地獄の淵にて
悲鳴が聞こえる――。
叫喚が聞こえる――。
それは地獄に堕ちた数多の罪人達の声だ。
ぽっかりと空いた穴からそれが響き渡ってくる。
そして、その穴のすぐ前に鷹臣はいた。
粗末な椅子に座らされ、鎖で縛り付けられて。傍には恐ろしい容姿の鬼神が立っている。
「やあ、先輩。元気~?」
ヒラヒラと手を振りながら現れた幽吾を、青白い顔で鷹臣は薄く笑って見せる。
「これのどこが元気に見えるんだよ……気が狂いそうだよ」
「わ~い、良かった良かった。気に入ってもらえて~」
思わず苛々してしまうが、幽吾に吠えたところで何も変わらないし、二十四時間響き続ける罪人達の声に本当に気が狂いそうで鷹臣にそんな気力など残っていなかった。
「今日は何の用だよ?」
「先輩に聞きたい事があるんだ~」
幽吾はいつもの笑みを消し、真剣な表情になると言った。
「先輩、矢吹を覚えていますよね?」
「……矢吹?」
「元神子管理部坤区担当だった男。そして、神術研究所の所長を務め、禁術を作り上げた重罪人ですよ」
それは空と鞠をはじめとした未成年組に依頼していた調査で判明した驚きの事実。幽吾は左京からの報告書を読んで初めて知る事となった。
「あなたと矢吹がよく一緒にいるところ目撃している人がいる。しらばっくれても無駄ですからね」
矢吹と鷹臣が親しい間柄である可能性があると……。
「ああ……あの矢吹……ドウテイくんのことか」
鷹臣はハハッと嘲笑う。
「アイツは大学時代の同期だよ」
「へえ~。意外な接点だね~」
「おいおい、一緒にするなよ。俺は成績も顔も良い大学一モテてた男。あっちは地味で目立たないガリ勉野郎のドウテイ。比べ物になんねぇよ」
「でも、アンタは最低の下衆野郎。大学時代に泣かせた女の子の数は何人かしらね~?」
鷹臣は思わずあざみをジトリと見るが、あざみは何処吹く風だ。
「……アンタ……大学時代からそんなんだったの……!?」
「なんだよ、ユキ。自分だけと思っていたのかぁ~?」
「ふざけんじゃないわよっ!!」
「世流! 止めろ!」
鷹臣に殴りかかろうとする世流を轟が必死に止める。
一方で鷹臣は世流を嘲笑うだけだ。
「……先輩、口は慎んだ方がいいですよ」
そう言って幽吾は椅子ごと鷹臣を蹴り飛ばした。
地面へ倒れ込む鷹臣はハッと目を剥いた。目の前にパックリと口を開けた穴があったのだから。
そして、見えてしまった……。
地獄の中の様子が――罰を受けている罪人達の惨たらしい姿を――。
あまりもの恐怖に鷹臣は震えた。
「よく考えてくださいね~? ここでは君はただの罪人。君の命運を握っているのはこの僕で~す」
「……わかった……」
大人しく鷹臣が言う事を聞いてくれたので幽吾は嬉しそうににっこりと笑う。
「それじゃあ、洗い浚い吐いてもらいましょうか。矢吹に関して知っている事」
「……あ?」
「矢吹には好きな女がいたはずなんだ。僕らはそれを調べている。知っている事があったら全部話してください」
「……何で?」
瞬間、矢吹の目の前に金棒が突き立てられる。
恐る恐る見れば、轟がギロリと睨みつけて金棒を地面に突き立てていた。
「無駄口はいいからさっさと吐けよ」
「矢吹、の……好きな女……?」
そう言われて鷹臣は思い出す。
「……矢吹、結構潔癖でさ……『初めて』は好きな女にしか捧げたくないっていう頭かったい男でさ、俺みたいなヤツは気に入らなかったらしい。下品が感染るから近寄るなって怒鳴られた事がある」
「他には?」
「そんな古風な考えの女、今時いないって……俺が言って……お前の好きな女もどうせ他の男に足を開いてるって言ったら、すげぇ怒って……」
「それで、その女は誰?」
鷹臣はじっと幽吾を見た。
幽吾は地面に倒れ込む鷹臣をただ見下ろすだけだ。
しかし、鷹臣はすでに気づいていた。鷹臣が持つこの情報は、幽吾達が喉から手が出る程欲しい情報なのだと。
鷹臣はニヤリと笑う。
「取引をしよう、幽吾」
「……取引ですか?」
「その女の情報を話してやる。その代わり、俺を無罪放免にしろ」
つまり鷹臣は己が犯した罪の全てを無かった事にしろと言っているのだ。
「……『影の一族』の僕に罪を見逃せと?」
「それでお前は欲しい情報が手に入る。悪くない話だろ?」
「……流石は腐っても『知の一族』の分家の血縁者。悪知恵がよく働きますね~」
幽吾は楽しそうににっこりと笑う。
「だけど、ざんね~ん。僕はそんな要求に応じませ~ん」
「いいのか? この情報が欲しいんだろ?」
鷹臣が僅かに焦りの表情を見せる。
「要りません。罪人と取引するくらいなら今すぐ地獄へ堕してやりますよ~」
