命令の首輪
蘇芳は真っ白な夜着を身に纏っていた。
上質な生地でありながら、とても薄手でほとんど寝間着の役割を果たしていないそれ……。
これから何が起こるのか容易に想像ができ、紅玉は身体を震わせてしまう。
「よかった……わたくし……今度は間に合った……?」
思わずぽつりとそう呟いていた。
今までは全て目の前で失ってしまっていたから……。
でも、今度は取り返しがつかなくなる前に助けに来られた。
愛する人の存在を抱き締めながら紅玉は涙が溢れそうになる。
「紅っ……! 紅……!」
蘇芳は紅玉を掻き抱いた。
一度は諦めた誰よりも愛おしい存在を確かめるように夢中で。
決して夢ではないと、温もりと香りが示してくれ、心がどんどん満たされていくのを感じる。
そして、己が紅玉に飢えていたのだと思い知らされた。
「紅……! 俺が、俺が愛しているのは、紅だけ……! 紅だけなんだ……!」
「ええ、わかっています。わかっていますわ」
紅玉はそろりと蘇芳から身体を離すと、泣きそうな表情の蘇芳の頬を撫でた。
「だから、貴方を拐いに来ましたの」
そして、紅玉は蘇芳の左手の上にいるひよりの頭を撫でた。
小さな淡い黄色の翼に赤が見えて、紅玉は眉をひそめる。
「ごめんなさい、ひより……本当にありがとう」
紅玉の袖口に隠れていた南高にひよりを託すと、南高はひよりを連れて一瞬の内に姿を消した。
そして、紅玉は改めて蘇芳を見つめて、困ったように笑った。
「貴方を奪われたくなくて、ちょっと無茶してしまいました。どうか怒らないでくださいましね」
「赦してくれ……っ!」
紅玉の手を握り締め、額を擦り合わせながら蘇芳は懇願する。
「貴女を一度でも裏切ろうとした俺を赦してくれ……!」
「はい、赦します。愛していますわ」
「紅……っ」
嬉しさのあまり、唇を寄せようとしたその時――。
「がああっ!」
「蘇芳様!?」
蘇芳が突然苦しみ出し、紅玉は動揺する。
見れば、蘇芳の首をぐるりと囲むように紋章が施され、桜色に光っている。
ハッとなって振り返れば、桜姫がこちらを睨み付けながら神術を発動させていた。
「無駄です! 例えあなたが拐っても、この人は私の命令術から逃れられません! 私に背けばこの紋章が首を斬り落としますよ!?」
「ぐっ!!」
桜姫の言葉に、もがき苦しむ蘇芳の姿に、紅玉は驚きと怒りが隠せない。
「おやめください! 七の神子! 首を斬り落とすなど脅して蘇芳様を苦しめるなんて! 貴女様は蘇芳様を愛していらっしゃるのではないのですか!?」
しかし、桜姫は面白そうににっこりと笑うだけだ。
「あらぁ、ちゃんと言葉を理解してくださいませんこと? 〈能無し〉のお姉様。私が愛する盾を自らの手で壊すとお思いなのですか? 第一に神域最強の私の盾が首を斬り落とされたくらいで死ぬわけがないでしょう?」
「え……?」
桜姫の言っていることが紅玉には理解できなかった。
桜姫が蘇芳を「盾」と言っていることも、蘇芳が首を斬り落とした程度で死なないと言っていることも――。
そんな紅玉の様子に気付く事もなく、桜姫は憐れむような目で見つめて言った。
「理解できないのなら教えてあげます。私の命令術で斬り落とすのは、あなたの首ですわ。〈能無し〉のお姉様」
「っ!?」
それだけで紅玉は全てを理解した。
何故蘇芳が突然紅玉に別れを告げたのか、桜姫が何故これ程までに横暴な行動に出られるのか。
全て、紅玉が人質に取られていたからだ。
「蘇芳様……!」
「っ……ぅっ……ぐぅっ……!」
蘇芳が己を犠牲にしようとしたことは腹立たしく思う。
しかし、逆の立場だったら……紅玉も葛藤で悩まされただろう。
どれほどの苦しみを蘇芳が味わったのかと思うと、怒りより愛おしさと切なさが勝ってしまっていた。
桜姫は余裕の笑みを浮かべて、入り口を指差した。
「お帰りを、〈能無し〉のお姉様。その者は初めから私のモノと決まっているのです。あなたが触れていい人ではありませんわ。今帰れば今宵の全ての無礼を赦しましょう」
しかし――。
「……お、れは……っ!」
「っ!」
焼けつくような痛みに必死に耐えながら、蘇芳は桜姫と対峙し、睨み付けて言った。
「俺は! 貴方の命令には絶対従わない!」
「っ!? いいのですか!? あなたの大事な人の首が斬り落とされても!」
「やってみろ……!」
地を這うような低い声に、桜姫は身体を震わせて怯んでしまう。
