罪科のバケモノ
桜色の柔らかそうな長い髪に、桜色のまつ毛で縁取られた愛らしく大きな苺色の瞳。瑞々しい肌に、ほんのり赤く染まった頬、桜の花弁のような艶やかな唇。
この世の美しさと愛らしさを詰め込んだような非常に可憐な姫神子の桜姫。
あざみの目の前に立つのは紛れもなくその御方のはずだ……しかし。
(……な、に……これ……)
今、あざみの目に見えるのは真っ黒いドロドロした何か。そして、その真っ黒い何かが桜姫らしき誰かに纏わりついているのだ。その姿が見えない程に。
(……これ……もしかして、罪科……?)
ドロドロした何かはボコボコと悪臭を放ちながら辺り一帯に腕を伸ばそうと蠢いている。あまりに酷い臭いにあざみは吐き気を催してしまう。
(耐えろ……! 耐えなさい……! こんなところで醜態を晒すわけにはいかない!)
今すぐにでも嘔吐したい気持ちを必死に抑えて、あざみは笑顔を張り付け、跪く。
「お久しぶりでございます、桜姫様。なんと素晴らしいお美しさなのでしょう! わたくし、感激いたしました!」
「うふふっ、ありがとうございます」
桜姫が小首を傾げたのか、真っ黒いドロドロしたものも傾き、べちゃりと音をたてて床へと落ちる。ドロリと床に広がり、ジュワジュワと悪臭を撒き散らすその様子に、あざみは肌が粟立つ思いだ。
「桜、遅刻だ。約束の時刻をとっくに過ぎているぞ」
「申し訳ありません、皇太子殿下。私が姫神子様の準備に手間取ってしまいご迷惑を」
一の神子と桜姫の側近らしき人物が会話をしているが、あざみはそれどころではない。
(耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ!!)
ドロドロになる程の真っ黒な罪科、漂う悪臭――それを堪えるのに必死で喋るどころか、呼吸するのもままならない。
(一刻も早くここから立ち去らないとっ!!)
あざみは立ち上がると、一の神子を振り返った。
「月城殿下! 本日は面談の為にお時間を調整して頂き誠にありがとうございました。面談はこれにて結構です。ご協力誠にありがとうございました!」
「えっ? しかし、まだ直接話していないだろう」
「いえいえ! 咲武良殿下のおっしゃるようにこの宮区の職員に反逆を考える者など決していないでしょう! 疑った事、心よりお詫び申し上げます!」
あざみの言葉に五の神子が「フン」と笑う。
「そうであろう。わかればよいのだ、知の一族の娘よ」
「御寛大なお心に感謝致します」
あざみは最後に深々と頭を下げる。
「それでは、わたくしはこれで」
しかし、踵を返した瞬間、あざみは一瞬怯む。
目の前にはドロドロで真っ黒な罪科の塊が待ち受けているのだから。
「……っ……!」
しかし、進むしかない。あざみは意を決し呼吸を止め、ドロドロの中に突っ込んでいく。
瞬間、頭の中に罪科が流れ込んでくる。
めまいを覚える程の膨大な罪科の量に吐き気が更に増す。
ここで吐くわけにはいかない。
必死に堪えながら、ふらつく足を叱りつけながら、出口を目指す。
ようやっとドロドロを抜けると、そこには念願の出口があった。
(これで……やっと……)
扉に手をかけようとしたその時――。
「ねえ、待って」
よりにもよって、可憐な声の、黒いドロドロしたものを纏ったその人に呼び止められてしまった。
「あなた、神子管理部の全職員と会っているのでしょう? 〈能無し〉のお姉様にもお会いになった? あなたの目から見て、お姉様はどんな方かしら?」
可愛い可憐な声が響くのに、目の前にいるのは黒いドロドロとした醜く腐った何か――。
最早笑顔と自我を保つのが精一杯で、あざみは余裕を無くしていた。考える力を失っていた。だから、口から出たのは咄嗟的な言葉だった。
「非常に有能な職員だと思います。特に問題は見られませんでした」
「……そう……」
「仮に問題があったとしても問題ありませんよ。真面目一辺倒の盾の一族の神域最強が見初めているくらいなのですから」
「……え?」
瞬間、黒いドロドロの動きが急激に変わった。一気に膨らみ、何故かあざみに手を伸ばすように黒いドロドロが蠢き伸びていく。
叫び出したくて堪らない程、恐怖で気が狂いそうで、あざみはもう我慢の限界だった。
「……ねえ、それって一体どういう意味?」
黒いドロドロが目の前まで迫る。しかし、身体が動かない、動けない――。
(やばい……飲み込まれる……)
絶望したその時だった。
あざみは立っていられなくなった。
「……はっ?」
否、床が無くなっていた――気付いた時には重力に引っ張られて――。
「いぎゃああああああああっ!!??」
あざみが黒い空間へと落ちた瞬間、バタンと扉が閉まった。
「わ~い、落とし穴成功~~」
あまりにも場違いな間延びした声が響き渡る。
全員驚いた顔で幽吾を見つめるしかない。