「待てよ。早まるなよ」
すると、幽吾は世流を振り返った。
「世流君、どうする? 復讐を果たしたい?」
「……え?」
「君の手で地獄に堕す?」
「っ!!」
世流は目を剥いた。
相手は憎むべき男だ。殺してやりたいと願っていた程に。
その男を自分の手で葬る事ができる。
世流の光の宿らない瞳を見て、鷹臣は怯んでしまった。
ゆらりと、世流が前へと進み出る――。
しかし。
「世流っ!!」
轟が世流の腕を掴んで止めたのだ。
「ダメだ! 絶対にダメだ! 復讐なんて絶対すんな!!」
「……とどろき、くん……」
「過去に何があっても、お前は俺のダチだ! 幽吾のダチだ! 紅のダチだ! 朔月隊の仲間だ! だから、ぜってぇ復讐なんてさせないからなっ!!」
「ふっ、ぅっ……うああああ……っ!」
轟のその優しさに世流は思わず縋って泣いてしまう。
自分に抱き付いたまま身体を震わせ泣く世流を、轟はぎこちなくも優しく頭を撫でて慰め続けた。
そんな二人を見て、幽吾は嬉しそうに笑う。
そして、真っ青な顔をしている鷹臣に向かって言った。
「命拾いをしましたね、先輩」
「……はっ……っ……!」
鷹臣は緊張で止めていた息を吐き出していた。冷や汗も掻いているようだ。
幽吾がパチンと指を鳴らすと、鬼神が一人のっそりと現れる。
「君は轟君と世流君を送って行ってあげて」
鬼神は頷くと、轟と世流を引き連れて、地獄の入口の闇へと姿を消していった。
残ったのは幽吾とあざみ、そして未だに地面の上に転がっている鷹臣だ。
「さてと……先輩、僕としても平和的な解決方法を望んでいるんですよ~。お願いですから吐いてください」
「断る。話して欲しければ俺の条件を呑め」
なかなか肝の据わった男だと幽吾は思う。
そして、随分と強情だ。
「僕はあなたを地獄に堕すことなんて造作もないですよ」
「人を呪わば穴二つっていうだろ? 俺を地獄に堕せばお前も呪われる。いいのか? 友達が泣くぞ?」
「あ、ご心配なく。そんな事とっくの昔から確定済みなんで~」
「……は?」
幽吾はにっこりと笑うと、地獄への穴を覗く。
「あそこで串刺しにされている男が見えますか? えっと、あれは……そうそう鰒天っていう元中央本部の男」
その名前に鷹臣は聞き覚えがあった。
「あっちで身体を真っ二つに引き裂かれているのは抜蒲で、あっちで火炙りにされているのは更科、あそこで鬼神に滅多打ちにされているのは猿滑で、あっちで獣達に身体を喰われているのは伊瀬家で、ああ溶岩で釜茹でにされているのは還釜。全員、元娯楽管理部の職員ですよ~。覚えているでしょう?」
覚えている。鷹臣は全員覚えていた。
何故ならばこの者達は全員、丑村とともにあの誘拐事件に関与し、ユキを……世流を暴行し、その身柄を拘束された男達なのだから。
あざみも穴を覗くと、顔を顰める。
「『影の一族』が身柄を永久管理とは書いてあったけど……まさか地獄に堕していたとはね」
「それくらいの罰を受けて相応なんだよ。あいつらは」
「ちなみに丑村は何処?」
「ああ。あれはもう死んでいるから、こんな浅いところじゃなくて、地獄のもっと深いところだよ」
「え? ここは地獄じゃないの?」
「ここは言わば生前の地獄みたいなものさ。ただ牢獄にぶち込んで反省しなさいだけで、本当に心から反省すると思う? それにここで罰を受けておけば、死後の地獄はすこ~し楽に思えるだろうから所謂予行練習だよ~。わ~~、僕って優しい~~」
「どこがよ」
これが予行練習……。
鷹臣は穴の下で繰り広げられる残虐な刑を受け続ける男達を青褪めた顔で見つめる事しかできない。
すると、幽吾が至極楽しそうな顔で見下ろしながら、自分の身体に足を乗せていた。
「それじゃあ先輩、思う存分反省してきてください」
「待て! 幽吾!」
「僕はもう何人もの生者を地獄に堕しているから、今更先輩の一人や二人痛くも痒くもありませんし、呪われようが何されようが関係ありません」
ジリジリと足で蹴られ、鷹臣の身体が穴へと近づいていく。
「情報だ! お前の欲しがっている情報を俺は持っている! 矢吹と親しかった人間なんてこの神域にはいなかったんだろ!? どうせ!」
「ええ、ええ。先輩のおっしゃる通り。矢吹には親しい人間はいくら探してもいなかった。優秀な職員ではあったけれど、嫌みったらしく小言が多くて同僚達からは嫌われ者だった。いくら探しても矢吹と仲の良かった人物なんて、あなた以外浮上しなかった」
「俺には利用価値がある! お前の知りたい情報、何でも提供してやる! だが、俺を地獄に堕せばその情報は絶対話さねぇっ! いいのか!?」
「ほ~んと言い分だけは立派ですね~」