それほどまでに蘇芳の覇気は凄まじく恐ろしいものだった。
「紋章が紅を殺す前に、俺は自ら命を絶つ! 紅がもし仮に死んだとしても俺は後追って自害する! 紅以外の女にこの身を捧げるくらいなら死んだ方がマシだ!!」
「蘇芳様……!」
例え命に換えてでも愛する人を守ろうとする蘇芳の姿に、寄り添う紅玉の姿に――桜姫は堪忍袋の緒が切れた。
「あなたは! 私の盾よぉっ!!」
「うっ! あっ、ぐあっ!!」
紋章が一層蘇芳の首を締め付ける。
「がああっ!!」
「蘇芳様!」
「撤回なさい! 今の言葉を撤回なさい!!」
「こと、わる……っ!」
激痛を受けても尚、蘇芳の意思は変わらない。
それに与えられる首の痛みは、紅玉を裏切った胸の痛みに比べれば、何とでもなかった。
「俺が愛するのは紅ただ一人だけだ!」
「このぉっ……!」
桜姫がさらに神力を込めようとしたその時だった。
「お待ちください! 七の神子様!」
「邪魔をしないで! 首を斬り落としますよ!?」
「七の神子様は蘇芳様のどこに惹かれたのですか!?」
「……え?」
あまりにも突拍子もない紅玉の言葉に桜姫は戸惑い、思わず込めていた神力を霧散させていた。
痛みから解放された蘇芳も戸惑ってしまう。
「……べ、に?」
しかし、紅玉は蘇芳を見つめてにっこりと笑うと、桜姫を真っ直ぐ見つめて言った。
「桜姫は蘇芳様のどこがお好きなのですか?」
「……決まっているでしょう。どんな刃物でも通さない鋼の肉体、邪神をも屠る剛腕、そして精悍な顔つき……桜色の神力を持つ特別な姫である私に最も相応しい盾だからですわ」
桜姫は愛らしい笑みを浮かべて、それが当然であるかのように言った。
特別な姫には特別な盾を――。
だからこそ、神域最強で初代盾再来と言われる蘇芳を選んだのだ。
ずっと前から……。
しかし。
「……貴女様は、蘇芳様を何もわかっていません」
「……は?」
紅玉から真っ向から否定され、桜姫は思わず姫らしからぬ声を出してしまう。
だが紅玉は怯むことなく、言葉を続ける。
「確かに蘇芳様は仁王と呼ばれる程の強靭さとは裏腹に非常に整った容姿をお持ちでそれが魅力の一つであることに同意致します。ですが、蘇芳様は非常に可愛らしい方なのです」
きっぱりと告げた紅玉の言葉に、桜姫も蘇芳も思わずポカンとしてしまった。
「……え、えっと……お姉様、何をおっしゃっていますの?」
「ですから、蘇芳様が可愛らしいと」
「ええっと、全く意味が理解しかねるのですが……」
仁王か軍神かと呼ばれ、強靭な身体を持ち、神域最強と謳われる蘇芳が可愛いなど、桜姫には全く理解しがたい話だ。
しかし、紅玉は続ける。
「蘇芳様がご飯を召し上がるお姿をご覧になりました? いつも山盛りの真っ白なご飯を美味しそうに召し上がるのですよ。ほっぺたを膨らませてモグモグとされているお姿は本当に可愛らしいのですよ」
紅玉はその光景を思い出し、「ふふふっ」と笑う。
桜姫は再びポカンとし、蘇芳は徐々に赤くなり始めていた。
「本当は小さな動物もお好きなのに、触れる時はつい恐々としてしまって、困ったような笑顔になってしまいますの。とても可愛らしいと思いませんか? 子ども達のお世話をする時も大らかな快活な笑顔も可愛らしくて素敵ですし、あと可愛らしいだけでなくとても頼りになって、神子からも神様からも信頼されていて、わたくしを時に優しく時に厳しく指導をしてくださいます」
紅玉は慈しむように語り続ける。
「蘇芳様がいなければわたくしはこの神域で勤め続けることが難しかったでしょう……感謝しかありません。わたくしが〈能無し〉でも変わらぬ態度で接してくださって、優しい笑顔で微笑んでくださってそれで……」
自分が涙を零す度、拭って、撫でて、抱き締めてくれて……。
想いを通わせてからは愛していると何度も囁いてくれて、そして唇を重ねて――。
紅玉はハッとした。
情熱的すぎる一面を思い出してしまい、振り払うように頭を振る。
「と、とにかく! 蘇芳様を見た目だけで判断されている貴女様に蘇芳様は絶対渡しません!」
「なっ!!」
「蘇芳様をこれ以上苦しめるのでしたら――」
紅玉は脇差しに手を掛けて言い放つ。
「わたくしは貴女に刃を向けましょう!」
「しょ、正気なの? 私は神子よ? 皇族神子よ!? そんなことが赦されるはずがありませんわ!」
