紅玉の怖くて堪らないもの
紅玉はすでに入浴も着替えも済ませていた。見知らぬ白地に花柄の浴衣を身に纏い、髪は下ろしてあった。漆黒の艶々とした髪が顔を隠して、今いる位置からでは表情が見えないが、顔色が悪そうに見えた。
「……近くに行っていいか?」
蘇芳の問いかけに小さく頷く紅玉。
そうして、蘇芳は紅玉の前へと跪き、改めて紅玉の顔を見た。
顔色はやはり悪く、瞳に涙の膜が張っていて今にも零れ落ちてしまいそうだ。若干身体も震えている。
(……俺が怖くて怯えているのだな……)
正直、自分が今どんな顔をしているか想像がつく。
蘇芳は今、とても怒っているのだから。
「世流殿から事情を聞いた」
声も酷く低く恐ろしいものだった。紅玉が肩を揺らしてしまう程に。
「誰かの為に行動する事は貴女の美点であるが、欠点でもある」
頭に蘇るのは、酷く乱された紅玉の姿――。
「頼むから、あんな無謀は二度とするな!!」
「……っ、もっ、申し訳ありませんでしたっ!」
堰を切ったようにボロボロと涙を零しながら頭を下げる紅玉を見て、蘇芳はハッと我に返る。
「す、すまん……少し強く言い過ぎた」
紅玉の頭に手を伸ばそうとするが、紅玉が頭を横に振った為それは叶わなかった。
蘇芳は思わず手を引っ込めてしまう。
「…………紅殿、俺が恐ろしいか?」
そんな声に紅玉はハッと蘇芳を見た。
「……自分でもわかるんだ……俺は、物凄く怒っている……自分にも、あの男にも……貴女にも……今も必死に怒りを抑えているくらいだ」
蘇芳は拳を握り締める。
「今必死に抑えている理性を手離してしまえば、俺は……貴女を傷付けてしまう」
紅玉の顔は酷く青い。瞳からは涙がボロボロと零れ落ち、身体も震えている。
(恐れているんだ……俺を……)
蘇芳は絶望に似た気持ちを抱きながら言う。
「わかっただろう? これが俺だ……俺は、怒り狂って暴れ回る事しかできない暴力の化身……化け物なんだ」
紅玉の息を呑む音が聞こえた。
(ああ……頭で分かっていても……貴女に拒絶されるのは……辛いな……)
そうして蘇芳はゆっくりと立ち上がる。
「貴女を酷く傷付ける前に、俺は貴女の前から姿を消そう……すまなかった」
蘇芳は深々と頭を下げると、紅玉の前を去っていく――……。
嫌われました……。
蘇芳様に嫌われてしまいました……。
それはそうです。いくら優しい蘇芳様と言えど、きっと我慢の限界です。
何度も無茶をするなとお叱りを受けていたはずなのに……。
何かあったら名前を呼ぶと約束までしていたのに……。
こんな言う事を聞かない、約束も守らない跳ねっ返りなど、もう顔も見たくもないはずです。
自業自得です。当然の報いです。
いいえ……これで良い……。
そう、むしろ、これで良かったのです。
蘇芳様に甘えすぎてその想いを拗らせてしまう前に離れるべきなのです。
元より好きになってはいけない方なのですから……。
そうです。このまま蘇芳様を解放してあげるべきなのです。
だって蘇芳様は本当に好きなのは藤紫ちゃんなのだから。
藤紫ちゃんと想い合っているのですから。
今きちんとお別れをした方が二人の為です。
だけど……でも……ああ……。
頭では、頭では分かっているはずなのに……。
怖い……
怖い……っ!
怖くて堪らない……っ!!