その時だった。
鷹臣の傍に膝を着いたあざみが鷹臣の耳元でボソボソと何かを喋る……。
瞬間、鷹臣は目を剥いた。
「な、んで……それを……?」
鷹臣の反応に、あざみは満足そうにニヤリと笑った。
「やっぱりね」
そして、あざみは立ち上がると、鷹臣の身体を思い切り蹴飛ばした。
鷹臣の身体は宙へ浮き、吸い込まれるように地獄へ続く穴へ――……。
「うわああああああああああああああああ――――っっっっ!!!!」
やがて穴の底で大きな音が響く。
「運が良かったわね。今までその情報を口にしなかったから、アンタは今まで命拾いしていたのよ」
あざみは穴の底を見下ろしながら呟いた。
見つめる先で、鷹臣が大勢の鬼神に囲まれて埋もれていく恐ろしい光景が見える。
そして、同時に鷹臣の断末魔の様な絶叫が響き渡った。
あざみは視線を逸らすように幽吾を振り返る。
「これでいい? アタシへの罰」
「……人を呪わば穴二つ。生者を地獄に堕せば、君の魂にも傷が付く。要は、君も死後は地獄での刑を受ける事になる」
「それくらい受けて然るべきでしょ。でも、アタシはやった事に後悔なんてしていない。それでもあの子を手に入れたかったから」
罪を犯したというのに、将来地獄で罰を受けるというのに……あまりにも真っ直ぐ過ぎるあざみの躑躅色の瞳に、幽吾は思わず笑ってしまう。
「本当……君は……紅ちゃんが大好きなんだね~」
「気持ち悪い言い方しないでよ」
ヒラヒラと手を振りながら穴を離れると、あざみは幽吾を真剣な表情で見つめる。
「気をつけなさい。アンタ達が追っている存在はアンタ達が思う以上に残忍で狡猾で極悪よ」
あざみの危機迫る表情と言葉に幽吾は思わず息を呑む。
「いくら秘密部隊の極秘会議だろうが関係ない。この神域でその名を口にしたら全てが筒抜けよ。鷹臣はホント運が良かったとしか言えないわ。地獄にいた方がいっそ安全ね。間違いなく殺害対象よ。アンタ達も情報交換には十分気をつけなさい」
「あざみ……君は一体何を知ってしまったの?」
「……………………」
あざみは眉を顰めて目を伏せる。
「……ごめん……詳しくは、言えない……言ったら最後……アタシもアンタも消されるから」
「っ!!」
「むしろすでに目を付けられていると思ってもいい。秘密部隊の存在も、そのメンバーも、全員狙われていると思って十分警戒して。相手はそれくらい平気でやる」
姿見えない残忍で狡猾で極悪な謎の存在――それはまるで現在自分達が血眼になって追っている存在と同じだ。
「僕は……っ! 僕は必ずそいつを見つけ出して、必ず地獄に堕し、刑を執行する! どんな事でもいい! 僕に、僕に渡せる情報は無いの!?」
幽吾は思わず叫んでいた。
どんな些細な情報も喉から手が出る程に欲しい。それをあざみが持っているというなら尚更。
答えが示せないのなら、せめて情報が欲しくて欲しくて堪らない。
「お願い……っ! 僕はもう過ちを犯して大切なものを失いたくないんだ!!」
いつもは飄々としている幽吾の必死な姿に、あざみは思わず目を剥いてしまう。
あざみの中で幽吾と言えば――興味を示すものが少ない。野心を持たず、向上心もない。事無かれ主義で人の言いなり――そんな人だった。
だが……。
あざみは思わず楽しそうに笑った。
「あらあら、アンタ予想以上に道化だったのね。そんな必死になっちゃって可愛い~」
「……からかわないでもらえるかな?」
「これはこれは、失礼しました」
あざみは真剣な表情になると言った。
「過去の事件の報告書、隅から隅まで見てみなさい。共通点が必ずどこかにあるはずよ」
「共通点……?」
「アタシが言えるのは、ここまでね」
あざみは手を差し出す。
「協力するわ」
「っ!」
「アタシは現世で別方向から調査をするわ」
「…………そんな事して大丈夫なの?」
「現世ならアイツの力も届かないから。アイツが脅威なのは、あくまで神域の中でだけ」
「……………………」
幽吾は差し伸べられたあざみの手をしっかりと握った。
「裏切ったら、地獄に堕すからね」
「ちょっとは信用しなさいよ~」
「平気で人をだまくらかすお嬢ちゃまは信用できませ~ん」
「言ったわね!? 見てなさい! アンタの目が見開く程の驚きの情報手に入れてやるんだから!」
<おまけ:未成年組からの報告書>
『幽吾様へ
二十二の御社神子管理部の慧斗様より、矢吹と親しかった人間として、中央本部の鷹臣の名前が挙げられました。
三年前の「秋の宴」の準備組の時に二人が一緒にいるところを慧斗様が目撃したそうです。
調査の必要があると思います。よろしくお願いします。
未成年組代表 左京』