貴様になど決して渡さない
すやすやと眠る紅玉を蕩けるような優しい表情で蘇芳は見守っていた。
その間ずっと紅玉の頭を撫でたり、頬を撫でたり、そっと額や瞼に唇で触れてみたり……想いがようやっと通じ合った恋人を蘇芳はひたすら甘く慈しむ。
ふと時刻を確認すれば、夜更けという時刻ではないが大分遅い時間であった。
(一度御社に連絡を入れないと心配されてしまうな)
そう思った時だった――部屋の入口に気配を感じたのは。
気配は中へ入って来ようとしないが、何かを待っているようだった。
そして、二つある気配の内、一つは禍々しい気配を放つ存在――心当たりのある気配である。
「…………」
蘇芳は紅玉の周囲に結界を張ると、紅玉を起こさないように慎重に寝台から降りる。
そうして入口へと向かい、扉を開けるとそこにいたのは……。
「世流殿……?」
世流と地獄の鬼神だった。
「あの、紅ちゃんは……?」
「ぐっすり寝ている。大丈夫だ」
「そう……良かった……」
しかし、世流の顔色が随分と悪い事に気付く。
「世流殿……貴方こそ大丈夫か? もしやあの男が何か……」
「ち、違うの……」
世流は視線を彷徨わせて何か言い辛そうにしていたが、意を決する。
「あの、ね……あの男に紅ちゃんを襲うよう、指示した人がいて……その人が、ね……あざみさんなのよ」
「……………は?」
蘇芳は信じられない思いでその名を聞いた。
*****
世流と鬼神に連れられてやってきた地獄の入口で、その声が響き渡っていた。
「だーかーらー! アタシがそいつに命じたっていう証拠見せなさいよ!」
「……鷹臣がそうだと証言している。間違いはないと断言している」
「まさかと思うけど、鷹臣の証言だけでアタシが犯行を命じたとか決めつけていないでしょうね?」
高圧的な表情を崩さないあざみを見て、幽吾はずっと引っ掛かっていたある事を言った。
「……あの時……艮区の参道町で偶然世流君を見かけた時、僕は世流君の事を『友達』としか言わなかった……にもかかわらず、君は世流君の事をこう言ったよね」
「綺麗な男の人ね」
「世流君は一見すると女性と間違えられやすい見た目の持ち主だ。あの日着ていたのも女性物の着物。でも、君は一目で世流君を男だと見抜いた。一度も会った事がないにもかかわらず」
その言葉に、あざみはジトリと幽吾を見る。
「まるで世流君を知っているかのような口振りだった。じゃあ、君は一体どこで世流君が男だと知ったのか……答えは、この石の中身を見たからでしょ?」
そう言って幽吾が見せつけたのは一斤染の石――世流の抜き取られた記憶の欠片だ。
「鷹臣から証言は取れているから。君がこの石を見つけ出した事。石が何であるか知っている事。中を覗いて見ていた事。悪事を隠す見返りとして、紅ちゃんを襲うよう指示した事も」
「…………影にしては、なかなか面白い推理じゃない?」
ニヤリと笑うあざみを見た瞬間、蘇芳は一気に殺気を撒き散らす――!