「赦される赦されないの問題ではありません。わたくしが蘇芳様を取り戻したい。それだけです!」
「紅……」
凛と佇む紅玉に、蘇芳は思わず見惚れてしまう。
嬉しい気持ちが溢れてしまう。
愛しさが募っていく。
しかし――。
「ふふふっ、あははははっ! お姉様ったらおかしい……!」
桜姫の苺色の瞳がキッと紅玉を睨み付けた。
「私に勝てるとお思いなの? 皇族神子で、桜色の神力を持つ特別な姫のこの私に!」
そう、現実は甘くない――相手は皇族神子なのだ。
桜姫が桜色の神力を凝縮させ、術式を展開する。
見覚えのある紋章に蘇芳はハッとしてしまう。
「七の神子、桜姫の名において命じます!」
「紅!!」
蘇芳が手を伸ばすも紋章はすでに紅玉の足元に浮かび上がっていた。
「【蘇芳を私に渡しなさい】!!」
初代神子の紋章が桜色の光を放ちながら紅玉に襲いかかる!
「――っ!?!?」
「紅ぃぃっ!!」
桜色の紋章が首に刻まれた瞬間、紅玉は全身に強い痺れが走った。
想像以上の痛みと苦しさが襲いかかる。
過信があったのかもしれない……〈能無し〉は神術が効きにくいのだと。
桜姫の神術も効きにくいかもしれないと……。
だが、痛みより何よりも感じるのは、悲しみだった。
(蘇芳様、ずっと、こんな痛みに耐えていたというの……!? わたくしを守る為に、心まで砕いて……っ!)
蘇芳にあんなことを言わせてしまった自分自身の不甲斐なさと弱さが恨めしい……。
(わたくしに力があれば……っ!)
悔しさで目の前が滲む。
(だけど……っ、わたくしはここで決して負けるわけにはいかない!!)
ビリビリと焼けつくような痛みを堪え、紅玉は前をしっかりと見据える。
(蘇芳様をこれ以上苦しめたくない。悲しませたくない。わたくしは絶対負けない。蘇芳様を誰にも奪われたくないっ!!)
その時だった――。
バチンッ!!――弾ける音が響いた。
「きゃああああああああっ!!」
悲鳴を上げて倒れたのは桜姫だった。
「えっ!?」
紅玉が驚いた時には、桜色の紋章が消え去っており、痺れるような感覚も焼けつくような痛みも消え去っていた。
「な、何……?」
一方で倒れ込んだ桜姫は全身に走る痺れと焼けつくような首の痛みにざっと青褪めた。
首に触れればそれがあった――己が放った命令術の紋章がくっきりと。
「嘘……! 何故!? どうして!?」
*****
その時、十の御社の祈りの舞台で祈りを捧げていた水晶はハッとした。
「この神力の色は……」
感じた覚えのある神力の色――それはとてつもない強い力であったことを覚えている。
水晶は深呼吸をすると集中をした。
白縹の神力が祈りの舞台を満たしていく――。
水晶はカッと目を見開くと、両手を強く打ち合わせた。
「【神術反射】!!」
ゴオオッ!!――と神力の渦が吹き荒れるも、それはすぐに収まった。
「よしっ! 今度はうまくいったのぅっ!」
「紅ねえも無事よ! 神子様!」
神々から喜びの声が上がり、水晶はほっと胸を撫で下ろすも再び集中する。
「かつての仕返しじゃ。十倍返しにしなかっただけありがたく思え」
*****
何が起きたのか桜姫にも、勿論紅玉にも理解できない。
しかし、この機を逃すわけにはいかないと、紅玉の判断は早かった。
「蘇芳様、動けますか?」
「あ、ああ……」
見れば、蘇芳の首からも紋章が消え去っていた。
その理由はわからないが――。
「逃げましょう!」
蘇芳の手を握ると、紅玉は手を引いて走り出す。
「待ちなさ――」
しかし、追いかけようとした瞬間、全身が痺れ、首に激痛が走った。
「きゃああああっ!!」
桜姫は再び床へ倒れ込んでしまう。
桜姫を心配する余裕など今はない。
紅玉は蘇芳とともに部屋を飛び出していた。
その手は二度と離れないようしっかりと繋いだままで。
<おまけ:神々との戦い>
樹の幹や蔓があちこちから伸びて、空と鞠を捕らえようとする。
それらを何とかギリギリで回避しながら反撃の機会を伺うが、相手は総勢二十名の神々だ。そう易々と隙を見せてはくれない。
「キリがないヨー!」
「鞠ちゃん! とにかく避け続けるっす! 俺達の目的は足止めっす!」
空は術式を書く。
「【水竜】!!」
「馬鹿だねぇ!」
神の一人があっさり空の神術を相殺する。
「〈水〉は〈木〉を強くさせてしまうのに」
ニッと笑う神に空は己の失敗に気付いたが、遅かった。
「捕らえろ!!」
勢いの増した樹の幹が空と鞠に襲いかかる!
