六、
大変ご無沙汰しておりました。
この話には人によっては残酷と取れる描写がございます。読まれる際はお気を付け下さい。そして長いです。
風伯がむずがり、いななきを上げかけるのを、馬岱は太い首筋をはたはたと叩き、なだめてやった。栗毛の馬はすぐにその意図を察し、何度か首を縦に振ると、大人しくなった。
思わず漏れた安堵の吐息は、ふわりと白く夜を照らし、すぐに掻き消える。馬の口に板を食ませてあるとはいえ、意図しない余計な物音を全く消すことは、難しかった。
辺りには、濃い闇が垂れ込めていた。
隣で息を潜めている、同朋や配下の鼻先すら見えない程だ。押し迫る暗黒を払い除けるように、馬岱はぶるりと一つ、胴震いをした。
ふいに風伯が、生温かい鼻息と鼻面を、鎧の背に押し当ててきた。軽くたしなめてみても、愛馬は二度三度と甘えるように同じ仕草を繰り返す。馬岱はいつの間にか強張っていた頬を弛め、そのなめらかな鼻面を撫でてやった。
風伯は、生まれた時から馬岱自身が育て、手をかけてきた馬だ。馬超の乗る名馬、帰来捷には及ばないが、一度走り始めれば、他のどの馬よりも粘り強く、駆けることが出来た。少し神経質で臆病なところもあるが、それだけ乗り手の意図をよく汲み、今では己れの手足のように動いてくれる。
先程も、かつてない大戦さに臨む主人の心の底を、敏感に察したのに違いなかった。馬岱は苦笑しながらも、どこか嬉しげに、更に風伯のつややかな毛並みを撫で続けた。
幼い頃からのくせで、馬に触れていると落ち着くのだった。
――以上が、策の全容です
――これは、なんと
――ふざけておる。こんな小童騙しで奴等を打ち払えると、本気で思っておるのか
――ご懸念は尤もかと存じます。ですが此度の戦さで肝要とするは、如何にして我が軍を損なわず、尚且つ迅速に戦さを終えるかであると、お心得ください
――今一つ、腹に入らぬ。一体、どういうことなのだ
――はい、ではもう少し詳しく、ご説明申し上げます。そもそも、寡兵で多勢に当たるは、いかなる兵法書に於いても、必ず忌避すべき下策とされております
ましてやこの劣勢下、いかな神算鬼謀を用い、敵を百人二百人多く屠ったところで、到底勝機は見出だせぬでしょう
――それは、確かに、そうだ
――正攻法による収束が望めず、そのうえで兎にも角にも一旦場を収めようとするのであれば、使者を遣わし、和議を結ぶしか手だてはございません。ですが和議に持ち込むにも、今の状況では降伏の申し出と、何ら変わりがない
――降伏だと。西戎どもに膝を屈するくらいなら、今からでも遅くない、砦を背に討ち死にしてくれるわ
――孫観殿の言、甚だ尤もである。そもそも西涼の輩は面従腹背の徒多く、此度の戦に於いても、今一つ考えが掴めん。仮に有利な情勢だったとしても、談合の余地があるかどうか、怪しいものだ
――ええ。このまま休戦を申し入れられぬ、もう一つ所以がそこ、此度の襲来に関する敵の意図が、読めぬところにあります
一体何故この戦さを仕掛けてきたのか。何をねらいに。どうして今、この時期に
――ふむう。順当に考えれば、我が殿の留守にかこつけ、手始めに金城を落とし、そこを足掛かりに長安、洛陽、そして手薄な許都をということになろうが
――何の、いかな疾風怒濤の勢いに乗ろうと、所詮は土豪土族による烏合の集。よしんば一旦勢いに押され拠点を失うとも、後方には二十万余の主軍が控えておるのだ。一万二万でもよい、援軍さえ参れば士気は取り戻せる。さればあやつらなぞ、一気呵成に蹴散らせようぞ
――されどただ今、許都の主軍は
――左様。口にするのもはばかられることながら、壊滅寸前にまで追い込まれたそうですな。若し兵の数がそろったとしても、容易くは動けぬのが現状でしょう