世流は即座に蘇芳の腕を掴んで止めた。
「蘇芳さんっ!!」
「離せっ!! 世流殿!!」
「落ち着いて! アナタがあの子に何かすれば、一番悲しむのは紅ちゃんなのよ!?」
「……っ……」
あざみと再会して嬉しそうに笑う紅玉を思い出してしまい、殺気を治めるしかなかった。
すると蘇芳の僅かな殺気に気付き、あざみが蘇芳達の方を向いてニッと笑う。
「あらっ! 誰かと思えば盾の一族の化け物じゃない」
「てんめっ!」
「轟君、どうどう」
轟の怒鳴る声も何のその。あざみは涼しい顔で笑うだけだ。
そんなあざみに苛立ちを覚えながら、蘇芳は必死に冷静さを保ちながらあざみの前に立った。
「……貴方があの男に紅を襲うように仕向けたのか?」
「だから、そんな証拠がどこにあるって言うの?」
「何故そんな酷い事をした!?」
「……聞いてないし……冤罪だったら訴えるわよ」
呆れたように肩を竦めるあざみに怒りが湧く。
「貴方は! 紅の友人であろう!? 何故そんな友人を陥れるような事をする!? 紅は……っ、貴方と再会できた事を喜んでいたというのにっ!」
「……そうかしら? アタシはそう思わないけど?」
「……何?」
あざみは腰に手を当てて蘇芳を睨みつけるとハッキリと言った。
「アタシと紅は至ってドライでライバルな同期生関係って思っているわ。アンタが思うようなキャッキャウフフみたいな可愛い友達関係じゃないわ」
すると、あざみは困ったように笑った。
「だけどね、アタシは誰よりあの子の能力を認めている。立ち居振舞いは惚れ惚れするほど上品。言葉遣いも十代で完璧。頭脳明晰で咄嗟の事にも柔軟に対応でき、挙げ句語学も堪能。そんな宝のような人がこんな狭い世界で馬車馬のようにコキ使われているのがアタシは許せない! 非常に勿体無いわ! あの子は世界で羽ばたける力を持っている! にもかかわらず、あの子はこの狭い世界に囚われている。幼馴染の為。妹の為。後輩の為。先輩の為! あの子は自分の為に生きようとしない!!」
まさにその通りだと、蘇芳は思ってしまう。そして、幽吾達も。
「あの子は約束された将来より、地を這い蹲って血を流しながら生きる茨の道を選ぶわ! アタシが! あの子を誰よりも認めているアタシが! 何度も説得をしても!!」
あざみの言う通り、紅玉にとって神域は大変生き辛い地である。
どんなに多大な努力をしても、どんなに素晴らしい功績を残しても、神力を持たない〈能無し〉の紅玉は未来永劫神域管理庁に認められる事はない、評価される事もない。
どんなに周りが紅玉はいかに素晴らしい人か叫んでも、聞いてくれる人間はほんの僅かだ。
一方、現世であればどうだろうか。
神力など関係無しに個人の能力が左右される世界。
頭脳明晰で大変有能で立ち居振る舞いも完璧な紅玉は間違いなく認められる存在であろう。
そして、知の一族の彼女ならば、紅玉という人の素晴らしい魅力を引き出し引き立てる事ができるに違いない。
(……彼女の言っている事が分からないでもない……だが)
思い出すのは、紅玉の誇らしげな笑顔――。
蘇芳はあざみを真っ直ぐ見据えた。
「紅の未来を選ぶのは、貴方でも俺でもない。紅自身だ。紅は自らの意思で選んで神域にいるんだ」
紅玉が〈能無し〉として神域にやって来た時から、ずっと傍で見守り続けてきたからこそ分かる。
「紅は己の仕事を誇りに思っている。紅自身が神域にいる事を望んでいる。ならば俺は彼女に悪意の刃が向けられないよう盾となって守るのみ」
揺るぎのない金色の瞳を見て、あざみは溜め息を吐く。
「あーあ……アンタさえいなければ、きっと紅を上手く引き抜けただろうに……そういう人の縁にはホント恵まれているんだから……」
「…………だから、鷹臣に紅ちゃんを襲わせたの? 紅ちゃんの恋心を破壊して、蘇芳さんとの縁を絶ち切らせて、現世に連れ戻す為に」
「っ!?」
幽吾の言葉に蘇芳は愕然としてしまう。
あざみは紅玉の事をよく理解している人間だ。
そして、紅玉という人を理解しているが故に、紅玉の性格もよく理解している。
紅玉が真面目である事も。真面目であるが故に貞操観念に潔癖である事も。
あざみは、紅玉のそんな純粋な恋心を利用しようとしたのだ――卑劣な方法で。
「だから、証拠を持ってきなさいよ。犯罪者の証言を鵜呑みにするつもり?」
「己の利益の為ならば手段を選ばない……『知の一族』の君ならば、それくらいするでしょ」
心臓が、全身の血が沸騰するように熱い。
暴れ出しそうな怒りを抑えるので必死だ。
赦せない――赦す事ができない――!
未だに悪びれた様子もないふてぶてしいあの笑みをぐちゃぐちゃに潰したくなる。
もう二度と悍しい事を考えられないように脳味噌を引き摺り出したくなる。
目の前が赤く染まる――!