「ああホントすみません。あのお嬢ちゃまの気まぐれで皆様を振り回す事になってしまって。僕からみっちりと説教しておきますんで。地獄でぇ~~」
非常に楽しそうな顔で笑う幽吾に誰も口を挟む事ができない。
「それじゃあ、僕もこれで」
幽吾がパチンと指を鳴らせば、幽吾の背後に地獄への扉が現われる。そうして幽吾が扉に手をかけようとした時――。
「待って!」
切羽詰まったような可憐な声が呼び止めた。
「今のってどういう意味? 神域最強の彼が見初めたって……!?」
「…………」
幽吾は振り返ると、にっこりと笑ってハッキリと告げる。
「そのままの意味でございます、姫君」
「っ!!」
「あまり個人情報を話す趣味は僕にはありませんので、僕は本当にこれにて」
呆然とする桜姫から視線を外すと、幽吾は地獄の扉の中へと入っていった。
地獄の扉が大きな音を立てて閉まり霧のように消え去ると、呆然としていた桜姫が動く。
「……真珠、急ぎ調べて……お姉様と神域最強の関係性を」
「かしこまりました、姫神子様」
小さな声で言われた命令に真珠は小さく頭を下げながら桜姫をそっと見遣り――そして、目を剥く。
桜姫の美しい桜色の髪がほんの一瞬、赤を帯びたように見えたから……。
*****
地獄の入口に入ってしばらく歩くと、すぐその人物はいた。床にうつぶせになって倒れているあざみが。
「ああそうか。本来、正面であるべきところを床にして入ったから、床が壁で、壁が床になったから、そうなったわけだね~」
要は重力の問題である。
「お~い、お嬢ちゃま~。生きてる~?」
その声にあざみはむくりと起き上がった。
「……ありがとう。助かったわ」
「どうしたのさ? あんなに取り乱したお嬢ちゃまは初めて見たよ」
「ちょっと……ね……」
首を傾げる幽吾を余所に、あざみは先程罪科に触れた時に見た光景を思い出していた。
それは数えきれない程の人の死に纏わる罪科の記録。
驚いたのは、知らない顔の人間が圧倒的に多い中、その中で見た事のある顔がいた事。
そして、伝え聞いていた内容とも記録に記されていた内容とも異なる恐るべき真実を知ってしまった。
しかし、こんなこと言えるはずがない。
もし一言でも幽吾にその事を話してみれば、間違いなく――。
(殺される……! 必ず……! アタシも、幽吾も……!)
それが彼女の恐ろしいところなのだから……。
そのせいで一体何人の人間が犠牲になったというのだろう……。
そして、彼女は誰にも本性を知られる事が無いまま、崇拝され続けてきている――その現実があまりにも恐ろしくて仕方がない。
(だけど……っ!)
あざみは頭を振り絞る。知の一族の知恵を必死に捻り出して、この事態を打開する事の出来る僅かな道筋を導き出していく。
(考えろ! 考えなさい! アタシは知の一族の次期当主! 四大華族の名を担う者なのよ?! このままじゃ国が滅ぶかもしれない! それに……っ!)
あざみの脳裏に過ぎるのは、己が唯一認める好敵手であり……友人である彼女の姿。
(あの子の幸せを奪われて堪るもんですかっ!!)
その瞬間、赤黒い殺気を纏わせた金色の仁王のような男の姿が浮かんだ。
「……………………」
「お嬢ちゃま? ホント大丈夫~? お~い」
幽吾の呼びかけにもしばらく反応を示さなかったあざみだったが、突如徐に立ち上がる。
「…………影、取引しない?」
「……はい?」
「認めるわ……アタシが企んでいた事……全部」
「……は?」
「認めるって言うのよ。アタシの罪を」
唐突なあざみの申し出に幽吾は驚いて訝しげに見てしまう。
「……今度は何を企んでいるの?」
「酷い言い種ね。アタシはただ仲直りしたいだけよ」
「一体何を……?」
戸惑う幽吾にあざみはにっこりと笑う。
「仲介役になって欲しいの。盾の一族の蘇芳との」
あざみの考えが全く分からず、幽吾は戸惑うばかりだった。
<おまけ:皇族神子情報補足>
幽「四大華族が一つ、『影の一族』の幽吾だよ~」
あ「同じく四大華族が一つ、『知の一族』のあざみよ」
幽「今日は皇族神子様達の関係性を補足するよ~」
あ「皇帝陛下の実子は一の神子様である月城皇太子殿下、三の神子様である暁殿下、四の神子様である武千代殿下、六の神子様である菜種姫の四人」
幽「二の神子様である露姫様は皇帝姉殿下の実子で、五の神子様である咲武良殿下と七の神子様である桜姫は皇帝弟殿下の実子さ」
あ「最年長が露姫様よね?」
幽「そうそう。この間三十五歳になられたばかり」
あ「皇太子殿下はおいくつだっけ?」
幽「今年誕生日を迎えたら三十三歳さ」
あ「御結婚でされていたっけ?」
幽「皇族神子様達は全員未婚だよ。皇太子殿下ですら婚約者決まっていないから。目下は皇太子殿下の婚約者探しで忙しいだろうね~」
あ「…………つまり、は…………」
幽「憐れ露姫様ってことかな……」
あ「いやもう……早くしなさいよ。皇太子」