絶望の夜
蘇芳は絶望していた。
暗い部屋の中、ただひたすらじっとすることしかできない。
その顔からは感情がすっかり抜け落ちていた。
全身綺麗に磨き上げられているにもかかわらず。
絶望の最中、思い出すのは紅玉の声……。
「蘇芳様! 待って! どうして!?」
泣きそうだった紅玉の声を思い出しては胸を掻き毟られる……。
だが、蘇芳は紅玉を突き放さなければならなかった。
するりと手を伸ばすのは己の首。
そこにぐるりと囲むようにして描かれているのは術式の紋章――極一部の高貴な者にしか扱えない初代神子の紋章。
思い出すのは、一の御社から帰ってきた後の出来事だ――。
*****
皇太子との謁見を終えて七の御社に帰ってくるなり、桜姫は自室に閉じ籠ってしまった。
御社職員達は桜姫の大好きな菓子や茶で誘おうとするが、桜姫からの返事はない。
「姫神子様、どうしたのかしら……?」
「今朝はお元気そうだったのに……」
「先日の『夏の宴』の後からあまりお元気がなさそうだから心配だわ」
「ふん……どっかの護衛役があの〈能無し〉に勝っていればな!」
チクチクと刺さるような視線も言葉も、蘇芳は全く気にならなかった。
「そう言えばそれ、ずっと気になっていたのよ。〈能無し〉は神域最強の蘇芳をどうやって負かしたのよ?」
「ようは色仕掛けだよ。唐突に袴引き裂いて脚見せつけたと思いきや、腿に暗器を仕込んでいたんだよ」
「暗器ぃっ!?」
「ホント、〈能無し〉って手段選ばないのね!」
「悔しいが、結局は作戦勝ちだ。あの〈能無し〉、なかなかに艶かしい脚で――」
その瞬間、声が出なくなってしまう。挙句、息もできない。
そして、肌が粟立つ程の恐怖が襲いかかった。
見れば、神域最強の蘇芳が鋭い眼光でこちらを睨み付けていたのだから。
隣で別の職員が気を失って倒れる音がした。
「お止めなさい、蘇芳」
響いた淑やかな声に蘇芳は視線だけをそちらに向けると、そこには真珠が立っていた。
「あなたの殺気はそれだけで人を殺めることもできるのですから抑えなさい」
「…………失礼した」
蘇芳が殺気を鎮めた瞬間、息ができなかった者は息を吹き返し、倒れていた者達も意識を取り戻し、動けるようになる。
「……た、たすかりました、しんじゅさま……」
「……あの殺気の中でも立てているとは……流石、真珠様」
「神域最強と同期らしいからな。あの男と張り合えるのは、やはり真珠様しかいない」
聞こえてくる称賛の声を聞き流しながら、真珠は蘇芳に言う。
「姫神子様がお呼びです。行きなさい」
「…………はっ」
蘇芳は重たい足取りで桜姫の私室へと向かっていった。
それを見送った真珠は未だ腰を抜かしている職員達を見る。
「さあ、私達は準備をしますわよ」
「え? じゅ、準備ですか?」
「えっと……何の?」
その質問に真珠はにっこり笑う……。
一方、桜姫の私室までやってきた蘇芳は扉を叩く。
「蘇芳です」
そう言えば――。
「お入りなさい」
と桜姫の声が聞こえ、扉を開けた。
その瞬間、蘇芳の足元に術式が浮かび上がっていた。
「っ!?」
咄嗟の事に蘇芳はどうすることもできなかった。
「【皇族命令】!!」
桜色の神力の紋章が蘇芳の首に纏わりつく。
焼けるような熱さを首に感じた瞬間、蘇芳の首の周りに紋章が刻まれていた。
「うふふ……そうよね。初めからこうすれば良かったのよね」
「姫……一体何を……?」
戸惑う蘇芳に桜姫はにっこりと無邪気に笑う。
「それは私達皇族の人間のみが使用を許されている『命令術』……あなたの小指に刻まれている『契約術』より高位の術です。より強制力のある」
「『命令術』……?」