何かに引っ張られ、蘇芳は思わず立ち止まる。
振り返ってみれば、大粒の涙を流して見上げてくる紅玉が蘇芳の服を引っ張っていた。
「……紅殿?」
「……いっ…………で……」
「……?」
泣き過ぎて、しゃっくりをあげながら何かを言おうとする紅玉の声に耳を傾ける。
「……いかっ、ないで……っ……」
辛うじて聞こえたその言葉に蘇芳は目を剥いた。
「ごめっ、なさ……っ、きらいに、ならないで……っ」
顔が熱くなる。愛おしさが込み上げてくる。
「すきになってしまって、ごめんなさい……っ!」
もう我慢の限界だった。
蘇芳は紅玉を強く抱き締めていた。
強い力に大きな身体に抱かれ、紅玉は驚きで目を見開いてしまう。
紅玉をぎゅうっと抱き締めながら、蘇芳は頬を赤く染めながら尋ねる。
「お、俺が恐ろしくないのか? 怖くないのか?」
「こ、怖いですっ……! 蘇芳様に嫌われてしまうのが怖いっ……! みっ、見捨てないでぇっ……!」
弱々しくそう言った紅玉の声に言葉に、蘇芳は更に顔を赤く染め嬉しさが込み上げてしまい、ますます紅玉を抱き締める腕に力が入ってしまう。
「あっ、貴女は、本当に無防備が過ぎるっ!! だからっ、今回だって危険な目にっ!」
「ごめんなさいっ、ごめんなさい……っ! 反省します……! 赦してください……っ!」
少し身体を離し、止まらない涙を必死に拭おうとする紅玉の手を蘇芳は取った。
「ああ擦るな。赤くなってしまう」
「すっ、すみませっ……!」
蘇芳は困ったように笑うと、赤くなっている紅玉の目元にそっと唇を寄せる――涙の味がした。
「ふえっ!?」
驚きに見開いた紅玉の目から、涙が止まった。
「やっと泣き止んでくれたな」
「なっ、ななっ、何故……!?」
「俺に嫌われたくないと泣いている貴女が愛おしくて、つい……我慢の限界だった」
「えっ? えっ? はいっ!?」
そして、蘇芳は混乱している紅玉の前に跪き、手を握ると、真っ直ぐ紅玉の漆黒の瞳を見つめて言った。
「紅殿、俺は貴女が好きだ」
「……へっ?」
「貴女が愛おしくて堪らない。愛しているんだ」
真っ直ぐ伝えられた愛の言葉に紅玉は嬉しくて堪らない――ではなく、大混乱してしまう。
「おっ、お待ちください! あのっ、えっとっ、蘇芳様には藤紫ちゃんという心に決めた方がっ!」
「その話が全くもって意味不明なんだが、俺は藤紫殿のことを好きになったことは一度もない。俺が好きなのは紅殿、貴女だ」
「う、嘘です!」
「嘘ではない。会った時から惹かれていた。一目惚れだ」
「はいっ!?」
未だ信じられない思いで聞いている紅玉に蘇芳は言い聞かせる。
「貴女の笑顔に惹かれた。貴女の一生懸命な勤務態度や友達思いの優しさなどを知る内に、ますます惹かれていった」
「え、えっ、ええっ?」
「姿勢も所作も美しく、言葉遣いも丁寧で綺麗だし、声も柔らかくて好きだ。ただ淑やかなだけでなく強い芯も持ち合わせ、しっかり鍛錬も怠らず努力をするところも素晴らしいと思う。妹思いでただ優しいだけでなく厳しい一面があるのも尊敬する。働き過ぎなのは玉に瑕だが、そんな所も貴女の魅力の一つだと俺は思う」
語られていく言葉一つ一つに、紅玉は最早限界寸前だ。心臓がけたたましく鳴り響いてしまっている。
「信じられないのなら何度でも言おう。俺が好きなのは紅殿、貴女だ。貴女にずっと笑っていて欲しい。貴女の力になれる事が俺の喜びだ。貴女の隣に立てる権利を誰にも譲りたくない」
「あっ、えっ、そのっ……!?」
「ふふっ、林檎のようで可愛いな」
「かわっ!?」
驚きのあまり硬直してしまっている紅玉の隣に蘇芳は腰掛けると、そっと抱き寄せた。
「……あんな目に遭わせる前に、きちんと想いを伝えるべきだった……物凄く後悔している」
沈んだ蘇芳の声に紅玉はハッとする。
「……貴女の悲鳴が聞こえてきた瞬間、心臓が鷲掴みにされたように苦しくなった。息もできなくなった。貴女が酷い目にあったと知った瞬間、目の前が真っ赤になった。我を失った。それ程にまで貴女は、俺にとって特別な存在なんだ」
「……っ……」
硬直していた紅玉は、今度は嬉しさで胸が締め付けられてしまう。
蘇芳は再び紅玉の漆黒の瞳を見つめて、手を握る。
「紅殿……こんな俺だが、貴女の隣で貴女を守りたい。貴女の傍にいたい。いて欲しい」
「……蘇芳、様……」
「愛している、紅殿」
蕩けるような金色の瞳に囚われたかのように目を逸らす事ができない。
だけど、込み上げる感情は喜び、嬉しさ、そして愛おしさ……。
「……わっ、わたくし……っ、蘇芳様の事を諦めなくていいの? これからも蘇芳様の隣にいて、いいの?」
「俺がそれを望んでいる」
ボロボロと涙が零れ落ちる。嬉しいはずなのに上手く笑えない。蘇芳の手を握り返すのが精一杯だ。
震える声で紅玉は言った。
「……す、き……好きです、蘇芳様。貴方のことがずっとっ……ずっと前から好きです……っ! 大好きです……っ! 蘇芳さまぁっ……!」