しかし、妙ですな。この報せを受けたのは、我等ですらほんの五日前のこと。五日前といえば、西涼軍がここに現れた時期と重なりまする
――曹軍百万、仮令風聞を加味したとしても、本来ならば対峙しようとも思えぬはず。機を狙ったように彼奴等が攻め寄せて来たのは、まさか
――皆様の危惧する通り、此度の強襲が、東呉での大敗を知っている、または予め見据えた行動であるか否かは、今のところ定かではありません。ですが万が一、憂慮が正鵠を射るものであったなら。 いかな不爛の舌を持つ者と言えど、援軍という切り札無き交渉など、進め得ようはずもない。だからこそ
――だからこそそれ故に、敢えて奇策を用い、ただ一度きり、したたかに敵の虚を突いて、彼等の戦意を挫くのです
――仮初めにでも、僅かな間のみでもいい
我が軍と西涼軍、拮抗互角の形勢を、作りあげる為に
まあ、しようのないことかと、馬岱はすぐに思い直す。
何しろ今度の相手は、中原の覇者、曹操の軍団だ。しかもその軍を構成するのは、数こそ少ないものの、精鋭と名高い青州兵だという。これまで馬岱が経験した戦さと言えば、部族同士の小競り合いや賊の追討など、規模の限られたものがほとんどだった。そんな己が、かくの如き大きな合戦を前に気を張るなと言うのも、どだい無理な話。
だがしかし、張り過ぎた弓の弦は切れ易い。緊張も程々にしないと、好い戦果も挙げられないだろう。
馬岱は、持ち前の気前の良さで気分を易々と切り替えた。そうすると、強張った笑みも、氷が溶けるように自然な、柔らかいものになる。深刻に物事を考えるのは、昔から馬岱の不得手だった。
羌と漢の両民の行く末、複雑に利害が絡み合った勢力間の諍い、そして戦さの目的や駆け引き。そのようなややこしく深淵な思慮を要するようなことは、全て一族の長である叔父、馬騰や、此度の戦の立役者、韓遂殿のお役目だ。
一介の武人たる己が為すことは、上の者の命に粛々と従い、槍持ちの本分を全うするだけだと、馬岱は常日頃から自身に言い聞かせている。
瞬く星々のみがよすがの宵闇の懐で、底冷えを堪えながら考えを練っていた馬岱は、ふと鼻に違和感を覚えた。
まずい、と直感し、咄嗟に厚ぼったい革甲で鼻腔のむず痒さを押しつぶす。情けない騒音の暴発は、すんでのところで抑えられた。
馬岱はきまり悪さを隠すように、辺りを見回し、殊更に口元を引き締めた。
今度は弓の弦を緩め過ぎたらしい。緩め過ぎず締めすぎずの中道と言うのは、なかなか難しいものだった。
――よし、ここいら一帯の柵の補修はおしまいだ。おい、今、何刻になった
――多分酉の刻(午後五時)あたりだろう。ぼちぼち暗くはなってきたが、あれを動かすにゃ、まだ早いかな
――今夜はどれ程移動させるんだったか
――日に五丈(約12m)ずつだから、確か二十だ
――そこまでになると、どこかから人を借りんといかんな。それと忘れちゃならん、櫓の上の炬火は……
――おう、そっちは七十七番隊が用意しておるはずだ。命令通り、ちゃんと薪を減らしてあるやつをな
――やれやれ。上のお人は何を考えているのやら。毎晩毎晩、あんなでかいもんを動かしては戻し、動かしては戻し
――まあ、そう言うな。俺等には悪戯けにしか見えんが、殿もあの軍師殿も、存外必死みたいだぞ。殊に軍師殿など、毎晩櫓の移動と『簾掛け』は必ず立ち会っておられるようだし
――けどな、おいらにゃとんと理解できねえよ。やたらめったら土と木ばっかりいじってて、ほんとにあの大軍に勝てるんかなあ
――ほうだほうだ。どっちにしたって死ぬんなら、逃げた方がええ。そんで、逃げるんなら早い方がええ
――諦めの悪りい奴等だな。今更逃げれるわけねえだろ。前には大軍、後ろは大河。逃げたら即殺されらあ。敵か味方か、どっちかわかんねえけどな。ここで勝つか死ぬかしか、ねえんだよ