一瞬脳裏を過ぎったのは、涙を零す紅玉の顔だった……。
「……知の一族の御息女……」
蘇芳の低く恐ろしい声に、あざみだけでなく、幽吾や轟や世流まで肩を揺らしてしまう。
「一度しか言わないからよく聞け」
「…………なによ」
不機嫌そうにそう言ったあざみを、蘇芳が金色の瞳で射抜くように睨みつけた。
あざみは息が一瞬出来なくなる――そして次の瞬間――強い風が駆け抜け、いつの間にか目の前に大きな拳があった。
震える程握られた大きな拳から僅かに赤黒い殺気が纏われており、あざみは死を覚悟する程の恐怖で冷や汗を掻いてしまう。
蘇芳は仁王のような憤怒の形相であざみを睨むとハッキリと言った。
「紅は俺のものだ! 貴様になど決して渡さない!!」
そして、突き出された右拳の小指の付け根には赤くなった契約の紋章が色濃く刻まれていた。
「赤の契約の紋章……!」
その事実にあざみは目を見開いてしまう。
轟もまた驚く一方で、幽吾はニヤリと笑っていた。
「赤の契約の紋章は、契約者同士の想いが通じ合った状態……要は恋仲の証ってことだね」
幽吾の説明に狼狽えるのは世流だけだ。
「えっ!? ちょっと! どういうこと!?」と幽吾に詰め寄っている。
あざみは溜め息を吐く。
「……ああ、そう……そういうこと……」
そして、あざみは安心したような笑みを浮かべた。
その笑みがあまりに優しいもので違和感を覚えるが、蘇芳は無視して踵を返す。
「失礼する……貴様の顔を見ていると、八つ裂きにしたくなる」
「あ~~コワイコワイ。これだから化け物は」
そんなあざみの言葉も気に留めず、蘇芳はその場を去っていく。
そんな蘇芳の背中を見送りながら、やれやれと言った感じで笑う。
「……ま、ベターな結果かしらね」
そう呟いたあざみの嬉しそうな声に気付く者は誰もいなかった。
*****
鬼神に送られて、蘇芳は紅玉が眠る部屋へと帰ってきた。
結界に異変は無く、紅玉はぐっすり眠ったままだ。
その事にほっと安心をしながら、蘇芳は再び寝台の中へと潜り込む。
(あざみの件は……正直言って衝撃的だった……)
そんな残酷な真実を紅玉に伝えたくはない。
あざみには二度と紅玉の前に現れないで欲しい。
だがしかし、紅玉にとってあざみは大事な友人の一人なのだ。
あざみに会わないで欲しいと言えば、悲しむのは紅玉である。
(紅を悲しませたくはない……)
だから、方法はただ一つ。
紅玉に残酷な真実を伝えず、紅玉には今まで通りあざみと仲良くしてもらう。
全て蘇芳が我慢すれば丸く収まる話なのだ。
(俺が……貴女を守る……全てから)
紅玉を抱き寄せ、頭を撫でて、額に口付ける。
すると、紅玉がゆっくりと目を開けた。
「……す、お……さ、ま?」
「っ、紅……」
眠たそうなとろんとした瞳で蘇芳を見て、ゆるりゆるりと蘇芳の頬を撫でた。
「……すおう、さま……」
「ん?」
「……なにかございました?」
「え?」
「お顔が、こわばっていらっしゃるから……」
「ああ……そう、だな……嫌な夢を見た……」
ある種、嘘ではないと言い聞かせる。
まるで悪夢のような真実だったから。
そして、紅玉が恐ろしい目に遭った一因に自分も僅かながら関係してしまったのだから。
胸の奥底を罪悪感が突き刺す。
「…………」
紅玉は蘇芳をじっと見つめると、ゆるりと身体を動かす。そして、そっと蘇芳の頬に唇を寄せた。
瞬間、蘇芳の瞳が見開かれる。
「……どうか、わたくしに甘えてくださいまし」
「……っ!」
「……ひとりで、くるしまないで……」
胸が締め付けられる。
だが、これは苦しみなどではない。幸福だ。
蘇芳は堪らず紅玉を抱き締めていた。
その温もりと柔らかさを全身で感じるように。
頬を髪に擦り寄せて、甘えるように。
<おまけ:世流だけが契約の紋章について知りませんので混乱して当たり前だよねって話>
世「ちょっと! 幽吾君! 今のってどういう事!?」
幽「つまり、紅ちゃんと蘇芳さんがやっと両想いになれたってことだよ」
世「マジ!? それマジ!? ホント!? 嘘じゃないわよね!? 嘘じゃねえだろうな!? ああっ!?」
幽「世流君、ちょっと落ち着いて、揺さぶられて気持ち悪い……!」
あ「……あの人が改めて男だって分かった瞬間」
轟「男じゃねぇよ、おっさんだよ」
世「ああっ!? んだとぉっ!?」