「紅殿……!」
どちらからともなく二人は互いを抱き締め合う。
想いを確かめ合うように。温もりを分け合うように。
「蘇芳様っ……蘇芳様ぁっ……好き……大好き……っ」
「紅殿……紅……愛している……紅」
やがて二人は額を合わせると、互いの瞳を見つめ合う。
蕩け切った瞳を見つめる度、胸がどんどん高鳴っていく。
「紅……」
「……っ……」
蘇芳が紅玉の頬を撫でる。指で唇をなぞると、紅玉がくすぐったそうに身を捩るので、蘇芳は逃さないといったように腰を引き寄せた。
やがて引かれ合うように、二人の距離は縮まってゆき、唇と唇が重なり合う。
「……んっ……ふ……っ」
「……はぁ……んっ……」
一度離れるも、二度、三度、四度と何度も重ね合う。
だけど、蘇芳の方が力は強くて、いつの間にか紅玉を長椅子の上に押し倒す形となってしまっていた。
初めての口付けに夢中になって、はしたない格好になってしまっている事に紅玉は恥ずかしくて震えてしまう。
そんな紅玉の様子に気付いた蘇芳は、紅玉の頭をふわりと撫でる。
「……すまん……つい、夢中になってしまった」
「いっ、いえっ……」
蘇芳の幸せそうに蕩け切った金色の瞳があまりにも目の毒で、紅玉は思わず目を逸らしてしまう。
その時初めて蘇芳は紅玉の首が赤くなっている事に気付いた。
「……紅……ここが擦れているようだか……?」
「っ!!」
紅玉はハッとして首を押さえた。そこは先程の入浴で過度に擦って洗った場所だ。気持ち悪い感触を必死に拭う為に。
紅玉の顔が青くなった事で、蘇芳は瞬時にその首に何をされたのかを悟った。
蘇芳は首を押さえている紅玉の手を取ると、赤く擦れているその場所に舌を這わせる。
「ひゃあっ!? すっ、蘇芳様っ!?」
「……すまん。少し我慢してくれ」
そう言って、紅玉の首をかぷりと歯を立てずに噛み付いた。たっぷり唾液をつけて、舌で肌を撫でてやる。
その度に紅玉はくすぐったそうに身を捩るが、蘇芳に押さえられて抵抗ができない。
「やあっ……んっ……あっ……んんっ……っ……すおっ、ひゃっ……!」
紅玉の甘い声に理性が切れそうになりながらも、「これは治療これは治療これは治療」と何度も己に言い聞かせる。
やがて唇を離すと、赤く擦れた傷が消えた。
「よし、治った。よく頑張ったな」
御褒美とばかりに紅玉の頬に口付けると、今度はその頬が真っ赤に染まった。
そして、蘇芳は紅玉を抱え上げると、大きな寝台へ紅玉を連れていき、紅玉を横たわらせる。
「しっかり寝て休め」
紅玉に布団をかけて頭を撫でていると、蘇芳の袖を紅玉が引っ張った。
「蘇芳様……」
「ん?」
「……抱き締めて、一緒に寝て頂けませんか?」
蘇芳の理性にビシリと罅が入る音がした。
「え、えっと、紅、それは……」
「…………怖いの…………」
瞳を潤ませ弱々しく言った紅玉に、蘇芳は拒む事ができなかった。
(今日は徹夜だな……)
そんな決意を胸にしながら、蘇芳は紅玉の隣と潜り込む。
紅玉がおずおずとすり寄ってきたので、蘇芳がしっかりと抱き寄せ頭を撫でてやる。
「大丈夫だ、紅。俺がずっと傍にいる。だから、安心して眠って欲しい」
ふわりふわりと頭を撫でる優しい感触に、逞しく大きな身体に、安心するぬくもりに、紅玉はとろりと眠たくなってくる。
「すおう……さま…………」
「おやすみ、紅殿」
そう言って蘇芳は紅玉の額に口付ける。
その柔らかい感触が嬉しくて、恥ずかしくて……紅玉は瞳を閉じて蘇芳の胸に頬を寄せる。
(好き……好き……大好き……蘇芳様……)
そうしていつの間にか夢の世界へ旅立ってしまった紅玉を蘇芳は優しく見つめていた。
大変長らくお待たせしました(土下座)!
ようやっと両想いになりました!
<おまけ:徹夜覚悟>
漆黒の滑らかな髪。きちんと毎日手入れをしているのだろう。サラサラである。
普段から薄く化粧はしているが、今は完全に落とされているようだ。それでも肌は綺麗だと思う。触れると柔らかい。
睫毛……流石は女性、長いな……。
瞳は今閉じてしまって見えないが、丸い黒い宝石のように澄んでいる。
左目の端の泣き黒子……うん、可愛い。
唇……凄く柔らかかっ――いやいやいやっ! ここは止めよう! 変な気を起こしそうだ!!
すやすやと眠る紅をひたすら見つめ観察する。
時々魘されそうになると、起こさないようにふわふわと頭を撫でた。すると、あっという間に穏やかな寝息になる。
少しでも役に立てているのなら良かった。
擦り寄るように俺の胸に頬を寄せる姿が可愛くて、胸が高鳴る。
変な気を起さないように心頭滅却するのは大変だ。
良い修行になると前向きに捉える事にしよう。
まだ夜は長い。随分と難儀な夜になりそうだ。
だが、紅をずっと見つめているのは、悪くないと思う。
そんな事を考えながら、紅の頬を一撫ですると、もう一度額に口付けた。