異動
その翌日もいつもと変わらない日常が始まると思っていた……。
水晶を起こす紅玉の怒鳴り声が御社中に響いて、蘇芳は山盛りの丼白飯を食べて、仕事に勤しんで、一時の甘い恋人同士の時間を過ごして……。
いつまでも一緒にいられると、そう思っていた……。
朝、何の前触れもなくやってきた宮区職員が現れるまでは――。
「十の御社配属神子護衛役、蘇芳に通達する。貴殿の七の御社へ配属が決定した」
通達書を見せながら宮区職員が堂々と読み上げた瞬間、蘇芳も紅玉も絶句した。
「おめでとう、蘇芳殿」
あまりに急転直下の出来事であった。
*****
伝えられた辞令に――嫌だ――真っ先にそう思った。
「自分には身に余る光栄……とてもではありませんが皇族神子様の護衛役など務めるとは思えません」
「安心せよ。四の神子様及び五の神子様の強い推薦だ。間違いがあるはず無いだろう」
「っ!?」
拒否する権限など、端から無いという事だ。
皇族神子の推薦を蹴るなど、皇族に反する事と同意である。
「第一に貴殿は四大華族の生まれで神域最強としても名高い。むしろ皇族神子様の護衛役である方が道理であろう」
「…………」
蘇芳は断る術を失った……。
嫌だ。嫌だ。嫌だ――。
しかし、虚しく命令は下される。
「明日には七の御社に移り住むよう今日中に準備をせよ。遅れは決して許されぬ。十の御社の護衛役後任もこちらへ移り住むのだから」
もうすでに決定事項である事、自分の後任がすでに決まっている事、全てに愕然してしまう。
いつの間に?
どうしてこんなことに?
嫌だ。
嫌だ嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ――。
「蘇芳様……」
ポツリと呟いた声にハッと顔を上げる。
いつの間にか自分は自室に戻っていた事に驚いてしまう。
そして、いつの間にか荷物の整理もしていた事も……。
紅玉が心配な顔をしてこちらを見つめていた事も全然気付きもしなかった。
それ程までに、心の衝撃が大きかったのだ。
「……べ、に……」
「蘇芳様……」
するりと紅玉が指を絡めた。
紅玉の指が温かくて、自分の指が冷え切っていたのだと初めて気付かされる。
(行きたくない……! 手離したくない……! 紅と離れたくない……! 嫌だ……!)
胸が締め付けられる程痛む――苦しくて堪らない――。
「離れていても、わたくしの気持ちは変わりません」
「……っ!」
「好きです……大好きです……愛していますわ、蘇芳様」
ゆっくりと顔を上げれば、紅玉もまた切なげに笑っていて……。
辛いのは自分だけではないと気付き、痛みが嬉しさへ変わっていく。
紅玉は両手を広げて言った。
「だから、ぎゅってして?」
「紅……っ!」
蘇芳は紅玉を掻き抱いた。
想いをぶつけるように強く、強く抱き締める。
「紅……! 俺も誓う……! 愛している……! 愛しているのは、貴女だけだ……!」
本当は離れたくない。
傍にいたい。
一緒に十の御社で働きたい。
離れたくない。
だが、運命は残酷だ。
蘇芳は明日には十の御社を出て行かなくてはならない。
だから、せめて今だけは、このぬくもりを離したくなかった。
*****
そうして、無情にも朝はやって来てしまった……。
早朝に十の御社の前に停まったのは、宮区専用馬車。
中から降りてきたのは、七の神子補佐役の真珠。
今日も美しい顔に微笑みを湛えて、美しい純白の聖女の衣に身を包み、美しい礼をする。
「新しい七の神子護衛役の蘇芳のお迎えにあがりました」
「…………」
蘇芳は真珠に軽く頭を下げると、後ろを向く。