「【弾け 氷の盾】!!」
右京の神術が空を守り、即座に左京が空と鞠の腕を引いた。
「ご無事ですか!?」
「助かったっす……!」
「Thank you、ウッチャン、サッチャン……!」
しかし、現状は形勢逆転とは言いにくい状況だ。
「さてさて、どうするのかな? 子ども達よ」
「我が御社を襲撃した事を後悔させてやろう」
神々が楽しそうにくすくす笑うのを、空達は悔しげに睨みつける。
「……左京君、守りの神術を」
そう言って前へ進み出たのは焔だ。
「焔さん!?」
「ホムラさん! ヒトリはダメデース!」
「……大丈夫だ」
焔がそう言って笑うので、左京は戸惑いながらも祝詞を読み上げる。
「【願うは 守護 静寂 我らを包みこめ 闇の檻】!」
瞬間、空達の周囲を闇の檻が包み込んだ。
それを見た焔は神々を見据える。
「ほう、一人で我ら七の御社の神々に立ち向かうとは」
「その度胸は認めてやろう」
「しかし、それは無謀とも言うのですよ」
くすくすという神々の嘲笑を聞きながら、焔は大きく深呼吸をしながら神力を練り込む。大きくなり過ぎないように慎重に。
「……先程あなたはおっしゃっていたな。〈水〉は〈木〉を強くさせてしまう、と」
「それがどうかしたのかい?」
「私の銃弾があなたの樹を撃ち抜き灰にした時点で、あなた方は私を警戒すべきだった」
「…………は?」
焔は銀朱の神力を小さく放出させた。
「【火猫】!!」
小さな火焔の猫が神々に向かって突撃――否、じゃれつきにいく。
にゃおーん、と愛らしい声を上げて。
しかし――。
「っ!! 〈火〉!!」
「うわっうわっ!!」
神々は慌てふためく。そして、放った蔓や幹を火焔の猫は嬉しそうに食べて、より一層大きくなる。
「無駄だ。〈木〉は〈火〉を強くする」
火焔の猫がにゃーにゃーと楽しそうに鳴く度に、神々は蜘蛛の子を散らすように散り散りになっていく。
「だめだめだめっ! 私達は桜の木々の神なの!!」
「〈火〉はだめ!! 〈火〉だけはだめっ!!」
「ああくるなぁっ!! こっちにくるなぁっ!!」
まるで子どものように逃げ惑う神々を余所に火焔の猫は神々にじゃれつこうとする。
「貴様っ!! 我ら桜の木々の神に〈火〉を使うなんて、血も涙もない女めっ!! 流石は殺人犯だなっ!!」
瞬間、神の頬を矢が掠めた。
ただの矢ではない。得体の知れない力を纏った矢だった。
矢が飛んできた方を恐る恐る見れば、花緑青の瞳がギロリとこちらを睨んでいた。
「もう一遍言ってみなさい……次は喉を貫くわ」
鞠だけではない。
空も右京も左京も凄い形相で神を睨みつけており、神は思わずゾッとしてしまった。
そんな仲間達の心遣いが嬉しくて、焔は思わず頬が緩みそうになるが、気を引き締めて前を見据えた。
「燃やされたくなかったら大人しくしてもらおうか!」