――お前等、こないだ幽州から配属されたばかりの奴等だろ。臧将軍の強運を知らないな
――うちの殿はしぶといぞう。相手がどんなに強かろうがずるかろうが、ふっかけられた戦さに負けることは、まずないからな
――へえ、そうなんですかい
――この兵力差では、どのみち早晩じり貧だ。だったら殿と、あの青っ白い軍師殿に賭けてみるのも悪かねえんじゃないか
――それにしても、人手が足りんのは分かるが、歩くのがやっとの奴にもこんな重労働をさせるとは、人使いが荒いことだ
――ははは、違いない。いっそ歩けも出来ん、重傷病兵の連中に交じって、縄でも綯うか
――滅相もねえです。俺ぁ、動いてるのが好きなもんで
――うん、向こうが騒がしいな。騎馬隊の連中、どうしたんだ
――哨戒の交代じゃないのか
――いや、どうやらあちらさんの斥候みたいだな。……お、うまい具合に追っ払えたらしい
――危ねえ危ねえ。あれを見られる訳にゃいかんからな。おおい、ご苦労さん
馬超殿なら、と能う限り密やかに鼻を啜りながら、馬岱は思わずにはいられない。
あの方なら、斯様な緊迫の局面でも峻厳たる巌のようにそびえ立ち、心も身体も微動だにせず、その時を待つのだろう。馬岱は暗闇で見えぬをいいことに、一人思い出し笑いをしつつ、少しばかり年長の従兄弟に思いを馳せた。
馬超は、一族、そして馬岱の誇りだった。幼い頃より、弓馬の術、そして槍戟などの得物の扱いは抜きん出、またその胆力においても周囲から一目も二目も置かれていた、生まれながらの傑物だった。初陣で敵対する二人の武将を、一人は数合もせずに打ち取り、一人は生け捕りにした功績は、今や語り草となっている。
峻烈な戦ぶりで馳せた錦馬の名に、ただ恐れおののかれる馬超だが、味方、それも殊に身内に対しては存外気さくで、情け深い一面があることを、馬岱は知っている。
二人は赤子の時から、兄弟犬がじゃれるようにして育った、言うなれば乳兄弟のようなものだった。学ぶのも、悪戯も、何かにつけて競い合うのも、常に一緒だった。馬岱自身は一族の傍系にすぎないが、親密さでいえば馬超の弟妹より上かもしれない。
大人に言い含められ、長じて自らの立場をわきまえるようになってもなお、馬岱の馬超に対する敬慕の度は、低くなるどころかますます高まる一方であった。長安での初陣を飾ってよりずっと、馬超の側仕えでいたことは、馬岱にとって何物にも代えがたい栄誉だった。
今また、こうして中原の大軍と渡り合う大舞台に立ち、若き主君の助けになり得ることを、馬岱は心から喜んでいた。
――うわあっ、投石機がいかれたっ
――ここはだめだ、いったん別の個所に移るぞっ。弓隊、弓隊前へ
――畜生、矢が足りん、誰か持って来い、早く
――宋欣、宋欣よぅ……
――馬鹿、諦めろ、もう死んでる。そいつは後にして、さっさとここを直すんだっ
――くそう、今日でもう七日連続だぞ
――毎日毎日、飽きもせずに攻め立ててきやがって
――あっちも必死なんだ、こんな小砦にいつまでも構っていられないからな
――戟、構えっ。また馬が来るぞ
――隊伍を整えろっ。五十の小隊で固まり、迎撃するのだ
――退けば砦がやられる、ここが踏ん張りどころぞ
――正面を防げば、左右から味方の騎兵が叩いてくれる、それまでの辛抱だ
――いや、むしろ押せっ。押し返すのだ。寡勢の騎馬を待つな。歩兵の戦さの何たるか、敵に見せつけてやれ
それにしても、とこれもまた馬岱の性質である、好奇の虫がうずきだす。
何故、上の方々はこの戦さを起こされたのだろうか。発起人は大かた、韓遂殿だろう。あの方は、中原による支配をよしとされず、不羈独立の志が殊の外、お強くていらっしゃるから。
不思議なのは、馬騰様だ。