そこには蘇芳を見送りに出てきた十の御社の住人達が勢揃いしていた。
「蘇芳さん……!」
「スオーさん……!」
空と鞠が真っ先に蘇芳に駆け寄る。
少し涙目なのが可哀相で、蘇芳は二人の頭を優しく撫でてやる。
「空殿、鞠殿、紅の事を任せたぞ」
「おっす!」
「Yeah!」
二人が下がると、次は紫が前に出た。
「蘇芳くん……頑張ってね」
「紫殿も。あまり紅を怒らせないように」
「……努力するよ」
困ったように笑うと、紫は下がる。
その次に前に出てきたのは水晶と神々だ。
「水晶殿、神々の皆様方、大変お世話に……」
「そういうのは無しじゃ! 儂らは待っておるぞ。おぬしの帰りを」
「すーさん、いつでも遊びにおいで。なんなら帰ってきてもいいからね」
「はい」
命令だから難しいとは分かっていても、そう言ってもらえる事自体がやはり嬉しい。
「蘇芳様」
「紅」
最後に前に進み出た紅玉の手を蘇芳は握る。
その指先は冷たくて、心配になってしまう程だ。
だけど、紅玉は心配をかけさせまいと精一杯笑う。
「いってらっしゃいませ。どうかお身体に気をつけて」
「ああ、いってくる」
言いたい事はいっぱいある。
だが、二度と会えなくなったわけではない。
それに離れ離れになっても、この気持ちが変わる事は無い。
そっと右の小指に残る契約の紋章をなぞり合うと、揃いの腕飾りがシャラリと揺れた。
「「約束」」
一緒に誓い合うと、手を離した。
くるりと向きを変えた蘇芳の顔から色が消える。
そこにいるのはまさに仁王か軍神か――神域最強と呼ばれる男だった。
蘇芳が馬車に乗り込み、真珠も一緒に乗り込むと、扉が締められる。
やがて馬車は出発し、あっという間に見えなくなってしまった。
だが、十の御社の住人達は馬車が見えなくなっても、蘇芳を見送り続ける……名残惜しそうに。
しかし――。
「彼は選ばれし存在だ。まあ当然の決定事項だと思うがな。今までこんなところに居たこと自体が間違いだったんだ」
響いた男の声に十の御社の神々は思わず睨みつけてしまう。
そんな神々を無言で諌めつつ、紅玉は前へと進み出る。
そこにいたのは毛先だけが漆黒に染まった鳩羽色の髪と灰色の瞳を持つ男性職員だ。
この者こそ、蘇芳の代わりにやって来た元七の神子の護衛役の職員である。
「ようこそ、十の御社へ。これから神子護衛役としてよろしくお願いします、狛秋様」
狛秋に紅玉は微笑みかけるも、狛秋は無言で紅玉を睨みつけるだけだった。
**********
辿り着いた七の御社は、十の御社以上に豪華絢爛な洋館だ。
置いてある調度品も、美しい建築様式も、全て一級品のもの。
すなわち、七の神子である桜姫がいかに神力の強い存在かを示している。
しかし、そんなもの、今の蘇芳の心に全く響かない。
蘇芳の心を占めるのはひたすらに「無」だ。
やがて桜の木で造られた繊細な飾り彫りが施してある扉の前へ辿り着く。
真珠が扉を叩こうとするよりも先に、扉は開かれた。
「待っていたわぁ! さあさあ、中へ入って頂戴」
中から現れた可憐な笑顔を湛える桜姫に手を引かれ、蘇芳は部屋の中へと足を踏み入れる。
そこには桜姫だけでなく、職員や神々など大勢の人影があった。
「私は七の神子にして第三皇女の桜姫です」
ふわりふわりと揺れる長い桜色の髪と大きな苺色の瞳。この世の愛らしさを詰め込んだような可憐な姫が微笑む。
きっと大和皇国で最も愛される花の如く、美しく見惚れてしまう程なのだろう。
頭でそう分かっていても、蘇芳の目に映るのはどこも灰色の色の無い世界だ。
桜姫の笑顔だって、紅玉の笑顔と比べたら――……。