初めて聞く術の名前に蘇芳は嫌な予感を覚える。
「その『命令術』の紋章に縛られた者は、術者の命令に絶対服従しなければならない。もし命令に背けば――……」
その時紡がれた桜姫の言葉に蘇芳は目を見開き愕然としてしまった。
怒りのような激しい感情が身体を震わせ、同時に無力感に襲われた。
どう足掻いても、蘇芳が取る道はただ一つ。
桜姫の命令に大人しく従うだけ……。
大人しくなった蘇芳に桜姫は嬉しそうに笑う。
「早速あなたに命令を下します、蘇芳様」
桜姫は蘇芳に近づくと、頬を撫でて告げた。
「〈能無し〉のお姉様に別れを告げてきなさい。二度と会う事が無いと」
そうして蘇芳は言いたくもない言葉を告げるしかなかった……。
そうするしか、蘇芳に道が無かったのだから……。
そんな蘇芳に桜姫は更に絶望に突き落とすように命令を下す。
「あなた様は盾の一族。私は皇族の姫。あなたは私を守り、私はあなたに守られる運命。この国の幸せの為なのです。今宵、私を愛しなさい、蘇芳様」
桜姫の無邪気な笑顔は、蘇芳にとって残酷そのものであった……。
*****
桜姫の命令を思い出し、蘇芳は己の首を握り締め、紋章に爪を立てた。
決して逃れられない強い拘束の首輪。
否――蘇芳の強い神力があれば、逃れることは可能だ――だが。
(だが……そんなことをすれば……)
思い浮かぶのは愛おしい人の姿……。
目に涙をいっぱい溜めて己を見つめる、誰よりも守りたい存在……。
「……紅……っ……!」
首から手を離し、拳を握る事しかできない。
すると、扉が叩く音が響き渡り、真珠が現われた。
「姫神子様の支度が整いました。参りますよ」
「…………」
ああ……行きたくない……。
「…………蘇芳」
首の紋章が熱くなる――。
「…………御意」
蘇芳は渋々立ち上がり、部屋を出た。
真珠の先導を受けながら、一歩一歩廊下を歩む。
(行きたくない……行きたくない……)
何度も何度も心の中で叫び続けたところで、運命は変えられない。
(紅……紅……っ……すまん)
辿り着いた部屋の前で、蘇芳は全てを諦めてしまった。
真珠がゆっくりと扉を開けると、蘇芳は無表情のまま部屋の中へ足を踏み入れた。
「待ちくたびれましたわ」
嬉しそうな愛らしい声が響き渡る。
ゆっくりと視線を上げれば、大きな寝台の上に座る桜姫が愛らしい笑顔を浮かべてこちらを見ていた。
その身に纏うのは天女が羽織るような真っ白な夜着。
ふわりと揺蕩う生地は一目で上等なものであるとわかる。
「さあ蘇芳様、こちらに」
砂糖菓子のような甘える声に、蘇芳は全力で逃げ出したくなる。
「……命令です。こちらに来なさい、蘇芳」
瞬間、首の紋章が焼けるように熱くなり――蘇芳は寝台へと歩み寄るしかなかった。
「そう……良い子ね」
桜姫は近づいた蘇芳を引き寄せると、その首に抱き付いた。
ふわりと花のような甘い香りがする……紅玉とは全く違う香りに、蘇芳は不快しかなかった。
「あなたはどんな理由があっても私のもの。だって、姫は守られるべき存在なのですから。そうでしょう?」
「……………………」
蘇芳は何も答えられなかった。
嫌悪感と罪悪感で吐きそうになっていたから……。
(裏切りたくない……だが……だが……命令に背けば…………)
結局辿り着くのは同じ答えで、蘇芳は身体の力を抜くしかなかった。
するりと頬を桜姫の細い指が撫でる。
「私を夢見心地にしてくださいね」
うっとりと見つめる桜姫に――蘇芳は諦めるしかなかった。
(紅…………すまん…………)
桜姫の顔が近づいてくる。
ぼんやりとしながらそれを見つめた。
やがて唇と唇が重なり合う寸前、蘇芳は目の前が真っ暗になった。