主公である馬騰様は韓遂殿と違い、もともと帝室を重んじるお気持ちの強い方だ。そこに加えて、曹操に囲い込まれ、傀儡同然の立場となった今上帝の境遇を具にご覧になり、その思いをますます強められた様子だった。かつて涼州の覇を争った韓遂殿と手を組んだのも、打倒曹操の一点で合意したからと聞く。
だが叔父上は、と馬岱は、最近ようやく生え揃った顎髭に付いた氷を払い落としながら、尚も考えを巡らす。
馬騰様は、慎重に過ぎる程慎重な方だ。曹操が自軍のほとんどを率いて許都を空けたのは、確かに絶好の機会と言っていい。しかし幾ら韓遂殿に焚き付けられたからといって、ただその一事を以て、このような乾坤一擲の勝負に出られるようなお人では、ないはずだが。
それとも、他に理由がおありなのだろうか。一族郎党のほとんどを率い、虎の子の長子馬超を投入してまで、この機を逃せぬ何かが……。
そこまで考えた時、差し込むような戦慄が、背筋を通り抜けた。思わずその原因を周囲に求め、目を凝らす。当然ながら、夜更けの暗黒と人馬のつくる乳白色の吐息の他、何も見当たらない。
ただの気のせいだ。馬岱はかぶりを振りつつ、そう己れに言い聞かせる。上の方々のお考えに、今更異を唱えようはずもない。ましてや、その理由が漠然とした違和感のみというなら、なおさらだ。
大丈夫だ、大丈夫。如何なる敵にも、油断なく全力で当たるのは、至極当然の事。そして、相手がいかに気鋭の兵でも、こちらはあらゆる面で敵を圧倒しているのだ。万に一つも、負けるわけがない。
馬岱は知らず、片手で力任せに己れの肩を掴んでいた。だが一度生じた胸騒ぎは、消え去るどころか、胸中に靄の如く広がってゆくばかりだった。
――尹礼殿、今宵の井闌(せいらん・移動式の櫓)の配置と、炬火の数ですが
――櫓は元の位置より七十丈(約170m)のところに、炬火は最小のものを各々一つずつでしたな。先刻、検分して参りました。日が落ちました故、既に『あれ』も下ろしております。また、件の窪みの方も、再度確かめました。細工は流々と存じます
――仔細まで、かたじけなく思います。して、我が軍の騎馬隊は
――おう、任せい。いつでも出られるぞ。お主の下知を待つばかりだ
――連日連夜の激戦にて、殊に騎兵の消耗、著しきことと存じます。しかし今夜が境。どうか今ひと度、お力を
――くどいぞ、孺子。舐めるでない。寡数とはいえ、こちらの騎兵は元烏丸軍。たかが十日ばかりの戦さで、容易く潰れるようなものではないと、何度言わせる気だ
――は、恐れ入ります、将軍。よろしく頼みましたぞ。では、主軍の方ですが
――うむ。日暮れて後、右左翼各四千五百、東西に配した。こちらも、合図を待つばかりだ
――迅速な差配、恐れ入ります。引き続き待機するように、今一度伝令を。以降も密に連携を取り、足並みが乱れぬようにしておいてください
――分かっておる。おい、誰かおらぬか
――味方の備えは、一先ずよろしいでしょう。後は向こうの様子ですが……
――日中の戦さから引き上げて後は、静かなものだ。静かすぎる程にな。しかし、裏では密かに、再び馬の用意がなされておるようだとの報告が入っておる
――そうですか。砦放棄の流言が、効を奏しておればいいのですが
――ここまで来てくよくよするな。今夜はあんなに派手に炊煙も上げてやったではないか。くくく、うまくひっかかってくれるかな。楽しみなことだ
――少し派手すぎだ、臧覇。あれではまるで狼煙ではないか
――なあに、仕掛けは大胆すぎる方がかえって嘘臭さがなくなるというものよ。そうだろ、軍師殿
――そのさじ加減は、如何な手練れであっても難しいところです。大胆が過ぎて、向こうに怪しまれないことを、祈るばかりかと
――ちぇっ、つまらんことを言う。……さて、俺もそろそろ始めるとするかな。皆の者、武運を祈る
――殿も、ご武運を