「あなたは皇族の盾となるべき『初代盾の再来』――そして、私は愛されるべき桜色の姫。お兄様はあなたが私の側近になるのは当然の理だとおっしゃっていましたわ」
「…………」
「私達皇族神子を無くして、神域は成り立ちません。現世も守れません。あなたは皇族を守ってこそ、その強大な力を遺憾なく発揮できるのです。ご理解頂き感謝します」
「…………」
ああ……息が詰まりそうだ……。
「でも、ずっと気を張り詰めるのも疲れるでしょう? ですから、私と二人きりの時はゆっくりして構いませんわ。そうだわ、早速お茶の時間にしましょう。あなたと少しでも仲良くなりたいですもの」
桜姫がそう言うと、職員達が動き出す。
このままでは参加もしたくない茶会に同席させられる――蘇芳の判断は早かった。
即座に頭を下げる。
「申し訳ありません、神子。自分は自室の整理の為、下がらせて頂きたく存じます」
「おい、貴様! 姫様のせっかくのお誘いを無下にするつもりか!?」
「…………」
側近の一人に怒鳴られようが、蘇芳は頭を下げたまま決して顔を上げようとしない。
「う~ん……それもそうだわ。お部屋の片付けは大事ですもの。わかりました、一旦下がる事を許します」
「しかし、姫様……!」
「だって、これからずぅっと七の御社で暮らしてもらうんですもの。ねっ?」
嬉しそうな桜姫の声に、蘇芳は心臓が握り潰されたように気持ち悪くなる……。
一刻も早く、ここから立ち去りたかった。
「真珠、蘇芳様をお部屋へ案内して頂戴」
「はい、姫神子様」
そして、真珠に誘導され、蘇芳は部屋を出る。
「蘇芳様、また後程」
「…………」
蘇芳は桜姫の方を見ずに頭を下げると、部屋を出て行った。
広い、広い屋敷の中をひたすら歩き、ようやっと辿り着いたのはこれまた広い部屋であった。
中には蘇芳が持参した荷物が置かれてある。
「姫神子様があなたの為にと、一番良い部屋を与えてくださったのですよ。後で感謝の意を伝えてくださいね」
「…………」
蘇芳は返事をしようとしなかったが、真珠は気にしなかった。そして、そのまま部屋を出て行ってしまう。
真珠の気配も立ち去り、ようやっと一人になれた事に蘇芳は盛大に溜め息を吐く。
(息が詰まるな…………)
荷解きもしなくてはならない。しかし、非常に億劫だった。
これから七の御社で暮らしていかねばならない事、桜姫の護衛役として働く事、紅玉と会えない事――全てが嫌で仕方が無い。
このまま寝台に横になって眠ってしまいたい程だ。
大きく溜め息を吐きながら、荷解きを始める。
伝令役の南高も連れてくる事は叶わなかった。
なんと宮区では神獣連絡網は禁止されているらしい。
せめて可愛い小鳥に癒されたかったが、それすら許されないとは……。
荷を解いて、一番上に入れたそれに目が止まる。
それは先日紅玉とでぇとした時に撮った写真だった。
紅玉がわざわざ写真立てに入れて蘇芳にくれたのだ。
写真の中の自分は幸せそうにだらしなく笑っていた。
紅玉も幸せそうに笑っている。可愛くて仕方が無い。
蘇芳は思わず写真を胸に抱き締めていた。
「……紅……っ……」
もうすでに会いたくて堪らなかった……。
<おまけ:荷解き>
(それにしても広い部屋だな。ベッドもキングサイズ、ソファもある。なんと保冷庫まで完備……しかも酒がたくさん。浴室も広いな。浴槽も大きい)
広い部屋の一方で、蘇芳の私物は非常に少なかった。
押し入れに自分の着替えや肌着などを全て入れても、余裕がありそうだ。
(……もういっそ荷解きせず、このままクローゼットに全部置いておくか)
蘇芳は乱雑に荷物を押し入れの中に押し込んだ。
しかし、紅玉との写真だけは寝台横の棚に大切に置いたのだった。