳にとっては求めていた懐かしい日々だ。
蘇芳の頬はすっかり綻んでいた。
(幸せだな)
そう思いながら紅玉を見守る蘇芳の瞳は、何処までも蕩けていて甘いものだった。
そんな蘇芳を見て、紅玉もまた思う。
(幸せです)
心臓が自然とドキドキと高鳴ってしまう。
そんな平和な日々にも少しだけ変化した事がある。
それは、蘇芳の毎朝の鍛練の後の事――。
「すまない。水を貰えるだろうか」
「おはよう、蘇芳くん」
「蘇芳様!」
蘇芳が勝手口から台所をひょいと覗けば、紅玉は顔を輝かせて駆け寄った。
それだけで可愛くて堪らないと蘇芳は思う。
紅玉は水の入った杯を差し出した。
「おはようございます」
「おはよう、紅」
「本日も鍛練お疲れ様です」
「ありがとう」
蘇芳は一気に水を飲み干して、そっと周囲を伺う。
紫は鍋に集中していてこちらに気付いておらず、空と鞠もまだいないようだった。
チラリと紅玉を見れば、頬を赤く染めてソワソワとしている。
その様子が可愛くて堪らず思わず目を細めながら、蘇芳はそっと紅玉との距離を詰め、そっと唇を重ねる。
触れ合った唇は今日もとても柔らかい。
蘇芳が十の御社に帰って来てから始まった毎朝の恋人同士の挨拶だったが、二人はすでに夢中になってしまい、ほぼ毎朝、人の目を盗んでは、こうして唇を重ね合わせていた。
名残惜しそうにそっと唇を離せば、蘇芳が耳元で囁く。
「今夜は貴女の部屋でいいか?」
すると、紅玉は頬を赤く染めて小さく頷く。
夜もまたどちらかの部屋で眠る寸前まで一緒にいて、場合によってはそのまま床を一緒にする事も増えた。
相変わらず一線は越えていないが……。
紅玉の頭を優しく撫でると、蘇芳は一旦着替えに部屋に戻る。
蘇芳の背を見送りながら、紅玉は高鳴る胸を必死に抑え込む。
(ああ、いつか心臓が破裂してしまいそう……)
蕩けそうになる頭の中を必死に叱りつけ、紅玉は「よし!」と拳を握る。
「さあさ、お仕事お仕事!」
いつもの毎日。
いつもの御社。
相変わらず事件の謎は分からないままで、「謎の女」の手掛かりも掴めないままで、決して全てが順調ではなかったけれど、幸せな穏やかな日々が続いていた。
続くと、思っていた……。
**********
葉月の十一日――紅玉にとって忘れられない日である。
十の御社の隅にある歴代の神子を奉る祠に紅玉は蘇芳と一緒にいた。
静寂で厳かな雰囲気の木々に囲まれた小さな空間。
日の光に照らされて、小さな祠と歴代の十の神子の真名が刻まれた石碑が輝く。
紅玉は石碑に書かれた名前を指でなぞる。
「ありさちゃん……」
そう、葉月十一日は紅玉の幼馴染であるありさこと前十の神子の海の命日であった。
毎年、命日には忘れず紅玉はこの祠を訪れる。
勿論、海だけではない。葉月も、清佳も、蜜柑も、命日の日には祠へ訪れて挨拶に行く。
藤紫だけは未だに生死が不明な上に大罪人の為にそのような場所はないが、藤紫が行方不明になった日には祈りを捧げている。
「どうか無事でありますように」と。
「あれから……三年なのですね……たった三年なのか、もう三年なのか……」
未だに悲しみは消えない。
そして、先日明らかになった真実に、未だ憎しみも消えてはくれない……。
そんな紅玉の心を察してか、蘇芳が寄り添って肩を抱いてくれる。
燻ぶる心が凪いでいくのを紅玉は感じていた。
ありさを思い、紅玉は両手を合わせ、祈りを捧げる。
(どうか、安らかに……わたくしは、大丈夫ですから)
そして、決意を新たにする。
(必ず、藤紫ちゃんの無実を証明してみせますから)
亡き好敵手にそう誓えば、声が聞こえた気がした。
「紅なら絶対出来るよ! だってアタシのライバルだからさ!」
懐かしい明るい声が聞こえた気がして、ジワリと涙が溢れる。
そんな紅玉の涙を蘇芳は手拭いで拭ってくれた。
*****
祠から出てくると、空と鞠と紫が茶会の準備をしてくれていた。
「おかえりなさいっす! 先輩!」
「オカエリナサーイ!」
「お茶とお菓子の準備ができているよ~。リクエストの海様がお好きだったガトーショコラ!」
ふわりと甘い香りが漂い、思わず頬が綻んでしまう。
「ありがとうございます、紫様」
「いえいえ」
もうすでに水晶や神々は一足先に茶会を始めていた。
海に仕えていた男神の鋼も、槐や響と並んで菓子を食べているのを見て、紅玉はほっとしてしまう。
「ほら、紅ちゃんと蘇芳くんも座って座って」
「先輩、一緒に食べようっす!」
「マリもハヤくタべたいタース!」
「お姉ちゃ~ん、はやく~~」
仲間達の明るい声に沈んでいた心が少しずつ浮上してくる。
「紅、行こう」
蘇芳がそっと手を握って引いてくれた。
その手の温もりが優しい微笑みが嬉しくて、紅玉もまた笑う。
「はいっ」
一歩、足を踏み出した瞬間だった――ぐらりと視界が揺れて歪んだのは――。
(あ、ら――……)
傾いていく身体を支える事などできず――。
「紅っ!!??」
地面に倒れ伏す寸前で蘇芳が抱き止めてくれたのが分かったが、紅玉は未だ身体を動かす事ができなかった。
ぐらぐらと視界が歪み、蘇芳の声も遠くなっていく。
(な、んで……こんな、に……ねむい、の……?)
「紅っ!! 紅っ!?」
「お姉ちゃんっ!!」
「先輩っ!!」
「ベニちゃん!!」
「紅ちゃん!!」
「紅ねえ!!」
たくさんの大好きな人達が自分を必死に呼んでくれている。
分かっているのに、返事ができない。
眠くて、眠くて……堪らない。
(さい、きんは……きちんと、ねて、いるのに……)
歪む視界の中で、蘇芳の悲痛な顔が見える。
薄れゆく意識の中で、蘇芳の必死の叫びが聞こえる。
「紅っ!! 紅っ!! しっかりしろ!! 紅ぃっ!!」
(ああ……まえも……こんな、ことが、あった、きが……)
その時も蘇芳に酷く心配させてしまったなぁとぼんやりと思い出す。
そう、あれは清佳がこの世から去った直後、三十二の神子である蜜柑の御社を訪ねていた時のことだったと――……。
そして、紅玉は完全意識を手放してしまった。
これにて五章終了です。
とんでもないところで切ってしまい、申し訳ありませんが、いよいよ最終章の六章へ続きます。
よろしくお願いします!
明日から三日間、おまけ話を投稿後、六章を投稿していく予定です。