幾度も幾度も、頭を突き付けて話し合い、計算した。櫓の位置、篝火の数、防備の種類、そして要の仕掛け。
何度も何度も、馬防柵や土塁、時には城壁をも破壊されては修繕した。その都度、神経質なほどに見積もりし直し、くどいほどにその配置の可否を確かめた。
被害を最小限に抑える、とは言っても、犠牲が皆無になるわけではない。日々、死傷者はじわりじわりと増えていった。
その度に心がひるんだ。本当にこの策しかないのか。徒に辛酸を舐めているだけではないのか。計略が露見すれば、一巻の終わりではないか。再々己れに問い糺す。胸を掻き毟りたい程の焦燥に駆られる。そして脳髄の内で足掻いて足掻いて、ふと周囲の様子に気付く。企ての詳細を知る者、知らぬ者すべてが、策の成就めざし一心に動いている。もう後戻りは出来ぬと悟り、腹を据える。日にこれを幾度となく繰り返した。
天に祈ることも、初めて覚えた。
どうかうまく騙されてくれ、これ以上死者が増えないでくれ、すべて筋書き通りに、首尾良く終わってくれ……。他の代替案すら呈さず、ただ一つの策に縋り、あまつさえ人知の及ばぬ天運を頼むなど、あくまで理と利を重んじるべき、軍師たる者がすることではない。だが、それを重々承知の上で、祈らずにはいられなかった。この十四日間、考えに考えを重ね、為せることは為し尽くした。今のところは、こちらの思惑通りに、事は運んでいる。
徐庶は、天を仰いだ。
螺鈿のような、か細い星々の光のみが瞬く、漆黒の夜陰。この暗闇こそが、勝敗の分水嶺となる。
今日は、朔日。月は出ていない。
何をそれ程、怯えることがあるだろう。自らの手に握っているものは何だ。静かに周囲を固め、突撃の命を待つ者たちは何だ。そして、本陣で勝利の報を待っている御方々は誰だ。
我らは、西涼のつわものだ。誰にも屈するはずがない。
馬岱は、強いて笑みを浮かべた。そんなに不安というなら、今ひとたび、現下の情勢をとくと吟味してみるがいい。
まずは、兵の質と数。いかに精強といえども、所詮は歩兵が主の軍。しかも向こうは二万足らずしかおらぬのに対して、こちらはほぼ無傷の六万。そのうち、擁する騎馬兵は三万余り。
加えて、地の利。馬騰・韓遂両軍の将兵は、ほとんどがこの西涼の地に生まれ育った者達だ。砂と岩とが延々と広がる大地では、戦力と機動力に優れる騎馬が必須であり、また地図の平面では分かり辛い微妙な地形にも、詳しく知るこちらが圧倒的に優位だ。敵がどんな小細工を弄して来ようと、この騎馬軍団であれば即座に対応し、完膚なきまでに叩き潰せるだろう。いわんや士気の差も、歴然。
ここまで来て懸念など、見つける方がむずかしいではないか。
しかし敵もさるものだ、小勢ながら良く持ちこたえている。わずかな余裕が芽生えると、今朝方、同輩と交わした雑談が、ふと思い出された。
この地で他軍と接触するとは全く想定外の出来事だったが、それはあちらも同様だったようだ。しかし、いち早く砦の炊煙に気付いた馬超の率いる斥候部隊を、まともにぶつかる心算はなかったとはいえ、少数の歩兵のみで応じた手並み、そして対峙してからの堅守防衛の徹底ぶりは、敵ながら舌を巻くものがあった。現に半月もの間、砦は落ちず、涼州兵はここに足止めされている。主公の参列を待つ軍議の席で、年の近い校尉(指揮官)同士の談話は、相応に弾んだ。
だが、いくらよく守り耐えしのごうと、やはり数の差は埋められない。幸いなことに曹軍の加勢も一向に現れず、このままじりじりと押し続ければ、早晩砦は落ち、進軍も容易くなるのは明白だ。
そこに長子馬超を伴った馬騰が現れ、会話は中断した。
馬岱はぞくりとした。嫌な震えではない。まだ明けやらぬ早朝の霜降る大気の中、主公から受けた命の内容に、改めて興奮が蘇ったのだった。
此度の戦さ、存外の事ではあったが、諸将の奮励の甲斐あって、敵の士気は地に落ち、もはや砦の陥落、此方の勝利は目前。ついてはこの機に乗じ、今宵一計を案じたいと、韓遂殿より申し出があった。
広大な平原にも響き渡る、張りのある声でもって、馬騰は居並ぶ武将へ向け、悠然と謀の詳細を告げた。
皆の者、聞くがよい。曹軍は目下、北に陣を張る我等に対し、城砦の南門を除く東西北の三門を固めている。
最も手厚く守られているのが主門たる北門である。その周辺には無数の壕、塁、そして馬防柵が縦横無尽に張り巡らされ、更に、本来は攻城に用いる井闌をも防衛に駆り出し、城壁そして城門への進軍を文字通りの鉄壁の構えでもって、堅く阻んでいる。
だが、騎馬の力を削ぐ為の防備は、味方の騎馬が城砦から出撃する際の妨げとなる。故に、騎兵の円滑な進退路を確保すべく、東西の門は守備の面で一段劣り、そして北の戦場に遠い南門が、最も手薄となっている。しかし現在に至るまで、攻撃は北門に集中し、一見脆弱なこれら三門の攻略は、控えざるを得なかった。深く掘られた空堀が雲梯、衝車等攻城兵器の類を寄せ付けず、また仮に攻城が成ったとしても、我が軍の主軸たる騎兵では、空堀を越えることが容易に適わないからである。
なれど数日前より、三門への攻勢に転じていること、皆聞き及んでいると思う。敵の退路を全きに断つべからずという、兵法の定石に背くやり方に、疑問を抱く者もあったであろう。これは全て、曹軍を砦の内よりあぶり出し、一気呵成に掃滅せんとする此度の策の布石であった。
つい先程、曹軍の砦後方、南門辺りに昨晩より怪しき動きありとの報が入った。加えて、砦壁上の守備の兵、炬明の数は、日に日に少なくなっているという。
おそらく今宵、敵全軍は夜陰に紛れ、後方の金城に撤退する。捕らえた逃亡兵からも、それを裏付ける話を聞くことが出来た。ただし、馬の気配は東西門付近より動きがないことから、騎馬軍による夜襲があることも、想定される。
韓遂殿は、先ず間違いはなかろうと申された。僅かな騎兵を死兵覚悟で楯とし、その隙に主軍を金城へ逃がす、そういう腹積もりなのだろうと。だが、仮令勝戦であっても、そのような思惑にむざむざ乗ってやることはない。
今宵我等は、遮二無二突撃してくるであろう敵の夜襲を逆手に取り、三方から迎え撃つ。そして退くに転じたところを疾風の如くに追い上げ、そのまま城砦の内へ逃げ込まんとするを狙い、開かれた門の内へと、一挙になだれ込むのだ。さすれば敵の騎馬兵と共に、逃げ行く主軍をも、砦の内と外双方から一網打尽に出来るであろう。
馬岱は静かに呼気を整え、己れの内に沈着を取り戻そうと試みた。手足はおろか臓腑までもが、今にも暴れ出してしまいそうな、妙な興奮が、今朝の軍議からずっと、身体の内に渦巻き続けている。馬岱に下された命は、馬超麾下他の二軍と共に、中央にて敵の騎馬軍を要撃し、砦内部に侵入するという、難しいが極めて重要な役回りであった。今こうして、寒風吹き荒ぶ夜の底、ひたすら時を待ち続けているのは、その為だ。
馬岱は軽く目を閉じると、冷たく凝った夜の気を思い切り肺に満たし、三拍程も置いてから長く長く吐き出した。そして、今一度脳裏に、この場所から敵陣のある砦までの経路を、思い浮かべた。朝から幾度も反芻していたこと、その道筋は手に取るように分かる。
このまま目を瞑ってでも、行けてしまいそうだ。いや、瞑目していようといまいと、あまり変わりはないだろうな。馬岱はふと、おかしみをおぼえ微笑んだ。墨に頭まで浸かるが如き、暗闇の中なのだ。
昨日は晦日。そして月は今宵も、出ていない。
お読みいただき、ありがとうございました。
誤字脱字、こんな言い回しありえねえ等ありましたら、ご指摘いただけたら嬉しいです。




